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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)ボウデンを手に

 **さん(伊予市上野 昭和7年生まれ 67歳)
 **さん(伊予市上野 昭和2年生まれ 72歳)
 伊予市上野にある伊豫神社の雨乞踊りは8月7日に奉納されるものである。この踊りは、境内末社の一つである時雨神社(八大龍王神社)にかかわるものであったが、現在では伊豫神社での夏越(なごし)祭には輪越(わごし)(*5)が行われ、境内の時雨神社前に特設された舞台で「雨乞踊り」を見物する仕組みになっている。上野の時雨神社は、古くから伊予郡24か村の祈禱所であった。最初は神崎(かんざき)村(現松前(まさき)町)三本松山に祀(まつ)られていたものが、神託(しんたく)により寛永年間 (1624~44年)ころに行道山(ぎょうどうさん)山頂の神殿に移されていた。そして、そのころの干ばつに際して霊験が著しかったので、文化8年(1811年)に正一位(しょういちい)(神社の神階の最高位)を授けられたというが、明治末年ころに伊豫神社の境内末社の一つとして合祀(ごうし)(二つ以上の神を一社に合わせ祀ること)された(⑧)。

 ア 雨乞踊りについて

 雨乞踊り保存会の会長である**さんに保存会の現状について聞いた。
 「わたしたちの雨乞踊り保存会の設立は昭和54年(1979年)で、現在、会員は15名です。この保存会顧問から聞いたのですが、雨乞踊りの正確な起源は分からないようです。行道山上の時雨神社は伊予郡周辺の農民の信仰の対象になっていたようで、その様子を推察するものとして文政5年(1822年)壬午奉(みずのえうまたてまつる)と刻まれた手水鉢(ちょうずばち)(社寺など参拝の前に、手・顔を洗い清める水を入れておく鉢)が社殿跡で見つかったようです。
 大正初期のころ、雨乞踊りを伊豫神社に奉納するようになったようですが、この踊りが盛大に踊られたのは、昭和8年(1933年)の夏の干ばつの折であったといわれています。村中の男子が行道山の社殿跡で火をたき、その火を中心に3日3晩、みのかさを着け、ボウデン(他の地域ではボンデンともいう)を持って雨乞踊りを踊り回ったといわれています。その後昭和20年(1945年)に大谷池が完成しますと、その祝いとして池の堤や伊予小学校の運動場で踊られたのを最後に途絶えてしまったと聞いています。昭和25年に復元の動きが高まり、5年の歳月をかけて復興されましたが、その後の様子ははっきりしません。保存会が設立された昭和54年(1979年)に今一度復活していますが、また途絶えています。そして昭和59年には大谷池築造40周年記念行事が行われ、大谷池の堤と伊予小学校の校庭で雨乞踊りを踊りました。上三谷(かみみたに)、下三谷(しもみたに)、上野、横田、北黒田、南黒田など大谷池から水の恩恵を受ける地区の方々が全部で50名ほど集まって踊ったように思います。
 踊りは素朴なもので、その昔、雨乞踊りに参加していた方はすぐに思い出して参加できるんです。男性はみのかさを着てわらじを履き、女性は着物姿におこし(女性が和服の下に腰から脚部に掛けてまとう布)を出し、ぞうりを履いてボウデンを持って踊りました。昭和59年の大谷池築造記念行事の折に着けたみのとかさを伊予小学校に寄付してもらっており、例年8月7日の伊豫神社の夏越(なごし)祭には女子5名がそれを借りて踊っています。境内の時雨神社前には仮設の舞台を組み立て、幕としめ縄を張り、ちょうちんをつるして七夕飾りをします。
 保存会を結成する以前は、夏越祭の少し前から練習をしていたと聞いていますが、それ以後は上野公民館で毎週土曜日の午後、欠かさず練習しています。以前は、綾竹(あやたけ)踊り、かんだち踊り、俵投げなど10種類くらい踊っていましたが、現在では雨乞踊り、大谷池竜神(おおたにいけりゅうじん)踊り、段七、お半長右衛門の4種類しか踊っていません。各種の踊りは、基本をしっかり覚えておけば何とか踊れるもので、着るものと持ち物が違うだけで所作はほとんど同じです。雨乞踊りの歌は、保存会顧問の**さんが拍子木(ひょうしぎ)を打ち、歌を**さんの奥さんが歌い、わたしがおはやしを入れたものを録音テープにとっています。お半長右衛門の録音テープも残っていますが、昔は男性がその場で生で歌っていたようです。伊豫神社で踊る際も毎年同じ動作の単純なものになるので、お参りの皆さんが退屈しないように、伊予万歳や大谷池竜神踊りを入れて変化を持たせています。それでもこれらの踊りを子供がこなすのは大変です。わたしたちが指導する際にも、いろいろな性格の子がおり、何かと気を遣います。あまり、びしびし言い過ぎてもいけないし、そうかといって甘やかしても練習になりませんので難しいところです。現在は伊予と郡中の二つの小学校児童が一緒に練習をしています。わたしたち会員は**さんから熱心に指導を受けましたが、故人になられてからはビデオテープをもとに技術を高めているところです。
 ここ1、2年は行ってませんが、以前は地元の高校のクラブ活動の指導にも行ってました。地元の老人ホームには毎年訪問して喜んでもらってます。また、11月3日の伊予市民会館での文化祭には一度も欠かさず参加しています。また、大谷池の水の恩恵を受けている地域の方々が、10年に一度集まって雨乞踊りを盛大に行います。雨乞踊りは静かな踊りで、拍子木でリズムを取り、歌詞には次のような語句がうたわれています。

