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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)力を合わせる家族

 **さん(伊予郡双海町上灘 大正7年生まれ 80歳)
 **さん(伊予郡双海町上灘 大正9年生まれ 78歳)
 **さんは双海町下灘で生まれ、小学生のころから漁の経験を積み、70歳になるまで伊予灘を中心に漁に携わってきた。また、奥さんの**さんも一緒に漁をしながら、苦楽を共にしてきた。
 二人に話を聞いた。

 ア 13歳の初漁

 「(**さん)わたしは12人兄弟の長男に生まれましたが、家族が多く生活は大変でした。尋常小学校3年のとき、担任の先生からの、『昼間は、イワシ網の漁を手伝い、夜、勉強をしに来るように。おまえはやったらやれるんだから。』という励ましの言葉は一生忘れません。わたしは、とにかく船が好きで、小学生のころはいつも船の絵を描きよりました。
 また一つ覚えているのは、おやじに、『追い潮(東から西に向かって流れる引き潮)に乗れば、西の長浜くらいは楽に行ける。船は満潮時に出し、追い潮に乗って行け。』と言われたことです(図表1-2-5参照)。
 わたしは漁が好きで、はよう(早く)、一人で漁をやってみたいと思いよりましたが、13歳の春休みに、10歳の弟を連れて伝馬船の櫓をこぎながら豊田漁港から西宇和郡瀬戸(せと)町の小島まで初めて漁に行きましたんよ(写真1-2-13参照)。途中、西宇和郡伊方(いかた)町伊方越(いかたごし)辺りで風が出てな、帆を下ろそうとしたが、帆柱のまたに綱が引っ掛かって、下りんでな。船が揺れて弟は泣きだすし、困ってなあ。仕方なく包丁で帆に切り目を入れて船の揺れを防いだことがありましたなあ。建網(たてあみ)(沿岸の魚群の通路に設置する定置網)で漁をするんですが、専門の漁師さんにやり方を聞いては網を入れよりました。一度、教えてもろたおじさんの網には魚がかからんで、わたしのに大きなタイが2枚もかかったことがありました。当時の漁師さんは親切に教えてくれましたなあ。漁では、メバルやホゴもとれよりましたんよ。三崎半島辺りは魚の多い所で、一晩に仕掛けた網に3貫目(1貫目は3.75kg)ほどとれよりました。春先で当時は、苫(とま)(*16)を身体に巻き付けて漁をしよりましたが、寒かったこともよう覚えとります。当時の厳しい漁の様子は今の人は信じてくれませんがなあ。
 当時、瀬戸町辺りは、網による漁の習慣はまだなく、地元の人々は、わたしらがとった魚を買いにきてくれよりました。10日間くらい漁をして、また、櫓を漕いで下灘に帰ってきたとき、両親が喜んでくれたのを覚えとります。特に、漁の売り上げの10円を渡したときは、おふくろはわたしらの手をとって泣いて喜んでなあ。『これ、おまえ、人のものをとってもんたんじゃないか。本当に網にかかったんか。』と言うてなあ。10円は大金で、保証人がなかったら借りれんじゃったですけんなあ。おふくろはその時のうれしかったことを死ぬるまで言いよりました。なにしろ、2銭も出せば、黒砂糖やあめが袋一杯ありましたけんなあ。
 当時の網は麻糸を紡いで太い糸にした後、カキの渋を塗ったり、クヌギの木の皮をせんじて染めたりしよりました。わたしの母親らは、夜なべ仕事に糸を紡ぎよりました。天気のいい日には、おやじと二人で糸車を回しよりましたなあ。わたしが子供のころは、買う糸なんか無かったんですけんなあ。あば(浮きのこと)は山からキリの木を切って作りました。何もかも自分で作りよりましたね。」

