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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 多喜浜のくらし

(1) 塩田があるくらし

ア 高価な塩

 「私(佐光敏成さん)の父親は塩田の大工をしていて、とても真面目な人でした。私自身は『かしょい』という手伝いはあまりしていませんが、当時のくらしの中での思い出についてお話したいと思います。小学校2年か3年の時だったと思います。冬の寒い日に父親がカボチャの丸炊きを持って帰って来たことがありました。塩を炊く釜にカボチャを丸々1個放り込んで作ったものだと思いますが、塩加減がちょうど良い、おいしいカボチャになっていたことを憶えています。また、釜は石炭で焚(た)くのですが、その火の周辺にサツマイモを並べて焼くのです。このイモが特に甘味が出ておいしいのです。幼い時には、それらを食べることができるということがとても楽しみだったことをよく憶えています。
 昭和25、26年(1950、51年)、中学生のころになると、塩田での作業開始と作業量を示すボンデンが出ると、競争のように作業を行っていました。私の父親は私に対して、『かしょいをせえ。』というようなことは一切言いませんでしたが、それでもやはり『作業を手伝わないといけないかな。』と思って進んで塩田へ行っていました。当時、多喜浜の一帯は塩田の風景が広がっていました。当時を思い出すと、ゴム草履を履いたり裸足になったりして地場を通ると、確かに足が痛かったことを憶えています。地場の表面にはパリパリに塩が吹いている状態で、夏の暑い日差しで地表が焼けて熱くなっていました。ただ、塩田の土手を通ると足が涼しいのです。その土手にはアツケシソウが生えていました。そういう、今になると思い出深い場所を通りながら塩田での『かしょい』を行っていました。手伝いに行くと一生懸命に仕事をし、作業が終わると10円か20円のお小遣いをいただいていました。そのお金でアイスケーキを買うのがとても楽しみでした。当時、一つ2円で10円あれば5本買うことができていたと思います。小豆が入ったアイスキャンディーが一つ5円で、2円のものを5本買うか、5円のものを2本買うかでよく迷っていました。また、私の祖母から聞いた話では、戦後の物資不足のときには塩が貴重品で高価だったので、塩を持って買い物へ行くと、衣服でも食べ物でも、ほぼ何にでも交換が可能だったそうです。買い物のときには、『塩と交換した方が非常に有利に買い物できた。』と話していたことを憶えています。祖母はナシなどの果物を食べたことがなかったらしいのですが、北条(ほうじょう)の浅海(あさなみ)(現松山〔まつやま〕市浅海)へよく行って、『塩とナシを交換してきた。』と言っていたそうです。時には帰りの汽車の中で、不法な取引を取り締まる警察官に捕まりそうになって、せっかく交換してきたナシを客車の窓から外へ放り投げて、後から取りに行ったこともあったそうです。」

