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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)えびすに願う

 ア えびす舞の起こり

 青島は、イワシ網漁業やタイ縛り網(*16)を中心に発展してきた。ところが、昭和30年(1955年)にタイ縛り網が人手不足と営業不振で休業となり、昭和44年にはイワシ網が、漁業協同組合の赤字打開のために船団ごと売却され、島民の経済を支える二大漁業がなくなり、島民は島外に働きに行ったり、島から移住していった。現在、島に残った人々は、一本釣り漁業や刺し網漁業のほか採貝などで生計を立てている(⑦)。
 このような漁業の盛衰に伴い、昭和30年までは大漁を祝うえびす舞が行われていたが、それ以降は廃れていった。
 えびす舞が、青島で踊られるようになったいきさつは、黒田正九郎さんの覚書『えびす舞について』に詳しいので、その一部を紹介する。

 〇 えびす舞について
   娯楽の少ない本島では、明治時代から人形浄瑠璃(じゅうるり)の盛んな淡路島の一座を毎年春に招いて観賞していた。
   一座は約三日間島で小屋掛けし、その間、大夫(たゆう)達(*17)は民家に分宿した。島民は喜んで大夫を我が家に迎え、
  人形の操作や浄瑠璃語りを大夫から習った。来島する一座は数座あり、だしものも沢山あったが、中でもえびす舞は漁業を
  営む島民の心情に合致して、これを習得したことはいうまでもなく、明治35年頃からは、人形ではなく青年達自身で演ず
  るようになり、以後毎年旧の1月11日、島の大玉(おおだま)祝い(*18)の席でにぎやかに舞う習慣となった。
   当時は、えびすさんの舞台衣装も六之丞(ろくのじょう)一座(*19)のようにきらびやかなものを作って舞っていた。
   太平洋戦争後、若者をはじめ離島する者が急増して過疎現象が著しくなり、網漁の廃止と共に大玉祝いもなくなり、えび
  す舞は一時中断していたが、近年(昭和46年)島民演芸会の際、往時をしのんで中年老人達で再び演ずるようになったも
  のである。
   私も昭和50年6月、機会があって淡路島の福良(ふくら)を訪れ、観光用の人形浄瑠璃を観賞したが、観客席の両側に沢
  山(たくさん)の等身大の人形が陳列してある中に、えびすさんの人形を見い出し、青島えびす舞のふるさとを見た思いがし
  た。

 イ えびす舞を踊って

 **さん(喜多郡長浜町青島 昭和6年生まれ 68歳)
 **さんは青島で生まれ育ち、ずっと青島で暮らしてきた。昭和46年の島民演芸会(学習発表会)の時にえびす舞を踊った経験がある**さんにえびす舞についての話を聞いた。
 「昔、縛り網や巾着(きんちゃく)網(*20)で漁をしていたころは、大漁のときに、お宮へ行ったり、漁師みんなが寄ってお祭りをしていました。そのときにえびす舞を踊っていました。また、年に1回か2回、氏神さんで漁祭りがあったんですが、そのときの酒宴の席でもえびす舞を踊っていました。そして旧暦の1月11日に大玉祝いといって、漁師が皆集まって飲んでいたんですが、そのときにも踊っていました。今もみんなが集まってお酒を飲んでいますが、もう踊りはしていません。5、6年前からは朝のうちに島中の飾りを集めて焼くとんど焼き(*21)をしておいて、それが終わってから集まって大玉祝いをしています。このときにもちをついて、もちまきをしています。
 えびす舞は、昭和30年(1955年)まではありましたが、それ以後はなくなってしまいました。昔はみんな器用で、踊るときの衣装やその他何でも作っていました。青年団員が大勢いたときには演芸会もし、太閤記なども演じていました。昭和46年(1971年)の島民演芸会の際、往時をしのんで踊ったらどうだろうかということで、中年の人や老人たちが演じるようになりました。わたしは、踊るのは嫌だったんですが、みんながやれやれと言うもんで、そのときに踊りました。その当時は、昔だれがえびす舞を踊っていたかは覚えていましたが、どんな踊りだったかは全然覚えていませんでした。それで、えびす舞のシナリオを作った増田さんが踊りを教えてくれました。一人が語り、他の人がついてはやしを歌います。それに合わせて踊ります。衣装もちゃんと作って踊りました。衣装はわたしの叔母が作ってくれました。その後、数年間は盆踊りのときに、えびす舞の衣装を着て踊っていました。
 これからは、語る人もいないし、踊る人ももういなくなるでしょう。うたを覚えている人はいますが、後継者はもういません。」


*16:巻網の一種で瀬戸内海でタイをとる網、鯛網ともいう。袋網と両側の袖網からなる。
*17:ここでは芸能者の集団の長または主な者や浄瑠璃の語り手。
*18:大玉とは、網霊(あみたま)(網玉)または、網霊を祀(まつ)る際の祭祀の対象になる浮子(あば)のことであり、瀬戸内海
  では、漁網の中央につける特に大きい烏帽子(えぼし)型の浮子・浮樽を、漁期外に網主の家の神棚などに、漁を授ける神霊
  として祀る。漁期の始めに際し大玉を神体として行う祝い。漁網の中央部の大浮子のことを宇和島や隠岐では恵比須網端
  (えびすあば)という。
*19:昭和30年代に三座あった淡路の人形座の1つ。他に吉田伝次郎一座。淡路源之丞一座があった。現在は淡路人形協会直
  営の淡路人形座1つだけになった。
*20:網を円形に張り、それを巾着の口のようにすぼめていきイワシやサバなどの回遊魚をとる網。
*21:小正月(1月15日)に村境などで行う火祭。門松、竹、しめ縄などをたく。正月の神がこの煙に乗って帰っていく年神
  様を送る日。