 イ スルメイカよりもうまいフカの干し身

 「(**さん)わたしは戦後の食糧難のころ、フカ(サメ)を銛(もり)で突いてとり、ひともうけしたことがありました。夏に下灘沖にフカの群れが来て、『漁の邪魔をしていけん。』と言う話を聞いてなあ。漁船はフカが恐ろしゅうて、逃げて戻りよったんよ。わたしは、2艘漕ぎ(トロール船のこと)の一番大きな船を持っていたんで、地元のかじ屋に特別の銛を作ってもらい(写真1-2-14参照)、フカを突きに行って、みんなに喜んでもろたことがありました。今ごろ見掛けるフカとは種類が違うとったなあ。フカの急所を突くと、30分くらいで浮き上がるが、突き所が悪いといつまでも逃げるんで大変よ。ある時、うまく突いて、そばに行ってみたら船より長いんで恐ろしゅうてなあ、『のぞかれんぜ(のぞくなよ)。』と言うてなあ。近くの浜に上げてみたら、700貫はあったろかなあ。近所の小学校から、先生が子供たちを連れてフカの見物に来ましたよ。
 網による漁を休んで、フカ突きばかりやっていて、全部で30匹ほどを肥料として売ったが大したもうけにはならいでなあ。そこで、知恵を出したんですらい(出したのですよ)。『かあちゃん、イモを出せ。わしが精製したフカの油で、フライに揚げて食べてみるけん。』と言うと、妻は、『そがいなもんで、死んだらいけん。やめなはい(やめなさい)。』と言うて止めたが、わたしが、『死にはせん。魚の油じゃけん。』と言うて揚げて食べてみると、これがおいしいんでなあ。そのころは食料不足が続いていて食用油なんか無い時代でしょうが。フカ1頭の肝だけで、ドラム缶2本分の食用油が取れましたけんなあ。相当、大きなかろがな。それで、身は包丁で切って干し、それを食べてみると、これがまた、ものすごく味がいいんでなあ。身の乾かない内に、松山の方から客がやってきて、その干し身が引っ張りだこになりました。
 下灘漁業協同組合の裏に、フカの供養塔を建てています(写真1-2-15参照)。フカを突きに行った時の船は今のトロール船の小さい型で、もう一隻の船を持っていた仲間と若者の3人で行きました。危険なことはなかったが、大きいのを突くと、あばれて難儀しました。トロール船に伝馬船をつないで漁場に行き、突いて弱ったフカをロープで伝馬船に結び付けていたときに、伝馬船が海中に引き込まれそうになり、たまげたことがありました。
 双海町でフカがとれたのは、後にも先にも、あの時だけだったですけんな。まあ、それはすごかったですよ。そこにもあそこにも、フカがひれを1間(約1.8m)くらい海面に出してなあ。フカをとるだけとり、油は精製して食用油にし、身は干して食用として売り、5年間くらいはいい思いをしました。」