イ 黒島のくらし

 黒島(くろしま)でのくらしの思い出について、日野幸彦さんと今村俊彦さんが次のように話してくれた。
 「私(日野幸彦さん)は黒島に生まれ育ちました。当時、塩は大蔵省の管轄だったため、黒島には坂出地方専売局多喜浜出張所が置かれていました(写真2-1-8参照)。また、塩関係では東浜産塩株式会社(後の多喜浜塩業組合)があり、地元の人はこの会社の敷地内に自由に出入りしていました(写真2-1-9参照)。会社のゲートには守衛さんがいたのですが、『おいちゃん、入らせて。』と言えば、『おお。』と言って入らせてくれていました。会社に入ると、そこには数多くの物資がありました。当時はどの家庭も生活が大変な時代で、食べるものがない状態だったので、そこにあった塩をちょっと拝借、というようなこともありました。黒島は漁師の町ですから、魚とその塩を持って阿島(あしま)越えで歩いて土居(どい)町(現四国中央〔しこくちゅうおう〕市土居町)まで行ってお米と交換をしていました。土居町へ行くときには、母親が、『一緒について来い。』と言うのですが、当時、阿島越えはバスがなく、歩いて峠を越えるのは不安だったため、鉄道の線路を一緒に歩いたことを憶えています。私たちが歩いているすぐそばを汽車が走って、汽笛を『ポーッ。』と鳴らしながら通過していました。会社には物資が豊富にあったので、今日は木が欲しいとか、今日は何々が欲しいというようなときや、地元で何か料理を作るときには、そこへ行くと何でも作ることが可能だったことを憶えています。塩を少し持って帰っても、『ナンボでもある、持って行け。』というような感じでした。今思うと、『よく会社がもったな。』という感覚をもつのですが、それだけ多喜浜の塩の恩恵を会社も地元も受けていたということなのでしょう。また、当時は各家庭に風呂がない時代でした。その会社の中には蒸気を焚くための大きな水槽があって、その水槽が黒島の人たちのお風呂代わりになっていて、大勢の方が入浴を目的に会社に来ていました。入浴目的であってもゲートの守衛さんは何も言わずに通してくれていました。風呂のついでに持って来たイモを蒸気を集める炉の近くに置いておくと、10分ほどできれいに蒸し上がった蒸(ふか)しイモができていたことを憶えています。黒島にはほかに、商事会社がありましたがこちらは管理が厳しく、構内に入ることができませんでした。子どものころ、それでも入ろうとしていると、会社の方に、『入ったらいかん。』と怒られたことがありました。私はそのとき子ども心に、『何でいかんのやろう。』と思ったことをよく憶えています。」
 「私(今村俊彦さん)の実家は黒島で商売をしていました。その関係で工場から買い物に来てくれる人が結構多くいて、従業員の皆さんとも顔見知りになり、工場への出入りがフリーパスのようになっていました。私が小学生のころの塩田というのは、入浜式の中は聖域というような感覚でした。私自身が塩田での仕事に携わっていないことで、特にそのように思うのかもしれません。友達の家へ遊びに行って、外へ出たときに靴のまま塩田へ入ろうとしたら、塩田で作業をしている方にものすごく叱られたという記憶があります。それ以来、塩田の、入浜式の中には入れなくなってしまったという感じでした。私は工場の中にあるグラウンドでソフトボールや野球を楽しんでいました。新居浜商業高校が初めて甲子園に出場した時の選手の中に、黒島で一緒に野球をして遊んでいた方がいました。私は高校卒業後、市外へ出ていたのですが、新居浜商業の試合の時には会社を休んで応援に行ったという記憶が強く残っています。工場でも、従業員の方々と一緒にソフトボールをしていたのが良い思い出です。」

ウ 白浜銀座

 「私(金子剛さん)は戦後の生まれで、子どものころに塩田で遊んだという記憶しかありません。私は多喜浜塩田の南側の、山と塩田とに挟まれて東西に延びる白浜(しらはま)という集落で生まれ育ちました。塩田の隆盛期でもある昭和10年代、20年代には白浜の集落120軒のうち30軒くらいがお店だったそうです。集落の四分の一がお店だったということもあり、当時は『白浜銀座』と呼ばれていたそうです。白浜銀座には多喜浜の人々の生活に関わるほとんどのお店が揃(そろ)っていて、食料品や生活用品を販売する店、旅館まであったそうです。私の記憶では、いろは座という遊技場(劇場)があって、そこでは映画が上映されたり、お芝居が上演されたりしていました(図表2-1-4の10参照)。私は内緒で裏からそっと中へ入らせてもらい、映画を観(み)た記憶があり、大河内傳次郎の時代から石原裕次郎が映画で活躍する時代くらいまで劇場が続いた記憶があります。当時の交通手段も、自転車すらあまりないような時代だったので、それほど地域の人々が頻繁に遠方へ出かけるということがなく、いわゆる地域内での自給自足のような形で、みんなが補い合いながら集落が維持されていたのだと思います。数多くあったお店が減少していった背景には、交通手段の発達はもちろんのこと、やはり塩田の衰退とともに塩田以外の仕事に就く人が増加し、生活の基盤が多喜浜以外へ移っていったことにあるのではないかと思います。塩田が隆盛のころには、塩の取引で多くの人が多喜浜に来ていて、多喜浜駅から塩田の方へ来たときにも、旅館を起点にして商売や取引をして帰るということだったと思います。塩田の隆盛とともに栄え、塩田の衰退とともに商店が並ぶ風景がなくなっていったという記憶があります。今、私たちの世代よりも若い人たちと話をすると、『いつあそこの店がなくなったか。』というようなことが話題になることが多くあります。当時の白浜を復元したジオラマを見てもらうことで、私たちの生まれ育った所を再発見してもらうというようなことをしています(写真2-1-10参照)。」

