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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 総津のくらし

(1)店の仕事

 ア 衣料品店を営む

 「衣料品を扱っていた私(Bさん)の家では、父が店を経営していたころには鉱山で仕事をする鉱夫の人たちに服を貸す仕事をしていました(図表1-3-3の㋙参照)。鉱山で働く人たちは、その代金を盆と正月に支払うことが多かったので、お金が全く入らない時期があり、困ってしまうことがあったことを憶えています。現金で払ってくれた方もいたようなのですが、お得意さんの中にはツケで後日支払いをされる方がいました。
 盆と正月に支払いをしてもらうと、そのお金をもとに松山へ服の仕入れに行っていました。私の父はたくさんのお金を持って行っていたわけではなかったので、朝早くバスに乗って松山へ行っても商談の順番がなかなか回って来ず、仕入れの仕事は難しかったのではないかと思います。その日の晩には何とか広田へ帰ることができるように、と思っていたのですが、お金がそれほどない状態で行っているので立場が弱かったということなのでしょう。年末には総津市で服を販売して手元にお金が入っていました。そのお金で服を仕入れることができればよかったのですが、お金を借りていた所へ利息を含めて返済しなければなりませんでした。私が子どものころ、服が売れて家にお金が入ると、『僕らも使えるかな。』と思って楽しみにしていましたが、返済と仕入れが優先されていました。
 広田鉱山で働いていた人たちは、鉱山の仕事が減ってくると九州の炭鉱などへ移っていきました。私の店で服を借りていたお客さんにも九州へ行ってしまう人がいたので、集金のために九州まで行きました。広田からわざわざ九州まで集金に行き、お客さんである鉱夫さんに会うと、『給料が入るまで待ってくれ。』と言うのです。それを待つために旅館に泊まると大変なお金がかかるので、知り合いの家に泊まらせてもらって何とか支出を抑えていましたが、九州までの往復の交通費も安いものではなかったので、集金はできたけど全く利益が上がらなかったというようなこともありました。当時、私の父が、『貸したらいかん。現金で売れ。』と言っていましたが、このような状況を見かねて言ったのだと思います。」

 イ 佐々木酒造

 (ア)飯場からの注文

 「広田鉱山が操業をしていたころ、従業員の月給として支払われるお金が全員で400万円ほどだと聞いたことがあります。当時、鉱山には100人ほどいたので、一人当たり3万円程度もらっていたのだと思います。県庁の職員が月給1万5千円程度だったので、倍くらいは稼いでいたのでしょう。
 鉱山で働く人たちは飯場(はんば)で寝泊りしていました。交替制で仕事をしていたようで、仕事を終えて坑道から出てくると、そこでよくお酒を飲んでいました。私(Cさん)の店では鉱山からお酒の注文が入ると、トラックで飯場まで配達をしていました。毎日のように注文が入るので、当時の売り上げはかなり良かったことを憶えています。
 鉱夫の方の支払いはほとんどが盆と節季、それも旧正月の2月のころでした。会社からの賃金の支払いが遅れる、というようなことがあったと思いますし、そうなったとしても、鉱夫の方は飯場で生活しているので普段の生活にお金を必要としていなかったこともあって、あまり問題がなかったようです。支払いに来てくれると、店がお酒を振る舞っていたのでなかなか帰ってくれず、店先に人があふれていたことを憶えています。」

