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愛媛のくらし(平成10年度)

(3)夏祭りの季節

 ア 安藤さんの夏祭り

 7月の声を聞くと、1日の安藤神社の夏祭りを皮切りに、吉田の町では連日のように夏祭りがあり、浴衣(ゆかた)姿のお参りの人々のそぞろ歩きの中、裸電球の光の下でにぎやかな夜が演出される。夏祭りは一般に夏越(なごし)の祓(はら)いに由来するもので、元来、旧暦6月に行われる大祓いの行事であって、身の不浄を払い災いを防ぐため茅(ち)の輪くぐり(*16)が行われることが多い(⑤)。**さんに聞いた。
 「7月1日に県下の夏祭りのトップを切って、安藤神社の夏祭り(夏越)が行われます。参詣者は大きな茅の輪(写真1-3-19参照)をくぐり、人形(ひとがた)を納めて帰ります。茅の輪に使うカヤは、当日の朝、総代さんが総出で刈りに行き、午後からビニールパイプ(昔は竹)を丸めて、それにカヤをつけて茅の輪を作るんです。カヤは一日おいたらかなり枯れますからね。
 カヤは今はなかなか手に入らないんです。わたしのところは、立間(吉田町内)の方に頼んで池の土手で作ってもらっています。頼んでおかないと、何かのときに切られてしまってなくなるんです。それと、茅の輪を作るには大きなカヤがいりますから、肥料などもやってもらっています。うちの町内だけでも、9日が事代主神社(住吉神社内にある恵美須神社のこと)、16日が住吉神社というように、7月中に何回も茅の輪くぐりがありますので、カヤはけっこういるんで、その確保には気を遣いますよね。
 人形は1週間くらい前に総代さんが町内に配っています。それを前の晩に寝じきして(ふとんに敷いて寝て)、朝起きたときにそれで身体をこすって息を吹きかけて、おさい銭といっしょに袋に入れて神社に納める、というのが昔からの習慣です。最近は夏越にも何かと関心が薄くなり、行事の意味がだんだん忘れられてきていますので、人形を入れる袋に祭りの謂(いわ)れを書いたりしています。中には人形や小さな紙に名前を書いている人もあります。昔の習慣を覚えている方でしょうね。茅の輪のくぐり方も、最初は左回り、次に右回りにくぐり、最後にまっすぐ向こうにくぐり抜けるのがほんと(本当)なんですけど、これも最近はあいまいになってきています。人形は最終的にはおさい銭と分けて焼きます。」

 イ 吉田町夏祭り

 1日の安藤神社夏祭りに続く金曜日、土曜日の2日間、吉田町夏祭りが吉田の町を彩る。これは、流し踊りや花火の打ち上げなどイベント的要素の強い行事であるが、梅雨空を吹き飛ばすかのように吉田町のエネルギーが爆発する2日間である。**さん、**さん、**さんに聞いた。
 「(**さん)7月最初の金曜日と土曜日(平成10年は7月3、4日)が吉田町の夏祭りです。これは町のイベントで、宇和島の和霊(われい)神社あたりが盛大にやりますので(7月23、24日)、吉田町でも夏祭りを盛大にやろうということで始まったんです。初日の金曜日は前夜祭のカラオケ大会くらいですが、土曜日はけっこう人が出て、安藤神社にもお参りの人がたくさん来られますので、総代が交代で神社に詰めています。
 土曜日にはみこしが出ます。以前は、神社の重たいのを貸しとったんですけど、海へつけられたり、上に乗られたりしますんで、正直いうて壊れますし、御霊(みたま)入れしとるものを足で踏んづけるということはいけんということで、軽いみこしを町で作ってもらいました。これはイベント用のみこしですから、当然、御霊移しもしません。」
 「(**さん)吉田には『吉田音頭』いうのがあるんですけど、夏祭りでは、土曜日に、千人前後の人がその歌に合わせてメイン通りを踊りながら流します。これが『流し踊り』です。踊りの講習は、毎年吉田公民館でやっていますが、この踊りはリズムが比較的ゆっくりですので、初めての人でも、10分間か20分間、前の人を見ながら踊っていたら、自然と踊れるようになります。」
 「(**さん)吉田町商工会婦人部は、夏祭りには流し踊りとそうめん流しに参加するんですが、今年(平成10年)は流し踊りに専念しました。北小路から本町まで、けっこう長いですから、踊りながら行くと疲れます。途中の桜橋のところで審査があって、最後に賞が発表されます。
 流し踊りでは、浴衣が町から支給されるんですが、わたしのところは毎年趣向を凝らした衣装を自分たちで作ります。毎年テーマを決めて出場しますが、今年は七福神で景気回復を願いました。参加できる人がそんなに多くありませんので中身で勝負しています。おかげさまで今年も最優秀賞をいただきました。
 準備は、まずテーマを決め、それから衣装づくりに取り掛かります。すべて手づくりですので、大変ですが、ああでもない、こうでもないと、夏祭り委員が中心になって、部員全員で楽しみながら頑張ります。婦人部はすばらしいアイデアマン(ウーマン)、絵心のある人、洋裁の上手な人等、とても人材が豊富ですので、いつもすばらしいものができあがります。」