(2) 塩田の廃止

ア 塩田の変化

 「私(池永巧さん)が小学校高学年のころ塩田が廃田になりました。塩田があったころ、夏の暑い時期に潮が満ちてきたら海岸へ泳ぎに行くのですが、泳ぐ場所が地区ごとに決まっていました。どこそこの地区は久貢山(くぐやま)の下で泳ぐ、などと決まっていて、私たちの地区はその隣の一番波止場から五番波止場の辺りで泳いでいました。泳ぎに行っていて、潮が引き始めると、『帰るか。』ということになって泳ぐのをやめて帰るのですが、その時間帯にも塩田では作業が続いていたことを憶えています。塩田作業をする人の中には、子どもや女性の姿もありました。帰りに、『ちょっと水でも飲ましてもらおうや。』ということになって、塩田の休憩所に置いていた氷の塊と水が入った大きな桶(おけ)の所へ行って、『おいちゃん、ちょっと一杯飲ませてよ。』と言って水をもらっていました。当時を思い返すと、のどが渇いているし、暑いし、あの時のどを潤した冷たくておいしかった水の味を今も忘れることができません。塩田で働く浜男は、上半身裸かランニング一枚で作業をすることが多く、肌は赤銅色に輝き、筋骨隆々でたくましく精悍(せいかん)な姿であったことを今でも憶えています。塩田の中央にあった湊神社は、昔は浜の宮と呼ばれていました(写真2-1-11参照)。泳ぎに行く前にその境内でソフトボールをして遊んでいました。塩田が廃田になってしまった後は、所々溝があるものの真っ平らな土地が広がっていたのでグラウンドとして利用していました。このグラウンドを使って各地区対抗のソフトボール大会が開催されていました。私は廃田になった後に、行事に参加するために塩田であった場所へよく行くようになったことを憶えています。塩田跡にはゴルフ場があった時期もありました(写真2-1-12参照)。私にとっては塩田が操業していた当時よりも、廃田になった後に、その土地をよく利用したことが思い出として残っています。」

