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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1) くらしを支えたお店

ア 多かった町筋の食堂

 「この町筋には食堂が5軒くらいあり、それに加えて小料理店もありましたが、それでみんな商売ができていました(写真1-2-1、図表1-2-2の㋐、㋑、㋒、㋓、㋔、㋕参照)。昔はまだ車を持っている人が少なく、車の運転をする人はほとんどいなかったので、どのお店でもお酒を出していて、お得意さんができていました。」
 「山の方(久万(くま)〔久万高原(くまこうげん)町〕方面)へ出かけていた人が、地下足袋を履いて帰って来て、よくお店でお酒を飲んでいました。私(水野町子さん)の家は食堂をしていましたが、昔のことなので、営業時間が何時から何時までとは決まっておらず、お酒飲みの人は時間のことなど気にせず飲んだため、店を閉めるのが深夜1時か2時になるのはしょっちゅうでした(図表1-2-2の㋐参照)。お酒を飲むだけならいいのですが、新ジャガができた時分には、コロッケを作ってほしいと言ってきたお客さんがいました。『今は肉がないので作れない。』と言うと、『ジャガイモとタマネギとで作ったらええんじゃが。』と言うので、茹(ゆ)でたジャガイモを潰してコロッケを作りましたが、そのころは子育ての最中でもあり、仕事の合間に昼寝でもしなければ、体がもちませんでした。
 食堂を始めた昭和41年(1966年)ころ、素うどんは一杯30円だったと思いますが、43年間続けたお店をやめるころには、素うどんが一杯250円、中華そばが一杯400円くらいになっていました。」

イ さまざまなお店

 (ア) 荷馬車での運送業

 「私(相田カヲルさん)が小学校(麻生尋常高等小学校)へ行っていたころ、医院の少し下(しも)(松山市寄り)に荷馬車で運送を行っている人がいました(写真1-2-2、図表1-2-2の㋖参照)。私が学校へ出かけるときには、その人がいつも馬車を引いていて、よく馬車の後ろに乗せてもらっていたことを憶えています。」

 (イ) 豆腐

 「私(水野町子さん)の家は食堂をする前は豆腐店をしていました。私が結婚して原町へ移って来たのが昭和41年(1966年)で、その前年の40年くらいまでは豆腐店をしていて、そのころは家の蔵に臼だの何だのが一杯ありました(図表1-2-2の㋐参照)。」
 「私(玉井直綱さん)は、飼っていた牛に飲ませるために、豆腐の絞り汁をもらいによく豆腐店へ行っていましたが、普通の水を与えるのとでは栄養価が全然違いました。」

 (ウ) 綿打ち

 「昔は、ふとんの打ち直しといって、どの家でも綿打ち屋さんで古いふとんの綿を打ち直してもらっていました。原町にはお兄さんが牛を飼育していて、弟さんが綿打ちをしている家があり、弟さんは私(相田カヲルさん)が子どものころから綿打ちをしていました。昭和42、43年(1967、68年)ころはまだ綿を打っていましたが、その後、時代の流れとともに需要が減ってきたようです(図表1-2-2の㋗参照)。医院の隣は洋品店でしたが、元はお父さんが綿を打っていたお店で、大変繁盛していました。(図表1-2-2の㋘参照)」

 (エ) 古手屋

 「昭和30年(1955年)ころには、『古手屋(ふるてや)』という屋号をもつ呉服店がありました(図表1-2-2の㋙参照)。私(玉井直綱さん)が中学生のころは、お互いを屋号で呼び合うことも多く、私はみんなから、『和泉屋のぼん』と呼ばれていたので、中学校(原町中学校)に入学した時に、『玉井』と呼ばれても、それが自分のことだとすぐには気付きませんでした。小(お)田(だ)(内子〔うちこ〕町)や久万(久万高原町)方面に行く人は原町を通ったことから、昔は旅籠(はたご)屋が多くあったそうです(写真1-2-3参照)。」

 (オ) 畳

 「終戦後、戦争から帰って来た主人は、仕事がなかったので、手に職をつけようと、原町の畳店に弟子入りし修業をしました(図表1-2-2の㋚参照)。そのころ、私(相田カヲルさん)たち夫婦は畳店の2階に借り住まいをしていましたが、やがて、弟子入りしていた畳店から独立し、狭い一間だけの我が家を建てました。主人は、『もう少しいい先生に付いて修業したい。』と言って、今度は三番町(さんばんちょう)(松山市)にあった畳店で弟子入り修業をしながら、国道11号沿いにあった畳センターに勤めるようになりました。畳職人の仕事は大変で、畳床(たたみどこ)を作る作業を一日すると、頭の先から足の先まで真っ黒になり、咳(せき)をしても黒い汁が出ました。当時、畳床は稲わらで作るのが一般的でしたが、稲わらには土やゴミがたくさん付いて黒くなっていて、それをさばいて(ほぐして)畳床を作るので、どうしても作業後には全身が真っ黒になってしまいました。」

(2) 井戸を使う

 「原町では各家庭に井戸がありましたが、雨が降ったときに水が濁るか濁らないか、それも水位が上がるか上がらないか、というのが各家庭によって違っていました。私(玉井直綱さん)の家にあった井戸は、雨天時でもあまり水位が上がらず、水も濁っていなかったので、近所のみなさんがよく水を汲(く)みに来ていました。今でも井戸を潰すことはできず、蓋をして残しています。」

(3) 人々の娯楽

ア テレビ

 「私(玉井直綱さん)は、テレビで藤田まことと白木みのるの『てなもんや三度笠』や力道山の空手チョップを見るのが楽しみでしたが、そのころ、家にテレビがなかったので、雑貨店に置かれていたテレビでよく見ていました(図表1-2-2の㋛参照)。また、相撲中継が始まると、近くの食堂へ行き、うどんを食べながら相撲を見ていたものでした(図表1-2-2の㋑参照)。家にテレビが入ったのはずっと後のことでした。」
 「力道山が活躍していたころ、私(高市民子さん)の家にはテレビが入っていました。祖母が力道山のファンで、プロレス中継が始まるのをいつも楽しみにしていました。」

イ 映画

 「私(高市民子さん)が小学生のころ、映画は、小学校(現砥部町立麻生小学校)や集会所でよく上映されていて、集会所には週に1回くらい来ていました(図表1-2-2の㋜、写真1-2-4参照)。小学校では教育映画が上映されることが多かったのですが、集会所では、活弁(活動弁士)付きで『鞍馬天狗』などの時代劇がよく上映されていました。」
 「私(玉井直綱さん)は20歳ころ、仕事が終わってから、森松や松山の映画館まで自転車で行っていました(図表1-2-1参照)。夜、帰りのバスがなかったので、自転車で行くしかなかったのです。」


写真1-2-1 現在の原町の町並み

写真1-2-1 現在の原町の町並み


図表1-2-2 昭和30年代の原町の町並み

図表1-2-2 昭和30年代の原町の町並み


写真1-2-4 原町集会所

写真1-2-4 原町集会所