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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)むらやまちで育つ

 かつて人々は、自分の生まれたむらやまちで育ち生活し、やがてその地域で死んでいった。したがって子供たちは、一家の子供であると共にむらやまちを支え継承していく地域全体の子供でもあった。それぞれの地域の生活に密着したさまざまな年中行事が子供たちを育(はぐく)み、子供たちはやがて、その地域の生活や行事を支えていったのである。祭りを中心としたさまざまな年中行事、中でも小正月のトンド、盆のサイトなどの火祭り、3月、5月、7月の節句、亥の子など、子供中心の祭りであり、どれをとっても子供たちは自分が育ってきた原風景を思い起こす懐かしいものであり、自分の育ったふるさととは切っても切れないものであった。こうした状況は、明治以降大きく変化してきたとはいえ、昭和30年代の初めまでは、子供の生活は「年中行事」を中心として送られた(⑤)といえよう。

 ア 大島

 (ア)島内の子供

 「(**さん)祭りの時は子供が屋台やおみこしの綱を引っ張る、若いし(若者)が担ぐんじゃ。夜宮(よみや)(宵宮(よいみや))には屋台が出る、その屋台には子供を順々に交代に乗せて、かいてくれたものよ。わしの子供のころは、太鼓のたたき方もちゃんと教えられたし、たたいてみいと言うて、たたかしてから、『こら、そこが違う。』と教えてくれよった。お祭りだけじゃない、年中行事いうたら、子供が中心じゃった。怒られもした、殴られもしたんじゃが、教えてもくれた。自分とこの子というより、子供は島の宝じゃということで皆が大事に見守ってくれる風があったものよ。」

 (イ)夜宮

 「(**さん)大島祭りの夜宮には3台の屋台が出るんです。島の一番東にある石鎚さんの所にまず集まるんです。そこから出発して、西のお宮(八幡様)まで町中を練り歩いて御祈念してもらってから、最後にはまた石鎚さんの所にそろうんですよ。今はかく人が居なくなったから車をつけて引いて回ってますが、昔は皆担いで回ったんです。そのころはお宮の階段を上がり下りしたんですよ。担ぐだけでは重いから、その時子供たちも綱をつけて引っ張り上げたり、下りる時に落ちないように後ろから引っ張ったりしたものですよ。屋台の後には、紅白の縄の紐(ひも)を引っ張って、その中をそれぞれの地区の人が大勢ぞろぞろついていくんです。屋台はちょうちんを一杯ぶら下げて、太鼓を打ちながら練り歩くから本当にきれいでした。
 初日の晩はそうやって屋台が通るんですが、二晩目は、花(御祝儀のこと)をもろうて行くんです。方々が祝儀袋に入れて花をくれるんです。花をもらうとその印に、ちょうちんが高く上がる。それを合図に太鼓が早太鼓に変わるんです。そして『ただいま、遣わしまするは、金子(きんす)百匹、御樽(おんたる)、魚。右は○○町○○さん(該当する町名と氏名を言う)より若連中に御花下さりまする。』言うて読み上げるんです。読み終わると、また早太鼓が鳴るんですよ。そうやって進みよりました。祭りの後子供たちは、何日かは『ただいま、遣わしまするは』じゃの言うて口上をまねしたりしよったですよ。」

 (ウ)盆踊り

 続いて**さんに聞いた。
 「ここの盆はいろんな変装をして踊りよりました。ちょうちんの光だけじゃから見えにくいこともあったけど、『あれ、だれじゃろう。』などと言いながらその仮装を見るのも楽しみじゃったね。親せきに踊りの好きなおいやんがおって、盆踊りを教えてくれたんです。それは3人で踊るんです。わたしは小学校4、5年から踊りを習うとったから、もう一人の子を連れて来て、おいやんが2丁刀(2本の刀)を持って真ん中、わたしら子供二人は両側で、一人は長刀(なぎなた)、もう一人は鎖鎌を持って踊るんよ。刀の刃のところは、木に銀紙を張って光るようにこしらえて、それを持って踊りに行ったんです。ここの盆踊りは、やぐらを組んでました。やぐらは、縁台を二つ寄せてその上に四斗樽を二つ重ねて、音頭を口説(くど)く人がその上に乗るようになったものです。そのへりに子供たちが、踊り手の方を向いてようけ座ってね。口説きに合わせて、『よいこらせーどっこいせー。』とか『よいよい。』とかの合いの手を入れるんです。太鼓は下の縁台でたたき、口説く人は四斗樽の上に立って、蛇の目傘をさして口説くんです。踊り手は、その四斗樽を中心にして二重も三重もの輪になりよった。1軒に家族が10人ほども居て、そのうちで何人かは必ず出て来とったからね。それも、いろんなものに変装しとるんじゃから、そりゃあ、にぎやかじゃった。盆踊りは、西はお宮の下で、仲の町は広いから場所を変えて2回踊るんです。それから、石鎚さんの前の広場と何日も踊りましたよ。子供も何日も前の練習の時からずっと毎晩のように合いの手を入れているうちに、いつの間にか音頭の口説きも少しずつ覚えていったと思いますよ。女の子は浴衣を着て踊る者もようけおったけど、男の子は踊りの輪の中をくぐり抜けたり、暗がりの中で追わいやいをしたりする方が多かったですよ。夜遅くまで、大人も一緒になって、外で遊べるじゃのいうのはそんなになかったんじゃから。」

