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愛媛の祭り(平成11年度)

(3)実り豊かに

 秋になると弓削町は、豊作を祝う祭り一色になる。秋祭りは、以前は下弓削は9月半ば、上弓削・佐島は10月半ばだったが、現在は10月に集中して行われるようになった。弓削町の秋祭りの特徴は、小さな島にもかかわらず、全地域で統一した祭りがなく、上弓削・下弓削・佐島の3地区で、それぞれ独自の祭りを行っている点である。さらに小さな地域で独自の祭りを行っている所もある。そこで、ここでは各地区ごとに分けて秋祭りの話を聞いた。

 ア 上弓削地区の秋祭り

 **さん(越智郡弓削町久司浦 昭和19年生まれ 55歳)
 **さん(越智郡弓削町上弓削 大正11年生まれ 77歳)
 上弓削地区は、上弓削・久司浦(くじら)・沢津(さわず)の各地域からだんじりが1台ずつ、上弓削から神輿(みこし)が1台出て高浜(たかはま)神社に集まる。この地区は、上弓削と久司浦とのだんじりによるけんか祭りに特色がある。
 長い間、秋祭りの活性化に努力してきた**さんと、高浜神社の世話役を30年間してきた**さんに、上弓削地区の秋祭りの再興と現在の祭りの様子を聞いた。

 (ア)祭りの再興

 「(**さん)日本の景気が上向き、造船も盛んになり、大人が忙しくなると、弓削町の秋祭りも祭りの日だけはわいわいするが、祭りの準備や子供の世話はしないというようになりました。また弓削町では昭和31年(1956年)に、青年団が島全体で統一されて、小さな地域ではその地域の面倒を見る青年団がなくなり、徐々に祭りが廃れていきました。我々の子供のころは、だんじりに乗れる年になると、だんじり子供と言われ太鼓の練習、祭りの準備などを大人が指導してくれていました。しかし、そうしたことも失われていました。我々が祭りを再興させようと思って祭りの練習に出ると子供たちは、『このおじさんは何をしに来たのか。』と不思議がっていました。自分たちが今まで何も世話をされてないので戸惑っていたんです。
 それで久司浦では、昭和46年(1971年)ころから、このままじゃあ、祭りもだんだん成り立たなくなるという危機感がありました。若者も『この地域には何にもないのでおもしろくない。』と言うし、また生まれたばかりのわたしの息子に、将来久司浦に住んでもしょうがないと言われたくないという思いで、祭りだけでも何とかしようということになりました。そこで我々自身がまず行動しようということになり、地区代表の方に、祭りを再興する要望書を出しました。すると、その方も一緒に協力してくれることになりました。それからは、毎年だんじりも作り替えていったり、海上渡御(とぎょ)といった何10年も行われていなかった行事なども掘り起こしていくなどして、祭りを再興していきました。すると、だんだんと人も物も集まるようになり、今では昔のようなにぎやかな祭りの状態に戻っています。」

 (イ)けんか祭り

 「(**さん)上弓削の祭りそのものは、けんか(だんじりの鉢合わせ)祭りです(写真1-2-6参照)。けんかがなければお祭りは済みません。わたしが小さいころ、だんじりに乗って太鼓をたたいていたころですから、もう60年も70年も前になりますが、すべてだんじりのけんかなんです。そのかき棒が折れるまでするというけんかが、本来の伝統的なお祭りの行事なんです。沢津は30軒くらいしかないので、けんかをするのは上弓削のだんじりと久司浦のだんじりです。普段の日は、やあやあと声を掛け合って仲がいいんですが、お祭りとなると、けんかになるんです。酒の勢いというよりも伝統ですね。とにかく、かき棒の1本、神輿の欄干(らんかん)の片側くらいが壊れんと収まりがつかんというのがいまだにずうっと続いています。
 けが人はあまりでません。今は弓削町民全員に、各種行事の際の災害保険をかけています。最近はけんかを防ぐために、祭りの時間を朝の8時から夕方の5時というように決めてしまいました。日が暮れると殺気立って駄目なんです。
 祭りの当日は、上弓削のだんじりが神社で久司浦のだんじりが来るのを待つわけです。昔は大雨が降ると道が通れなくなるんですが、そんなときは船でやってきていました。それをお宮の砂浜で上弓削のだんじりが待つのです。上がって来るところを海の中でけんかをするんです。かき棒が折られたら山に行って、ヒノキの木を夕方までに切って来て、また作るんです。そして朝のかたきを晩に討つんです。今はかき棒も長くなって14mにもなっています。ボンデン(*9)の棒を振る頭取(責任者)がいますが、頭取も興奮してその棒の振り方が、止めと振っているのか、行けと振っているのかよく分からないような振り方になるわけなんです。」

