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愛媛の祭り(平成11年度)

(3)太刀振りかざして

 **さん(南宇和郡一本松町増田 昭和4年生まれ 70歳)
 **さん(南宇和郡一本松町増田 大正4年生まれ 84歳)
 **さん(南宇和郡一本松町増田 昭和3年生まれ 71歳)
 一本松(いっぽんまつ)町は愛媛県の最南端に位置し、高知県宿毛(すくも)市に接する県境の町である。この町の増田(ますだ)地区にある安養寺(あんようじ)の中に高山尊神(こうやまそんしん)という神様が祀(まつ)られている。土地の人々は高山様と称して敬い、今も旧暦7月11日の祭りには古式そのままの花取(はなとり)踊りが厳重(げんじょう)(おごそかなこと)に執り行われている。しかも、この踊りは元亀(1570~73年)、天正(1573~92年)のころから始まり約400年の歴史を持つといわれている(⑭)。

 ア 増田に伝わる花取踊り

 小学生のころから約60年間、花取踊りを踊り続けてきた**さんと、地区の世話をしている**さんに踊りの由来とその内容について聞いた。

 (ア)踊りの由来

 「(**さん)花取踊りは、高山尊神供養の踊りと、ちよぼし弥三郎兄弟の供養の踊り、そして増田地区の安全祈願の踊りと3回に分けて踊ります。
 高山尊神(写真2-2-38参照)は安養寺の中に祀(まつ)られており、その祭神については三つの説が伝えられています。一つには安養寺を開基(かいき)(寺院を創立すること)した高山道清ではないか。二つには、後奈良天皇の第二皇子覚充親王ではないか。三つ目には、郷土の生んだ戦国の武将板尾津之輔ではないかと言われています。そのいずれかはまだ定説がないようです。
 この地区の安全祈願については、ここが伊予と土佐の国境(くにざかい)に位置しており、土佐の長宗我部軍と伊予の諸将との争いの場でもあっだので、地元の人々は戦禍を逃れ安全を祈る気持ちが強かったので行われたのかもしれません。
 安養寺の東北100mほどの所に、入らずの山がありますが、覚充親王がその山で亡くなったとの伝説があります。
 ちよぼし弥三郎兄弟は狩りがうまく、昔、イノシシに農地を荒らされた農民の依頼を受けてその退治に乗り出し、多数のイノシシを仕留めました。あまりに多くのイノシシを殺したので、二人は殺生(せっしょう)の罪を感じて狩猟を断念し、イノシシの供養塔の建立を思い立ち、石を一つずつ運んでいましたが、その完成間際に大イノシシのきばにかかって亡くなったという話が伝わっています。
 その石(写真2-2-39参照)がなぜか田んぼの畔(あぜ)に放置してあったので、今年(平成11年)になって寺の境内に移したんです。その横には石の由来の立て札を建て、参詣(さんけい)の皆さんに見てもらっています。将来は石碑(せきひ)に刻んで永久に残したいと考えています。」

