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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)月に一度の奉納踊り

 **さん(八幡浜市穴井 大正14年生まれ 74歳)
 **さん(八幡浜市穴井 大正10年生まれ 78歳)
 **さん(八幡浜市穴井 昭和17年生まれ 57歳)
 **さん(八幡浜市穴井 明治40年生まれ 92歳)
 八幡浜市は松山市から約40km西南方向にある。その市街地から海岸線を南に車で約30分行くと穴井である。穴井地区はミカン栽培と漁業を中心にした静かな所である。神明(しんめい)神社はこけむした180段の石段を登りきった海抜約150mの愛宕(あたご)山上にある。神社の拝殿では明和年間(1764年~72年)からの奉納行事として、長命講伊勢踊(ちょうめいこういせおどり)が踊り継がれている(⑪)。最近は、神明神社の石段を上がるのが老人には厳しいので、穴井の住宅地の中にある天満神社に場所を変え、旧暦の毎月11日に地区の老人たちによって奉納されている。穴井地区で長命講伊勢踊に携わっている人々に話を聞いた。

 ア 穴井歌舞伎と伊勢踊り

 穴井地区に受け継がれている伊勢踊り(*11)は伊勢信仰(*12)に基づく奉納芸能である。穴井の天満神社の境外摂社(けいがいせっしゃ)(本社に付属し、その祭神と縁故の深い神を祭った神社)である神明神社では、古くは正月、5月、9月の年3回、この伊勢踊りを奉納していたが、その後、長命講という講組織ができて毎月11日に欠かすことなく行うようになった。明治18年(1885年)以前は旧暦正月11日に伊勢踊りを主とし、その次位(じい)としてワキオドリ(穴井歌舞伎)が演ぜられていた。明治19年からは旧正月15日の天満宮祭りにも、11日と同じ外題(げだい)(歌舞伎や浄瑠璃の題名)の芝居が上演されるようになった。特にこの年から旧正月15日にも伊勢踊りが踊られるようになった。昭和16年(1941年)にこのワキオドリが中止になり、村の青年芝居に移行してからも伊勢踊りは、地区の老人たちの長命講によって続けられている(⑫)。
 **さんは現在、穴井地区の老人会長として2年前から長命講伊勢踊に参加している。また太平洋戦争後の青年時代には、穴井歌舞伎の流れをくむ青年芝居の役者を演じていた。穴井のくらしと芝居について**さんに聞いた。
 「太平洋戦争後の娯楽のない時代、この地区の旧正月には地元の老人たちは神明神社で長命講伊勢踊を奉納し、青年たちは穴井歌舞伎を継承した青年芝居を演じていました。わたしもその昔、女(おんな)形として出演していましたが、先輩から受け継いだ立派な衣装がたくさんありました。それらの衣装は、33歳か41歳の厄年の人々の有志が寄付したものです。当時は米国に渡って事業を起こし、成功した人からも寄贈がありました。わたしたちは先輩から芝居を習いますが、注意を受ける時は正座をして話を聞いていました。特に姿勢が一番大切だということで立ち居振る舞いについては厳しく指導されました。わたしが穴井の青年団長をしていた昭和23年(1948年)ころは、八幡浜市や三瓶(みかめ)町の劇場まで出掛けて行って芝居を演じていました。そのころはラジオのほかに楽しみがなかったので、わたしたちが演ずる芝居も人気があり、この地区の役者は本気になって芝居の練習に打ち込んでいました。新暦の正月が終わると、旧正月までの間がちょうど農閑期になるので昼間から練習していました。その後、立ちげいこ(台本の読み合わせの後、立ち上がって、実際に動作・表情をつけて練習する)になってきたら、各家庭を回ってけいこの仕上がりの程度を見てもらうわけです。そうするともう皆、役者気取りになったものでした。
 終戦後は、この地区にも1,700人もの人が住んでいたので芝居の当日は大変なにぎわいでした。旧正月というと寒い時期で、雪がちらちら降るなかを、むしろ一枚に家族全員が座って見物してました。この地区は昔から歌舞伎が盛んで、毎年演じてますと役者としても上手になるんです。また、役者と同様に見物客も目が肥えているというか、見るのが上手なんです。それで、両方が一生懸命になるからおもしろいんでしょうね。役者としてもやりがいがありました。その後、都会に働きに行く者が増えて青年団員の数が減り、昭和27年(1952年)ころに青年芝居は中止になりました。」

