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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)山里に息づく鎮縄神楽

 鎮縄(しめ)神楽は、正式には「河辺(かわべ)鎮縄神楽」といい、喜多郡の旧山鳥坂(やまとさか)村に伝承されてきた神楽である。旧山鳥坂村はかつて肱川(ひじかわ)の上流にあった村で、その村域は現在、肱川町と河辺村とにほぼ二分されている山里である。
 鎮縄神楽は、昭和45年(1970年)に愛媛県の無形文化財に指定され、昭和52年に無形民俗文化財に指定替えされた。保存団体である鎮縄神楽部使用の神楽本には、18世紀の後半から19世紀の初めにかけて、二人の神官が神歌を教化のために選定したとあり、「鎮縄」の名称は、その神楽本の一節にある「御鎮縄引ク神(かん(み))室(むろ)ノ内二カカヤクハシメノ光リカ御鎮縄ノ光リカ(⑥)」に由来するという。この神楽は出雲流の採り物神楽の系統に属している(②)。
 **さん(喜多郡肱川町山鳥坂 大正6年生まれ 82歳)
 **さん(喜多郡肱川町山鳥坂 昭和25年生まれ 49歳)
 **さん(喜多郡肱川町山鳥坂 昭和34年生まれ 40歳)

 ア 神楽人生三代記

 (ア)父親のこと

 「少しはまねごとしてます。」と謙そんする**さんは、15歳で神楽を始めた。そして、休むことなく70年近くもこの鎮縄神楽を舞い続けてきた。今も老いてなお、かくしゃくとした現役であり、鎮縄神楽部の代表でもある。**さんは、先輩に当たる父親について次のように回想する。
 「おやじは祈禱(きとう)関係の仕事をしていて、神楽ではもっぱら太鼓と神歌を専門にしていました。わたしには兄弟が6人いて、そのうち4人が神楽に関係したわけです。現在は、そのうちわたしと弟が現役の神楽部員です。
 わたしが小学校高等科1年生の8月の終わりころ、その当時、鎮縄神楽部員は4人ほどとなり、道具類を売って解散するかどうかの瀬戸際だったんです。物好きなおやじは何とか神楽を続ける方法はないかと考えたんでしょう。おやじからわたしら兄弟は言われました。『どうも神楽連中が少なくなった。道具を売る話があるような。お前ら皆、神楽をしなきゃあいかん。』と。わたしは恥ずかしい気がしてはじめはする気はなかったんです。それでおそらくおやじは、うちの家の子は全部させるから、道具は売ってはいかんと言うて神楽をつなげたと思うんです。それが契機となってわたしは結局神楽部に入ったんです。舞自体は当時の神楽部代表の方などに教えてもらいました。神楽部には同年配が4名いました。
 おやじは小柄な人でしたが、最後までこつこつする人でした。神楽ではかなり骨折ったと思います。家の中では気が短くてげんこつやキセルでわたしらはコーンと打たれたが、人様には和やかで、時間がかかろうが夜が明けようがゆっくりと気を長くして教えていました。わたしにはなかなかまねができそうもないんです。しかし、おやじはとりわけどうしてもということになったら、家の仕事をほっぽらかしてもするもんだから、おふくろが本当に苦労をしました。それがわたしの頭の中にこびりついています。」
 **さんは長年にわたって神楽に従事しているうちに、すべての出し物について技を会得してきたが、そのきっかけは父親からの指導であったという。それについて次のように語った。
 「自分がしたいことが分からん時分に、おやじから、『人には似つく(似合う)、似つかんの別があるが、おまえは似つかんでもよい。今日その人が病気で、ほかにする人がおらん(いない)。その時おまえがしなくてどうする。』とよく言われたんです。そんなんで(そういうわけで)ある程度の舞をこなしてないといかん。舞の演目のうちのどれかを全然しないということがあってはいかんというわけです。今は時間の制約で一部の演目を外すことができるが、昔はそういうわけにはいかんかったんです。例えば、一つの出し物を抜いてしなかったとすると、『あの舞は一向にしないがどうしたんだ。』と必ず総代さんかあるいはだれかが言うてきましたから。だからそういう場合には、わたし自身が出て舞うことにしていました。
 わたしも若い時分は先輩やおやじに対し大分不満をもっておりました。神楽の最後の出し物の岩戸開き(写真2-1-6参照)で、アマテラスオオミカミが退場する場面がありますが、幕を引くのが恐れ多いということで、その前を行ったり、戻ったり何回もしないといかんのです。真剣にしないと、しっかりせよと言われる。そがいな(そのような)面倒なこと言わなくてもと言うと、おやじには面倒じゃないとしかられました。何回も何回も繰り返し、もう汗みどろになって目が見えなくなるまでわたしはしました。昔は全部の出し物をしましたが、時間を早く済ませだの言う人は一人もいなかった。わたしがヘトヘトになったころには、観客がいなくなって、宮総代さんがもう早くやめてくれればええなという風になっている。それでわたしが気をきかして演技を早くやめたら、『お前、神様に奏上するものを今日はなんであがいな(あのような)適当なことでやめるのか、人が見よらん(見てない)からだろう。』と言って責められたりしました。他人には全部したからもういいのくらいで済むところだが、おやじはわたしに対しては、しかってヘトヘトになるまでさせました。今はこういうことを言う人はいないし、はたの者(第三者)は予定時間より早く終わっても、そういう厳しいことを言われることがないから、今の人は幸せだなと思っています。昔は、観客がいなくなっても最後までさせられたもんです。今の神楽では、昔と比べて体力の半分も使わんなと思っています。」