 ウ 五智網(ごちあみ)(*17)による鯛漁

 「(**さん)昭和10年(1935年)ころは漁種も豊富で、毎年6月ころ、産卵のために上灘沖に来るタイの群れを追っていました。おやじが青島周辺へ櫓を漕いで行き、五智網を引きよりました。綱は荒縄で、網は木綿糸を紡いで作った小さなものでした。漁場に着くと、魚礁にいるタイをたまがすために、『叩(たた)き木』を『サイコ槌(つち)』でたたきよりましたが、うまくいかず、父によう怒られよりました。『磯鑑(いそかがみ)』で、海底をのぞくと、小魚がよう見えましたなあ(写真1-2-16参照)。
 例年、4月から6月がこの辺りの鯛漁のシーズンで、7月になると西宇和郡三崎町の方ヘタイを追わえて行きよりました。7月の中ごろからはタイが『下(くだ)る』と言うてな、今日、双海町の沖におったら、明日は長浜町青島の沖と、順々に深場へと移っていくんです。二神島から由利島(温泉郡中島町)の沖を通って、山口県の大水無瀬(おおみなせ)島の沖にかけてが、ここら辺りのタイの主な通り道になります(図表1-2-5参照)。
 それで、昭和30年(1955年)ころは、わたしらは北条沖の安居(あい)島から、下りタイを追わえて帰りよりました。安居島から由利島へ、そして青島から瀬戸町や三崎町へと追わえよりました。わたしの頭の中には、タイしかありませんでしたなあ。
 この上灘沖から伊予市森にかけては、石ころがあって藻がずっと生えとります。そして、そのちょっと沖に『どべ(砂地)』があり、また、その沖に瀬がありますらい(ありますのよ)。その瀬に、タイの好物のえさが湧(わ)いとってタイが産卵に来るんです。それで、この辺りは今でもタイの多いところです。若い漁師たちが、『網の入れ方を教えてくれ。』と頼みに来ますが、若い者は、ようとりませんなあ。タイがなんぼおっても潮加減とかあって、とるとなると難しいもんですよ。例えば、タイの居そうな魚礁があったとします。そこに網を打つのに、潮の流れを考えて、どの辺りから網を打つとその魚礁がいい具合に囲めるか。また、その魚礁にうまくやり回し(網をかけること)ても、潮が速いと、網が岩に巻きついて取れなくなってしまうとか。紙一重のことで、漁が違ってきます。
 五智網の高さは25尋から30尋(1尋は約1.5m)、幅が30尋。それに、下腹と上腹も入れて40尋、袋も25尋くらいあります(写真1-2-17参照)。網が岩を巻いた状態で上げる時は、抜き綱をローラーで巻くと、網が上がってきて袋だけになるんですよ。その袋にタイが入って、沖の方に浮いてきます。それは気持ちのええもんです。
 戦前は、抜き綱を作るのにマニラ麻のロープやシュロ綱を使いよりましたが、潮にぬれると弱うて、すぐ切れよりましたなあ。
 わたしは、頑固で、網を手で引っ張るのを、何とか機械で巻くようにできないかと思うてな。ちょうど、父が初めて電気着火の動力船を購入したので、エンジンの回転をゴムベルトと滑車を使ってローラーに伝えることを必死で考えよりましたんよ。『そげな、てんご(突飛なこと)して、魚がとれたら逆立ちして歩いてやる。』とか、『目でこんこ(たくあん漬けのこと)をかんでやる。』とまで近所の人に言われました。漁の最盛期に網の巻き上げを改良しよりましてなあ。漁師仲間にからかわれたり、家内にも『離婚します。』とまで言われよりましたんよ。
 わたしは、何でも人より先にやらんと気の済まぬ性分なんで、必死で改良しました。それも、広島県倉橋(くらはし)島の鹿島で、音戸の船が『何か、巻きよるようなぞ。』と言うので、そばに行ってみると、網をローラーで巻き上げながら漁をしよりましたんよ。『これはいい道具じゃけん、わしも帰って、まねしてみにゃいけん。』と思いましたんよ。苦労しながらやっと作り、実際に漁をしてみるとタイが網にうまく乗らんのです。網が破れたり、綱が切れたりしてうまくいかんのです(写真1-2-18参照)。」
 「(**さん)近所の奥さんにも、『あんたとこはいつもタイをとってきていたのに、どうしたの。』と言われるくらいとれなんで、『このまましよったら、お米を買うお金もない。とうちゃん、わたしはもういやですよ。』と言いましたんよ。50年前の話です。」
 「(**さん)わたしも必死になって考えました。そこで、あば(浮き)の大きなのを、キリでこしらえて網に縛りつけてやってみると、タイが乗りだしてなあ。それから調子が出てきて大漁が続き、漁の途中で生け間が一杯になり、港に帰るようなことも再三ありました。」
 「(**さん)当時は長浜の沖で、『立て込み』と言うて、魚がたくさんとれたら船が幟(のぼり)を立てて戻ってくるんです。
 友人が、『あれ、あんたとこの船よ。』と言うので港まで迎えに行きよりました。あまり、たくさんとれるので、漁師仲間が、『どうしてそがいに(そんなに)たくさんとれるんぞな。』と言うて、夜、こっそり網を見に来よりました。毎日、幟を立てて帰ってきよったころの主人の活躍は、今でもいい思い出です。」
 「(**さん)下灘に30年ほど前に建てた家は、大工さんが入ってから、家移りするまでに、家代(建築費用のこと)はとうに(直ぐに)払えたし、大工さんに毎日、タイの刺身を食べらしたけんなあ。五智網で一番いい思いをしたのは青島付近で、競争相手ができるまでに、ひと財産をこしらえました。わたしは漁に熱中するだけでしたが、家内がちゃんと財布のひもを締めてくれましたけんなあ。よう、辛抱してくれたもんじゃと思います。今ごろは、機械化が進んで一人でも漁ができるが、昔は3人でやるきつい仕事でしてなあ。家内なんか、『娘は、漁師には嫁にやらん。』とよう言いよりましたなあ。」

