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愛媛の祭り(平成11年度)

(3)念仏を唱えて

 **さん(北宇和郡広見町畔屋 昭和6年生まれ 68歳)

 ア 畔屋念仏、今昔

 広見(ひろみ)町は県の南西部に位置し、高知県との県境に近い内陸部の鬼北(きほく)盆地の中央にある。昭和30年(1955年)に近永(ちかなが)町、好藤(よしふじ)村、愛治(あいじ)村、三島村、泉村が合併し、広見町となった。広見川の支流大宿(おおじゅく)川流域に位置する畔屋(あぜや)地区には念仏踊りが継承されている。踊り念仏は空也上人(903~72年)が平安中期に民間に広めたといわれるもので、京都で始まり、更に一遍上人(1239~89年)が鎌倉時代に念仏の功徳を衆生(しゅじょう)(生命のあるものすべて)に教え広めたと伝えられる(⑥)。
 子供のころから、畔屋念仏にかかわってきた**さんに話を聞いた。
 「広見町に合併されるまでの愛治村には、生田(いくた)、大宿(おおじゅく)、西野々(にしのの)、清水(せいずい)、畔屋の五つの地区がありました。畔屋念仏の由来ですが、万福寺には縁起(えんぎ)(寺社などの由来や伝説を記したもの)も残っていません。古老の話によると、江戸時代の中ごろにこの寺が今の県道に近い所から現在の高台に移転してきたようです。和尚さんはもともと城川(しろかわ)町の龍沢寺(りゅうたくじ)から来てもらってお守りをしてもらっており、その時分に念仏踊りも伝わってきたのではないかといわれています。万福寺に保存されている鉦の銘には、江戸中期の宝暦(ほうれき)4年(1754年)と記されているのが一番古いようです。あとの15個ほどの鉦は明治、大正時代のものばかりで、畔屋の申谷(さるや)、大平(おおひら)、重谷(おもだに)の三つの組で保管しています。
 安政元年(1854年)に書き残された万福寺の資料によると、次の内容が記されています。

   本尊前、金比羅宮、八坂宮などの村内の18の神仏に順次、1庭ずつ念仏を奉納する。
   また、里野太郎左衛門、加老戸三太夫、岡嵜左近、氏宮八郎、古谷七郎、緒方源之進、里野知丈、毛利トラ、平井亀四
  郎、中谷利忠の地区に功績のあったと思われる人物にも1庭ずつ念仏を奉納する。
   最後に、三拾三所観世音に33庭、六地蔵に6庭、弘法大師に1庭、百八統に3庭、観世音に1庭、御本尊に1庭を奉納
  する(⑥)。

 この資料は、昭和14年度に改めたとあります。昔は施餓鬼の日には、朝から晩まで、無縁仏から新亡さんまでの供養をしていました。どの神様に何庭ずつ祈りを言上するかは、明治26年(1893年)の井谷利忠氏の書き付けに記録されているようです。念仏のうち、寄せ、七つ、申す、楽、モガエシの5種類を奉納することを一庭と言っていますが、昔は朝から夕方まで60、70庭も延々としていたと聞いています。しかし、今は30庭程度に減らしています。わたしも35歳ころにおおせつかって、念仏の指揮をとる楽頭(がくがしら)を務めました。その折に作ってもらった扇子(写真2-2-10参照)の左側には、光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨(こうみょうへんじょうじっぽうせかいねんぶつしゅじょうせっしゅうふしゃ)と書いてあり、念仏の楽が終わったあとでこの念仏を唱えよと先輩に言われてました。また右側には、盡十方世界諸仏菩薩乃至八万諸生教誡是(じんじっぽうせかいしょぶつぼさつないしはちまんしょせいきょうかいぜ)と書いてあり、これも一庭の念仏が終わった時に唱えます。この扇子は自分で購入し、念仏に詳しく、今は故人となられた井谷氏に書いてもらったものです。
 現在の畔屋念仏は、茶堂初めの行事として8月1日の夕方、畔屋大師堂で7庭の念仏を奉納します。大師堂での念仏には今でも畔屋地区から焼ちゅう2本が提供されています。太鼓一つと鉦2、3個で大人だけで念仏を申しますが、今年(平成11年)は大平地区が当番です。続いて辻念仏として、8月2日に申谷・大平・重谷の3地区の辻で早朝、8庭ずつ奉納していましたが、現在はしていません。山の神への奉納も8月7日に、それぞれ三つの地区で夕方7庭踊っていましたが中断しています。
 8月14日のお施餓鬼(せがき)には、朝9時から昼まで、万福寺の庭で30庭程度の踊りを奉納します。以前は昼から夕方まで奉納していたものを、最近は午前中に済ませるようになりました。これは新亡さんの家族が、昼からそれぞれ集まった親せきの人々に食事などの賄いをするためです。8月中に亡くなった方の場合には、楽頭や太鼓、鉦打ちなどが直接、その家に出向いて念仏を奉納します。最後の茶堂あげの行事は、8月31日の夕方、大師堂前で5庭の念仏を奉納します。これで一連のお盆の行事は終了します。
 茶堂初めや茶堂あげの念仏行事を行う大師堂は、昔も今も畔屋地区の人々の心のよりどころになっています。この大師堂では昔から道行く人にお茶の接待をしており、今もその習慣を守っています。もともと大師堂のある川向こうに幅1mほどの道路があり、人馬が通っていたようで、大師堂が集会所の役割をしていたものと考えられます。その名残りでしょうか、今は8月に入ると、大師堂周辺の草刈りなどの掃除をして、各家が当番制で堂内のお大師様にお茶を差し上げると同時に、通行人へのお茶の接待もしています。ただ、最近は通行人も減ってきています。」

