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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 沿岸部の漁村のくらし

(1) 漁業組合に勤めて

ア 東西の魚市場

 「昭和25、26年(1950、51年)ころには西魚市場と東魚市場の二つの魚市場がありました。中須賀地区の漁業者が西魚市場、大江(おおえ)、東須賀の地区の漁業者が東魚市場を使っていました。魚市場ができた当初は東魚市場が本部だったのですが、昭和30年代の初めに西魚市場を新しく建て替えたことで、西魚市場が本部となりました。
 当時は漁業者数が今より多く、私(飯尾滿弘さん)が昭和47年(1972年)に会計事務を前任者から引き継いだころが水揚高の最盛期で、年間水揚高が東と西の魚市場を合わせて10億円程度であったことを憶えています(図表2-2-1参照)。」

イ 漁業権

 「この辺りの漁業は、四阪(しさか)島(現今治市)くらいまでしか漁業権がないので、ほとんどが沿岸での漁業です。流瀬網漁業では、入会(いりあい)で伊予灘の方などへ出漁していましたが、普段は日帰りの漁業なのです。漁場は新居浜の地先で、西が小松(こまつ)(現西条〔さいじょう〕市小松町)の飛行場があった辺りから、東は垣生(はぶ)の地先で、八幡神社から四阪島、弓削(ゆげ)見通しと呼ばれる漁場です。
 漁業権は一定の期間ごとに漁協が取りまとめ、県に申請をして書き換えを行います。地先漁業権は西条、新居浜、多喜浜(たきはま)というような漁業組合単位で書き換えを申請するのです。漁業権には共同漁業権と区画漁業権の2種類があり、この辺りであれば、小松から垣生にかけての区画漁業について認めてもらいます。この区画漁業では、昔はノリ養殖をやっていた時期がありました。また、トリ貝やバカ貝の漁も含まれます。この漁についても漁期が明確に決められており、12月1日から3月末までとなっています。」

ウ 漁協での業務

 漁協での業務の中での印象深い仕事について、飯尾滿弘さんは次のように話してくれた。

 (ア) 漁業権の申請

 「私(飯尾滿弘さん)が漁業組合に勤めていたころには、この辺りの漁業権の許可については主に西条の県事務所が担当しており、書き換えの時期が来たら書類を持って申請に行っていました。しかし、最初は漁業権の更新のために松山(まつやま)の県庁まで行かなくてはならず、昭和36年(1961年)に自動車免許を取得した私は車で松山まで行っていました。当時は申請のために松山へ行くと、新居浜からの出張でもそこで一泊するという行程でした。申請に合わせて、漁業者にお金を貸し付ける事務の担当者が同行していました。漁業者が資金の融資を希望した場合、一旦漁業組合が借り受けて、漁業者に貸し出すという仕組みになっていたため、県の信漁連(愛媛県信用漁業協同組合連合会)へ行って融資を受ける必要があったからです。ですから業務で松山や西条へはよく行っていたことを憶えています。西条の県事務所で手続きができるようになってからは、時間と費用が節約できました。今は職員数も漁業者数も少ないのでそれほど資金の貸借がないのかもしれませんが、昔は漁業者数が多かったので、借り受ける手続きも数多く行っていました。」

 (イ) 氷を作る

 「私(飯尾滿弘さん)が漁業組合に就職したとき、初めは完成したばかりの製氷施設で仕事をしていました。この製氷施設は住友の出資で経営されていて、職員が10名ほどいたと思います。毎年行われる営業会議では住友側に経営状態を説明することが必要で、私もこの会議に出席しなければなりませんでした。
 そのころには、まだ、一般の家庭には電気冷蔵庫が普及しておらず、氷を入れて冷やす形式の冷蔵庫が主流で、港で使う氷も含めて需要がかなりあったので、施設で市の水道の水を使って氷の大きな塊を作り、卸売で氷店に販売していました。仕事をしていた製氷冷蔵庫に設置されていた製氷機は1日に10tの氷を作る能力をもっていました。家庭での需要が減り、気温が下がる冬場にたくさんの氷を作っておいて、夏の需要に間に合わすために冷蔵庫に貯氷していました。夏場には冬の間に作っておいた氷が全て売れてしまうくらい、ものすごい需要があったことを憶えています。注文を受けると、配達は専門の業者が行っていました。当時は冷凍庫付きのトラックがなかったので、トラックの荷台に氷を積んで、その上から幌(ほろ)をかけるだけの簡単な手段で配達をしていました。配達中に氷が少々溶けてしまいますが、氷自体が1本240kgもある大きな塊だったので、溶けたとしても氷の外側だけで、商品としての氷の品質に関しては、ほとんど影響がありませんでした。氷が届けられた港では、大きな塊を細かく砕いて、水揚げされた魚の鮮度を保つために用いられていました。」