 イ アメリカ講と伊勢神宮奉納

 **さんは天満神社の**宮司の母親で、現在も伊勢踊りの世話をしている。海外渡航者の安全を祈願して行われていたアメリカ講と伊勢神宮奉納について話を聞いた。
 「この天満神社では、旧暦の11日には長命講伊勢踊が、また旧暦の25日にはアメリカ講が毎月行われていました。アメリカ講は、萬歳講(まんざいこう)として明治38年(1905年)から始まっています。千秋万歳(せんしゅうばんぜい)(千年万年の意味、長寿を祝う語)をことほぐ(ことばで祝福する)意味で、このような名称になっていたのかもしれません。いずれにしても留守家族が、アメリカに移住している家族の安泰を祈願して行われてきたものと思います。それも天神様ゆかりの25日に、お祓(はら)いを受けたお札を現地に送っていたようです。わたしがここに嫁(とつ)いできたのが昭和16年(1941年)でしたが、その時もアメリカ講は続けられていました。お互いの家族は渡航関係者が無事であることの情報を交換していたようです。わたしの母は渡米している長兄の誕生日には必ずもちをつき、穴井の秋祭りに合わせてこの天満宮に奉納し、参拝の皆さんに配ってもらっていたようです。このもちつきの行事は長兄が帰国するまで続けておりました。またこの地区は養蚕も盛んだったので、わたしの母はまゆから絹糸を紡ぎ、布を織って、専門家にウメの紋を染め抜いた神社の横幕を作ってもらって奉納しており、その幕は現在も使われています。振り返ってみますと、当時の生活は苦しく、渡航者の犠牲のもとに残りの家族の生活が成り立っていたように思います。しかしこのアメリカ講も帰国者が増え、太平洋戦争が始まるころには自然になくなりました。
 昭和32年(1957年)の長命講伊勢踊の1回目の伊勢参宮は、わたしの夫が講員25名を引率して踊りを奉納したあと、総裁の北白川宮様(明治天皇皇女)より御用木のスギ材で作った延寿(えんじゅ)の杖(つえ)を皆にいただいたようです。その宮様にお目通りする際の手続きが大変だったようで、25名の略歴を記録した書類を県を通じて神宮司庁(じんぐうしちょう)(*13)に提出し、許可を得なければならなかったようです。伊予の伊勢踊りについては、当時神宮司庁教導司だった方が調査をされていました。この方には伊勢神宮拝殿での奉納の際にも何かとお心遣いをしていただきました。また、帰りには大阪天満宮の大広間に宿泊させてもらったようです。
 わたしの実父も長命講伊勢踊の太鼓をたたいておりました。そしてまた、アメリカから帰国した長兄も昭和47年(1972年)ころから踊りに参加するようになり、それから約25年間、父と同じように太鼓をたたいております。昔はこの地区では年を取ってくると、楽しみを求めて月に一度、神明神社に上がっていたんです。そして焼ちゅうを飲み交わし、皆さんと懇談して帰っていました。清酒を飲むのは旧正月の時だけでした。」