 イ 念仏を唱える

 「お施餓鬼の日に行う畔屋念仏は、以前は楽頭、太鼓打ちや鉦打ちを1組として、全部で3組で奉納していましたが、今は5組でしています。人数を増やしたのは念仏を奉納する時間を短縮するためだと思われます。畔屋地区の三つの組からぞれぞれ楽頭を選出していますが、年ごとに交代ですることもあるし、何年か続けてする場合もあります。昔は年寄りが務めると決まっていましたが、今は若い人にもしてもらってます。太鼓一つが一庭に相当しますので、太鼓五つをそろえてたたけば、五庭の踊りを奉納することになります。例年の決められた庭数を消化するには長い時間を要するので、今は太鼓の数を増やしています。太鼓は一つがお寺の所有で、その他は各組のお宮から借りてきたものです。ゴツハリ(図表2-2-5参照)と呼ばれる念仏衆は、楽頭の横にいて、楽頭の念仏を復唱していきます。もう叫ぶだけの景気付けです。地元で育ってきた者は、小さいころからこの念仏に親しんできているので鉦も太鼓も何とかたたけます。
 この念仏では、太鼓打ちや鉦打ちの指揮をとる楽頭よりも、直接、太鼓や鉦をたたく者の方が大変です。太鼓をたたく者は腰をかがめ、ひねりながらの動作が激しいですし、鉦も重くて持ち続けると結構疲れます。太鼓のリズムを覚えるのは大変なようですが、音感のいい小、中学生ですから、8月7日の七夕様から一週間も練習すれば大丈夫です。わたしの息子も太鼓をたたいていましたが、すぐにたたき方を覚えました。念仏のうち、小、中学生に主に太鼓のたたき方を教えているのは、『申す』と『楽』だけです。『七つ』と『モガエシ』はたたき方が難しいので略する場合が多いようです。
 念仏は、お、よ、を、や、よ、や、お、やの八つの頭文字で始まる念仏をそれぞれ4回、計32回唱えるわけです(図表2-2-6参照)。また、上、中、下で、その念仏の音階の高低が分かるのです。楽頭が最初に下の音階で唱え始めると、横にいる応援のゴツハリが楽頭の後を同じ音階でたどるわけです。逆に上の音階では、大きな声で『ヤーナーム アーミードー』と叫ぶように念仏を唱えます。
 5人の楽頭の任務は次のように決められています。一番太鼓の楽頭は、総指揮をとり各神仏に祈りを言上します。二番太鼓の楽頭は32回の念仏の音頭を指揮します。三番、四番、五番太鼓の楽頭は受け持ち太鼓を指揮します。また、念仏の始めと終わりに、楽頭全員で扇子に書かれている供養経を唱えるようになっています。
 お施餓鬼は、万福寺に初盆の遺族にも集まってもらい、無縁仏から新亡さんまで念仏供養をします。念仏踊りの順序は次のとおりです。