 (イ)舞いに舞ってきた

 現在鎮縄神楽は、2月26日に春日神社(肱川町山鳥坂)、3月25日に天満神社(肱川町山鳥坂)、4月3日に三島神社(五十崎(いかざき)町北表(きたおもて))、旧暦10月最後の亥(い)の日に松島神社(肱川町山鳥坂)の乙亥(おとい)祭(写真2-1-7参照)など肱川町周辺で近隣の十数社に奉納されている。鎮縄神楽が盛んであった時期の様子を**さんに聞いた。
 「神楽は日中戦争が始まってから終戦までは盛んだった。終戦を境に各神社で舞う回数が半分くらいに減りました。終戦までは、上浮穴(かみうけな)郡小田(おだ)町寺村(てらむら)・町村(まちむら)・南山(みなみやま)・日野川、同郡久万町父二峰(ふじみね)、喜多郡内子(うちこ)町大瀬などにも盛んに行っていました。今は何年かに1回行くくらいとなっています。県外では、高知県の幡多(はた)郡大正(たいしょう)町に一番ようけ(多く)行ったように思います。そのほかには戦前に同郡十和(とおわ)村や高岡郡梼原(ゆすはら)町などに行きましたが、戦後は行ってません。十和村へは往復各1泊、行きは神社で泊り、帰りは宇和島市内の宿に泊まりました。梼原へは出迎えにきてもらい、帰りは送ってもらいました。神楽を頼まれて行くのはほとんど春でした。宵祭りには時々依頼がありましたけれども、夏とか秋に神楽をするのは戦後の方が多いようです。
 かつては、山間地での移動においてはなかなか苦労をしました。若い者が神楽の衣装道具と先輩の荷を背負って歩いて行きます。峠を上がると、先輩から『若い者は一服せよ。相撲を取れ。』と言われ、相撲を取らされたり、剣道をさせられたりしました。ひどいもんでよくもあんなことができたもんだと思います。戦前のことですが、小田町から大野ヶ原(おおのがはら)(東宇和郡野村町)を歩いて越えたことがあります。途中道端の家でお茶を一杯だけもらって、『さあ、若い者はしゃんしゃんせえ(しっかりせよ)。』と言われ、若い者もえらい(つらい)もんだと思っていたら、元気な人を雇ってくれて荷物を運んでもらったことがあります。しかし、ほとんどは若い者が荷物を運んだもんです。また戦後、河辺村川上から小田町の南山まで雨天の中、自転車を押し上げて行ったこともありました。
 また、上演する神楽の中身もずいぶん今は薄くなりました。昔の神楽では、ほとんどの演目を存分に舞っていました。締めくくりの出し物は岩戸開きですが、舞う者としては、終わりの方になるともう少し客がいればと思いつつ、神楽は神様にささげるものとも思って汗だくで舞いました。手草(たぐさ)、神請(かみしょう)、白蓋(じびやっかい)などの似通った舞を5時間以上も舞うわけです。しかし、ちょっとでも気を抜くと、先輩たちは承知しません。一般の観客もそういう感覚であったんでしょう、あたりが真っ暗になってくると、大きなちょうちんを増やし、最後の出し物まで残らず舞ったもんです。今は、全部を演じたとしても3時間から3時間半くらいが精一杯ですし、一般氏子の人からも時間を制約されるようになりました。」
 ちなみにこの神楽の演目は、「清祓(きよはらい)」「手草の舞」「神請」「白蓋の舞」「二天の舞」「弓の舞」「山王(さんのう)の舞」「老翁(おきな)の舞」「御鏡の舞」「日本武尊(やまとたけるのみこと)(*10)の舞」「恵比須(えびす)の舞(写真2-1-8参照)」「長刀(なぎなた)の舞」「四天の舞」「鬼神の舞」「大蛇(おろち)退治の舞(口絵参照)」「鎮火の舞」「岩戸開きの舞」「王神立(おうじんだて)」の18座からなるという(②⑦)。神楽が終わると、神送りがあり、手水(ちょうず)解斎(げさい)の儀(参拝の前後に手水する儀式)を行うなど古風をとどめているといわれる。これらの演目のうち、大蛇退治の舞については、昭和14年(1939年)ころに新たに取り入れたものであるという(⑧)。

