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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 住友の工場へ通勤する人々

ア 山内商店

 「朝、数多くの自転車が、駅前にあった山内商店前の道路などに一杯広がって、町の方へ下っていたことを憶えています(図表1-2-4の㋒、写真1-2-2参照)。山内商店では、おでんや海産物などが販売されていました。大相撲で栃若(とちわか)がブームになった時代、まだテレビが家庭に普及していなかったころには、会社帰りの人々が、列車の時間待ちに店でお酒を飲みながら、店内に置いてあったテレビを見ていたことをよく憶えています。私(岩本和強さん)たちもそこでよくテレビを見せてもらいました。子どもがお酒を飲むわけにはいかないので、紙袋に入ったピーナッツを1袋10円で買って、それを食べながらテレビを見ていました。時間に余裕がある人は、蒲鉾(かまぼこ)や味付け海苔(のり)などをつまみにお酒を何杯も飲んでいました。私はテレビを見に行っていたときに、その人たちから食べ物を分けてもらったことがありました。」
 昭和30年代ころまで、駅前は鉄道を利用して住友へ通勤する人々で賑わいを見せており、駅周辺でくらす人々からは、その人々は『住友さん』と呼ばれていた。彼らは新居浜駅から自転車に乗り換えて通勤し、仕事が終わると再び新居浜駅に戻って来た。その時間帯及び通勤範囲について話を聞いた。
 「『住友さん』は午前8時始まりだったので、7時過ぎくらいに新居浜駅に到着する列車から降りてきた人たちが、一斉に自転車預り所へ向かっていました。駅から一番近い所が近藤預り所ですが、その周辺が非常に賑わっていたことを私(村上省二さん)は憶えています(図表1-2-4の㋗参照)。今は高校生が自転車を預けていますが、当時は汽車通学をする生徒がほとんどいなかったので、通勤者だけが預けていました。当時『住友さん』は午後4時に仕事が終わっていたので、4時半くらいになると、列車で帰る人たちが山内商店辺りでカップ酒を引っ掛けて列車を待っているという光景を憶えています。お酒を原価で飲むことができたので、住友に通勤している人たちは安いお酒を1杯か2杯引っ掛けてから家に帰っていたようです。」
 「住友に通勤される方は、今治(いまばり)方面からも、東の方だと香川県の詫間(たくま)辺りからでも列車で通勤していました。山内商店は食堂ではないので、商品に利をかけていません(利益を上乗せしていない)でした。原価でお酒を売るのと同じ値段で一杯飲むことができたので、多くの人たちが利用していたことを私(香出敬子さん)は憶えています。」

イ 自転車での通勤風景

 「新居浜駅で降りた方の中では、住友の工場への通勤者が一番多かったと思います。駅前には自転車預り所が本当にたくさんあり、私(渡邉謙三さん)は友達が自転車預り所を利用していた関係で、友達と一緒にそこへ行き、走り回ってよく遊んでいました。また、『上』の方から工場の方へ、南から北へ向かって、尻無川沿いの道や、昔の日進運輸の前の道といった南北の大きな道一杯になって、自転車に乗った通勤者が通っていたことを憶えています(図表1-2-4の㋘、㋙、写真1-2-3参照)。県道国領高木線は、駅を降りて工場へ出勤する人たちの自転車で一杯でした。」
 「私(堀勲男さん)は、昭和35年(1960年)に高校を卒業して、地元にある今の住友共同電力株式会社の西火力発電所へ就職をし、駅前の自宅から自転車で通勤していました。道路は、住友の工場へ向かう自転車であふれていたし、新居浜近郊の人でも、新居浜駅までは列車で来て、駅からは自転車で通勤した人がいたと思います。とにかく自転車が多かったので、預ける人が多かったでしょうし、駅前にたくさん自転車預り所があったことは不思議なことではないと実感しています。朝夕は自転車が流れるように通りを動いていた印象が強く残っています。」