 ウ 長命講伊勢踊

 (ア)天満神社のにぎわい

 穴井天満神社宮司の**さんに、長命講伊勢踊について聞いた。
 「この神明神社は氏神天満神社の摂社として慶長年間(1596~1615年)に建立され、延宝8年(1680年)に本宮を安置しています。その後、安政4年(1857年)に改築し、現在の社殿は昭和7年(1932年)に造営されたものです。寛永年間(1624~44年)に伊勢信仰によって起こった伊勢踊りが穴井に伝わり、宇和島藩主に保護され、明和2年(1765年)正月より神社に長命講が組織されて毎月奉納されるようになりました。また、神賑行事(しんしんぎょうじ)(*14)として天明3年(1783年)に穴井歌舞伎(和気芝居ともいう)を創設し、里人の喜びを分かち合うなど長い歴史と伝統文化のなかではぐくみ親しまれてきました。この神明神社は明治6年(1873年)の神社合祀(ごうし)により、この天満神社の末社になったんです。この天満神社では祭礼のあと伊勢踊りを奉納し、穴井歌舞伎が演じられてきましたが、その芝居を見物するために俵津(たわらづ)(現明浜(あけはま)町)や下泊(しもどまり)(現三瓶町)から船を仕立てて来ていました。また、双岩(ふたいわ)(現八幡浜市)の方からも、雪のちらつく2月、夜の芝居を見物するために、山を越えて来ていたようです。当時はそれだけ娯楽が少なかったのでしょうか、お旅所の周辺には八幡浜市方面からきた屋台店がいくつも並んでいました。
 穴井歌舞伎の見物人からの寄付には長命講さま、伊勢講さまと書いてありました。この長命講伊勢踊の組織の中には大世話係、その下に5人の小世話係がおり、講を運営してきました。また5人の小世話係のうちの一人が宿元となり、芝居がけいこに入った時の振り付け師などの世話をしていました。約1か月の期間中、寝泊まりや食事の世話をするわけですから宿元は大変でした。そこで地元の若者は演技を磨き、役者が育ってきたようです。けいこは旧の正月2日より始められ、昼夜通しての猛練習が2月10日まで続くわけです。けいこの場所は新築家屋が披露を兼ねて提供したり、広い家が一軒一軒持ち回りで提供し、食事などの賄いをしていました。その家で芝居のけいこをしてもらうことは名誉なことであり、家族総出でお世話をしていたようです。この風習は、大正12年(1923年)ころまで続いておったと聞いています。その後一時中断しましたが、太平洋戦争時の出征兵士を送るための芝居が復活したようです。戦後は衰退し、地域の青年芝居に移行していきました。また正月、5月、9月の例大祭の折は、宿元がお伊勢講の講員の昼食を準備し、石段を上って神明神社まで運んでいました。そして踊りが終了すると、直会(なおらい)と称してその宿元で宴会が開かれていました。これらの習慣は昭和36年(1961年)ころまであったのではないでしょうか。また踊った後、今はお祓いを受けたお札を講員の家庭に配っています。しかし昔は、踊りに用いた御幣を各自が持ち帰っていたようです。
 わたしは昭和42年に穴井に帰ってきて、それ以来32年間、ずっと神明神社(写真2-2-35参照)と天満神社での長命講伊勢踊に参加しています。今の建物は築後約70年経過しており、老朽化して雨漏りがひどく、このまま放置しておくと廃屋になってしまいます。長い間続いてきた伊勢踊りの伝統を絶やさないために、神社修復委員会をつくって改築の計画を立ててもらいました。今年(平成11年)10月に趣意書を作成し、小委員会や総会を開いて募金活動に入りました。伝統文化継承のためにも皆さんに浄財をあおいだお陰で、12月に神明神社の改築を完了することができました。」

