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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)座敷雛に託す願い

 **さん(八幡浜市穴井 昭和5年生まれ 68歳)
 **さん(八幡浜市穴井 昭和7年生まれ 66歳)

 ア ひいなの里

 八幡浜市の南端に位置する穴井(あない)の集落には、座敷雛と呼ぶ珍しい雛祭りの風習がある。盆栽などで、座敷一杯にミニ庭園を造り、そこに豪華に雛人形を飾り立てるものである。この座敷雛は、その家の長女の初節句祝いとして行われるもので、4月2日の夕刻から3日にかけて行われ、この地方独特の初節句行事となっている。
 座敷雛の里、穴井は宇和海に面する小さな集落である。隣接する真網代(まあじろ)とともに、昭和30年(1955年)に八幡浜市と合併して、現在は真穴地区と呼ばれている(図表2-1-7参照)。平地の少ないリアス式海岸の段畑は、宇和海の穏やかな潮風とあふれる陽光を受けて連なり、高品質のミカンの生産地としても全国的に知られている。
 **さんは、真穴地区の座敷雛保存会の会長で座敷雛の保存伝承に努めている。また**さんは、座敷雛に魅せられて座敷雛作りの棟梁(とうりょう)として活躍している。二人に伝統行事を支えてきた地域の人々の強いきずなや座敷雛に魅せられた雛匠(ひなしょう)の取り組みを聞いた。
 「(**さん)座敷雛を見学に来られた人たちから『海辺のひなびたこの穴井に、これほど豪華な座敷雛の風習が伝わっているのは珍しいことですね。』とよく言われます。
 わたしは、雛人形に庭園を配した座敷雛独特の趣向は、人々の慣れ親しんでいる、この地方の自然の景観に影響されたのではとも思います。例えば秋の空気の澄み渡った日には集落の裏山の頂から豊後(ぶんご)水道越しに、阿蘇九重(あそくじゅう)連山までもが見晴らせます。穏やかな宇和海は、箱庭のように見え、夕日を受けた自然の美しさは格別です。
 座敷雛の起源は、必ずしもはっきりしませんが、古老の話では、130年くらい前に一般の家庭で、山からマツの木とかモモの花の咲いている枝を切ってきて、それを利用して作ったというのが起こりだということです。また、江戸時代の天明3年(1783年)に村の青年芝居として穴井歌舞伎(かぶき)がつくられたようですが、この穴井歌舞伎全盛期に、雛祭りも豪華なものになり、現在のような座敷雛の形を整えたともいわれます。『遠景、中景、近景を取り入れている様は、歌舞伎舞台そのままのミニチュア化であるといっても過言ではなく、穴井歌舞伎の心意気が、年に一度の、たった二日間のこの雛祭りに託されているのではないだろうか。』と言う人もいます。
 また、この地方は、明治時代、半農半漁の村で、女性の力が生活を大きく支えてきました。したがってこうした女性を大切にする風土も、座敷雛の背景にはあると言われています。女の子の誕生を、むしろ喜び迎える気分があったほどです。戦後は、ミカン栽培が盛んになり、昭和39年(1964年)にはその優れた品質が高く評価されて、第3回全国農業祭柑橘(かんきつ)部門で天皇杯を受け、日本一の産地になりました。これにも女性の力が預かって大きいと思います。
 また、地域の人々や親類縁者の強いきずなと協力が座敷雛を守る支えになっているのです。例えば、薄紅色のティッシュペーパーでの桜の花びらづくりは、正月ころから親せきが寄って始めます。1万個に余る一輪一輪の桜の花を作っていくなかで、創作の楽しみと女児への願いが、皆の心のきずなを一層強めてくれるのです。そして、年ごとに、地域の中で技術的知識やこつなどが蓄積していくのです。
 座敷雛に役立てようと、地域のみんなが普段から盆栽などを育てているのです。その意味では、雛祭りは地域のくらしの中に根づいているといえます。雛人形以外の小道具、大道具類は、今も地域全体で融通し合うのです。家の子供などには触れさせないほど大事にしている盆栽でも、座敷雛に使うという一言で、気前よく貸してくれます。この地域の人々のおおらかな気風と、心の触れ合いがあってできることです。
 直前の準備には、地域を挙げて取り組みます。1週間くらいかかり、作業者数は延べで、150人くらいでしょうか。この期間は、座敷雛の家主は接待が大変ですが、ともに作業や食事をするなかでお互いの心の交流があります。準備は男性ばかりがするのではなく、女性7、8人が、炊事のために毎日集まって作るのです。
 4月2日の夕方には、親類縁者が招かれて、祝いの酒をくみ交わしながら、女の子の健やかな成長と幸せを祈るのです。こうして、翌3日の深夜まで飾られた座敷雛は、4日の早朝にはすっかり取り払われて、元のたたずまいに戻ります。それは『いつまでも飾っておくと縁付きが遅れる(結婚が遅くなる)。』と語り継がれているからです。
 供え物は、海辺の里にふさわしい、新鮮なタイ、イセエビ、アワビ、サザエなどです。また、菱餅(ひしもち)、いり豆などと共にみそとネギを供える風習があります。みそは子供がまろやかな味のある人柄となるように、またネギは健やかな成長を願ってのことのようです。
 照明器具が、ろうそくやランプなどから電灯へと移行するに従い、特に、近年蛍光灯などの明るい夜間照明で一層座敷雛が映えるようになり、自然と昼より夜の雛祭りを観賞する人が多くなってきました。それでも、揺れるろうそくの小さな灯に映し出されたお雛様の幻想的な雰囲気に思いをはせる人もいます。
 座敷雛を飾った家では、門や戸を開け放って、一般の人にも観賞できるようにしているため、地区内を歩いて見物する客が年ごとに増え、今年(平成10年)は2万人余りも来ました。
 かつては、座敷雛は旧暦の3月3日に行われていましたが、4月3日の一月遅れで行うようになったのは太平洋戦争後のことです。そして戦争中とその前後の厳しい一時期を除いては、一度もこの雛祭りは穴井より消えることなく続いています。女児の誕生を楽しみにしている人は多いのです。」