(2) 沿岸の漁業

ア ノリの養殖

 「ノリは11月の後半から刈り取りが始まり、3月ころまでは採ることができていました。新居浜でノリ養殖が行われていたときには、各個人がノリの加工場を持っていました。収穫し、加工されたノリは出荷する漁業者が1箱3,600枚入りの単位で出荷し、県漁連(愛媛県漁業協同組合連合会)が集荷、入札を行いますが、品質を示す等級は新居浜の漁業組合で付けていました。等級を決めるときには県漁連から担当者が来て、ノリの品質を細かくチェックし、特等、優等、1等、2等と等級が決められていたことを憶えています。
 昔はノリを採り入れる作業を行うときには、ノリを摘むのにハサミが使われていて、手で摘んでいたので、収穫できる量はそれほどありませんでした。私(飯尾滿弘さん)が幼いころには朝早くから親に連れられてノリ摘みに行っていました。冬の寒い時期に、冷たい海水の中へ入って摘んでいたことを憶えています。作業をするときには、胸まであるゴム製の長靴のようなものを履いて海に入るのですが、それでもノリを摘む作業をしている最中には、海水の冷たさが肌に伝わってきていました。新居浜ではノリ養殖を大々的にはやっていませんでしたが、同じ東予地方では西条市の禎瑞(ていずい)や玉津(たまつ)などの沿岸部で盛んに行われていました(写真2-2-1参照)。」

イ バカ貝漁

 「バカ貝は貝かきという細い爪で海底をかき(爪状の道具で海底の砂を削る)、それによってかき出された貝が網に入って行くような仕組みの漁具を竹竿(たけざお)の先に付けて、船の上から操って漁をしていました。一本の真竹は長さが8mほどあったと思いますが、水深が深い所など竹竿一本で足りないときには、もう一本継竿をして使っていました。その道具を使うために、漁船に2人ほどが乗り合わせて漁場へ行き、漁場に着くと錨(いかり)を下ろして潮の流れや風向きを見ながら貝かきを海中に入れて海底をかき、網を船に上げるともう一人が別の貝かきを海に入れる、という作業を繰り返して漁を行っていました。漁場としては沢津の海岸の沖合がよく獲れていました。昔は海岸にマツが8本あったので、八本松(はっぽんまつ)と呼ばれていた場所です。国領川の河口付近なので、川から流れて来る栄養分が多く、良い漁場になっていたのだと思います。
 網を入れた後、船は下ろした錨を中心に円を描くように回るので、かきもらす部分がないように、次々と作業を効率良く行っていました。昭和30年代の漁船は今ほど大きくなく、エンジンが付いている3tくらいの木製の船で、半年に2回くらいは船をたでる(船底を焼く)作業をすることが必要でした(写真2-2-2参照)。バカ貝漁では、錨を下ろしてからはエンジンの動力で動かすのではなく、艪(ろ)が付いていたので、艪を漕(こ)いで錨を中心に動かし、一周したら場所を変えて同じ作業をしていました。このような漁法で、バカ貝が相当獲れていました。私(飯尾滿弘さん)が子どものころには、海水浴へ行くと、足で海底の砂を除(の)けるだけで貝を獲ることができていたくらいですから相当いたのです。当時のバカ貝漁は、よく獲れるときであれば、一回網を入れると1kgから2kgは獲ることができていたようです。ただし、場所によって大きな貝が獲れる所と小さな貝しか獲れない所があったと聞いています。
 バカ貝漁では、貝を獲ることができるのは朝7時から10時くらいまでと時間制限があり、貝を獲ることができる時間帯には旗が揚げられていて、旗が揚がっている時間帯であれば海底の砂地をかいて貝を獲っても構いませんが、時間が来て旗が降ろされるとかくことができなくなっていました。貝を好き勝手に獲っていたわけではなく、一定のルールの下で獲るということが徹底されていたのです。時間を設けておかないと、あまりにも獲れ過ぎてしまい、資源保護の問題が出てくる可能性がありますし、何より供給過多で価格が下落してしまうということがあったのだと思います。濫獲を防ぐために、砂をかくための爪と爪の間の幅まで制限されていました。この幅が狭ければ小さな成長しきれていない貝まで掘り出されてしまい、幅が広ければ掘り出されることがありません。このようなことまで考えて規制されていたのです。
 私が子どものころには、製造貝という、生まれて一年未満ほどの小さなバカ貝が大量発生したことがありました。私の家では、干し貝にするための貝が一杯に入ったトロ箱を積み上げていました。大量に獲れたので、湯がいて貝から身を取り出し、火で炒(い)って味付けをしてから食べる、というようなことを経験したことがあります。また、獲って帰った貝は昼から家族で抜き身にして、干したり市場に出したりしていました。身を取り出された貝殻は東須賀の西側の広場に山のように積み上げられていて、『カイガラ山』と呼ばれていました。その山に登って遊んだことを憶えています(写真2-2-3参照)。」