 ウ 峰住神社夏祭り

 7月13日は、JR吉田駅のすぐ北の高みにある峰住(みねずみ)神社の夏祭りで、江戸時代から元町地区(立間尻本村)に伝わるお伊勢踊り(*17)が行われる日である。
 一般にお伊勢踊りは、豊作祈願、収穫感謝などの意味を持つ農村的行事としての性格が強いが、ここでは、旧陣屋町における都市と農村の混在の例として、**さんの話を交えながら、お伊勢踊りの再現を試みた。
 「峰住神社では年に3回、2月15日の祈年祭(きねんさい)と7月13日の夏祭り、それに11月23日の勤労感謝祭のときに、お伊勢踊りをやっています。吉田町内には、ほかにもお伊勢踊りをやっているところは何か所かありますが、年3回というのはここだけだと思います。
 7月13日は、午後3時ころから峰住神社と末社の祇園(ぎおん)さん(八坂神社)の両方で神事を行ったあと、お伊勢踊りを奉納します。峰住神社の夏祭りがこの時期に行われるというのは、祇園祭りの関係なんです。」
 お伊勢踊りは峰住神社の拝殿で行われる。拝殿の中央に歌い手が数人、締太鼓(しめたいこ)(*18)を中心にして車座に座り、踊り手は、その外側に円形になって、右手に扇子、左手に御幣(ごへい)を持って立ち、歌に合わせて踊る。八幡浜市穴井の「長命講(ちょうめいこう)お伊勢踊り」のように、歌い手が上句(かみのく)を、踊り手が下句(しものく)を歌うところもあるが(⑪)、ここでは、踊り手も歌い手といっしょに歌う。
 一曲目の「伊勢のようだの神まつりむくりこくりをたひらげて……」という『四方堅め』が終わると、「元和八年戊歳お伊勢踊りがはじまりて……」(『ちょうつん』)、「御伊勢踊をいざ踊り其(その)ために……」(『たんがと』)が続き、「御伊勢より御伊勢よりおしべの神もたちいで氏子榮(さかゆ)る 踊こそすれ」と歌う『天神』で踊り上げる。それぞれの間には短い休憩が入るので、全部踊り終えるには、およそ50分程度かかる。
 踊りは、その場で、右足を上げる1、2、手を振る1、2、左足を上げる1、2、手を振る1、2、という八つの動作を繰り返すが、右足、左足のときは、身体の前で扇子と御幣(竹)を軽くたたいてリズムをとる。また、最後の『天神』では、少し振り付けが変わり、扇子を開いて踊りながら、御幣を肩にして、その場で一回り回るような動作が入る。
 「お伊勢踊りはもともと豊作祈願などを目的にしていますので、踊りに出るのは農家の方で、昔は一家に一人は必ず出ていました。以前は、夏祭りは若い者で踊っていましたので、3曰くらい前から公民館などで踊りの練習をしていました。ほとんどの者は、このときに踊りを覚えるんです。それ以外の2月と11月は、ベテランが踊りますので、特に練習はしませんでした。今は、練習なしのぶっつけ本番でやっていますが、年に3回踊りますので、何とか覚えているようです。顔ぶれも最近は毎回同じようになりました。この(元町)地区には、古い歌本(最古は大正3年[1914年]のもの)が残っていますが、それを見ると、歌詞は歌いやすいように少しずつ変わってきたようです。踊りも、少しずつ変わってきています。
 祭りの世話は主に総代がします。元町には総代が3人いて、3年ごとに交代しています。当日は朝8時ころから準備にとりかかります。境内に幟を立てたり、神社の周囲に幕を張ったり、提灯をつるしたりします。また、この日は夕方から茅の輪くぐりも行われますので、カヤを刈ってきて、茅の輪を作ったりします。カヤは、地元の農家に頼んで肥料をやって育ててもらっています。
 お祭りの準備は地区の方にも手伝ってもらいます。神社回りの掃除は婦人会に、踊りに使う御幣づくりはコヤクと呼ばれる方にお願いしています。元町には約90軒の家がありますが、それを八つの班に分けて、順番にいろいろな仕事をしてもらっています。コヤクも班に割り当てられるわけです。御幣は、山から切ってきた竹(シノダケ・ヤダケ)に半紙を切って作ります。踊りだけなら30本もあれば十分なんですが、夏祭りではお参りの人にも配るので、100本くらい用意しておきます。これもなかなかたいへんです。
 お伊勢踊りも、太鼓のたたき手がいなくなって、しだいに消えつつある地区もあるということですが、うちは幸い太鼓をたたける者がまだまだいますので、当分は大丈夫と思っています。お伊勢踊りというとずいぶん田舎くさいように思いますが、その田舎くささを大切にしていきたいと思っています。」