 (イ)踊りの内容

 「(**さん)踊りの演目は、『さや払い』『では』『主太刀(おもだち)』『鎌小太刀(かまこだち)』『ひちめで』と五つありますが、後の三つについてはそれぞれ9種の踊りがあります。最初の高山尊神供養から二番目のちよぼし弥三郎兄弟の供養、そして最後の地区安全祈願まで、主太刀、鎌小太刀を中心に踊りを繰り返しますが、すべてが終わるまでに約3時間かかります。
 踊りは、休憩を入れて午前11時ころから午後3時ころまで行われます。踊りに参加する人は、大人も子供も炎天下で長時間にわたって踊るわけですから大変な重労働で、踊り手は前もって体調維持に努めねばなりません。
 花取踊りでは真剣を使いますので、熟練が要り、しっかり練習しなければなりません。そのため、踊りの継承という面からも主として農家の跡取りが踊りに参加していたようです。なかには、二代も続いて踊っている家やお孫さんが太鼓をたたき、おじいさんが鉦をたたくという具合に、長年この踊りにかかわってきている家もあります。
 踊りの前には、まず清めの式があり、和尚さんにお祓(はら)いをしてもらうわけです。和尚さんが、『きわめてきたなきもの 罪と汚れを祓(はら)い給(たま)え清め給え 六根清浄(ろっこんしょうじょう) 六根清浄』と言って、塩水(水に清めの塩を入れたもの)で踊り手、踊りの道具、踊り場を清めます。その後、和尚さんは、高山尊神供養の踊りが行われている間、尊神祭殿前で般若心経(はんにゃしんぎょう)を読経されています。
 『さや払い』の踊り手は二人の山伏です。二人とも腰に小太刀を差し、手にさや払いの青竹を持ちます。大峰の善久坊にふんする一人が踊り場に、南光院にふんする一人は楽屋内にいて問答が始まります。
 南光院『そもそも、それへまかり出た者は何者なるぞ。』善久坊『オーまかり出でたるは大峰の善久坊に候(そうろう)。今日、高山尊神の御祭礼に参った者。』そこで南光院も踊り場に出て、『オー某(それがし)は寺山の南光院、今日、高山尊神の御祭礼の露払いに参った者、道あけ通らし給え。』善久坊『オー急ぐ道なら通り給え。』南光院『オー急ぐ、急ぐ。』と言ったあと『エイ、ヤー。』と気合を掛けて長さ1間(約1.8m)の青竹で丁々発止(ちょうちょうはっし)(刀などで互いに打ち合う様子)と渡り合います。わたしは善久坊の役を演じたことがありますが、どちらが勝ったか負けたかは覚えてません。この踊りは見栄えがするし迫力があるので、見物人もこの場を一番よく見ます。
 昔の花取踊りは豪快(ごうかい)であったと聞いていますが、最近の踊りは気合が足りなくなって、静かになっていると言われています。しかし、この『さや払い』での山伏の問答などはこの踊りで一番盛り上がるところで、本当に荒々しい感じが出ています。
 太鼓を打つ少年と鉦(かね)を打つ長老3人を合わせて、楽打(がくうち)といいます。長老の一人は歌もうたいます。4、5年前に先輩が引退したので、わたしが代わりに鉦を打ちながらうたっています。この歌がなかなか覚えられなくて困ります。和尚さんに書いてもらった歌詞を見ながらうたいますが、太鼓を打っている子供にも合図を送らないといけないので大変です。歌には一応音程があるし、歌詞を覚えて踊りを見ながら合図を送るには長年の経験が要ります。鉦は楽屋から延ばした棒にひもでつるして使います。
 次の『では』(写真2-2-41参照)と呼ばわる踊りでは、踊り子8名が主太刀を持ちます。『ここ開けや 山通る 木戸開けずば上りはね越す』とうたい、『よう なむおんみどうほん なむおみどんよ』と、念仏を唱えながら踊ります。
 『主太刀』の踊りでは、8名が主太刀を持って図表2-2-13の、①から⑨までの踊りを約7分かけて踊ります。踊りの間に、楽打の念仏や歌が入り、さらに鉦や太鼓で拍子を取ります(図表2-2-13参照)。
 9種類の踊りを覚えるために、例年7月1日の晩から練習していきますが、子供もたいていは踊れます。踊りの順序は、①②①②③、④⑤④⑤⑥、⑦⑧⑦⑧⑨となりますが、踊りが長く、疲れますから途中で一息入れます。休憩時はその場に立てひざをついて休みます。
 『主太刀』の踊りの後、また休憩をとって、次に『鎌小太刀(かまこだち)』の踊りに移ります。踊り手8名のうち、先輩4名が小太刀を持ち、若者4名が鎌(かま)を持って踊ります。
 『鎌小太刀』の踊りでは、①むとう、②よつぎり、③つきあげ、④あしかり、⑤まねき、⑥はりのけ、⑦ねじきり、⑧かりかま、⑨ひきは、の9種を踊ります。踊りの順序は、『主太刀』の踊りに準じ、①②①②③、④⑤④⑤⑥、⑦⑧⑦⑧⑨と踊ります。ただ歌詞が違ってきます。『つきあげ』『はりのけ』『ひきは』では、歌詞がそれぞれ次の③、⑥、⑨となります。

   ③ ヘイヤヘイ うまず女(め)は 竹の根を から女は蛇(じゃ)になる
                へイヤヘイ ヘイーーー
   ⑥ ヘイヤヘイ 蛇になろとも 貧者(ひんじゃ)になるな 福じゃとなりて徳を与え
                へイヤヘイ ヘイーーー
   ⑨ ヘイヤヘイ ひけひけよ ひき木よわればこうすやばんば こうやおろせや こうばの茶
                ヘイヤヘイ ヘイーーーー