 エ 下田はまだか

 「(**さん)昭和30年(1955年)過ぎころから、漁船が増えたり漁具も発達しましてなあ。それに、乱獲もあって、近場での漁の採算がとれなくなりましたのよ。そこで、県の方からあっせんされて、静岡県の下田(しもだ)まで視察に行ったんですのよ。その時は、魚もたくさんおるし、海もしけていなかったし、『下田はええとこじゃけん、ここで漁をしてみるか。』と言うことで、いったん双海町に帰りました。それで、下田の漁場で漁をすることにして、再び行きましたのよ。近所の中学校をぬけだち(卒業したばかり)の子と家内の3人で、長さが5m、排水量が2.5tの船(若吉丸)に、食料を積み込んで下田港を目指しました(写真1-2-19参照)。
 下灘から昼間だけ航行することにして、香川県の金毘羅(こんぴら)さんで1泊します。和歌山県の御坊(ごぼう)、愛知県の伊良湖(いらご)岬、静岡県の御前崎(おまえざき)でも泊まりました。遠州(えんしゅう)灘では北風に遭いましてな、2間半の帆柱を立てとるのに、これが分からんほどの高さのうねりが出て、そのうねりの上に、また、小波が立つくらいでした。11時間もの間、船がよう浮いていないくらい波にもまれました。また、御前崎から駿河(するが)湾の石廊崎(いろうざき)まで走るのに、通常の2倍の6時間半もかかりました。石廊崎に着いたころに、また北風が吹き出しましてなあ。『下田はまだか、まだか。』と言いながら走るうちに、やっと着きました。下田は、少し湾の中へ入っており波も静かで、『下田という所はええ所じゃなあ。』と言いよりました。それから、また三宅(みやけ)島(伊豆七島)を目指しましたんよ。忘れることができないが、三宅島へ行く途中で舵(かじ)が折れ、ひどい目に遭いましてなあ。それで、積んでいたロープを海中に流して舵の代わりにし、船をゆっくり走らせて港まで帰りました。
 下田におったカツオ船の船員が、『おじさん、どこから何しに来たんぞ。』と言うので、『愛媛県からメダイでもとろうと思うてきたんです。』と言うたら、『おまえ、メダイをやるのはいいけんど、この小さい船で天気図の取り方なんか勉強しとるんか。』とおいる(言われる)んよ。『天気図いうたら、どんなもんですか。』と言うたら、笑われてな。よそにも物好きな人があるもので、『今晩は休みなので、わしらの船へ来い。教えてやるから。』と言うてくれて、そこで、天気図の読み方や取り方を教えてもろてな。それで、メダイとりをあきらめて石廊崎でイカ釣りでもやってみるかいうことになり、やってみたんです。」
 「(**さん)わたし、よう覚えとりますが、出発したのは4月17日じゃったです。地元の観音様にお参りして、県の方からも見送りに来てもらって行きました。御飯は薪で炊くので、風があると大変でした。わたしも下田で漁をするのに、1回だけ乗って行ったんですが、そしたらもう船がよう揺れて、新調のカバンが転がって角が傷むくらい揺れましたな。『あんな恐ろしいとこはいやじゃ。』と言うて、主人たちが下田で漁をしている途中で、わたし一人が汽車に乗って下灘に帰りましたんよ。」
 「(**さん)その時に、一緒に行っていた子が涙を流して、『おばさんは帰れてええなあ。』と言うたんです。わたしもこの子を預かっておるし、漁がないぐらいのことはあっても、し損ない(事故)だけはせられん。また今、いんでも(帰っても)ええが、いったん、県からあっせんされて組合を代表して来た人間が、『海がしけたけん、辛抱ができなんだんじゃろ。』と言われると、わしも末代までの恥になるので我慢しました。それで、こんな所で、こんな船では商売(漁のこと)ができんということを確認してから帰らなかったら、いかんと思うてな、結局、3か月間辛抱しました。
 下田で漁をしている間に、双海町の町長が、わざわざ、慰問に来てくれましてな。『**さん、商売にならんのなら、そんなに意地を張らいでもいいし、早うお帰りよ。』と言うてくれました。下田周辺の海は瀬戸内海と違って波が高く、小さな船で漁をするには経験がないとできない所だと思って帰りました。
 10年前、70歳で漁師をやめましたが、今でもタイの下る季節になると、漁がしたくてたまりません。しかし、家族が許してくれませんな。」