 エ 七夕夜市

 8月7日は、一月遅れの七夕である。この日を中心にした七夕祭りは、宮城県仙台市をはじめとして全国各地で行われており、本県でも周桑(しゅうそう)郡丹原町、喜多郡内子町などがよく知られている。吉田町でも本丁商店街でこの日は夜市が開かれ、通りが人であふれるにぎわいぶりを見せている。**さんに聞いた。
 「七夕夜市の歴史はよくわかりません。親父の代からで、親父らもいつからやったかのう、いうくらいです。このときは七夕飾りを作りますが、けっこう時間がかかりますので、早いところだと2か月くらい前から作り始めるようです。大きなぼんぼり(絹や紙のおおいをつけた明かり)がいくつもついているような大型のものは最近少なくなり、10本程度しか出なくなりましたかねえ。ほとんどが4、5mの竹にぼんぼりが1個ついているくらいのものです。制作は完全に自主性にまかせていますし、経費も個人持ちですが、竹取りだけはみんながやって、必要な竹を各家に分配してます。
 七夕飾りには去年(平成9年)までは、金銀銅などの賞を出してましたが、今年はやめました。審査をするというと、賞をもらえそうなものでないと出さなくなったんです。それで、一度、賞をはずしてみようということになって。そうすると、小さいのでも立ててみようかということになって、今年は数が増えました。
 夜市の準備は、町の夏祭りが終わったら、実行委員会を発足させて始めるんです。当日は、実行委員のメンバーが持ち場持ち場にかき氷や綿菓子や金魚すくい、射的などのコーナーを作ります。ですから、物品販売というよりは遊びが中心ですね。ゲーム券は1か月前からのセールで出してます。まあ、年末の大売り出しと一緒で、券を出すことで少しでも売り上げを伸ばそうということで。
 七夕夜市の人の出はすごいです。ほんとに人が出てくるのは、日が沈む7時ころから9時ころまでで、実質2時間くらいですけど、その間、本丁通りがいっぱいになります。
 イベントを行うと人が集まるのは事実なんですけど、最近は、自分が主催して人を呼ぶということがどれだけ大変であり、また喜びも大きいか、ということを学べるようなイベントにしていかないと意味がないなという気がしています。ですから、昔はどのイベントもほとんど同じメンバーでやっていたんですけど、今はイベントごとにメンバーを替えて、なるべく多くの会員がかかわるようにしています。自分が企画したものにお客さんが来てくれるというのは、気持ちいいものです。
 こういう時代だから、吉田町でも若い子がなかなかついてきてくれないのは事実です。でも、商工会青年部では、ここ数年、会員が50人台を保ってますから、後継者の残率では愛媛県でトップクラスだと思います。そういう面でも活力は残っているし、3万石の陣屋町の心意気みたいなものはなくなっていないと思いますので、その自負心を持って、今後もやっていきたいと考えています。」


*16 : 茅の輪の由来については、『備後風土記』逸文の中の、神が蘇民将来の家族にだけ茅の輪をつけさせて、それ以外の
  人々を殺してしまったという説話によるという説や、蛇を形どったものとして水神の祭りに関連性を持たせる説などがあ
  る。また、大きな輪をくぐることについては、一つの世界からの脱皮新生を意味するという説もある(⑤)。
*17 : お伊勢踊りは、江戸時代の初めに全国にひろまったといわれている(⑨)。伊予(愛媛県)には土佐(高知県)から伝わ
  り、「宇和島藩は命令をもって村々に神明社を建立せしめたようで、その結果、宇和郡271力村中神明社のない所はなく、
  また『二月入り』に伊勢踊を行わぬ所もないようになった。(⑩)」と言われるように、南予一円を中心に伊予全般にひろ
  まったと考えられる。
*18 : 鼓のように表革と裏革を調べと呼ぶひもでつないで胴をはさみ、締め上げた太鼓。専用の台にすえて、2本のばちで打
  つ。

写真1-3-19 安藤神社境内につくられた茅の輪

写真1-3-19 安藤神社境内につくられた茅の輪

平成10年7月撮影