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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みの変貌

 金栄(きんえい)公民館が平成4年(1992年)に出版した『金栄ふるさと誌』には、十郎神社の由来と移転についての解説があり、資料として新居浜駅前の拡張前後の変遷図が掲載されている(図表1-2-4の㋐参照)。拡張後の図には県道国領高木線が見られ、これは、別子銅山の銅鉱石枯渇後の新居浜市の地域繁栄策の一つとして鷲尾勘解治(わしおかげじ)が構想した都市計画のうち、港から金子(かねこ)村(現新居浜市)を貫通して新居浜駅へと至る道路の新設を計画したことに端を発するものである。この変遷図からも分かるように、新居浜駅前は整備事業を通してその姿を何度も変えてきた。昭和30年代までの駅前の整備と変化について、聞き取り調査協力者が次のように話してくれた。

 ア 駅前の変貌と出征の記憶

 「私(Bさん)は昭和3年(1928年)の生まれです。生まれたのは新居浜町(現新居浜市)ですが、すぐ駅前に引っ越しました。大正9年(1920年)生まれの私の姉が泉川小学校へ転校したのが小学校3年から4年ころと言っていたので、昭和3、4年(1928、29年)ころから駅前(当時は泉川村)でくらしていることになります。駅前は、道路の拡張や整備などが何度も行われたので、昭和30年代でも昭和初期の姿は全く残っていませんでした。また、住友が変化をするたびに駅前の様子もそれに合わせるかのようにガラッと変わっていました。そのような事情が、全て駅前の環境に変化を与えていたということです。また、戦時中には2,000人を超える兵士が、新居浜駅から出征していきました。当時、多くの人を一度に運ぶことができるのは鉄道しかなかったのです。」

 イ 県道国領高木線

 (ア)住友本社まで延伸する計画

 「私(Fさん)が調べたところによると、新居浜駅から北西に続く通りは、惣開の住友化学の工場(当時は住友鉱業所)まで真っ直(す)ぐに延ばされる計画だったことの痕跡と言えるようです(図表1-2-4の㋑参照)。元の泉寿亭(せんじゅてい)があった所(現別子銅山記念図書館)の近くにも、同様に駅から見ると北西に続く通りがあります。駅から住友化学の入り口まで道をまっすぐ延ばす計画だったようですが、住民の反対で中止されたそうです。」
 この計画の中止について、『鷲尾勘解治翁復刻版』には、「既に泉寿亭前から着工したが、金子村の強力な反対(農地を潰すことに対する)に逢って涙を呑(の)んでこれを中止したのであった(④)。」とある。当時の金子村は、農業が産業の主体であり、土地を失うことに対する農民からの反発が大きかったことをうかがい知ることができる。鷲尾勘解治は方針を転換し、昭和橋から新高橋の間に8間(約15m)幅の道路を造ることを構想し、最終的に6間(約11m)幅の道路を新設した。この新設された通りが現在の昭和通りであり、昭和6年(1931年)6月10日に完成し、同年7月5日に開通式が行われた。

 (イ) 通り沿いに転居

 「県道国領高木線沿いに家が建ち始めたのは、昭和30年(1955年)ころでした。その時期は道路の舗装工事が行われていて、道にアスファルトをどんどん盛っていったため、私(Gさん)の家(山内商店)の前は道の高さに比べると店の方が落ち込むように低くなっており、店の前付近は道路の中央部に向かって坂になっていました(図表1-2-4の㋒参照)。土山薬局さんの方へ行く道は、今でも道が坂になっていますが、道路を整備する際にその辺りの家の人は、県道国領高木線沿いへ家を移転しました(図表1-2-4の㋓参照)。今回、駅前の整備が行われたことで、その家の方々はこれまで3回くらい家を替わらなければならなかったと思います。」

 ウ 昔の地名

 「現在、駅前自治会館が建っている場所は地名が『坂井町二丁目』ですが、昭和30年(1955年)の新居郡泉川町と新居浜市との合併後、しばらくは『新居浜市泉川』でした(図表1-2-4の㋔参照)。私(Iさん)がこちらに来た昭和32年(1957年)当時、手紙に自分の住所を書くときには『新居浜市泉川八反地(はったんじ)』と書いて出していました。『泉川八反地』から『坂井町』に変わったことについては、『なんで坂井かなあ。』という印象だったことを憶えています。」
 「坂井」は、泉川村、金子村、中村の三村の境にあることから「堺」と呼ばれていた地名に由来する。昭和37年(1962年)に「住居表示に関する法律」が施行されたことに伴い、新居浜市は昭和40年(1965年)に「住居表示に関する条例」を制定し、同年から住居表示実施地域を年ごとに指定していった。「坂井町二丁目」の住居表示が実施されたのは、昭和43年(1968年)のことである。また、「八反地」については、新居浜史談会の吉本擴氏が『新居浜史談第389号』に「新居浜歴史物語(一)-条里制と登り道などの古代道路-」と題する論文を寄稿されており、その中で新居浜市域における条里制に触れられ、「条里制における土地の最小単位は一町を10等分した『一段(反)』で、(中略)この一段の地を呼ぶのに(中略)東・西・南・北の縄本(なわもと)(基準地点となる坪界線=あぜ道など)から何反目と呼んだ(⑤)。」とし、「現在、宇高(うだか)地区に見られる三反地、上・下の七反地、庄内(しょうない)地区の五反地・九反地などの地名はその名残の可能性がある(⑥)。」と述べている。恐らく、この「八反地」という地名も、条里制の名残であると思われる。

 エ 県営住宅へ帰る道

 「私(Aさん)は県営住宅で生活をしていますが、当時は帰宅するのに『上(かみ)(角野(すみの)・中萩(なかはぎ)地区など新居浜市南部)』からだと瀬戸内バス営業所の東側にある道を通らなければなりませんでした(図表1-2-4の㋕、㋖参照)。大雨が降ったときには、鉄道の線路には雨水がきちんと流れるように雨どいが2か所設置されており、雨溜(だ)まりができませんでしたが、排水設備が整備されていない道路は水路のようになってしまっていました。市に連絡をすると、市の担当の方がすぐに石炭やコークスを燃やした『がら(燃えかすのこと)』を入れる道具を持ってきて、除水をしてくれていましたが、雨が降るたびに水路に戻ってしまっていました。当時は道路事情が悪かったことを憶えています。」

図表1-2-4 昭和30年代の新居浜駅前の町並み

図表1-2-4 昭和30年代の新居浜駅前の町並み

調査協力者からの聞き取りにより作成。