 (ウ)祭りの運営

 「(**さん)上弓削地区の祭りは伝統があります。祭りの期間は、10月13日から17日までというのが、昔から戦時中(太平洋戦争中)を通して行っていた日にちです。終戦後から神風(*10)が吹くというような考え方もなくなり、神さんを中心に考えるのではなく、人間の都合を考えるようになり、祭りの期間は、以前の祭りの期間に近い日曜日を挟んだ三日間ということになりました。小さな地域は上弓削・下弓削・佐島の大きな三つの地区の日にちに合わせていくようになりました。15日が日曜日であれば上弓削地区は14、15、16日が祭りとなります。よそから帰って来る人は、15日に近い日曜日に帰るということでまず間違いがなく、計画も立てやすくなります。
 今はお祭りの役をする人が、地区の組長含めて80名くらいいます。その人たちが、神輿かきから道具持ち、ごちそうを作る人などの役割分担をします。役員80名の半分は来年も役をするので、神輿かきはその中から12名を決めます。道具持ちは、皆さんにくじを引いてもらっています。80人のうちの30人くらいは行列に参加します。面や刀や弓矢を持った人が歩いたり、小学校1年生くらいの化粧をして冠をかぶった稚児さんが歩くという行列です。
 昔は、当屋に当たった家で役員のごちそうを全部作っていました。家が小さければ隣を借りて、それぞれの家でごちそうを作り、それぞれの家で食べてもらっていました。しかし、だんだんとしんどい(疲れる)ことはもうできない、ということで、今は集会所とか会堂とかに集まってもらって、折り詰めを作って、皆さんに振る舞うということにしています。当屋の仕事は、神主・地区長・宮総代ら4、5人に家に来てもらって神さんを迎えて拝んでもらうだけです。後は全部集会所でするから、誰がしてもまずできるということなんです。
 だんじりと神輿をかく人数は、上弓削から6、久司浦から3、沢津から1という割合になっています。この割合はすべてに適用されます。わたしが子供のときもそうでした。お金を出すのも人を出すのも昔からすべてこの割合です。いまだにこれに対して文句をいう地域はないんです。最近、高浜神社の拝殿・社務所・神輿小屋と、次から次へと屋根のふき替えをしましたが、これらの代金はすべて6対3対1としました。これは人口の割合が、昔からほとんど変わっていないからできることなんです。昔から上弓削がおよそ200軒、久司浦が120軒、沢津が30軒くらいです。」

 (エ)祭りに対する思い

 「(**さん)伝統的なものは続けていくようにするのが、地区の役員なり宮総代の責任だと思います。やはり、にぎやかで一番いいのが地元の祭りです。西条のだんじりや新居浜の太鼓台なんか見たら、相当な金をかけたものだし、それはいいなあと思うけれど、知った人が一人もいないし、しょせんよそのお祭りですわ。そりゃあ、自分とこの祭りが一番です。お父さんが頑張って神輿をかいているとか、隣りの子が太鼓をたたいているというようなのがやっぱり郷土の祭りでしょう。顔見知りの人がかき、顔見知りの人が見に来てくれると、神輿をかく力も出てくるというもんです。
 わたしらの子供のころは、お祭りのために一生懸命頑張っていました。太鼓をたたく棒は本番ではキリの軽い棒なんですが、練習するときはマツの重い棒です。重いし、手は汚れるしで大変でしたが、お祭りに太鼓がたたけるという喜びで頑張っていました。そしてお祭りが終わったら、『ああ、よかった。』で済んでいました。ところが、今ごろの子はお祭りが終わったら、どこかへ1泊旅行に連れて行かないかん。お祭りへ参加するようになにかで釣らないかん、というような時代になってしまいました。」