 これで、高山尊神供養の踊りを終えますが、御法楽(ごほうらく)といって、高山尊神供養の際は草履を履いて踊ります。草履は、太平洋戦争後からは買っていますが、それまでは各自で作っていました。わたしも2、3度作った経験があります。
 なお、踊りの途中で踊り手がときどき『ヤー』と声を掛けるのは、所作(しょさ)を決めたときの合図で年配の踊り手がその役を務めています。
 二番目のちよぼし弥三郎兄弟の供養踊りでは、踊り手ははだしになり、浴衣のすそをからげて、『さや払い』『では』『主太刀』『鎌小太刀』の踊りのほかに、新たに『ひちめで』が加わります。踊り手8名が主太刀4振りと小太刀4振りに分かれて踊ります。『鎌小太刀』の踊りで、小太刀を持った者が主太刀を持ち、鎌を持った者が小太刀を持って踊ります。踊りの種目も、①もと、②えだし、③えぶり、④ふね、⑤さきとり、⑥うけだち、⑦つかいながし、⑧えがやし、⑨ひきは、となります。歌や念仏は、『主太刀』の踊りと同じです。
 二番目の踊りが終わると、30分間ほどの休憩をとって楽屋内で食事をとり、酒も少し飲みます。夏場の暑い時期に長い間踊ったり、鉦や太鼓を打ちますから、足の筋が引きつりますし、こむら返りが起こることもあります。
 昔は地区の篤農家から結構いい刀を借りてきて踊っていたと聞いています。『鎌小太刀』の踊りの『つきあげ』では、振り下ろす真剣を木製の鎌で受け止めますが、祭りで踊っていた折に、借りていた真剣の刃が欠けて困ったことがありました。思案の末にわたしが謝罪に行きましたら、持ち主が『神に貸した刀だから銭は要らない。』と言ってもらったのを覚えています。
 踊りでは、最後に『しめ縄切り』の行事があるので、一振りか二振りは刃の付いたよく切れる真剣が要ります。模造刀は刃が付いていませんが、それでも重いものを使っています。
 高山尊神の供養、ちよぼし弥三郎兄弟の供養、そして増田地区の安全祈願のための三つの踊りが終わると、御願解(かんほど)(*15)きと称して、初めて盆を迎える仏を出した家のために一庭ずつ踊ります。その時、『主太刀』の踊りの、①もと、②かたてぐるま、③ごほう、の三つを踊るのも一庭ですが、主に『さや払い』を踊ります。全部の踊りが済めば、踊りに使った真剣で踊り場に張りめぐらされたしめ縄を4、5尺(1尺は約30cm)の長さに切ります。そして、『さや払い』でささら状に割れた青竹に、切ったしめ縄を丸めて挟み、御願解きをした人や地域の有志、踊り手などが各々一本ずつ持ち帰ります。これは高山様のお守りの意味なのです。」

 (ウ)踊り場と衣装

 「(**さん)踊り場は、当番に当たった地区の者が旧暦7月7日に小屋を作り、祭礼の前日の10日にしめ縄に御幣をつるして完成します。
 増田地区ではしめ縄を3段に張り、小屋組みして楽屋をつくるのも特徴です。また、お寺のすぐ横の入らずの山からカシやシイの木の枝を切り出してきて楽屋の屋根を覆い、周囲を囲みます(図表2-2-14参照)。
 また、踊りの小道具として、主太刀と小太刀をそれぞれ8振り、鎌4丁、青竹50本、衣裳12着、太鼓1個それに鉦3個をそろえます。
 関係者のふんどしは、5尺5寸(1尺は約30cm、1寸は約3cm)の長さのさらし木綿で新調します。祭りが済むと衣装の洗濯をしますが、昔の仕来りは大変で、洗濯は若い人妻や娘さんは駄目で、おばあさんか男子が寺の下の大川で洗い、物干しさおもそれを立てる脚もすべて新しく切り出した青竹を使っていました。のり付けも家で使っているたらいは使わず、お寿司などをつけるハンボ(底の浅いたらい状のおけ)を使っていましたが、今は新しいたらいを購入して洗っています。」

 イ 花取踊りの禁忌(きんき)

 古来、いずれの行事にも多少の禁忌(*16)はつきものであるが、増田の花取踊りには特に厳しい禁忌がある。
 花取踊りの禁忌について、**さんと**さんに聞いた。
 「(**さん)わたしの父は昔から祭りの5日前の旧暦7月7日より精進潔斎(しょうじんけっさい)(*17)の伝統を守り、毎朝大川で水垢離(みずごり)をとり、家族が食べるものは一切嫌って、別の火で炊いて食べてました。もちろん、なま物は一切食べません。また水垢離は、昔は寺の下の池でしていたようですが、その後、大川で行い、今は水道水を使っているようです。」
 「(**さん)精進潔斎のうち、踊る者は祭りの5日前からはよそに行って物は一切食べません。家での食事も魚や肉は食べません。父も踊っていたので、分かっていたのでしょう。わたしに家族とは別の魚や肉のない食事をさせるのはかわいそうだと言って、家族みんなが精進料理にしていました。父はこの期間中は、たばこの火を借りることもしませんでした。これらの決まりは今も守っています。踊りがすべて終わると、『おおっと、今晩からは魚が食べられるぞ。』と言って皆、喜んで家へ帰ります。」

