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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第3節 満穂鉱山の記憶

 砥部(とべ)町における金属鉱山の歴史をみると、旧砥部町の地域においては藩政期に大洲(おおず)藩が運営した若山(わかやま)鉱山で銅が、万年(まんねん)鉱山などでアンチモンが採掘されていた。明治維新後の殖産興業政策により鉱山開発が進められるとともに、欧米の進んだ技術が取り入れられ、鉱業の発展がみられた。終戦後、経済復興を目指して鉱山が活況を呈し、優量(ゆうりょう)鉱山や銚子ヶ滝(ちょうしがたき)鉱山では硫化鉄が、弘法師(こうぼうし)鉱山や万年鉱山ではアンチモンが盛んに採掘されるようになった。
 一方、旧広田(ひろた)村では、明治時代の末から広田鉱山で銅や硫化鉄の採掘が開始されるが、昭和5年(1930年)、国際的な経済状況の悪化の影響を受けて採掘中止となった。その後、太平洋戦争による金属増産の必要から昭和18年(1943年)に採掘を再開し、戦況の悪化に伴い間もなく下火となるものの、終戦後の昭和26年(1951年)に探鉱を再開している。
 また、満穂(みつほ)では終戦後の昭和23年(1948年)ころから、住友が経営する満穂鉱山で黄銅鉱の採掘が始められた。所長をはじめ事務職員は住友の社員であったが、鉱夫として働く男性や選鉱場で働く女性のほとんどが地元の人で占められていたという。
 当時の満穂鉱山での仕事の様子や満穂(篠谷(しのたに))でのくらしについて、昭和27年(1952年)から約3年間、鉱山での仕事に従事していたAさん(昭和10年生まれ)から話を聞いた。