 イ 下弓削地区の秋祭り

 **さん(越智郡弓削町日比  昭和20年生まれ 54歳)
 **さん(越智郡弓削町引野  昭和8年生まれ 66歳)
 **さん(越智郡弓削町下弓削 昭和3年生まれ 71歳)
 **さん(越智郡弓削町下弓削 昭和12年生まれ 62歳)
 **さん(越智郡弓削町狩尾  昭和9年生まれ 65歳)
 **さん(越智郡弓削町狩尾  昭和19年生まれ 55歳)
 **さん(越智郡弓削町土生  昭和2年生まれ 72歳)
 下弓削地区は、だんじり、神輿、引きだんじり(綱を付けてみんなで引っぱるだんじり)、奴(やっこ)(*11)(中学生が主)、樽(たる)神輿(小学生がかく)など華やかな出し物でにぎわう。昭和49年(1974年)からは小学生による奉納相撲も行われている。
 **さんは昨年まで10年間、弓削神社(写真1-2-8参照)の祭典委員と奉納相撲の委員長をしていた。現在は顧問として祭りの発展に努力している。**さんは宮総代を8年間務めた経験がある。**さんは、弓削神社の祭典委員や氏子総代を10年以上務めている。**さんは、弓削神社の祭典委員長を26年間務めた。**さんは地区長をしている。**さんは狩尾(かりょお)地区の世話役を10年以上してきた。**さんは3年前から宮総代をしている。いずれも祭りが大好きな人たちである。皆さんに下弓削地区の祭りについて話を聞いた。

 (ア)祭りの運営の工夫

 「(**さん)人口の減少と、若手が少ないなかでどう祭りを盛り上げていくかということで、平成9年に新役員名簿を作りました。杜家(とうや)、神輿、だんじり、引きだんじり、奴、相撲の各部会の役員を決めました。これは世代交代の時期にきていまして、わたしら古手は顧問になり若手に譲ろうということです。祭りの日程は、以前は土、日、月曜日でしたが、最近は土、日曜日が休みの会社が増えてきたことと、第二、第四の土曜日が学校の休みになったことで、昨年度(平成10年度)から、月曜日をなくして第四の土、日曜日にかけて、金、土、日曜日の三日間に祭りをするようになりました。
 祭りは費用もかかるので、寄付を募っています。寄付も人口の減少により減っています。下弓削地区では、寄付の金額を書いてみんなに分かるように張り出します。
 祭りの運営で、知恵を絞らないといけないのは、だんだんと子供の数が減っていることです。調べてみると下弓削地区では、平成9年に中学生が55人、小学校6年生が17人だったのが、平成12年には中学生が35人、小学校6年生が13人、平成13年で中学生が31人、小学校6年生が6人、平成14年になれば、中学生が27人、小学校6年生が17人になる予定です。このようにお祭りに参加する人数がだんだんと減っていきます。それで、今後は奴も女子に参加協力してもらい、子供神輿(樽神輿)は女子にしてもらおうと思っています。
 わたしは終戦の時の生まれで、食べ物も十分なく、すき焼きを食べるのは祭りと盆と正月とだけという時代に育っています。祭りがくれば肉を食べることができる、にぎり飯を食べることができる、お菓子も食べることができるということで、楽しみでしたし、人を呼んだり、呼ばれたりしてにぎやかでした。そういう思いが最近はだんだんとなくなりました。時代の変化ですかね。」

