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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)今や昔、牛馬祭り

 越智郡玉川町の南部に位置する標高1,042mの楢原(ならばら)山には、山頂に奈良原(ならばら)神社(明治維新前は奈良原権現と称した)があり、古くから山岳信仰の地としてあがめられていたが、近世になって南北朝時代の南朝方の長慶(ちょうけい)天皇(1343~94年)がウシの背に乗って入山されたという伝承から牛馬の守護神としても近郷農民の間に信仰されるようになった(⑨)。
 『国府叢書』によると、奈良原神社の別当寺(べっとうじ)(*24)であった光林寺(こうりんじ)(写真1-1-27参照)の住職光範(こうはん)(生年不詳~1710年)が、しばしば雨乞祈祷(あまごいきとう)を行い霊験があったので、今治藩及び松山藩の藩主より同社牛馬安全の守り札を配布することが許されたとある(⑬)。
 また光範は、牛馬の講(こう)(*25)を立案したともいわれ、明治維新の際の神仏分離政策以前には、講はすべて光林寺によって運営され、組織化が大いにすすんだものとみられている。その後、明治19年(1886年)ころから光林寺は繁栄講社を発足させ、大正時代に萬民耕作家畜繁栄講、昭和の時代に入って奈良原大権現繁栄講と改称されていった。
 一方、奈良原神社は、寺とは別に昭和5年(1930年)ころに奈良原講を結成して、双方が拡大に力を入れた結果、最盛期を迎えた昭和30年代には約400の講があったという(⑧)。
 なお、奈良原神社の『講社社規』によると、講は原則として10人で組織され、旧暦の8月の丑(うし)と午(うま)の日(*26)を例祭日として、講員に対して萬福(まんぷく)、繁栄、家内及び牛馬安全の祈願を行い、代参者に木札とお神酒を授けるとある。
 講の分布は、新居浜市・西条市・周桑郡・今治市・越智郡・北条市・松山市・温泉郡・上浮穴郡・伊予市・伊予郡などに広がっていたが、昭和30年代後半になって農業機械の普及が進むと、牛馬を飼育する農家も急速に減少して講も廃れて、現在は、祭日にごく少数の者が参拝に訪れているにすぎない。