イ 多喜浜に生きて

 「私(真鍋篤正さん)が多喜浜国民学校5年生の時に戦争が終わりました(写真2-1-13参照)。当時、同級生には塩田関係の仕事をしている家庭の子どもが多く、直接塩田に関係がないという人は少なかったように思います。1クラスの三分の二の子どもの家庭が塩田と何らかの関係をもっていたと思います。私は国民学校卒業後、旧制中学へ入学するつもりでいましたが、戦後の学制改革で発足した新制中学校へ入学することとなりました。学制改革により、国民学校高等科1年、2年生がそれぞれ新制中学校2年、3年生となることから、これらの子どもたちは新制中学へ行く、行かない、の選択ができるようになっていました。ただ、国民学校6年生だった私たちは必ず新制中学校へ進学しなければなりませんでした。新制中学校入学後も、最初は小学校の校舎を使って授業をしていましたが、途中から三喜浜塩田の跡地に中学校が建設されました。戦時中この場所にはアルミを作る工場が建設途上でした。終戦により工場の建設が停止されたので、当時の多喜浜村(現新居浜市多喜浜)がその跡地を利用して多喜浜中学校を建設したのです。
 当時の子どもたちは塩田の『かしょい』として、親の手伝いに行くのが当たり前でした。戦後、新制中学校へ入学した後も、午後の授業には国語や数学、理科、英語、社会などは組まれておらず、体育や音楽、家庭、職業、図工などの実技系の授業が組まれていました。クラスの多くが午後になると塩田の手伝いへ行くために帰宅していたので、学校に残っている生徒が少なかったことを憶えています。私は子ども心に塩田での手伝いをしている友達のことを羨ましく思っていました。『かしょい』に行っている友達はお小遣いをもらうことができ、夏の暑い時期にはケーキ(アイスクリーム)を売っている店でそれを買って食べることができていたのです。私の家は裕福ではなく、ケーキを買うようなお小遣いをもらうことができなかったので、『やっぱり塩田の仕事をしている人はええなあ。』とか、『かしょいに行ってお小遣いをもらえてええなあ。』という印象を強くもっていました。私は中学校卒業後、進学の道を選んで中学校の教員となり、昭和30年(1955年)に新規採用教員として母校である多喜浜中学校に赴任しました。教員としての立場で自分が生まれ育った多喜浜を改めて見つめ直してみると、やはりこの多喜浜には『かしょい』の風土が残っているということを強く感じました。私が教員になったころでも、私が中学生の時と同じように、午後になると多くの生徒たちが塩田の手伝いで帰宅していました。また、塩田の仕事とともに農業の仕事も忙しく、農繁期には農業をしている家庭の生徒たちも帰宅していました。
 教員として仕事をしている間に、私のふるさと多喜浜は大きく変わりました。昭和34年(1959年)に塩田が廃田になったことが一番大きな変化であることは言うまでもありません。また、同じ年には日東航空株式会社の航空路が開設され、水上飛行艇が大島と黒島の間に飛来してくるようになりました(写真2-1-14参照)。住友関係の会社で仕事をしている人たちがその飛行艇を利用して大阪(おおさか)方面へ行っていたことを憶えています。塩田跡地は子どもたちの格好の遊び場となり、昭和34年から39年(1964年)の間には、古浜と呼ばれていた一番早くにできた塩田の地場がゴルフ場になっていました。そのゴルフ場も昭和39年に新居浜市が新産業都市の指定を受けたことで営業を終えました。その後、工業用地の造成工事が始まるまでに何年かかかるのですが、その間、子どもたちがソフトボールをしたり、私自身はゴルフの練習をしたりするために、よく古浜へ行っていたことを憶えています。
 廃田になる前の昭和30年(1955年)には、三喜浜塩田全6軒前が入浜式塩田から流下式塩田へと切り替わり、続いて東浜塩田の三番、四番、五番、久貢浜塩田の一番、二番、少し遅れて北浜(沖浜)塩田五番、六番、七番、八番が流下式塩田となりました。特に三喜浜塩田は昭和29年(1954年)には流下式に転換されていたのですが、台風の来襲によって堤防が決壊し、流下式が全滅してしまいました。この復旧には当時の金額で1億円程度かかったと聞いています。多喜浜塩田は都合15軒前の塩田が流下式に切り替わりました。しかし、大半の37軒前の塩田が入浜式のままでした。入浜式では塩を作るコストが高いということも打撃になったのでしょうが、昭和34年(1959年)の第三次塩業整備令により250年余続いた多喜浜塩田に幕を下ろすこととなりました。多喜浜での流下式塩田の操業はわずか5年でした。」


写真2-1-10 白浜銀座(ジオラマ)

写真2-1-10 白浜銀座(ジオラマ)


図表2-1-4 多喜浜塩田隆盛期(昭和10年代、20年代)の白浜銀座の町並み

図表2-1-4 多喜浜塩田隆盛期(昭和10年代、20年代)の白浜銀座の町並み