 (イ)地域の独自性を守って

 下弓削地区は今もなお、引野(ひきの)・明神(みょうじん)、狩尾(かりょお)、土生(はぶ)、下弓削の各地域において独自の祭りを行っている。それぞれの地域の祭りについて話を聞いた。

   a 引野・明神

 **さんになぜ小さな地域で独自のお祭りをするのかを聞いた。
 「(**さん)小さな地域で独自の祭りを行っていて、上弓削地区で一つ、下弓削地区で一つというふうにはまとまりません。これは、先祖が昔から小さくても自分の地区だけで独立して、お祭りをしてきたのを、他の地域とまとめて一緒にしたんじゃあ、自分たちの独自性がなくなるという独立精神がおう盛であるからだと思います。引野・明神も人が少なくなってきました。しかし、それでもなんとか力を出してしよう、よそと同じようにしたんじゃあおもしろくない、昔ながらの我が集落の祭りの形態を守っていこうという気風があります。
 島の中のそれぞれの地区は、江戸時代くらいまでは自立ができないので、船で外へ出て、各集落ごとに交易を行っていました。それで、横のつながりがなくても独自に生活ができたのです。また、道が狭く行き来が不便なので、それぞれの地域で、自分たちを守る独自の神社を持ちたかったのではないでしょうか。
 弓削神社の祭りに参加して、もうそれで終わればいいのに、自分たちの地域は自分たちでまた別にするという形式が、太平洋戦争前そして終戦後から今までずっと続いてきました。祭りの日は、昔は10月21、22日と決まっていましたが、今は相談して日程を決めます。著(ちゃく)神社で宮出し、宮入りをします(写真1-2-9参照)。
 奴(やっこ)を踏み(奴がゆっくりと歩くこと)、だんじりの太鼓をたたく、そしてだんじりを担ぐ。その節目節目で自分の精神的成長が図られたと思います。夜、奴の練習に行くと言うと親も黙認してくれました。夜になっても集会所に子供である自分がおれるということは、自分も大人として精神的にも認めてくれているんだなあと思いました。今の時代の方が何でも昔よりよくなったといいますが、昔も悪くなかったと思います。
 祭りの役などを引き受けるに従い、やはり祭りが一番いいもんだなあと思うようになりました。これはやはり、小中学校の時に奴を踏んだり、だんじりに乗って太鼓をたたいたりしたのが、原点として残っているためではないかと思います。少年時代に先輩から怒られたり、無理やり指図されたりして、走り回りました。当時は非常につらく思いましたが、それが今では懐かしく思い出されます。わたしの祭りの原点はこんな昔の思いなので、このような祭りが廃れないように、なんとかしなくてはと思います。60歳を過ぎても太鼓が鳴りだすと血が騒ぎます。子供の時に染み付いたものは大切なもので心の原点を支えています。」

   b 狩尾

 **さんと**さんに下弓削地区の北東部にある狩尾に伝わる独特の行者講(ぎょうじゃこう)と秋祭りについての話を聞きまとめた。
 「狩尾では行者講というのを、1月、5月、9月に1回ずつ各家庭で行っていました。これは、昔、行者(山野において霊験を得る修業をしている人)さんに各家庭を回ってもらい、行者さんの霊力を分けてもらって健康とか、家内安全を祈願するという行事です。やがて行者は来なくなり、今は集会所で1月、5月、10月(祭りが終わった後)に行っています。今もしているのは狩尾だけです。
 狩尾では秋祭りの1週間前に当屋が、神社や鳥居に付けるしめ縄を編み、担いで山ノ神(やまのかみ)神社へ行き、新しく付け替え、掃除などの祭りの準備をします。夜殿祭(よどのさい)(*12)や直会(なおらい)も行います。上弓削、下弓削の祭りの時には、狩尾は上狩尾、下狩尾の二つに分かれて祭りに参加しますが、山ノ神神社の祭りの時には一つになります。本祭りの時には、下弓削と上弓削の二人の神主さんを呼びます。」