 ア 光林寺の牛馬祭り

 **さん(越智郡玉川町畑寺 昭和2年生まれ 72歳)
 光林寺の近くに住み、寺総代も務めたことのある**さんに牛馬祭りの思い出を語ってもらった。
 「この光林寺の縁日(えんにち)(*27)は、旧暦8月の丑・午の日に行われていたんですが、最初の丑か午の日に行ってから三番目までの丑か午の日まで行っていました。特に最初の縁日には、朝の7時ころから夕方の明るいうちまで参道はお参りに行く人や帰る人でいっぱいでした。仁王門から寺までの参道にはずっと出店も続いて、お化け屋敷などの興行師が必ず来ていました。田舎力士も草相撲を取っていました。昔はお寺の横の山で競馬もあったと聞いているんです。ちょうどこの時期は、イネの中干し(イネの成長を助けるために、分けつの発生が峠をこえたころに、一定の期間、田の水を抜いて地面を乾かすこと)のころで、農家はちょっと一息つくころなんです。当時の農家は原動力いうたらウシやウマでしたから、この光林寺はその神さんということで、縁日には、農家の人が方々から大勢来てたんです。馬喰(ばくろう)さん(牛馬の仲買人)も大勢お参りに来てました。自分の商売に関係する祭りですから、お賽銭(さいせん)なんかもたくさん投げていました。
 この光林寺の縁日は牛馬のお祭りだったんで、ウマに乗って来る人も大勢いたんです。お寺の上にある白山(はくさん)神社の敷地のところに少し広い平地があり、そこらにウマのええつなぎ場があって、サクラなんかの雑木にずっとウマがつながれていたのを覚えています。
 ウマは農耕馬でしたが、乗って来るようなウマはええ(よい)ウマで、前々からええもんを食わして祭りの前日にブラシで磨きをかけて、奇麗にしていました。ウマが通ると皆が『こりゃあええウマじゃのう。』と言うて寄ってきて、ウマの自慢話などをしていました。そのころは、ウマを飼っている家でしたら農耕用と乗馬用の鞍は両方持っていたので、ちょっと親類の所に行くのもほとんどの者がウマに乗って行っていました。わたしの家でも、昭和37年(1962年)ころまではウマを飼っとりましたが、当時はウシやウマがいなかったら生活できなかったし、立派な牛馬を持つほど仕事が楽だったんで、そりゃあウシやウマは大事にしたもんです。縁日には必ずお札を買って帰り、ウマの首に付けたり、駄屋(だや)(ウシやウマを飼う建物)の柱に張り付けたりしていました。
 参拝の人は、どうしても遠方になるとお参りに来るのが大変なんで、個人ではなくて10人くらいの仲間で講を作って、毎年その内の代表の一人が来ていました。講は、地元でできる場合もあるんですが、普通は自然発生的にできるもんではないんです。そこで、ここの寺総代の連中は、何人かのグループになって、何年かに一度は講の切れるころあいを見計らってむらの代表になるような人を訪ねて行き、講を作ってもらうようにお願いに行っていました。講仲間の代表がお参りに来て、『どこそこの何人のグループです。』と言うてお印のもの(お金)を持って来ると、その人にお札を渡して、『まあーどうぞ。』と言うて本堂に上がってもろうて、檀家(だんか)の者が握り飯とちょっとした煮付けや酒を出して賄い(お接待)をしてあげてました。当時は自動車のないころで、遠方から自転車に乗ったり、歩いたりしてわざわざお参りに来たんです。講がはやるということは、寺にとっては威厳を保つことにも、収入にもなったし、むらのもん(村の人)にとっても、賄いすることは、信仰にもつながるし、年に一度の楽しみでもあったんです。
 賄いの準備は3曰くらい前からしないと間に合わなかったんです。準備には光林寺の各檀家総代の家のもん(家族)が来ていましたが、その他に特別の腕(技術)を持った人も雇って、掃除から始まって、境内に石を拾うてきてカマドを築き、風呂釜(ふろがま)くらいの大きな釜を据えて飯を炊いて握り飯を作ったり、大きな魚を三枚に下ろして料理したりしていろいろと支度したもんです。
 若いし(若者)は、この畑寺地区でも20人以上はおりましたが、お参りに来る人の自転車を預かったり、その隣でおでんを売ったり、土俵を作って力士が来て相撲を取るのをお世話したりしてたんです。おでんは前の晩から寝ずに仕込んだりしてました。また、若いしは、各家から縁台を借りて来て、それを一つずつ並べてちょっとした日覆いの小屋を作り、露店として、店の割り振りもしていました。祭りの当日に、来た人の順番にお店の場所を配分していましたら、野師(やし)(*28)がいろいろ言うて来て、もめごとが起こったりしたこともあったんです。わたしら若いしは、自転車の預かり賃やおでんの売り上げなどを貯め込んでおいて、別府(べっぷ)(大分県別府温泉)などに遊びに行くのが一つの楽しみだったんです。
 この光林寺の縁日にお参りに来る人は、楢原山に牛馬の神さんが祀ってあるけど、この寺にも楢原山の神さんをお祀りしているんだと言うて、この寺でも十分御利益があるという気持ちでお参りに来ていたんです。この光林寺にお参りに来た人は、ついでに上の白山神社にもお参りしてました(写真1-1-29参照)。わたしが青年のころは、楢原山の山頂の奈良原神社でもお祭りがあって、楢原山の奈良原神社にお参りして帰りに光林寺にお参りをしていた元気な人がぼつぼつおりました。
 この牛馬の祭りは、太平洋戦争中も細々と続けていましたが、戦争が終わってから昭和30年(1955年)代ころまでは本当に盛んでした。しかし、この祭りも、農機具が普及してここら辺でウシやウマを飼ってる人がいなくなると、次第に廃れてしまって、最近は全然なくなってしまったんです。わたしも7年ぐらい前に寺総代をしましたが、いつが牛馬のお祭りだったか知らんくらいでした。」