 オ **さんの奮闘

 **さんの家族や漁の思い出話を通して、家族やくらしの様子の一端を探った。
 「昭和16年(1941年)に結婚して、二人の子を抱えながら、戦地からの夫の帰りを待っている時はつらかったですね。それだけに、なんの連絡もなく、昭和22年(1947年)の春に、主人が戻ってきてくれた時は、本当にうれしかったです。その後主人は、木炭ガスのエンジンを積んだ船に乗り、すぐにエビ漕ぎ漁を始めてくれました。
 昭和24年には、下灘沖でフカがとれて、生活の足しにしたのはよく覚えています。その後は、ローラー五智網でタイをとっておりました。朝早くからのきつい仕事でしたが、主人にしかられたり、なだめられたりしながらやってきました。
 昭和34年(1959年)に、主人が頬(ほほ)の内側に腫瘍(しゅよう)ができて手術をすることになったときは、途方にくれました。難しい手術だと聞いて、家族で心配しました。
 当時、松山市三番町にあった県立病院は完全看護でしたが、主人の世話をしてあげようと思い、病室での看護をお願いしました。『ここは完全看護だから、おばさんは付き添いでこの部屋にはおれんのぜ。』と言われましたが、特別に許可をもらって1か月以上、病室におらしてもらいました。
 主人は、手術で歯をなくしており、ものが言えず、どんなごちそうを下灘の家から家族が持ってきても、食べられず難儀をしておりました。松山市内の高校に通う次男が、通学の途中に立ち寄って、家からほとんど毎日、タイの刺身を持ってきてくれましたが、食べらせてあげられず、病室の皆さんに分けてあげて喜んでもらいました。
 大変な手術で、主人も苦しかったと思いますが、3か月で退院することができたときは本当にうれしかったことを覚えています。主人が退院後の約3年間は、わたしと長男と雇った漁師の3人で漁に出ました。その際に船舶免許が必要になり、試験を受けることにしました。当時、女性で免許を取ることは大変なことでした。
 高松まで試験を受けに行き、簡単な英語まで習って免許を取りましたんよ。当時の勉強の苦しかったことは骨身にしみており、その後、子供に勉強せよとは言いませんでした。漁師は、南風はマジ、東風はコチと言いますが、サウスとかイーストとかで講習を受けます。また、船のオモテとトモを船首、船尾と言われたりして困りました。『おなごが免許をとって何するんじゃろ。』と言うて、近所の人に笑われよりました。長浜、青島、三津浜、伊予市から、受講者が上灘に集まって、講習を20日間受けましたのよ。その中に女性が5人いましたが、その中の3人が合格しました。県立女学校を卒業した人がいましてなあ。英語でも何でもよく知っていたので教えてもらいました。第1回目の試験を高松市で受け、合格した者が身体検査でもう一度高松へ行き、苦労して合格しました。
 昭和35年(1960年)ころは、わたしと長男と雇った漁師の3人で漁に出ていました。『板漕ぎ漁(*18)』で、グチとかヒラメなどの雑魚をとっておりましたのよ。この漁法ではようとれて、家族を養うことができました。そのうち、この漁法は資源保護のために、すぐに禁漁になりました。それで、わたしら漁民が県に陳情に行き、『板漕ぎ漁』に代わって、排水量5t、10馬力以下の漁船で、『底引き網漁(*19)』で操業を始めましたのよ(写真1-2-22参照)。主人が病気あがりで、3年間は船に乗れず、わたしも一生懸命に働きました。
 わたしらのやっていた五智網漁では、夏は三崎から大分県にまで足を延ばしていました。真夜中に船を出し、漁場には朝まずめ(朝まじめ(*20))の前に着くようにしました。春や秋は風が強くなるので、近くの由利島から二神島、そして青島あたりでタイをねらいました。由利島の方へはよく行きましたが、朝も早くから行って、仲間が来るまでに2番(回)くらいは網を入れよりました。主人もわたしも負けん気が強いので必死で働きましたよ。
 わたしは、この年でもう漁に出ることはありませんが、また、釣りにでも行くことがあったらいけんので、免許を継いで(更新して)おりましたのよ。その免許の書き替えのとき、事務官に『おばさん、まだ船に乗るんか。』と言われ、『乗らな(乗らないと)、いけますまいが。』と言うと、『なんと頑張るじゃないか。』と言われたのを覚えております。そのうち、漁をするのに、無線の免許が要るようになりましてなあ。昭和52年(1977年)には、夫に代わって、この試験も受けに行きましたのよ。その時もおなごは二人だったですけんなあ。これがどうなるかと思いましたなあ。
 わたしは5人姉妹の末っ子で、22歳で嫁に来た折には、家族も多く、苦しい生活をしておりました。しかし、主人が、漁に打ち込んでくれて、わたしがそれを手伝いながら、二人で苦労しながらここまでやってきました。お陰で、今は何不自由なく、のんびり暮らせます。」