   c 土生

 下弓削地区の西部に土生(はぶ)がある。この地区も独自の祭りを行っている。**さんに土生の秋祭りについて話を聞いた。
 「土生は小さな集落ですが、それでも今も土生だけで祭りをしています。小さいが来名戸(くなと)神社もあります。神主さんは弓削神社の神主さんが兼任しています。5年くらい前に子供神輿を作りましたが、大きな神輿はありません。ちょっとした道具持ち程度の行列があります。行列の先頭は塩まきといって、竹筒の塩をササの葉でまいて道を清めます。それから神社旗、太鼓、刀、杖(つえ)、面と道具持ちが続きます。神主さんは一番後ろにいます。お宮からできるだけいろいろな地域を通って杜家(とうや)さんの所まで行きます。そして、その家で酒宴をしてまたお宮に帰って行きます。昔は、どの家の玄関先にも御神燈(ごしんとう)と書かれた1m大のちょうちんがつられていたものでした。しかし、今ではちょうちんをつるしている家の方が珍しくなりました。わたしの子供のころは、下弓削の方からもどんどん祭りに参加していました。しかしその後は、だんだんと見に来る人も減ってきています。
 杜家に当たった家は神様に来てもらえると思い、昔は各家それぞれが、うちに神様を呼ぼうとくじ引きをしていました。しかし、今はどこか杜家をしてくれんかと頼まないけないようになってしまいました。
 土生は10月9日が何曜日であろうその日に祭りをします。それで『くんちまつり』といいます。朝の10時くらいから昼の3時くらいまでします。その日が学校がある日だったら子供らは登校して家にいません。ましてや今、小さな子が少ないから大変です。子供がいないから昔の趣と全然違います。それで、今はお宮に子供を呼ぶために9日の祭りの前の日の夜に、昔とは違った工夫をしています。夜店を出したり、もちをついたり、もち投げをしたり、太鼓の演奏をしたりというような工夫です。それで、最近前日のイベントに子供の参加が少しずつ増えだしました。」

   d 下弓削

 **さんと**さんに下弓削の祭りについて話を聞いた。
 「(**さん)祭りの初日は、朝7時から氏まいり(氏子が神社にお参りする)があります。10時から祭りの神事である大祭式があります。夜の7時からは、神様が神殿を出る儀式の夜殿祭が行われます。夜殿祭だけは明日無事にお祭りができますようにと、バチをたたく子、奴を踏む子、だんじりに乗る子も拝殿に行って座らせています。これらの子供の人数は多く、拝殿がいっぱいになります。一般の人は来ません。
 二日目は、まずだんじりがお旅所の方から神輿を迎えに行きます。そして時間がくると神輿が宮から出ます(宮出し)。そして浜へ行って神輿を清めます。次に行列がお旅所へ行くんですが、まずだんじりが先に行きます。次に奴(大体16人)、それから神様のお道具持ち(弓矢やちょうちん持ちが27人くらい)、神輿、神主、氏子、総代さんらという順番で行きます。下弓削には、少し小さいですが、引きだんじりもあります。沿道でみんなが特に奴に拍手をします。朝立って昼に休んで、宮入りへの出発は午後の2時からです。お旅所から今度は神社に向けて出発します。大体5時半くらいには宮入りします。
 三日目は、朝の10時からだんじりが神社へ行って、秋の例大祭が無事に終わったという宮座式を行います。役員がお宮の拝殿に座って、2升酒を置いて、かわらけ(素焼きの杯)を回してお酒を飲みます。宮座式が終わりだんじりが境内を出たら幟(のぼり)を下ろしていきます。」
 「(**さん)昔の祭りは各地区で形態が違っていました。下弓削の祭りは神輿が3台いて、暴れ神輿でした。他の地区は暴れ神輿ではありません。だから他の地区とは一緒にはできません。わたしは小さいときから父親に、地域の行事とか祭りの仕方を教えてもらっていました。そしてそれをノートに取っていました。それでやはり、昔のことは引き継いでいきたいなと思います。しかし、世の中がだんだん変わってきて、祭りがいつまで続くかなとは思います。
 昔は奴は大人がしていましたが、神輿とけんかしてしょうがないので、子供がするようになったと、わたしの父親(明治10年生まれ)から聞きました。また昔は、神輿をかく人の家へ、烏帽子(えぼし)(*13)を持って行きました。神輿が出る前には太田の方では塩をまく儀式をしていました。『家を出て行く時には、必ず棟を見て出て行きなさい。』ということも聞きました。そうじゃあないとまた家に帰れないということです。また、わたしの子供のころ(昭和10年代)には、太田の子供は奴を踏んでもだんじりに乗っても、ある程度のお金をくれていました。わたしが奴を踏んだ時には、70銭もらいました。だんじりに乗った時には、花代として1円50銭もらいました。しかし、お祭りの時にもらう小遣いは、多いときで10銭でしたので、花代をもらっても半分は親に取られていました。その代わり、祭りには白いゴム足袋(たび)を買ってくれたし、ズボンも買ってくれました。だから祭りには喜んで参加していました。祭りは何かいいかというと、結局は故郷はいいなあということになると思います。」