 (ウ)息子も舞う鎮縄神楽

 現在神楽の奉納を求める人の要求にはどのように応じているのか、**さんは語った。
 「地元の要求が、例えば、この舞を先にして下さいとか、あれは後に回して時間がなかったらやめるとか、2時間内に終わらして下さいとか、1時間でええとかいろいろあるんです。今まではそれはいかんと言っていたんですけど、今はそんなこと言っても駄目だろうということでしています。わたしは古い人間ですから、それには抵抗があります。例えば、2時間内でという場合でもできる分だけは少しでも多くしなければいかんということで、してきました。けれど今は、後輩もそんなのはもうやめましょうと言いますので、わたしも押され気味で、地元の要求を受け入れざるをえません。時間の制約、舞の順序については、それはいかんということができない、これも時代の流れというんでしょうか。時間の制約から、似通ったあんな舞はやめて下さいというところがありまして、手草の舞なんかもなくしました。昔と違って、ええとこぎり(見栄えのするものだけ)となりました。」
 **家では**さんの次男である**さんが舞太夫三代目で、神楽部員のうちの中核的存在の一人として活躍中である。**さんは一時大阪へ出ていたが、昭和49年(1974年)に帰郷した。**さんに神楽での体験を聞いた。
 「おやじが舞っているのは、小さいときに時々見たことがあります。わたしが神楽を始めたのはこちらへ帰った次の年からです。周りの方から人がいないんで神楽をしてくれんかと誘いがあったんです。おやじは、『人が言っているが、どがいする(どうするのか)』と言うくらいでした。それで自分としては、やっぱりこういうものは伝えていくべきだし、まあやってみようかという感じで入ったんです。今はしててよかったと思います。わたしが始めたとき、3歳年上の先輩が一人一緒に始めました。当時この二人が一番の若手で、年の割で恥ずかしかったという思い出があります。神楽部員は当時10人くらいでした。結構、冗談話などしながら、先輩たちに教えてもらいました。おやじとは神楽の話はするにはするんですが、こちらから質問でもしないと話は無いですね。やはり、お互いに照れがあるんだろうと思います。まあ他人さんに習う方がしやすいですね。」
 平成11年7月現在の神楽部員は11名で、すべて肱川町在住者である。代表の**さんが最年長者、以下30歳代の若手まで老壮の混じった集団である。太鼓2名、鉦(手拍子)1名、笛1名、舞5名、最低8名そろえば神楽はできるが、今はそれぞれが勤めを持っているので、日曜日以外は満足な奉仕ができにくいという。恒例となっている神社での奉納以外には、昭和49年(1974年)に島根県松江市、平成3年には松山市を会場とする中国四国民俗芸能大会にそれぞれ愛媛県代表として出演し、また、平成5年には石見(いわみ)神楽との神楽の合流大会にも出場した。そして近年とくに脚光を浴びたのが、平成10年、イギリスのロンドン市で開催された「世界旅行見本市」での伝統芸能交流公演に参加したことである。

