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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 林業と人々のくらし

(1) 木材の伐り出し

ア 戦時中の記憶

 「私(久保繁行さん)は8人兄弟の上から4番目で、家では両親が炭焼きをしていました。家が裕福ではなかったので、親から、『学校へ行って弟や妹の守りをせえ。』と言われていました。私たちの時代は勉強しなくてよかったので、ある意味では幸せだったのかもしれませんが、そういう生活を強いられたのです。高市(たかいち)の尋常小学校(現砥部町立高市小学校)を6年で卒業すると、広田尋常高等小学校まで8㎞の道を歩いて通いました(写真2-2-5参照)。それも今のように舗装された道ではなく、履物も戦時中のことで市販の靴などはなかったので、自分で作った草履を履いて通学していました。私の家は兄弟が多かったので、親から、『お前も大きいなったんじゃきん、履くものくらい、わが作れ(自分で作れ)。』と言われ、小学校4年生のころから、自分の草履は自分で作っていました。雨の日の通学では、歩いていると背中の腰の辺りまで泥がよく跳ねました。冬になると、親が配給でもらった地下足袋を履いて通学していましたが、自分の足には全く合っていませんでした。地下足袋で雪道を歩いて登校したときは、衣服がすねの辺りまで濡れましたが、学校にはストーブもなかったので、せめて冷え切った体を温めようと思い、友だちとつばえて(騒いで)遊んでいると、よく先生から、『静かにしとれ。』と叱られたものでした。濡れた衣服がようやく乾いたころには、午後の授業が終わって、また家に帰るということが何度かありました。戦後はモノが豊富になり、一番末の弟は普段から靴を履いており、少し古くなると、『こんな古いものを履いとる友達はおらんのじゃきん、新しいのを買うてくれ。』と親に言っていましたが、私にしてみると、『ぜいたくをぬかすな。』と感じたものでした。私が16、17歳のころ、もう戦争は終わっていましたが、食糧を確保するために、学校のグラウンドを掘り返してイモを作っていたくらいで、私と12歳も離れている一番末の弟とでは、学校での教育内容やものの考え方などが全く違いました。学生時代、私は勉強が好きな方ではありませんでしたが、成人するにしたがって勉強しなかったことに悔いが残るようになりました。終戦ころの映像資料を見ると、食糧が不足し満足に勉強もできなかった私たちの世代は、本当に暗い時代を過ごしてきたなと思う一方で、戦地で悲惨な目に遭った兵隊さんや、満州(まんしゅう)(現中国東北部)の開拓に出かけた方たちの苦労を思えば、まだ私たちは幸せだな、という気持ちが湧いてくるのです。」

イ 出仕事から林業を専業に

 「高等科を卒業した後、20歳近くまでは、家の農作業や炭焼きの手伝いをしていましたが、農業だけでは食べていけないので、私のような若い者は、出仕事(出稼ぎ)をして収入を得ていました。出仕事といえば、この辺りでは林業のほかにはありませんでした(写真2-2-6参照)。
 出仕事をしていた私が林業を専業とするようになったきっかけは、伐採した木材を運ぶワイヤーを偶然譲り受けたことでした。私がある人にお金を貸していたことがあり、その人から、『お金の代わりにワイヤーを受け取ってくれ。』と言われたのです。終戦から間もないころ、ワイヤーはまだ貴重なものであり、林業に従事している人の中には、『お前、ワイヤーを持っているんだったら、うちの山の木を出してくれや。』と頼んでくる人がいて、私は、ワイヤーを使って林業専業で生活してみようと思ったのです。当時は、林業がまずまず盛んな時代で、私も従業員を11人雇っていましたが、そのころの広田村には、そうした集団がいくつかありました。広田村でワイヤーでの木材搬出を始めたのは私が最初ではなく、鉱山(広田鉱山)で働いていた方や、玉谷(たまたに)(現砥部町)に住んでいた方の中には、私よりも早く始めていた方がおり、索道の滑車に乗って油ひきをしていたのを憶えています(図表2-2-1参照)。」

ウ 鋸での木材の伐り出し

 「私が雇っていた11人の従業員は私と同じ高市(現砥部町)に住む人で、木の伐採や搬出といった作業をしていました(図表2-2-1参照)。後にチェーンソーが普及するまでは鋸(のこぎり)で伐採し、伐採した木は、集材機という機械で集めていました。鋸は伐採する木より少し長いくらいのものを使い、切り口には矢(くさびのこと)を打ち込んで倒していました。伐倒方向に鋸を入れると、鋸が木に締め付けられて、通りが悪くなりますが、切り口に矢を打ち込んでいくと、鋸の通りが良くなるし、木が傾いて確実に反対側に倒すことができました。」

エ チェーンソーの使用

 「私が林業を専業にするようになって間もなくチェーンソーができたので、鋸で伐採していたのはそれほど長い期間ではありません。昭和26、27年(1951、52年)ころ、私は広田村で最初にチェーンソーを使用し始めました(写真2-2-7参照)。その当時、チェーンソーはまだ珍しく、単車に積んで、ガソリンスタンドに立ち寄って燃料を入れていると、スタンドの経営者が、『何を積んどるんじゃ。それは何をするもんぞ。』と聞いてきたほどでした。それまで行っていた鋸での元挽(び)き(木の根元から切り進める)は大変な重労働でしたが、チェーンソーは動力で木を伐(き)ることができるのでこれほど楽なものはなく、一度使い始めると、とても鋸を使う気にはなれませんでした。そのころの広田村では、林業で生活している人がたくさんいて、私が、『これがチェーンソーで、こうやって木を伐るんじゃ。』と言って、その人たちに見せると、何か大変な発明品を見るような好奇心に満ちた目で見ていたことを憶えています。」