ウ 自転車預り所

 昭和30年代、新居浜駅前には9軒の自転車預り所があり、住友へ通勤する人々だけではなく、公務員や行商人などがよく利用していた(図表1-2-4着色部分、写真1-2-4参照)。
 「私(合田昭二郎さん)は、平成19年(2007年)まで自転車預りの店を経営していました(図表1-2-4の㋚参照)。平成19年は、駅前の再開発のための区画整理がちょうど終わったころでした。昭和30年代は住友の工場へ通勤するために利用する人が特に多く、駅前から高木交差点へ続く斜めの道(県道国領高木線)から工場の正門まで、通勤する人々の自転車の列がずっと続いていました。自転車1台の利用料金は、店を開いた当時(昭和初期)が月5銭、昭和30年代ころが月300円、そして平成19年当時は月1,500円でした。」

(2) 駅前の商業と人々のくらし

ア 旅館と商店

 「山内商店や矢野商店、そして果物店などが私(岩本和強さん)たちのたまり場でした(図表1-2-4の㋛参照)。また、駅前には旅館がたくさんありました(写真1-2-5参照)。私の家は理容店が使用するハサミやバリカンなどを売る商売だったので、毎月必ず6社くらいの人が大阪や東京から出張で買い求めに来て、近くの旅館に泊まっていました(図表1-2-4の㋜参照)。特に、私の家の近所の心月輪(しんげつりん)旅館に宿泊する人が多かったことを憶えています(図表1-2-4の㋝参照)。また、深川旅館や玉川旅館などに宿泊する人もいました。その人たちが宿泊している旅館に私の父親が呼ばれて、御馳走(ごちそう)をいただきながら、理容用具の購入などの商談をしていたようです。
 商店については、私が幼い時のことなので詳しい記憶ではありませんが、山内商店にはお菓子や10円のアイスクリームを買いに行っていました。また、靴も売っていたと思います。運動会の前には運動靴を買いに行ったことを憶えています。」

イ 駅前以外の繁華街へ

 「私(越智親和さん)たちは、場所を示すときに『上(かみ)』とか『下(しも)』とよく言います。『上』は喜光地の商店街、『下』は昭和通りの商店街や登道、昭和通りの北側にある本町通りのことで、よく『下へ買い物に行く。』という言い方をしていました。」
 「駅前ではあまり多くのものが販売されていなかったので、映画館や商店街があった『下』の方へバスなどを利用して行ったり、喜光地商店街の方へ行ったりするしかありませんでした。私(香出敬子さん)は泉川地区にある学校に通っていたので、どちらかというと喜光地商店街の方になじみがありました(写真1-2-6参照)。」
 「駅前には専門店のような品揃(ぞろ)えが豊富なお店がなかったので、買い物はあまりしませんでした。山内商店が雑貨店で、日用品など、すぐに必要なものはそこで買いましたが、他に何か買おうと思えば、喜光地商店街へ行くか、『下』へ行くかのどちらかでした。そのころは、昭和通りよりもむしろ本町商店街と大丸へ買い物に行くことが多かったように思います。中学校を卒業するまでは、私(村上省二さん)たちはどこへ行くのでも徒歩だったので、『下』まで行くときにはバスに乗っていました。高校生になってからは自転車に乗って行くようになったので、バスを使うということがほとんどなくなりました。」

ウ 金物店

 「昭和30年代の県営住宅には、今のようにカーテンを取り付けるための金具がなかったので、私(白石五郎さん)は駅の西の方にあった定岡金物店へ金具などを買いに行っていました(図表1-2-4の㋞参照)。何か必要があるとそこへ行って、必要なものを買い揃えていました。」

エ 大衆浴場

 「駅の西側にあった住友化学の倉庫の所で肥料などを貨車へ積み込んでいましたが、倉庫付近にはお風呂がなかったので、何十人という方が仕事を終えると『朝日湯』に来ていました(図表1-2-4の㋟参照)。昭和40年(1965年)くらいまでは、自宅で毎日風呂を沸かすことはほとんどなく、家にお風呂があっても銭湯によく行っていたので、『朝日湯』の付近は賑わっていました。風呂から出てきた人々が、うちわを持って扇(あお)ぎながら近くの縁台などに座っておしゃべりをして、銭湯が御近所との社交場という感じでした。私(渡邉謙三さん)は、『朝日湯』でのおしゃべりを通して皆が顔なじみになり、大人から子どもまでとても親しくしていたことを憶えています。」