 (イ)灘の酒になる

 「当時は今のようによその銘柄が入って来ていなかったので、地元で販売されるお酒は佐々木酒造で造ったものがほとんどでした(写真1-3-6参照)。当時は伊方(いかた)(西宇和郡伊方町)から杜氏(とうじ)が5人くらい来ていました。杜氏は蔵元が独自に採用するのではなく、杜氏組合を通して紹介してもらった方を採用していました。杜氏には食事付きで仕事をしてもらっていたので、3食とも賄いを出さなければならず、お手伝いとして働く女性がその準備を一手に引き受けていました。杜氏と蔵元はそれぞれがプロ意識をもった技術者なので、両者の関係が必ずしもうまくいくとは限らず、仕事で折り合いが悪くなると、蔵元が杜氏組合へ掛け合って他の杜氏を紹介してもらっていました。杜氏の方の中には蔵元を転々とする方もいたようです。
 佐々木酒造で醸造された酒は、広田の中での販売が主でしたが、兵庫県の灘(なだ)(現神戸(こうべ)市灘区)へも出荷していました。こちらから出荷した酒が灘の酒になっていたのです。こちらで酒が造られるとタンクローリーが来て、蔵からポンプで汲(く)み上げて積んでいました。四国から兵庫へは船に積まれたタンクに積み替えられて送られていたようです。当時は酒が売れていたので製造量が多く、売り手市場で販売することができていたのですが、徐々に買い手市場へと変化してきて、買い手に、『買ってやるんだから造れ。』というようなことを言われたことがありました。このときには、造った酒を小売で販売するよりもタンクで出荷する方が単価が安くなってしまっていて、しかも買い手が値段を付けてくるので、私の所のような小さな酒造は販売収支が赤字になり、苦労をしたのです。当然、買い手の醸造元でも酒を造っているのですが、そこでできる酒は品質があまり良くないのです。そこで私の所のような小さな醸造元に品質を指定して酒を造るように言ってきていました。もちろん、品質の良い酒を造るように言われていて、『品質が合わなければ買い上げません。』とまで言われていました。買い手の醸造元が造る酒は、私の所で造った品質の良い酒を混ぜて売らないと販売できるようなものではなかったらしく、一度杜氏と買い手の蔵の見学に行ったことがあるのですが、『酒を見せて下さい。』とお願いしても結局見せてもらうことができませんでした。おそらく鉄でできた桶(おけ)を使っていたのだと思いますが、私の感覚で言わせてもらうと、鉄の桶で良い酒ができるはずがないのです。買い手の醸造元が付加価値を高めるために、こちらの品質の良い酒を安く買い取って、混ぜて灘のブランドとして販売していたということなのです。各地から集めたいろいろな酒をブレンドしていたようなので、その結果、酒が良くなっているかもしれません。良い酒を造るためのブレンドをする技術を持っているということは間違いないのですが、買い手がそのような状態だったので、タンクでの販売をやめることを決断しました。」

 (ウ)米の良し悪し

 「実は、広田で収穫されたお米だけではお酒になりませんでした。広田の米には力がなかったのです。力がないというのは、日照時間が短く、気温が足りないことから酒造りに適した米ができていないということです。実際に酒造りに使ってみると、短時間で発酵が終わってしまい、その後は発酵しませんでした。広田の農協から、地元の米を使って醸造してみてほしいという依頼が来て、使ってみたのですが良い酒はできませんでした。申し訳なく思いながら、『来年からはこらえてや。』と農協の方にお断りを入れ、翌年からは西条(さいじょう)(西条市)で収穫された米を使って醸造しました。広田の米は炊いて食べるととてもおいしいのですが、酒の原料には向いていませんでした。」

(2)くらしの記憶

 ア 山にくらす

 (ア)戦時中の思い出

 「私(Bさん)が子どものころは、食べたり食べなかったりの生活で、働くばかりの毎日でした。兄弟が8人いたので親も懸命に働いていました。学校へ行くときには、わら草履を履いて行くのですが、このわら草履を作るのは親の仕事でした。手作りのわら草履は耐久性が低く、学校へ履いて行って一日過ごし、家に帰ると破れてしまっていました。ですから、親はほぼ毎日、一生懸命に仕事をした後に私たちが履くためのわら草履を作ってくれていたのです。その後、ゴム草履が出回ったときには履いたまま足を洗うことができるので、『便利なものができたなあ。』と感心したことをよく憶えています。また、学校へ通うときにはカバンがなかったので、風呂敷に教科書を包んで通っていました。戦時中、学校では勉強よりも奉仕作業の時間が多く、『どこそこの山へ行って、炭を焼くための薪(まき)を集めろ。』とか、『炭をかるうて(背負って)山を下(お)りい。』と言われて作業をしていました。学校ではグラウンドを耕してカボチャを植えたり、イモを植えたりしていました。学校から家に帰り、『どこそこの畑に行っているから、ショイコ(オイコ)かるうて持って来い。』というような書き置きが置いてあると、すぐに行って手伝わなければなりませんでした。
 ただ、戦時中に一生懸命働くことの大切さを奉仕作業や家の手伝いで教えてもらっていたからか、学校を終えて仕事を始めてからは、仕事に対して、『しんどい。』というような思いをもつことはありませんでした。私にとってこの経験は、大きな財産だったのです。」