  (エ)近所のおいやん、おばやん

 **さんと**さんに聞いた。
 「(**さん)親父は隣りじゃろうと遠くじゃろうと、島内の子でいいかげんなことしよったらしかるし、げんこつ入れる。それは、よその知らんおいやんじゃろうとおばやんじゃろうと皆そうじゃ。島中が、皆親せきみたいなもんよ。皆お互いが世話になっているんじゃ。よその子じゃから知らんなどとは言わんのじゃ。だから子供がよその人にしかられても、親も当たり前のことじゃ思うて黙っとる。そうやって、島の皆がしつけてくれたんじゃ。」
 「(**さん)わたしどもを育ててくれたのはもちろん親じゃけんど、同時に、わたしどもを教育してくれたんは隣のおいやん、おばやんですよ。いや地域全体の人というた方がいいのかな。わたしどもの子供のころのしつけというか、教育はそうだった。だから、今わたしが寂しいと思うのは、隣のおじさん、おばさんが子供たちの指導者であったことが、廃(すた)ってしまったことですよ。わたしの家では両親が若くして仕事に没頭しとったから、小さい時のしつけは、隣り近所のおいやん、おばやんらがしてくれたんじゃ。わたしは悪い方だったから、どこから、おしかりの声が飛んでくるか分からんのじゃ。周囲の人が皆、注意してくれたですよ。だから、わたしは渡海船の中でも、小学生、中学生に声掛けや注意をするんです。ところが、女房は『お父さん、いい加減にしときよ、怒られるよ。』と言うけど『わしゃ、そうやって怒られてきたが。』と言うとるんよ。」

 イ 八坂地区

 八坂地区には、八坂神社、多賀神社、金刀比羅神社、井手神社などがあって祭日も多かった。どの祭りも人出は多く、そのにぎやかさがうれしかったという。また子供たちには祭りの出店で、普段にはない食べ物を買って食べるのが何より楽しみであり、地方回りの芝居の出し物があって、それを見るのも楽しみであったという。

 (ア)天神祭りのつくりもの

 **さんと**さんに聞いた。
 「天神祭りが一番にぎやかでした。井手神社のお祭りです。あそこはいろんな神さんを祭ってあるんですが、菅原道真(845~905年)も祭ってあるんです。わたしら、お習字を書いて持って行くと、全部張り出して飾ってくれたんです。それを見るのもうれしかった。役者を呼んできて芝居もかかりましたから、それを見るのを楽しみにしていました。本殿の右横に、神楽殿(かぐらでん)(*18)があって、7月24、5日の2日間、そこで芝居や伊予万歳(松山市を中心にその周辺地域で行われている祝福芸能。)が行われたんです。神楽殿は空襲で焼けて今はなくなりました。座る場所などないから、みんな立ったまま見るんです。日が暮れてから始まるんじゃけど、大人も子供も一杯じゃった。その当時、見る物いうては、活動写真くらいだったから、皆楽しみでした。ちょっと見て帰る者もあったけど、わたしらはしまいまで見ました。でも、しんどいとは思わなかったですよ。
 河原町や柳井町はお店ぎりじゃったから、全部自分とこの品物で、作り物をこしらえるんです。酒屋さんなどは一升瓶だけで実際の人くらいの大きさの人形を作って、台の上に飾ってあるんです。湊町も含めて、商店街全部がそうやって家の中にこしらえて、天神祭りに合わせて飾ったんです。それを見るためにそれこそ二日掛かりで見て歩いたですよ。人出も多くてにぎやかなものでした。通路も真ん中に綱を張って、入る人、出る人に分けてぞろぞろ流れ歩いたんです。お宮は、商品じゃなくて、本当の着物を着せて歌舞伎人形みたいにして、浦島太郎や、牛若丸、天神さんといった人形を、毎年いろいろ考えて、作って飾ってありました。今で言う菊人形の様な感じの作り物で、規模の大きいのを飾って楽しませてくれました。」