(3) 駅前の人々の娯楽

ア 紙芝居

 「私(岩本和強さん)がよく憶えているのは、十郎神社前の広場に紙芝居が毎日来て、ゆにっきやわらび餅、1本5円くらいの焼イカの足、型抜きという瓢箪(ひょうたん)の型を抜いたものなどが売られていたことです(図表1-2-4の㋐参照)。
 紙芝居には大勢の子どもが観(み)に来ていて、行列ができていました。行列の前の方には必ずガキ大将が陣取っていたので、学年が下の小さい私たちは行列の後ろの方で観なければなりませんでした。紙芝居を読む声がとても流暢(りゅうちょう)で、上手だったことを憶えています。」

イ 子どもたちの遊び

 「私(村上省二さん)は、十郎神社の近くにあった集会所や山崎時計店と大原自転車預り所の間の通路で、『ベッタン』や『ラムネ遊び(ラムネの瓶に入っていたビー玉を用いた遊び)』、『コマ回し』、『くぎ立て』などをよくやっていました(図表1-2-4の㋠参照)。」
 「私(岩本和強さん)は、『ビー玉』や『ベッタン』などで、たまに女の子と遊んだことを憶えています。また、正光寺山古墳の所へ行って、笹(ささ)滑りをしたり、横穴のお墓の中へ入って行ったりしたことがありました(図表1-2-4の㋡参照)。中でも一番楽しかったのは、『じょうれん』を持って小川へ行き、フナやドジョウなどをすくったことです。小川へ行くと、たまにバッテリーのコードを川に差し入れて電気で魚を獲(と)る人がいて、電気を流すとウナギが水面に浮かんでいたことを憶えています。」

ウ ローラースケート

 「新居浜駅前にはロータリーがあって、泉川校区の中ではそこしか舗装がされていませんでした(写真1-2-7参照)。舗装されたのがいつだったのかは忘れてしまいましたが、新居浜でもかなり早かったと思います。ローラースケートが流行すると、滑ることができる場所は舗装された駅のロータリーしかなかったので、ローラースケートを持っている人はそこでよく遊んでいました。私(渡邉謙三さん)はローラースケートを買ってもらえなかったので、それで遊んでいる子どもの姿を見ると、羨ましかったことを憶えています。」

エ 野球

 「昭和30年代よりも前の話になりますが、駅前での『遊び』と言えば、私(能智輝道さん)にとっては、住友化学の倉庫の所で楽しんだ野球です(図表1-2-4の㋢参照)。ソフトボールができるくらいの広さがあったので、内野は倉庫の敷地を、外野はその周辺の敷地を使っていました。私のチームは、『坂井スワローズ』と名前を付けていました。学制改革で『新居農』(新居浜農業高等学校、現愛媛県立新居浜東高等学校)がなくなり、そこのグラウンドが荒れ放題だったので、野球をして遊ぶ場所がそちらへ移りました。
 家へ帰るとき、貨物列車が長い時間停車していたので、運転手に『乗せてくれ。』と頼んだらよく機関車に乗せてくれていました。そのとき、運転手から石炭をもらったり、機関車の運転方法などを教えてもらったりしました。」

(4) 自治会活動の思い出

 戦後、日本国憲法の制定によって民主政治の基盤としての地方自治が制度化(昭和22年〔1947年〕地方自治法制定)されて以降、戦後の復興期から経済成長期にかけて各地で自治会の結成が相次ぎ、新居浜においても同様の動きが見られた。昭和22年にはすでに自治会の発足が見られ、昭和32年(1957年)2月の時点で自治会の成立が市全体の65%に達するなど、自治会を結成しようとする気運が高まった(図表1-2-7参照)。
 昭和32年5月25日、地域住民208世帯によって新居浜駅前自治会が結成され、昭和34年(1959年)、十郎神社付近に自治会館が建設された(図表1-2-4の㋐参照)。敷地は十郎神社氏子より譲与され、建物は日本発送電株式会社が電力再編成によって四国電力株式会社に吸収合併され、新居浜駅東側にあった同社の事務所が解体されたとき、その廃材の払下げを受けて建設された。
 その後、昭和36年(1961年)に現在地に十郎神社とともに移転して現在に至っており、第6代自治会長を務めた大西照夫さんによれば、「移転後の自治会館は当時としては金栄校区一の建物で、移転時には地区内外130名近くから計459,000円の寄付が集まり、その記録が玄関入口に掲示されていた。」という(図表1-2-4の㋔、写真1-2-8参照)。