   東西南北よ波おだやかに 払い清めて奉る/雨を下され龍王様よ
   畦(あぜ)やたすきの切れるほど/雨は降れ降れ千百日も 水は出てこい川八合

 この雨乞踊りは、本番ではみのかさを着けた成人男子が御幣(ごへい)を持ち、火の周りを輪になって昼夜別なく踊るとのことです。しかし現在、七夕の夜の奉納では、法被(はっぴ)の上にみのかさを着けた小学校女子児童5名がボウデンを持って踊ります。
 お半長右衛門は男女2組が傘(かさ)を手に踊ります。浴衣にたすき掛けですが、女子は髪飾り、男子はほうかむりをして男女の道行き(*6)を演じます。浄瑠璃(じょうるり)『碁太平記白石噺(ごたいへいきしらいしばなし)(*7)』による、姉宮城野(みやぎの)・妹信夫(しのぶ)が父の敵(かたき)を討ち取る話では、姉は、振袖(ふりそで)姿にたすきと鉢巻きをして長刀(なぎなた)を持って踊り、妹は同じ姿で鎖鎌(かま)を手に持っています。敵役(かたきやく)は、下に黒い鎖帷子(かたびら)(裏をつけない衣服に鎖をとじ付けた略式の防具)の着物姿に鉢巻き、たすき掛けで太刀を抜いて踊ります。この雨乞踊りの復元に最初から尽力されていた**さんによると、宮城野役はその夜のスターで、今年はだれがその役になるかが話題になったそうです。