 (イ)県指定重要文化財への申請

 「(**さん)昭和35年(1960年)には長命講伊勢踊の県指定重要文化財申請書を提出しています。父は長命講伊勢踊の発展に努力しておりました。書類の提出に関しては何度も松山まで通い、大学の先生方にもお骨折りをいただいたようです。申請書で強調した点は、①昔から例大祭が旧暦の正月、5月、9月に行われ、それ以外の各月11日に月次祭(つきなみさい)が行われていること、②毎月奉納される踊りの場所は神明神社の拝殿で、人員構成は踊り方が11人より30人まで、歌方は5人より15人までで、太鼓打ちは1人となっていること、③この長命講伊勢踊は当時の形をそのまま伝承しており、信仰団体としても古い歴史をもつこと、などでした。そして昭和38年に県文化財の指定を受けたときは講員の皆さんの喜びは大きく、その後の励みになりました。
 昭和45年ころ、NHK松山放送局で長命講伊勢踊をテレビに収録するというので、わたしが講員の皆さんを引率していきました。またラジオ番組でも、アメリカ講についての収録がありました。
 女性が伊勢踊りに参加するようになったのは今から7年前のことです。それまでは、女性には祭りの当日には神明神社に上がらないで、宿元で食事などの賄いの手伝いや接待をしてもらっていました。その後、しばらくは女性の参拝者は踊りの輪の中に座ってもらうだけでしたが、参加者が少なくなってきたので、現在は歌い手として参加してもらっています。ただ、今ころは地区の皆さんの信仰心が昔より薄らいできましたので、長命講伊勢踊も踊りにくくなっています。一人でも多くの方に参加していただき、跡継ぎができることを願っているところです。」

 (ウ)踊りの形態

 「(**さん)服装は白のくくり袴(はかま)で千早(ちはや)(巫女(みこ)や先払いの神人などが着る服)を着ます。頭に烏帽子(えぼし)、手には御幣を持ちます。まず宮司の修祓(しゅうふつ)(みそぎを行うこと)を受け、神前に向かい3列の形をとり、後3列の形より円座の形に移り、奉踊歌(ほうようか)の第1巻より第12巻まで踊り続けます。
 奉踊歌の第1巻は次のような歌詞になっています。

   御伊勢山田(ようだ)の神いくさ 蒙古高勾麗(もくりこくり)を平げて
   神代君代の国々の 千里(ちさと)の末の人迄も
   豊かにて踊り喜ぶ人はみな
   歳は千年(ちとせ)を保つなり 老若男女貴賎ども
   栄え栄えるめでたさや 御伊勢踊りのめでたさや

 奉踊歌は歌い手が上(かみ)の句をうたい、下(しも)の句は歌い手と踊り手の双方でうたう仕組みになっています。七つの所作の変化を繰り返すのがこの踊りの特徴で、時間はおよそ20分間、これを3回くらい繰り返し、終われば直会になって御神酒を頂きます。昔は土地柄か焼ちゅうが用意されて講員はこれを無上の楽しみとしていましたが、現在は日本酒とジュースにしています。肴は主として長命講伊勢踊に携わっている家庭の主婦の方々の御接待で一人につき一皿くらいが通例となっていましたが、今はスルメやオカキなどで済ませています。例大祭の場合は宿元に大勢が集って簡素な料理が振る舞われていたようです。月次祭は普通午後の行事になりますが、例大祭では早朝より終日踊ります。70歳、80歳の老人が長時間踊り続けるので、太鼓の拍子もしごくのんびりしており、踊りも優雅なものです。踊りの手の中に御幣をささげて拝む所作がありますが、踊る人々の心の中にはこの時、伊勢大神を拝する敬虔(けん)な気持ちがあると思われます。」