オ 林業の不振

 「昭和40年代には木材の価格も下がりましたが、広田村では、私も含め、林業に従事する人がまだ多くいました。昭和40年代から50年(1975年)ころまでは、20a(約2,000㎡)から30a(約3,000㎡)くらいの、材木が大きく育っている山を売れば、普通の家庭であれば3年から5年くらいは生活ができるくらいのお金が入ってきました。ですから、当時は、まとまった山を持っている人を羨望の眼差(まなざ)しで眺めたものでしたが、現在は状況が全く違ってしまっています。山林を所有していても、木材需要は少ない上に、固定資産税や維持管理費がかかるため、若い人たちの間では、『山などはいらない。』と考える人が多いようです。私が若かったころのように、今でも林業で生活できるのであれば、広田にはまだまだ若い人たちが住むことができると思っています。」

カ 木炭の衰退

 「木炭の生産が盛んだったのは昭和40年(1965年)ころまでで、ガスの普及に伴い、次第に木炭は必要とされなくなりました。炭焼きは、父親の手伝いをしたくらいで、私が仕事として炭を焼いたことはありません。ここ10年くらいの間に、『バーべキューをするための炭が欲しい。』と言われて、自家用の炭を焼いたことはあります。一般のバーベキューをするにしても、イノシシの焼き肉をするにしてもクヌギを焼いた炭の方が火力が強いのです。」

(2) シイタケ栽培に取り組む

ア シイタケ栽培に適していた広田村

 「広田村には田んぼがそれほどなく、40年くらい前には、村の換金作物として、第一に葉タバコ、次にシイタケが位置付けられていた時期がありました(図表2-2-3参照)。
 肱川(ひじかわ)流域は、かつて『伊予切炭』として知られたクヌギ切炭の産地で、シイタケのほだ木(シイタケをその皮部から発生させるための木材)として最も良いとされるクヌギの木が豊富にありました。広田村でも、スギやヒノキ、マツ、クヌギが多く生育し、シイタケを栽培する条件を十分に備えていました(写真2-2-8参照)。また、何かほかの産業といっても、都会のように工業やサービス業などのお金になる産業が育たないので、林業に付随するシイタケ栽培が盛んになったという側面はあると思います。」

イ 高値で売れたシイタケ

 「昭和39年(1964年)ころ、広田鉱山の採掘を再開するための調査に来ていた日本鉱業の社員の方が、ある人に、『家へのお土産にしたいのでシイタケを1㎏分けてほしい。』と頼んできたそうです。その後、シイタケを渡した人が受け取った謝礼が6,000円であったと聞いて、私はびっくりしてしまいました。当時、私が従業員に支払っていた日当が1,000円であり、6日分の日当に相当したからです。その話を聞いて、それなら、自分もシイタケを作ってみようと思い立ったのです。」

ウ シイタケ栽培を始める

 「それまでは木材の伐採と搬出で生計を立てていましたが、ワイヤーのロープがクヌギ山の上を通って木材を搬出していたことがあり、そういう場合は損害賠償の対象になるということで、クヌギ山の所有者から、『何ぼでこの土地を買ってくれ。』と言われて買い取ったことがありました。クヌギ山を処分しようがないので、クヌギの木を利用して、当時、値が良かったシイタケを栽培することにしました。かなりの数の従業員を雇っていたので、『今日はあれをやってくれ、これをやってくれ。』と指示しておくと、案外簡単に作ることができました。乾燥したシイタケは、収穫が多いときであれば一つのケースで20㎏もあり、それが20ケースもあったのですから、賑やかなほど(ケースがたくさんある様子)ありました。
 シイタケを天日で乾燥させると十分に乾燥せず、商品価値が落ちてしまうので、乾燥機を使っていました(写真2-2-9参照)。乾燥機は大変高価なもので、その当時、えびら(乾燥させるシイタケを並べるトレイ)が60枚入る乾燥機が50万円くらいでしたが、今でもえびらが30枚入る乾燥機が100万円くらいはします。」

参考文献
 ・ 砥部町『砥部町誌』1978
 ・ 平凡社『愛媛県の地名』1980
 ・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)』1983
 ・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』1984
 ・ 広田村『広田村誌』1986
 ・ 中国四国農政局愛媛統計情報事務所松山出張所『広田村の農林業』1990
 ・ 旺文社『愛媛県風土記』1991
 ・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
 ・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門
      『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
 ・ 広田村『ひろたむら』
 ・ 広田村『広報ひろたむら』


写真2-2-5 現在の高市小学校

写真2-2-5 現在の高市小学校


図表2-2-3 旧広田村の葉タバコとシイタケの作付面積・収穫量

図表2-2-3 旧広田村の葉タバコとシイタケの作付面積・収穫量