 イ ロンドンを彩る、勇壮な舞

 (ア)鎮縄神楽、ロンドンへ行く

 平成10年10月17日付け愛媛新聞は「海越える肱川の神楽」と見出しして、鎮縄神楽が翌月ロンドンの世界旅行見本市で公演することを伝えた。記事によれば、「公演する見本市は、約160か国の旅行業界関係者が集うヨーロッパ最大級の国際見本市。日本からの参加団体の一つ『地域伝統芸能活用センター』が日本文化の紹介や外国人観光客の誘致を図る目的で、都道府県を通じ、伝統芸能保存団体に出演を呼びかけた。」と報じていた。
 出演した団体は、この「山鳥坂鎮縄神楽部」のほか、岐阜県高山(たかやま)市のからくり台「石橋台(しゃっきょうだい)組」と東京都八丈島(はちじょうじま)「八丈太鼓六人組」の3組であった。一行は、平成10年11月16日に成田を出発し、同月18、19日の2日間、世界旅行見本市のメーンステージで約15分ずつ公演した。11月21日には、ロンドン大学ブルネイ講堂で一般市民や学生との交流公演を行い、同月23日成田着の飛行機で帰国した。
 現地での状況については、「世界旅行見本市会場は、世界百五十八か国から旅行業界のプロが集う、最大規模の産業見本市で、各国とも御国(おくに)自慢の芸能チームを送り込みピー・アール(宣伝広告活動)します。その中にあって、日本の伝統芸能の演技は、立見席にまで黒山の人だかりがでる盛況でした。(中略)他を圧倒する見事な演技に、周りを埋めつくした観客から惜しみない拍手が送られ」とか、「一方、ロンドン大学での公演は、学生のみならず一般市民も含めて、老若男女が会場を埋めつくし、会場に入りきれない人も多数出るほどの大盛況で、正直言ってびっくりしました。若い観客が多いためか、くつろいだ雰囲気の中での公演となり、観客も出演者と一緒になって手拍子や音頭あるいは床を踏み鳴らして、繰り広げられる演技を楽しんでいました。演技の合間には観客も舞台に上がって、からくりの人形の紐(ひも)繰りを体験したり、太鼓のバチさばきを練習したり、あるいは神楽の音曲に合わせて踊ったりと、アットホームな雰囲気の中に賑(にぎ)やかな公演となりました。予定時間を大幅に超過して公演が終わると、ブラボーという歓呼と拍手や口笛が数分間鳴りやまず、会場は一種異様な興奮状態につつまれました。また、会場を去る一人一人が出演者に『楽しかった。』『素晴らしかった。』『感激した。』等と声をかけていました。」と報告されている(⑨)。
 **さんは、この海外公演に神楽部の事務局長として参加した。**さんは肱川町の職員で、昭和63年に神楽を始めた。当時、公民館の職員として熱心に神楽のビデオ撮影をしていたところ、地元の出身者でもあるところから誘われ、ちょっとしてみようかと軽い気持で入ったという。ロンドン公演に至るまでのいきさつを**さんに聞いた。
 「平成10年6月上旬に、財団法人地域伝統芸能活用センターからこの海外公演の話がありました。8月14日に地元の肱川町岩谷(いわや)地区で鎮縄神楽部が夜神楽をするので、担当者が派遣候補の一つとしてそれを見にきました。そしてすぐに派遣の内定と出し物の指定が出たんです。神楽部の皆さんには、その前に海外公演に行くようになるかもしれないと言ってたんです。9月からは全員がロンドンへ行くということで、一人一人を説得して回りました。なにしろ、長時間飛行機に乗ったことのない人がほとんどだったんです。とくに高齢の人のなかには、『行くのが不安、年を取っての旅で迷惑かけたらいかん。』と言うて嫌がる人もありました。わたしは、1990年に自分自身がロンドン旅行をしたときの経験を話したり、説得に若い人を行かしたり、パスポートを作ってもらうように無理やり家族に頼んだり、家族会を開いても納得してない人を無理言ってパスポート用の写真を撮りに連れていくなどして、なんとか格好がつくだけの陣容になったんです。それでまとまったら次は練習です。大蛇退治の舞を出し物として15分の時間内に納めないといかんのです。夜集まっては、太鼓に合わせた練習をけんかしもって(しながら)しました。この時間に合わすことが一番難しいことで苦労しました。」
 結局、公演に参加した部員は9名であった。公演では、11月18、19日の見本市メーンステージで大蛇退治の舞を約15分間、11月21日のロンドン大学講堂で神請、御鏡の舞、大蛇退治の舞の3曲を約30分間、それぞれ演じたという。**さんは観衆の反応について次のような感想を語った。
 「両会場とも、僕らは演じ終わると舞台から下がってしまい観衆とは直接接触がないんですが、随行者にはいろいろ質問があったようです。ただロンドン大学の方では、出を待つ時間や控室への移動の途中、公演の後で観衆を見送ったときなどには、いろいろ質問を受けました。在留邦人もたくさん来ていて、彼らからも質問がかなりあったようです。一番多かったのはすばらしかったという言葉でしたが、質問としては大蛇の動きに関するものでした。観衆を見送る際には、大蛇の頭を取り外して直接触らせたり、つかい方を見せるとかしました。それから太鼓の音にすごくひかれるものがあったようです。リズム感いうんですか、鳴り物の音に合わせて踊っていくリズムがいいという言い方をしてました。特に八丈の太鼓やうちの太鼓などは、リズム感のある音に合わせて舞いますので、言葉は分からなくても、こういう出し物は、外国人でもやはり見て感動してくれるんだというような感覚を、皆が持って帰ってきました。もちろん出し物については、舞台で通訳が英語で説明をしたり、英語版の資料を配っていました。」
 この画期的なロンドン公演について**さんは、次のように高く評価している。
 「結果はよかったんじゃないかと思います。特に若い人にはいろいろな面でプラスになったと思う。」