 ① 念仏おこし
   境内の一段下の広場で、楽頭のほか7、8人で1庭の念仏を奉納します。
 ② 道ゆき
   一同が太鼓を担ぎ、七つ太鼓を打ちながら本尊前に移動し、その前で3回回ります。その後、太鼓を所定の位置に置き、
  法要の念仏を始めます。
 ③ 念仏の奉納
   地域の神仏や功労者などに、それぞれ1庭ずつ念仏を奉納します。念仏1庭は、次のはやしによって展開します。
    ○ 寄せ:足を固定し、チンジャガガ チンジャガガと鉦のリズムに乗って太鼓を打ちます。
    ○ 七つ:太鼓を一度に打つ数が七つと三つです。
    ○ 申す:ドデンドデンと太鼓を打ち、一番長い念仏です。
    ○ 楽:ドデンドデンと太鼓を打ち、一番にぎやかな念仏です。
    ○ モガエシ:チンジャガガ チンジャガガと鉦のリズムに乗って足踏みしながら太鼓を打ちます。
  無縁仏の供養で打つ太鼓は、子供が受け持ちます。その後、10分間休憩します。
 ④ 新亡供養
   前年8月以降の新亡供養では、太鼓は全員大人が打ちます。新亡供養の間は、遺族は本尊前から境内の念仏を奉納して
  いる人々に対して合掌します。
   念仏法要後の焼香の順番は次のようになっています。
    ○寺総代3名 ○新亡の遺族 ○戦没者遺族代表 ○区長 ○組長 ○楽頭
    ○一般参拝者代表
   その後、境内の小さな池で精霊流しを済ませて、遺族や親族は引き揚げます。

 最後に三拾三所観世音やご本尊への念仏奉納などの一連の行事が終わるまでに、全部で30庭程度の念仏を奉納し、3時間ほどで終わります。」


 ウ 念仏踊りの継承

 「わたしは小学生のころから、お盆が近づくと楽頭の家に行って太鼓のたたき方を習いましたが、夕方から2、3時間も練習すると疲れて眠くなったのを覚えています。夏のことで、力に刺されるのでヨモギの葉をくすぶらせていたように思います。練習は楽頭が受け持つので、わたしも年ごとに5軒ほどの楽頭の家で練習したことを覚えています。練習が足りないときは、家の雨戸の戸袋を太鼓代わりにたたいていたこともありました。それでお盆の季節になると、太鼓や鉦のリズムは何となく思い出すことができますし、それらのたたき方は今でも何とかまねごとはできます。
 畔屋念仏は、わたしが子供の時分(太平洋戦争中)は畔屋地区総出の行事で、お寺に集まった人全員が念仏を唱(しょう)していました。しかし現在はお施餓鬼当日もお寺に来る人も少なくなり、また来ても黙って座っている人が多くなりました。衣装は昔はズボンにシャツの普段着でしたが、畔屋念仏保存会ができて広見町からも多少の補助金が出るようになって、現在は楽頭と子供たちは浴衣と剣道の袴(はかま)とを着るようになりました。また、この畔屋地区でも小学生が少なくなったので、もともと男の子だけでついていた亥(い)の子(こ)に、女の子も参加させています。この念仏踊りには昨年までは女子は参加していませんでしたが、今年からは高校生の男子3人に加えて、女子2人が初めて参加してくれました。来年はもっと多くなるのではないでしょうか。この念仏踊りは後継者の育成が大きな課題ですが、ここ数年は大丈夫だと思います。畔屋念仏を小学生の時から教えていかなかったら、後継者が途絶えてさびれていってしまうでしょうね。
 伝統ある畔屋念仏が幾多の変遷を経て今日まで残ってきた理由は、いくつかあると思いますが、この地区には神仏に対する信仰心の厚い人が多く住んでいたことが最大の理由ではないでしょうか。しかし最近は地域住民の神仏に対する信仰心も薄れる傾向にあり、その上に少子、高齢化も手伝って、いつまで継承できるか多少の不安もありますが、地区の人々の知恵を集めて何とか乗り切っていきたいものだと思っています。」

写真2-2-10 楽頭が指揮をとる扇子

写真2-2-10 楽頭が指揮をとる扇子

**さん所有の扇子。平成11年6月撮影

図表2-2-5 踊り場の見取り図

図表2-2-5 踊り場の見取り図

**さんからの聞き取りより作成。

図表2-2-6 念仏の音階

図表2-2-6 念仏の音階

楽頭が唱え、ゴツハリが復唱する。**さんからの聞き取りより作成。