ア 駅前ロータリー付近にあったころの記憶

 「昭和39年(1964年)、駅前に観光会館ができましたが、そこは元々自治会館があった場所で、私(村上省二さん)は、その自治会館が東向きに建てられていたことを憶えています。十郎神社はその後ろ側の自治会館の敷地内の西北の角にあり、とても小さかったと思います。」
 「建設された当時は、自治会館というより集会所のような建物でした。私(大西照夫さん)の子どもたちが、夏休みなどにいろいろな活動をするために使わせてもらっていましたし、地域の子どもたちもよく集まって活動していました。」

イ 管理人の存在

 「昭和30年代には、自治会館の炊事場が管理人の方の部屋のようになっていました。私(堀勲男さん)の遠縁にあたる叔母が、建物の管理人のような役割でそこで生活をしていて、多くの利用者の世話をしてくれていたことを憶えています。」

ウ 仲間とともに

 「自治会では、様々な行事を企画、運営してくれました。私(白石五郎さん)がよく憶えているのは、駅前自治会が五つのグループに分かれ、当時の自治会長さんが優勝旗を用意し、金栄小学校のグラウンドを借りて運動会を行ったことです。また、駅前自治会で滝の宮公園へ行ってオリエンテーリングを行ったこともあります(写真1-2-9参照)。当時は人々の娯楽があまりなかったので、自治会の活動が本当に活発でした。当時の自治会長さんのころに、バスを2台借りて松山市の椿さんのお祭りへ行ったこともありました。道後温泉を予約しておいて、お風呂へ入って、風呂上がりに一杯やって帰って来たこともありました。」

エ オリエンテーリング

 「滝の宮公園に向かう道は、今は車が通行できるようにきれいに整備されていますが、昔はけもの道のような、道幅が狭い道でした。私(堀勲男さん)は、地図を準備したり、公園内にポイントを何か所か作ったりして、そこを通過した人たちのカードに判を押していました。今の北展望台の辺りにチェックポイントを作り、来た時とは別の下り口まで歩いたことを憶えています。オリエンテーリングが全国的にも流行していた時期でもあったので、何回か実施しました。」

オ 盆踊り

 「駅の西の正和木材の前に精米所があり、そこが広場になっていたので、櫓(やぐら)を立てて盆踊りをしていました(図表1-2-4の㋣参照)。盆踊りは、『その前の年から盆までに亡くなった人の供養じゃ。』と言って、その人の名前を櫓に張り出していました。」
 聞き取りの内容以外にも、駅前自治会では様々な取組を行ってきた。例えば、昭和57年(1982年)の地域住民の手作りによる子ども太鼓台の新調や銭太鼓の活動等の婦人会活動などである。平成20年(2008年)には、駅前整備事業の一つとして自治会館が新築されることになり、同時に整備された駅前中央公園とともに、地域住民の憩いの場であり続けている(写真1-2-10参照)。


参考引用文献
 ① 鉄道省編『日本案内記 中国・四国篇』1930~1935
 ② 新居浜市『新居浜市史』1962
 ③ 郷土出版社『目で見る新居浜・西条・東予・周桑の100年』2005
 ④ 燧洋倶楽部『鷲尾勘解治翁復刻版』2013
 ⑤ 新居浜史談会『新居浜史談 第389号』1993
 ⑥ 新居浜史談会、前掲書

その他の参考文献
 ・ 日和佐初太郎『写真集 別子あのころ 山・浜・島』1990
 ・ 金栄公民館『金栄ふるさと誌』1992
 ・ 新居浜市『にいはま市政概要 平成27年度版』2015


写真1-2-10 現在の駅前自治会館

写真1-2-10 現在の駅前自治会館