 (イ)神楽を受け継ぐ人たちへ

 長年にわたって鎮縄神楽の代表をしてきた**さんは、この神楽を伝承する自分自身には父親の姿を見て養われた使命感が裏打ちされていると次のように語った。
 「この神楽を続けてこれたのは、皆さんのお陰で、わたしの手がとても及ばんことがございました。おやじが、神楽連中の人数が減って道具を売りに出すという、神楽の危ないところを何とかつないだ。それをわたしの時代に中断してはならん、何とかしなければいかんと思って今までしてきました。わたしはほとんどの神楽の舞はできます。とにかく先輩からわたしが受け継いだものは何とか次の代に残していこうとの主義でいます。
 イギリスのロンドンに行ったときのこと、付添いの役場の人が、『もう今日は、体の調子が悪いと言って、若い人にさせてあげて下さい。』と言うので、『分かりました。』と言いました。ところが、部員の中に『やっぱり、おやじさんがしなきゃあいかん。』と言う者がいたりして、わたしが最後までずっとしました。まあ、剣の使い方なども、あれでは物は切れんとわたしがやかましく言うんです。そうすると、『また、偉そうに言う。』とブツブツ言う者がいますが、わたしは、何を言うかと思っている。『それなら、わしの役をよう見ていなさい。』と言ったりします。イギリスから帰ってからはほとんどしてませんが、いざというときにはやりますよ。」
 80歳を越えてただいま現役、若い者にはまだまだ負けないと言う**さんの力強い話には驚くばかりである。一方、若い人たちには役柄によって好き嫌いが見受けられるので役付けはなかなか難しいようで、代表としての苦労を**さんは次のように語った。
 「今も熊襲(くまそ)(記紀伝説に見える九州南部の地名、またはそこに居住した種族)退治の場面で鬼の役をする人がいないんです。やむなくわたしがしてますが。役が難しいんでなくて、この役が嫌いなのではないでしょうか。わたしはもう何十年もしてますから、何でももってこいと思ってますし、他人からよう続くもんだとお上手言われながらしてきたもんです。だから、不思議でたまらんのですけれども、若い人のなかにはあの役だけはこらえてくれという嫌いな舞があるようですね。熊襲タケル(記紀伝説にある熊襲の首長の名)以外にもダイバン(大蕃)(写真2-1-11参照)、鬼、女装などの役をすることに抵抗のある人がいるんではないかと思えるんです。
 何とかしての思いで、今までつなげて参りました。よくここまで来たもんだと思います。いろんなことがありましたが、もうまあ、お譲りせないかんと思っています。」


*10:記紀でもっとも文芸的に描かれた古代の伝説的な英雄。

写真2-1-6 鎮縄神楽「岩戸開きの舞」 

写真2-1-6 鎮縄神楽「岩戸開きの舞」 

奥はアマテラスオオミカミ、手前がタヂカラオノミコト。松島神社にて。平成11年12月撮影

写真2-1-7 松島神社の乙亥祭での神楽

写真2-1-7 松島神社の乙亥祭での神楽

建物の左が社殿、右が神楽殿。平成11年12月撮影

写真2-1-8 鎮縄神楽「恵比須の舞」

写真2-1-8 鎮縄神楽「恵比須の舞」

左が恵比須サマ、右がコウシンサマ(猿田彦)。松島神社にて。平成11年12月撮影

写真2-1-11 ダイバン(大蕃)

写真2-1-11 ダイバン(大蕃)

「四天の舞」の後半に登場する。松島神社にて。平成11年12月撮影