 (エ)伊勢踊りを踊り続けて

 **さんは17歳でアメリカに渡り、厳しい労働に耐えて郷里に仕送りを続け、29歳で帰国している。65歳ころからは、伊勢講(長命講伊勢踊)の講員として毎月の行事に参加している。**さんに伊勢踊りの内容について聞いた。
 「わたしは大正13年(1924年)から約13年間アメリカ合衆国のシアトルで働き、帰ってきました。当時、穴井地区から大勢の仲間が渡米し、その後帰郷していますが、お互いに年を取り3人だけが何とか元気に過ごしています。わたしの父親は53歳から伊勢踊りの太鼓をたたきはじめたと言っていましたが、わたしは65歳になってからです。
 伊勢踊りの太鼓は歌詞に合わせてたたくものです。それで、歌詞をすべて暗記してからでないとたたけません。踊りの1回の所要時間が約20分間ですが、歌詞に合わせて調子よくたたかないといけません。」
 長命講伊勢踊の月次祭はおよそ、次の要領で行われる(図表2-2-11参照)(⑬)。
 まず、宮司さんが太鼓を1分30秒間打ち鳴らしたあと、踊り手は二礼二拍手一礼をして宮司さんよりお祓(はら)いを受ける。ドンドンドンと太鼓を3回打ち鳴らしたあと、踊り手は幣(みてぐら) (御幣)を持って神前に向かって拝礼して踊りが始まる。踊り手12人は男ばかりで、拝殿の中央に円陣をつくる。太鼓の打ち方は神前に向かって左側の場所に座り、残りの男全員が歌い手として座る。女性の講員は輪の中心にかたまって神前に向かって座り、歌方に合わせて歌をうたう。例大祭の折は、踊り手の装束は白の千早とくくり袴(はかま)を着て黒の烏帽子を着ける。さらに白足袋を履き、青竹に付けた幣を持って踊る。
 踊りの振りは単純なもので、12人の踊り手は輪になったまま神前の方向を向き、両手で幣を掲げて礼をする。歌が始まると、踊り手は時計回りの進行方向に向き直り、幣を胸元で支えて上の句をうたい終わるのを待つ。歌が下の句になると、踊り手は歌い手に和してうたいつつ、幣を持った右手を自然な形で下に降ろす。それを頭上へ勢いよく引き上げつつ右足を一歩前進させ、幣を胸元へ戻しながら左足を右足に引き付ける。次の上の句で歌い手の歌に合わせて幣を持った右手を胸元から勢いよく頭上へ上げ、そのまま自然に手を降ろしつつ左足を一歩前へ進め、幣を胸元へ戻しながら右足を左足に引き付ける。このような動作を交互に繰り返してゆっくり前進し、最後の歌詞の『参る下向の参る下向のめでたさや』というところになると、幣を持った右手を胸元から下へ大きく回転させて幣を右肩に担ぎ、右足から8歩前進する。このあと、8歩目の左足を右足の前にかけ、幣を肩から下へ降ろしつつ右足を輪の外側後方へ下げ、その場で時計回りに1回転し、神前に向かって両手で幣を掲げて一礼する。
 このような振りを歌い手がうたい終わるまで何回となく繰り返す。太鼓のリズムには九つの型があり、句の長短によって違った型になっている。歌の旋律も単純明快なもので、だれにでもすぐ修得することができる。振り、歌、太鼓の打ち方などすべての点が平易に構成されているのが、この伊勢踊りの大きな特色となっている。
 「(**さん)旧暦の正月11日には毎月、神明神社や天満神社の石段を上って太鼓をたたいてきましたが、踊りの内容も昔とあまり変わっていません。毎月踊っており、単調な動作の繰り返しですから変わらないのだと思います。それでも伊勢神宮奉納の際は、少し練習をしたと聞いています。伊勢神宮には父もわたしも行っていません。父は年を取り過ぎており、逆にわたしはちょうど50歳で若過ぎたからです。
 わたしも約30年もの長い間、月に一度の長命講伊勢踊に参加してきましたが、最近は皆に迷惑を掛けないように、体調のいいときだけ太鼓をたたきに行き、後は後輩に任せるようにしています。月次祭の当日は講員が集まり、踊ったり太鼓をたたいたあと、お茶やお酒を飲んで世間話をするのが生活の一部になっているのです。」


*11:伊勢の神を諸国に伝える神送りの踊り。近世初期に起こり、たびたび流行。のちに伊勢音頭と混じりあった。
*12:三重県伊勢市の伊勢神宮への信仰。
*13:三重県伊勢市にあり、伊勢神宮に関する事務をつかさどる機関。
*14:神社の恒例祭などのときに、神前にて神職の執行する厳粛な祭典が終了したのち、催されるさまざまな行事を総称して
  いう。

写真2-2-35 改築をした神明神社

写真2-2-35 改築をした神明神社

平成12年2月撮影

図表2-2-11 踊り場の見取り図

図表2-2-11 踊り場の見取り図

実踏調査と**さんからの聞き取りより作成。