ウ サワラ流し

 「多喜浜、垣生、新居浜、西条、玉津、壬生川(にゅうがわ)(現西条市壬生川)の沿岸部では、サワラ流しと呼ばれた流瀬網漁が盛んに行われていました。サワラは5月のゴールデンウイークの辺りで最高値になっていました。サワラが海流に乗って沿岸部に寄って来る時期にもよるのですが、漁業者は4月になると流瀬網漁の段取りを始めます。サワラ自体が海水温の影響を受けるので、この辺りの海水温が上昇する5月初旬に水揚げのピークが来ていたのだと思います。南予の八幡浜(やわたはま)でサワラが獲れたという情報が入れば、その半月後くらいには新居浜沿岸でサワラが獲れるようになっていました。また、新居浜より東の丸亀(まるがめ)(香川県)の方で獲れたという情報が入れば、今度は産卵のために回遊してきたサワラが間もなく獲れていました。ですから、新居浜以外の地域の情報にもしっかりとアンテナを張って、漁期を逃さないようにしていました。流瀬網は地元の漁師でも漁業権を持っていれば、入会漁業といって、他の地域で漁をすることが可能でした。他地域の漁業権を新居浜が何件、多喜浜が何件、というように得ていたのです。漁業権を持つと、新居浜から八幡浜の方へ漁に出向くこともありましたし、逆に八幡浜の漁師がこちらの海域で漁をすることもありました。他の海域へ漁に出るときには、泊まり込みでの漁で、八幡浜方面で漁をしたら、八幡浜で水揚げをして魚を売っていました。他の地域に出ることができる船の隻数は決められていました。隻数が決まっているからこそ、濫獲を防ぐことが可能だったのです。一時は、1統に対する漁業権がいくら、というように売買されていた時期もあったほどです。流瀬網の漁師たちはサワラ漁を主に行っていましたが、予備の網を含めると2統ほどの網を持っているので、サワラの漁期以外はその網の繕いや刺し網によるアジ漁を行うなど魚種を変えて漁をしていました。」

エ マンガこぎ漁

 「小型底びき網漁にはマンガこぎとエビこぎとがあります。エビこぎ漁を行っていた漁師は、流瀬は行わず、エビこぎ専門で漁をしていました。彼らはその漁期が終わるとイカ巣漁業などをやっていたようです。11月中ごろからはワタリガニが大きくなって沿岸へ寄って来ます。最初に寄って来るのはオスで、12月になるとメスが産卵をするために子(卵)を持って沿岸へ寄って来るので、この時期にマンガこぎによる漁が行われます。マンガこぎではこれらの漁業資源を爪で海底をかきながら(海底の土を削りながら)マンガに付いている網へ入れていきます。
 マンガこぎは1間(約2m)の桁に爪が何本、というように決められて統制されていました。これには船に載せられているエンジンの馬力が関係してきます。あまりにもたくさん獲り過ぎると、網に入った漁獲物の重みで船が動かなくなることがあるのです。マンガこぎで漁をして、漁獲物だけが網に残って、泥などがスムーズに網から抜けていくと問題はないのですが、一緒にかき上げた泥や石が網の中に溜(た)まってしまうと、かなりの重量になってしまうのです。昭和30年代はマンガこぎの始まりのころだと思います。大げさな話になるかもしれませんが、マンガこぎ漁では、一晩の漁でサラリーマンの一月分の給料になるくらいの漁獲がありました。」