*16:スゲやカヤなどを粗く編んだむしろ。
*17:主に瀬戸内海地方で、タイをとるために用いられる手繰り網。
*18:底引き網の綱に縦70cm、横1mの板を付ける。その板の結び方で網が海中を上下したり、左右に開いたりして魚をと
  る。
*19:引き網の一つ。袋網とその左右につく袖網および引き網からなり、海底で網を引き回して底魚をとる。
*20:黎明(れいめい)と朝の境目をいう(まじめは、沈静の意。漁村語)。

写真1-2-13 初漁時の櫓漕ぎ船(模型)

写真1-2-13 初漁時の櫓漕ぎ船(模型)

**さん製作。平成10年7月撮影

写真1-2-14 特別注文の銛

写真1-2-14 特別注文の銛

平成10年7月撮影

写真1-2-15 フカ供養塔

写真1-2-15 フカ供養塔

平成10年7月撮影

写真1-2-16 磯鑑、叩き木、サイコ槌(模型)

写真1-2-16 磯鑑、叩き木、サイコ槌(模型)

平成10年7月撮影

写真1-2-17 五智網(模型)

写真1-2-17 五智網(模型)

平成10年9月撮影

写真1-2-18 ローラー五智網船(模型)

写真1-2-18 ローラー五智網船(模型)

平成10年7月撮影

写真1-2-19 下田をめざした若吉丸(模型)

写真1-2-19 下田をめざした若吉丸(模型)

平成10年7月撮影

写真1-2-22 下灘漁港に並ぶトロール漁船

写真1-2-22 下灘漁港に並ぶトロール漁船

平成10年7月撮影