 (イ)山での農作業

 「私(Bさん)が生まれ育った所は山里で、田んぼが日当たりの悪い場所にあったので、収穫が少なく、野稲(陸稲)を作って食べていました(写真1-3-7参照)。このお米が本当においしく、最高の食べ物だったことを憶えています。また、食べ物がないころには、カボチャの蔓(つる)やサツマイモの蔓を食べていました。畑に施す肥料は家から下肥を運んで使っていました。樽(たる)に入れて、それをリヤカーに積んで山の上の畑まで運ぶのですが、上り坂では本当に重たく、必死になって運んでいました。」

 イ 牛の世話

 「広田にも牛がいて、農作業に使われていました。当時、久万(現久万高原町)の野尻(のじり)と松山の立花(たちばな)で牛市が開催されていたので、私(Bさん)はトラックの荷台に牛を積んで輸送する仕事をしていました。荷台に牛を積むと、牛が荷台の上で動き、中には荷台から逃げ出そうとする牛がいたので、トラックのバランスが崩れ、運転をするのがとても難しかったことを憶えています。立花まで牛を積んで運び、立花からは違う牛を積んで宇和(現西予(せいよ)市)まで運んだときには、大洲から宇和の間で雪が降り、道路に雪が積もって大変な思いをしたことがあります。朝、広田を出発してその日のうちに帰ってくる予定だったのですが、雪の影響で時間がかかってしまい、次の日の朝方に帰って来たことがあります。
 牛市には博労(ばくろう)(『馬喰』とも表記する)さんはもちろん、精肉店の方も牛を買いに来ていました。牛を飼育する農家では、そこで少しでも高く売るために牛に一生懸命に餌を与えて太らせていました。牛に水を飲ませてやったり、わらを刻んでそれにトウキビや雑穀を炊いて混ぜたものを与えたりしていました。草やわらばかりを食べさせたのでは牛に肉がつかず、大きく成長しませんでした。また、雨が降っている日でも、餌を与えるために草刈りに行かなくてはならなかったので、大変な仕事でした。牛を高く売ろうと思ったら、しっかりと世話をするということが必要だったのです。
 広田でも耕うん機が農作業に導入され始めてから徐々に牛の数が減ってきましたが、一生懸命に世話をしても高く売ることができず、採算が合わなくなってきたということも減少した理由の一つだと思います。」

 ウ 電話

 昭和30年代から40年代にかけての電話機について、AさんとCさんが次のように話してくれた。
 「昭和30年代、電話機を設置している所はまだ少なかったと思います。当時は柱に掛けて使うタイプの電話機で、本体に発電機が付いており、発電のためのレバーをクルクルと何回か回して電話をかけていました。レバーを回すと電気が起こり、郵便局にあった電話交換所に通じていました。交換所には交換手がいたので、『どこそこの何番つないで。』と、相手の番号を伝えてつないでもらっていました。」
 「交換手に『つないで。』とお願いしてしばらく待つと、『つながった』という信号が届いて通話が可能になっていました。
 電話機は柱に掛けておくものから黒電話の共同電話になりました。共同電話は一本の電話線を何軒かの家の電話が共有するものです。一本の線でつながっているので、どの電話にかかってきたものかを区別するために、呼び出しのベルが『リンリンリン。』と3回鳴ったらうちの電話、2回や4回ならよその電話というように、ベルが鳴る回数で区別をしていました。共同電話なので、電話をかけたくてもよその家で電話が使われていたらかけることができず、よその家が使っているときに受話器を上げると電話を使っている人の会話を全て聞くことが可能でした。電話機は壁掛けでレバーを回すものから卓上黒電話へ、そしてダイヤル式の黒電話へと変わっていきました。電話番号は、まず役場が1番、農協が3番、私(Cさん)の所が5番でした。昭和40年代になると、広田村でも電話を置く家庭が増えてきて、電話番号が4桁になったと思います。」