 (イ)観音講

 「(**さん)近所の大人に混じって子供の楽しみだったものに観音講というのがありました。これはお接待とも言っていましたが、春になったら必ず行いました。道後公園(松山市)や梅津寺(ばいしんじ)(松山市)へも行きました。お母さん連中が料理を作って、親父連中が荷物を全部運んでくれるんです。梅津寺へは子供たちは電車で行きました。春ですから竹の子は旬(しゅん)ですし、巻きずしなどもあって、うまい物が食べられるのはうれしかったね。多くは海岸だったように思います。潮干狩りも楽しかったけど、電車に乗れるのも、わくわくしました。それ以上に、街のわたしらには海岸で走り回るだけで楽しかったんです。一日中大人と子供が一緒に遊べたのが何より楽しい思い出ですよ。」

 ウ 日吉村

 (ア)近所の目

 **さん、**さん、**さんに聞いた。
 「近所の人が、それするな、これをしてはいけない、お前は態度がいいなとか、直接言われることがあったな。それに、どこの家庭も親が厳しかった。親でなくてもよくしかられたものです。当時は、どこの田んぼにも、牛の餌にするのでレンゲを育てとった。そのレンゲ畑は柔らかいじゅうたんのような感じで、それがうれしくて、走り回ってはよく寝転がってその感触を楽しんだりしたもんです。でも、牛を飼ってる人にとっては困ったことで、見つかると牛を飼っている人だけではなく、だれからでも怒られたですよ。生活に直接影響するとか、特に危険で命にかかわるようなこと、例えば、瀬のきつい所で泳ぎよるといった時にはひどい目に怒られましたな。それでも子供ですから、危ないことも、いたずらもしたですよ。カボチャに石を投げて割るとか、カキを盗みに行くとか。もちろん、見つかるとしかられたんじゃが、それでも余り細かいことは言われんで、大目に見て、少々のことは笑って見過ごしてくれたように思います。まあ、そういうしつけのようなことは、同じ地域の子供ということで、大人が皆、見てくれていて、その中で、わたしらは育てられたと思いますよ。」

 (イ)シキワと普段

 続いて**さん、**さん、**さんに聞いた。
 「正月には、ゴマやたこを買ってきてはくれたけど、現金をもらうことはまずなかったね。それよりも、仕事せい言われんけん自由に遊べる。それが何よりうれしかったね。祭りの時にはスイカを買ってもらう。お施餓鬼(せがき)に行くと、赤い色のニッケ酒を買ってもらう。あれは最高じゃった。夏祭りになると餅を米の粉で作ってくれる。うどんを作ってもらう。ごちそうだったですよ。今の子供たちは、普段もシキワもない。いつでもうまい物を食べることができる。いい物を着て、小遣いもずいぶんと持って、昔に比べたらはるかに幸せだし、ぜいたくですよ。しかし、わたしらの子供時代は、シキワとか何ぞごと(特別な行事のこと)いうと、今の子供たちには想像できんほどうれしかった。女の人もシキワは決して楽じゃなかったはずですよ。餅を作る、うどんを打つ。ゴボウを掘ってニンジンも引いてきて、すしの具から用意して、すしをつける。全部自分ところの材料を使って作るんです。それでも、みんなが、おいしそうに食べてるとにこにこ楽しそうにやっていましたね。普段の生活が厳しかっただけに、女の人も解放感を味わっていたんでしょうよ。今みたいに祭日がたくさん増えても、皆そんなに喜ばんでしょう。かえって、どこやらへ行かないかんとか、あそこへ行かないけんとかで、休みの時の方が疲れるみたいですよ。」