 ウ 祭りと踊りを支えて

 現在、増田地区の区長をしている**さんと**さんに、高山尊神の祭りを支える話を聞いた。
 「(**さん)現在、一本松町になっている地域の人口は昭和25年(1950年)ころが一番多かったですね。この町には民間企業が進出しているお陰で最近は人口の流出はほとんどなく、4,300人程度で一定しています。現在(平成11年)の増田地区には戸数が約200戸あって、それぞれから区費を集めて地区のすべての行事を賄っていますが、新婚家庭などは価値観の違いもあり、地区の付き合いよりも職場を大事にする傾向があってなかなか大変です。それでも区費を納めてもらうために文書を持ってお願いに行くと、何人かはその場で協力してもらえます。
 祭りの世話は、地区を13組に分けてそれぞれの組で順番に行っています。この祭りを支えるためにはたくさんの人の協力が必要で、特に踊りには大勢の人の参加が必要です。それで、中学生や高校生に参加をお願いしています。
 わたしが区長になってから、この高山様の祭りをスムーズに執り行うために、祭礼の覚え書(図表2-2-16参照)を作りました。これは、昭和27年(1952年)から先代の区長さん方が記録してきたものを整理したものですが、いろいろな約束事があるんです。
 これだけ整理していても、踊りの合間に使う刀掛けがないとか、いろいろと不足事項が見つかり大変ですが、気が付いた時に付け加えています。」
 「(**さん)高山様の祭りは、昔はこの辺ではにぎやかな祭りでした。お寺の境内や石段の両側にも屋台店がいっぱい並んでいました。高知県から業者が来ておりましたが、かき氷屋におもちゃ屋、それに駄菓子屋などが並んでいました。わたしが子供のころは、親に15銭ほどもらって買い物をするのが楽しみだったんです。買ったものに、ろうを焚(た)いて走らせるブリキの船のおもちゃがあったことを覚えています。
 旧暦7月1日の肴(さかな)を盛る皿は、南予特有の皿鉢(さわち)料理に使うものです。旧暦7月7日の『さや払い』に使うハチク(中国原産の竹の一種)は、高山尊神にゆかりの安養寺の裏山から切り出します。また、お寺の井戸の水をくみ上げてきれいにする井戸換えの行事は、今も毎年しています。薪伐(まきき)りは、だん家の者がお寺の炊事やふろたきに使う薪を長さ50cm程度にそろえて切り、寄付していた名残りです。ハエは原木を切りそろえて積み重ねたものです。
 旧暦7月10日のお供え物のうち、重餅(かさねもち)は翌日の祭礼が終わったあと、上のもちはお寺に、また下のもちは割って、踊りに携わった者が分けて持ち帰ります。家族の無病息災を願ってのことです。
 わたしも花取踊りを父から受け継ぎ、長年携わってきましたが、お陰で近年は孫も参加させてもらっています。最近は中学生、高校生が参加してくれていますので、この踊りを継承していく土台はできてきました。この伝統ある高山様の祭りはずっと続けていって欲しいですね。」


*15:神仏にかけた願いがかなったとき、そのお礼参りをすること。
*16:日時・方位・行為・言葉などについて、さわりあるもの、忌(い)むべきものとして禁ずること。
*17:食肉を断つなどして身をきよめること。

写真2-2-38 安養寺に祀られている高山尊神

写真2-2-38 安養寺に祀られている高山尊神

平成11年6月撮影

写真2-2-39 ちよぼし弥三郎兄弟に縁のある石

写真2-2-39 ちよぼし弥三郎兄弟に縁のある石

平成11年8月撮影

写真2-2-41 ではの踊り

写真2-2-41 ではの踊り

右側に「楽打」の太鼓打ちと鉦打ちがいる。高山尊神供養の折は、草履を履いて踊る。平成11年8月撮影

図表2-2-13 主太刀の踊りの要領

図表2-2-13 主太刀の踊りの要領

**さんからの聞き取りより作成。

図表2-2-14 踊り場の見取り図

図表2-2-14 踊り場の見取り図

聞き取り及び実踏調査により作成。

図表2-2-16 高山様祭礼覚え書

図表2-2-16 高山様祭礼覚え書

**さんからの聞き取りより作成。