 エ 年中行事

 (ア)お神輿

 「戦時中のことになりますが、お神輿(みこし)が新調されてお祭りが盛んに行われていました。私(Aさん)が高等科1年生で、もう一つ学年が上の人たちが子ども神輿の中では一番上の年齢でした。私もこの神輿を担ぎましたし、年下の子どもたちは神輿について歩きながら、『ワッショイ、ワッショイ。』と大きな声で掛け声を出していました。」
 「神輿が各家を回って集めた御祝儀は一番上の学年の人が多く取っていたように思います。私(Bさん)が愛護班の世話をしていたときに、『もっと平等に分けたらどうか。』と提案しましたが、伝統というか、しきたりというか、長年続いてきたことなので変えることができませんでした。」

 (イ)亥の子

 「今も行われていますが、亥の子も大切な行事の一つでした。私(Bさん)らが子どものころには食べものがなく、亥の子のときの子どもの食事は、亥の子宿(亥の子の世話役の家)が提供してくれていました。当時、イモを蒸したものが出されたことを憶えていて、それが最高の食べ物のように思えて仕方ありませんでした。亥の子唄も憶えています。『お亥の子さんという人は、一で俵ふまえて、二でにっこり笑うて、三で酒を造って、四で世の中良いように、五ついつもの如くなり、六つ無病息災に』というように、私たちが子どものころには歌っていました。昔は亥の子で鳴らす音の大きさを子ども同士が競っていて、芯に竹などを入れて地面を叩(たた)いたときに大きな音が鳴るように工夫しながら、子ども自身が亥の子で使うわら縄(わら団子)を作っていました。当時は材料に必要な針金の値段が高く、容易に手に入れることができなかったので、山に生えている蔓(かずら)で代用していました。ないものは山にあるものを工夫して利用することで補う、というのが、私たちが子どものころに育んできた知恵であると言えます。」

 (ウ)盆飯

 「お盆には盆飯といって、子どもが河原に米を持ち寄ってイリコやニンジンを入れた煮込み飯(醤油(しょうゆ)飯)を炊いて自分たちで食べていました。子どもだけで河原にわらを使って囲いを作り、小屋のようにしてその中で食べていました。その日は子どもたちが川で遊んで、昼御飯を一緒に食べて、一日中遊んでから夜になると帰宅していました。自分たちで火を起こしたり、料理をしたりしていたので、何をどのようにしたら危ない、ということを子ども同士で学ぶことができる良い機会だったと思います。」

 オ 小田との行き来

 (ア)電気とランプ

 「鉱山のおかげで総津には早くから電気が導入され、ありがたい思いをしていました。総津の祭りでは裸電球の灯(あか)りが煌々(こうこう)と点いているときに、小田の祭りへ出かけると、灯油を入れて灯りをとるランプが使われていました。ただ、普段の生活では、電気料金がまだ高かったこともあり、総津でもランプで灯りをとる家庭があったと思います。電気とランプの両方をうまく使い分けて過ごしていたことを憶えています。ランプを使っていたときには、煤(すす)で火屋(ほや)が黒くなると布できれいに拭いていました。」

 (イ)小田から広田へ

 「私(Dさん)の実家では、お茶の葉を摘んだときには、両親が生葉を売るために、お茶の葉を背負って広田まで歩いて行っていたことを憶えています。また、母が私を産むときには、『父が自転車を借りて広田まで行き、産婆さんを呼んできた。』という話を聞いています。これらの話から、両親の時代から小田と広田との間には、人々の行き来があったということがよく分かります。また、小田に住んでいた私にとって、広田(総津)はとてもいい町でした。子ども心にこの町を見ると、今で言う都会でした。ここへ来たら何でも揃っていて、書店の前では、『本買って。本買って。』と立ち止まって母親にお願いしていたら、母にお尻をつねられたという思い出があります。このような良い思い出をこの町からは与えてもらっています。」


<参考文献>
・広田村『広田村誌』 1986
・角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』 1991
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』 1994


写真1-3-6 佐々木酒造

写真1-3-6 佐々木酒造

砥部町。平成27年6月撮影

写真1-3-7 山腹の住宅・畑(高市地区)

写真1-3-7 山腹の住宅・畑(高市地区)

砥部町。平成27年12月撮影