 (ウ)肩寄せ合って

 「(**さん)楽しかったことは、食べることです。それほど戦前のわたしらの子供のころは食べるものが少なかったですよ。もちろん戦時中から終戦直後の娘時代もそうでした。だから子供時分は米の御飯とか、普段食べられんもんが食べられること、これが一番うれしかったですよ。あのころは、今日は三島様のお祭り、お大師様のお祭り、金毘羅様のお祭り、今晩は若宮様のお祭りいうて、行事がいろいろあったんです。そういうお祭りは、ひなち(日にち)が決まっとるんですよ。3月10日はお金毘羅様、4月21日はお大師様というように。そういう日には、『今晩は一緒にやろうかな。』と近所の人で寄り合いをしていたんです。この近所は4、5軒ですが、そこの人が皆、寄ってお酒を飲んだり、食べたりするんです。その時はごちそうがあるんです。親は大変じゃったと思うんですが。子供は子供で皆が集まるでしょう。それだけでも楽しかったですよ。人間食べることが一番です。あのころは、ふだんは一生懸命働くことに精一杯で、楽しみなど少なかったこともあったろうけど、近所の人たちが何かにつけて、一緒に寄り合って楽しもうとしてました。子供も、その時には、ごちそうがいっぱい食べられるから楽しみでした。」

 (エ)見よう見まねで

 「(**さん)子供のころのお祭りには、お旅所(たびしょ)へおみこしを担いで行って、そこで神様をお慰めするために、五つ鹿踊り(*19)や相撲甚句(*20)をやっていたんですよ。上鍵山地区では、さらに小さな地区が分担して、牛鬼やおみこし、五つ鹿、相撲甚句と分けて出すようにして、親から子へ、先輩から後輩へと受け継いで教えてきていました。それも五つ鹿については、最初は長男が伝承していくことにしていたんです。しかし、受け継ぐものがだんだん少なくなって、昭和30年代に一度途絶えてしまいました。それを村おこしも兼ねて、昭和53年(1978年)に五つ鹿踊り(写真2-2-37参照)を復活させ、平成になって子供たちによる相撲甚句も復活させました。今は、子供たちも若者も、一度途絶えた時よりも一層少なくなったんで、五つ鹿踊りは小さな地区単独ではできんようになりました。相撲甚句も上鍵山以外の子供たちも集めて受け継いでいます。現在は、お祭りそのものが、本来の田の神様を祭るというより、だんだん町のにぎわいのためだったり、牛鬼を担いで御祝儀やごちそうを目当てにするようなところが出てきましたが、伝統を継承するために若い人たちもよく頑張ってくれてますよ。
 お旅所というのは神様のお休み所で、昔は稲刈りの後に、神社の田んぼに作り、そこでお祭りの出し物や様々な行事をやり、見物も集まって、店もずいぶんと出ていました。お祭りも昔の大字(おおあざ)単位、旧村のお宮ごとにしておったです。昔はそのような村の行事ごとがあると、わたしら子供は皆そこへ寄って行きました。そして、いつの間にかだれに教えられるのでなくても、見よう見まねで、見習っていったものです。五つ鹿踊り、相撲甚句でもそうです。その意味では子供時代というのはすばらしいですよ。ただ、伝統として受け継いでいくためには、ここで一斉に足を上げるとか、かけ声のホーッと言うのを一段高くとか、改めてきちっと教える必要はあると思いますけど。」
 日吉村でも、他の地域と同様、子供の少なさから来る、伝統的な行事への継承者不足の悩みは深いようである。


*18:神社の境内に設けてある神楽(神を祭るために奏する歌舞)を奏する殿社。
*19:日吉神社の例祭に踊る伝統芸能である。起源は江戸時代、伊達秀宗の宇和島入部を機として、仙台地方から移入された
  といわれる。南予地方には、八つ鹿、七つ鹿もあるか、日吉は、牡鹿が4頭、雌鹿が1頭の五つ鹿である。胸につるした小
  太鼓をたたきながら、背には短冊飾りをつけた笹を背負って円を描くように踊る芸能である。
*20:江戸時代から始まったといわれ、上鍵山地区の長男を中心に編成され、日吉神社の秋の大祭に奉納されていた伝統芸
  能。一時途絶えていたが、平成に入って、復活した。行司2人、力士10人はいずれも小学生で、力士には、日吉丸、朝日
  山等のしこ名が付いている。行事の衣装は裃姿で烏帽子、白足袋に草履履き、軍配を持つ。力士は、まわしと化粧まわしを
  締め、模様入りの半纏をまとっている。芸能は、行事が相撲由来の向上を述べた後、力士は甚句に合わせて土俵の上で踊
  る。その後、東西に別れて相撲を取る。結びの一番における行事の口上もある。

写真2-2-37 復活した上鍵山の五つ鹿踊り

写真2-2-37 復活した上鍵山の五つ鹿踊り

白い頭(かしら)の雌鹿1頭(左端)と雄鹿4頭の踊り。平成10年11月撮影