(3) 沢津漁港の整備

ア 沢津の海岸

 「漁港ができる前の沢津は自然の海岸で、海水浴場にもなっていました(写真2-2-4参照)。夏になると私(飯尾滿弘さん)はよくそこへ海水浴に行っていました。海岸一帯が砂地で、とても良い海水浴場だったことをよく憶えています。そこには砂を掘ればすぐに獲ることができるくらい、トリ貝がたくさんいました。」

イ 沢津漁港の整備

 「昭和40年代に入ると、大江の港を沢津へ移転させるための漁港整備事業が始まりました(写真2-2-5参照)。移転前には住友化学の工場排水の問題があり、工場付近で魚を獲って帰って生け簀(す)へ入れておくと、翌朝には魚自体が排水の影響で臭(くさ)くなり、競りにかけても売れませんでした。魚が排水の影響で臭いというのは魚が生きているから臭いのです。それを人が食べると、ゲップが出たときに何とも言えないひどい臭(にお)いがしていました。魚自体が異様な臭いを発していましたが、煮付けた魚などを食べたときの方がなおひどい臭いがしていたことを憶えています。臭いを気にしながら、何とか食べることができるという状態でした。このような問題が起こり、この場所では漁師として生活をしていくことができないということで、新しい漁港を整備してほしいという要望が出始めました。そこで新居浜市と住友化学、漁業関係者が集まって協議をして、漁港の機能を沢津へ移転させることが決定したのです。沢津への移転に際しては、沿岸の埋立てが行われ、1戸当たり60坪(約200㎡)の漁業者用住宅用地が148戸分造成されて、移転する漁業者に無償で譲渡されるようになり、移転に際して、どの区画に入居するかはくじによって決められました。造成された148戸分の住宅用地ですが、最初はそのうち100戸分ほどしか決まっていなかったことを憶えています。」

(4) 漁業者の結束

 「台風のときの流木には本当に悩まされました。勢力が強い台風が来ると、海面を覆い尽くすくらいの大量の流木が、国領川から流れ出ていたのです。流木が海面にあると漁師の方たちは出漁ができないため、漁を2、3日休んで流木を陸(おか)へ引き上げる作業に従事していました。流木を除去する作業は漁師の大切な仕事であったと言えます。港の中は流木で一杯になっていましたし、海流に乗った大きな流木が沿岸部に流れ着くというようなこともあったようです。漁師の間には、『ケガグイ』という言葉があります。これは海の底に木の枝などがたくさん溜まってしまい、海に入れた網に悪影響を与えてしまうことです。台風は、そのときだけの問題ではなく、その後何か月にもわたって、漁師の仕事に大きな影響を与えていたのです。
 出漁に当たって、漁師は日和を見ます。雲の流れの速さなど、空模様をよく見て仕事をするのです。この辺りでは、『西北が晴れていたら、翌日の昼間でも晴れる。』と言われていました。小さな船での出漁ですから、少しでも波が高ければ危険だ、というようなことがあったのだと思います。万が一、漁船の事故が起こってしまって乗組員が行方不明になるというようなことがあれば、全ての漁業者が仕事を休んで行方不明者の捜索を行います。大規模な捜索で、他の漁協からの援助が必要な場合には、要請をすれば援助に来てくれていました。このように漁業者は強い連帯感や信頼関係で結ばれていると言えるのです。」


参考文献
 ・ 新居浜市『新居浜市史』1980
 ・ 愛媛県『愛媛県史 社会経済2 農林水産』1985
 ・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』1988
 ・ 日和佐初太郎『写真集 別子あのころ 山・浜・島』1990
 ・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門
      『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
 ・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『新居浜市の風土と人々のくらし』2005



図表2-2-1 新居浜市の漁業従業者数の推移

図表2-2-1 新居浜市の漁業従業者数の推移