 (ウ)絶やすな祭り

 「(**さん)地域でいろいろなもめごとがあっても、祭りになるとみんな祭りだけに集中し、他のものは問題ではなくなります。とにかく祭りはしなくてはいかん、できたら伝統行事をなんとか残していきたいという思いが強い。ではどのようにして残していったらよいかということです。わたしの子供のころは朝の2、3時から太鼓をたたいていましたが、今は、うるさいと言われるので7時ころからになりました。そういう苦情を言うのは、40歳以下の若い人に多いんです。今の若い親も祭りへの関心度が低くなってきています。子供たち自身が、早朝に太鼓たたきの練習をするというと『そんな朝早くは眠たい。』と言います。子供も変わってきました。昔の子供は積極的に祭りに参加したいと思っていましたが、今の子供は祭りに参加するのを義務のように感じています。しかし、今の子供でも今年は出ないといかんということで出すと、案外『よかった。』と言います。いざ出すと積極的になります。これからは、ここらあたりのことを上手にしなければいけないと思います。昔の子供は、上の人に『そのバチのたたき方は駄目だ。』と厳しくしかられたり、『もうせいでも(しなくても)いい。』と言われたら、屈辱を感じましてね、『ようし、それなら先輩の言うとおりにしよう。』と必死で練習をしていましたが、今の子は、『ここが駄目じゃあ。』と言って、『僕やめるか。』と聞くと、『僕やめる。』と言います。するとメンバーが不足するから大人がまあまあとなだめるようになります。
 時代が変わってきました。型がどうのこうの言う前に、とりあえず子供に祭りに出てもらって、祭りが済みさえすればいいというように大人の方が妥協しています。子供を教えるのはいろいろ事情があるので難しいことです。」