 イ 奈良原神社の牛馬祭り

 **さん(今治市常盤町 昭和11年生まれ 63歳)
 奈良原神社の氏子として青年時代に祭りにかかわり、現在も神社総代を務めている**さんに、昭和30年ころの牛馬祭りの様子を聞いた。
 「楢原山(奈良原神社)の牛馬祭りは、明治維新で神仏分離令が出されるまでは、光林寺が執り行い、住職さんが山に上がって行っていたんですが、それ以後は、奈良原神社の宮司が山に上がるようになって祭りを行うようになったんです。
 奈良原神社の方では、旧暦の8月の丑・午の日は全部祭りをしていました。多い年は5回くらいはあったんではないですか。そのうち参拝者が多かったのは、1回目と2回目くらいでした。参拝者は、手近に済まそうと思う方が光林寺の方にお参りし、高い所にあるが、お山に歩いて上がろうという方は奈良原神社にお参りしたんじゃないかと思います。玉川町大野(おおの)にある奈良原神社の社務所でもお参りできるようになっていて、身体の具合が悪くて山に上がれないような人は社務所でお参りを済ませていました。
 奈良原神社にお参りする参道は幾つかありました。温泉郡の方は水ケ峠(みずがとうげ)を越えて、周桑郡の方は朝倉村から千疋峠(せんびきとうげ)を越えて来ていましたし、越智郡の方はこの木地(きじ)集落を通ってお山に上がっていたんです。また、周桑郡の山手の方は黒谷を越えて上木地に出て、そこから上がっていたんです。山に上がるのには、下木地からでも1時間半から2時間はかかったんで、遠い人はおそらく暗いうちから家を出て、暗くなって家に帰るという人が多かったんではないでしょうか。また、ツヤド(通夜宿)と言うて境内の入り口と頂上に2か所泊まる所があって、前日から多い時で15人くらいは泊まっていました。なかには一泊してから朝帰る人もいました。頂上は冷えるんで氏子の者がお酒ぐらいは差し入れていました。宮司さんも、前日に大野から自転車で下木地まで来て、そこから歩いて山に上がり、いろいろと準備して本殿の方で一人で寝ておられました。
 奈良原神社の氏子はこの木地集落だけだったんです。この木地集落は、明治時代には80軒ほど家があったと聞いていますが、昭和30年(1955年)代は50軒前後でした。今(平成11年)は一人だけ別荘を建てていますが、定住者はゼロです。わたしも今治市からここの養魚場に通って来ているんです。
 縁日が近づくと、むらの者が全部出て参道の草刈りをし、旧暦の8月の丑・午のお祭りの日には、下木地、中木地、上木地の各集落から二人ずつ世話人を出して、縁日ごとに山に上がって参拝者のお世話をしていたんです。世話人は交代で6人は毎回上がっていました。
 祭り当日の世話人の仕事は、年寄りは主にお講参りの人の世話をしていました。温泉郡や周桑郡、越智郡などからお参りに来た講の代参者に、神酒2合(1合は0.18ℓ)くらいとくずしなどの肴(さかな)を出して、お世話をしていたんです。わたしら若いもんは、雑用係で主に水くみをしていました。山頂には水がないんです。境内の一番下のとこにちょっとしたわき水があって、そこから天秤棒(てんびんぼう)で担って水を運んだんです。子供なんかも来て水をガブガブ飲むもんですからすぐに水がなくなるんです。水くみ場からの上り下りで約1時間くらいはかかりました。それを交代でしてましたが、一人で1日に2、3回水くみをするのは大変でした。
 祭りの当日は、参拝者がひっきりなしに上がってきて、かなりの参拝者が来てました(写真1-1-30参照)。講の代参者だけでなく、個人の方や学校の遠足で子供も大勢来てました。板状のあめなどを売る店なんかもあって、境内や参道は結構にぎわっていました。しかし、そのうちに耕運機が発達して牛馬を飼わなくなってからは、この祭りも自然に消滅していったんです。
 この木地集落の最後の住人も昭和43年(1968年)には出ていってしまって、ここにはだれもいなくなったんです。それで神さんだけここに置いとくのはいかんと言うので、昭和45年ころに今治市の別宮大山祇(べっくおおやまずみ)神社に境内社を建立し、分霊を祀っているんです。
 今も登山としてかなりの人が山に上がってくれてますが、お参りで上がる人はいません。現在、わたしは神社総代をさしてもらっていますが、来年(平成12年)に道路ができれば直接楢原山の頂上まで自動車で登れるようになるんで、小さくても神社を建てようかという話にはなっているんです。」


*24:神社に付属して置かれた寺院。
*25:神社、仏閣への参拝や奉加、寄進などをする目的でつくられた信者の団体。
*26:十二支の一つでその二番目と七番目。これを動物にあてると丑は牛、午は馬になる。
*27:神仏のこの世に縁のあるとする日。その日に参詣すると特別の功徳があるという。
*28:街頭や、縁日・祭りなど人出の多い所で、見世物を興業したり、露店で安い品物を売ったりする人。

写真1-1-27 光林寺

写真1-1-27 光林寺

平成11年5月撮影

写真1-1-29 白山神社より楢原山を望む

写真1-1-29 白山神社より楢原山を望む

幟の下は光林寺。平成11年5月撮影

写真1-1-30 奈良原神社の掛け軸

写真1-1-30 奈良原神社の掛け軸

お参りに来た人々が購入して床の間などに飾った。平成11年9月撮影