 イ 大谷池の思い出

 例年、夏の干ばつに悩まされた上野地区周辺の人々にとって、安定した農業用水の確保は最も大切なことであった。水不足の不安を解消するために計画された大谷池は、南伊予村村長武智惣五郎(1886~1962年)が中心となって、14年の歳月を費やして昭和20年(1945年)に完成したもので、谷上山(たがみさん)と行道山の間に流れる大谷川をせき止めて造った堰堤(えんてい)(*8)式の農業用ため池である(⑨)。
 **さんは、地域の小学生を対象にした踊りの会(文芸嬰(ちご)の会)の会長として芸能伝承に取り組んでいる。**さんに大谷池の築造時の思い出や、会の現状について聞いた。
 「わたしの両親から聞いたのですが、昭和3年(1928年)の大干ばつで農作物が全滅した折には、村人は傘を背に負い、みのを着て、太鼓の音頭に合わせて大声で叫びながら雨乞いをしたそうです。そこで当時の村長の武智惣五郎さんは、干害対策として大谷池築造を決意し、反対者を説得して昭和6年(1931年)に関係地区用排水工事組合を設立しました。そして自らが組合長として陣頭指揮に当たり、昭和7年に第1期導水溝工事が完了したようです。続いて翌8年に第2期築堤(ちくてい)工事を着工していますが、昭和9年の大洪水で工事が難航したと聞いています。太平洋戦争中は各家から工事の勤労奉仕に出掛けましたが、わたしの姉も女子青年団員として日の出から日没まで働いていたそうです。当時の人夫(にんぷ)(力仕事に従事する労働者)さんは危険の多い作業場で池の底をくわで掘り、じょれん(土砂・ごみなどをかき寄せる用具)でもっこ(*9)に入れた土をトロッコに移して運び出していました。わたしは、砥部(とべ)の七折(ななおれ)(現砥部町でウメの栽培の名所)の地蔵尊のお参りに行くときに、池に架かった橋を通りながら作業を眺めていたのを覚えています。男の人はどてら(大きめに作り、綿を多く入れた広袖の着物)とももひき(脚にぴったりする、保温・防寒用のズボン下)を着て、足なか(走りやすいように、かかとの部分のない草履)やとんぼ草履を履いていました。女の人は着物に姉(あね)さんかぶりで、たすきを掛け、小さい前掛けをして赤い鼻緒の草履を履いて池の土手の土を固めていました。昭和20年(1945年)3月にこの難工事は完成しましたが、資料によれば工事に従事した人員は延べ37万人を超えており、その方たちの汗と努力の結晶のお陰で農業用水の心配がなくなりました(写真2-2-25参照)。難しい工事に従事した当時の関係者に感謝したいと思います。
 わたしたちが活動している文芸嬰(ちご)の会は、結成されたのが昭和53年(1978年)で、雨乞踊り保存会の設立より1年早く、今年(平成11年)で22年目になります。幼稚園児と小学生の女子が会員で、雨乞踊り保存会の会員を兼ねており、指導者6名とともに毎週土曜日に公民館で練習しています。昭和59年の大谷池築造40周年記念会では、わたしが作詩と振り付けをした『伊豫之大谷池竜神踊り』を披露しました。会の運営は市からの補助と会員のボランティアで行っています。昨年度(平成10年)は、地元から補助を受け、大谷池竜神踊りの衣装をそろえることができました。この衣装は生地を購入して裁断し、会員たちが縫ったものです。
 この踊りは大谷池の歴史を万歳化したもので、カモが池で群れ遊ぶさまを表現しています。お陰でこの踊りも雨乞踊りや伊予万歳と同様に地域の皆さんに親しまれており、各種のイベントやアトラクションに参加しています。県民文化会館や三瓶(みかめ)文化会館でも踊りました。教え始めて20年を越すと、すでに結婚して子供を育てている人もおり、懐かしいものです。以前は練習も厳しく、子供がびっくりするほどしかっていましたが、不平も言わず練習についてきてくれました。現在6名の会員で毎週指導していますが、指導の後継者ができなくて困っています。若い人が入ってくれるといいのですが、勤めている人が多くなっておりこれからが大変です。」


*5:水神である龍を形どった青い茅(かや)の輪をくぐり、これによって汚れをはらい無事夏が越せるよう祈る行事。
*6:浄瑠璃や歌舞伎狂言の中の舞踊による旅行場面。相思相愛の男女が連れ立つことから、駆け落ちの意にも使う。
*7:時代世話物の一つで、由井正雪の事件に、父を殺された姉妹のあだ討ち事件をからめて脚色したもの。
*8:河川や渓谷を横断して水流や土砂をせき止めるために築いた堤防。ダム。
*9:縄などで編んだ正方形の網の四隅につり網をつけ、棒でつって土砂や農産物などを入れて運ぶ道具。

写真2-2-25 伊予市の大谷池

写真2-2-25 伊予市の大谷池

平成11年9月撮影