 ウ 佐島地区の秋祭り

 **さん(越智郡弓削町佐島 昭和20年生まれ 54歳)
 **さん(越智郡弓削町佐島 昭和5年生まれ 69歳)
 佐島地区は、大だんじり(大人が担ぐ)、小だんじり(高校生や中学生が担ぐ)、神輿がそれぞれ1台出て、佐島神社の急な石段を一気に担ぎ上げるのが見物(みもの)である。3地区で唯一、夜の祭りを行っている。
 **さんは昨年より宮総代をしている。**さんは6年間宮総代をし、4年間区長をした。**さんと**さんに佐島の秋祭りについて話を聞きまとめた。
 「佐島は、本来は10月15日がお祭りの日なんですが、最近は勤め人の都合によって、10月15日に一番近い日曜日に行っていました。去年(平成10年)からは10月の体育の日と日曜日とが連休になりましたんで、この連休を使うようにしました。佐島地区の場合は、祭りの1週間前に『しめおろし』といってみんながしめ縄をなって神社やお旅所に飾ります。前日は、朝から湯立て神事(*14)を行い、そして午前11時ころになって礼祭式(*15)、氏まいり、夜殿祭と続きます。祭りの当日は、8時に神輿のお立ち(宮出し)、11時にお旅所に到着し、お旅所発が夕方の5時、宮入りが夜の9時半です。他の地区の祭りは午後5時くらいまでですが、佐島の場合は本番が夜の祭りです。これは、勤めに行っている人も勤めが終わってからでも参加できるようにということです。お宮の境内の周りにもたくさんの電灯を付けて、投光器も4基付けて、明るく独特の雰囲気を醸し出します。だから、よその弓削地区などから盛んに応援に来てくれるんです。
 このころはだんじりを担ぐ人の肩が弱いから、宮入りの時間になったら、もうだんじりを押して、宮入りをします。昔は引っ張って宮入りを阻止しようともみ合ったものです。祭りの当日には当屋の亭主の家に行き、そこでお祓(はら)いをし、直会をします。そこに参加する人は神主さんと宮総代と地区の役員です。お祭りのあくる日に、しめを張ったのを取る『しめあげ』を行います。『しめあげ』を済ませて、昼ぐらいから宮座式を行います。そして今年の当屋が来年の当屋を決めるくじ引きを行います。その後、15名の当屋が互選をして当屋の亭主を決めます。
 10年ほど前ですか、皆さんの寄付を募って神輿を新調しました。だんじりは、子供用と大人用と二つあります。小学生の男子が子供だんじりの、中学生男子が大人だんじりの乗り子となります。人数が減ってきたので、そろそろ女の子を入れないかんようになってきました。だんじりのかき棒の長さは昔は島の道は狭かったので、島の道を回れる範囲ということで7mでした。7mの長さでは担ぐ人間の数はあまり多くできません。最近の若い担ぎ手は肩も弱くなったし、佐島の場合はだんじりに台車も付けないし、もう今の人数では担げなくなったということで、弓削に聞くと10mとか、12mのかき棒になっているというので、10mの長さにしました。するとたった3m長くなっただけですが、多くの人数で、担げるようになりました。佐島の神社の階段は55段ありまして、だんじりをこの階段を担いで上げるのは大変なことだったんですが、これでだいぶ楽になりました。
 わたしらの子供のころは、おいり(宮入り)のあくる日に、『ひよりもろうた(もらった)。』『また次の日ももろうた。』と言って、祭りが終わった後もだんじりを担いでいました。神輿はあくまでも1日だけでした。今はそんなことはできません。都会の人はすうっと帰ってしまうし、残った人間だけではとても担げません。
 佐島で生まれ育った人の多くが、今は都会に出ていますが、佐島のお祭りは楽しいということで多くの人が故郷に帰って来てくれます。現在の我々の一番の目的は、都会に出ている島の人が秋祭りにはとにかく佐島に帰って来てくれて、我々と旧交を温め合うということです。ですから、できるだけ日にちを早く決めて、みんなが帰りやすいようにしようとしています。今後とも伝統のお祭りをいつまでも続けていきたいと熱望しています。最近、他の地区の祭りは、廃れていく所が多いと聞いていますが、佐島の場合はむしろにぎやかになっているのではないかと思います。」


*9:幣束(へいそく)、御幣(ごへい)ともいう。裂いた麻やたたんで切った紙を、細長い木に挾(はさ)んで垂らしたもので、祭
  りの際の頭屋の標識としたり、山伏の先頭に立てたりする。これらは神降臨の目印となる。
*10:神の威徳によって起こるという風。特に、元寇の際に元の艦を沈没させた大風をいう。
*11:昔の大名行列で、槍(やり)や長柄(ながえ)(柄の長い道具または武具)や挟箱(はさみばこ)を持って供先を勤めた者。そ
  れをまねて練り歩く。
*12:宵宮(よいみや)とも呼ばれ、1年に1度神様が神殿を出る儀式。
*13:元服した男子が略装につける袋型のかぶりもの。
*14:湯釜の前の二方にササを立て、しめ縄を張り、米を入れた湯を沸かし、発酵した酒を神に供え五穀豊穣を祈る。
*15:これより佐島八幡神社のお祭りを始めるというお祈りをする儀式。

写真1-2-6 だんじりのけんか祭り

写真1-2-6 だんじりのけんか祭り

高浜神社にて。平成11年10月撮影

写真1-2-8 弓削神社

写真1-2-8 弓削神社

平成11年10月撮影

写真1-2-9 だんじりと神輿のかき比べ

写真1-2-9 だんじりと神輿のかき比べ

著神社にて。平成11年10月撮影