 イ 座敷雛づくりに魅せられて-雛棟梁の苦心-

 「(**さん)わたしは、棟梁になってから今年(平成10年)で21年目です。自分の部屋に、今までつくった座敷雛の写真を掛けています。それらは、作成した記念にと家主さんからもらったものです。1枚1枚に思い出があります。見ているうちにあれこれと、アイデアが浮かんで来ます。多くの人が、生まれた子供が女の子だったら、その日のうちに『来年は頼むよ。』と言って来ます。
 今は、構想や構図の作成、さらにはこれに従事する大勢の親類縁者の指揮すべてが棟梁一人の仕事となっています。どこへ行っても、『ここの場所へお願いします。』と、棟梁に一任されます。ここに建てるよと言ってくれたらだいたいの案がでてきます。間口が狭くて奥行きが深いと作りやすいが、間口だけ広いと遠近感が出しにくいのです。
 山をどういう風に、どこへ持っていったらよく見えるか、一番先に頭に入れて、作成にかかります。テーマは、庭園が8、9割できてから決めます。今年も家主の家族がサクラの花びらを一生懸命作ったから、それをなんとか生かそうと考えて、『桜の宴(うたげ)』としました。
 棟梁は、全体の構想を一応考えて、こんな盆栽が欲しいなと思ったら地域の人に借りに回るのです。ここで一鉢、あそこで二鉢という具合に、棟梁が材料を集めるためにあらかじめ依頼して歩き、いよいよ建て始める日に、皆に集めてもらうのです。わたしは、自前でフジの花を温室で育てています。その場に合わせて咲かせるためです。
 2か月ほど前になったら全体の構想をしっかり頭に入れておかなくてはなりません。枕元に新聞の広告の散らしを置いておき、その裏にマジック・インクで、思い浮かんだことを、その時々に書き付けておくのです。
 棟梁によっていろいろノウハウがあると思いますが、雛壇の背景の山の絵は、わたしは、立体的に作るのです。一番最初に木箱などを置き、魚網を載せて起伏を作り、それに七色に染めた製材のおがくずをかけて山の形を作るのです。高い山や深い谷を作って、遠近感を出すために、その前に蚊帳(かや)(寝室につりさげて力を防ぐ、目の細かい網のおおい)を張るのです。すると山に霞がかかったようにずうっと遠くに見えてくるのです。
 雛壇の場所を決めてから庭園を作っていくのです。後は盆栽の植木で処理をします。ときには大小の盆栽を80鉢くらい使っています。大きいのは一人でうづむ(抱き上げる)のがやっとくらいのもあります。手伝い人も慣れてきて、盆栽をそこへ据えてと言ったら、盆栽の置き方まで言わなくても分かっていて、仕事も早くなっています。昨年はカレンダーの絵を基に倍率を計算して、電気の装飾が付く水車小屋の模型を自作したりもしました。
 雛さんは、嫁さんの実家から贈ってきた内裏雛を中心に、親せきから贈られた各種の人形を配置します。その場所に応じた座敷雛を建てるのが苦労です。年ごとに場所を最大限に生かす創意工夫をしなければならないので、同じものは一つもありません。
 飾り付けの決まりは特にはありません。ただ一つだけ伝統的に、その家のおばあちゃんがお嫁にきたときに結んできて、それから結婚式や町の喜びごとにも結び、町の歴史を見つめてきた丸帯を飾り幕として使います。初孫のために解いた、おばあちゃん愛用の帯です。今は、この伝統的手法は大分薄れてきましたが、わたしは今でも、どこのを建てても、5枚下がっているうちの一番最初の見出しの化粧幕を丸帯で飾るのです。そこには、祖母から嫁、孫へと座敷雛に託す願いが込められ、受け継がれていると思うからです。」

図表2-1-7 真穴地区周辺図

図表2-1-7 真穴地区周辺図