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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)海上の絵巻

 **さん(北条市土手内 大正9年生まれ 79歳)
 **さん(北条市辻   昭和31年生まれ 43歳)
 **さん(北条市辻   昭和30年生まれ 44歳)
 北条市は愛媛県の中部にあって、松山市の北東約16km、高縄半島の西北部に位置している。市域の西部は斎灘(いつきなだ)に面し、海上400mほどのところに、周囲約1.5kmの鹿島(かしま)がある。鹿島は照葉樹林に覆われ、野放しのシカが遊び、海水浴や句碑・歌碑めぐりなどが楽しめる観光の島である。山頂(113m)には中世の鹿島城跡がある(④)。北条市の櫂練(かいね)りは、この鹿島にある鹿島神社の春・秋の祭り(4月15日、10月12日)に神輿渡御の先供(せんく)として催される勇壮な行事である。神輿を先供する船は櫂伝馬と呼ばれ、伝馬船を2隻横につなぎ合わせたもので、船上で櫂練り踊りを披露しながら、御船(みふね)(神輿を乗せる船)を引くような形で海上をゆったりと進んでいく。この行事の起源は定かではないが、遠く河野水軍(*7)がぼっ興した、治承年間(1177~81年)にさかのぼるといわれ、水軍の出陣に際し、鹿島の神前に集結して戦勝を祈願し、凱旋(がいせん)の時の祝勝奉賛が鹿島神社の神事となったものと伝えられ(⑤)、昭和41年(1966年)に県の無形文化財の指定を受け、昭和52年(1977年)に無形民俗文化財に指定替えされている。
 鹿島神社の宮総代を長く続けてきた**さん、櫂練り保存会の事務局を任されている**さん、ボンデンや剣櫂の指導をしている**さんの3人に櫂練りについて語ってもらった。

 ア 櫂練り船団

 「(**さん)櫂練りとは、ボンデンと剣櫂の踊りをする踊り船だけを指すものであり、神輿を乗せた御船は櫂練りには入らないと思っていました。でも平成2年第5回国民文化祭・愛媛90の大三島での『海のフェスティバル』に参加する時、踊り船2隻に御船の海上練りも一緒でないと、本当の北条の櫂練りにはならんということでまとまり、御船2隻も含めて一つのものとして出演させました。御船を先導する船は、船の両舷(りょうげん)(左右の船べり)から櫂を出していて、昔から一般には櫂伝馬と呼びますが、今は櫂練り船とか踊り船などともいわれています。今は先頭にエンジンを付けた引き船があって、その船に綱で引かれて、2隻を横につないだ櫂練り船が行きます。その次に、神輿を乗せた御船2隻が縦に1隻ずつつながって行くんです(写真2-3-9参照)。これが一つの船団です。つながれているのは5隻ですが、先頭は櫂練り船や御船を引くための船ですから、本来は4隻が櫂練りの一団です。その後に宮司(ぐうじ)らが乗った船が付いて行きますが、これはつながっていません。そのほかにも大漁旗をなびかせた何隻もの見物の船がお供に付いてきます。見所としては、満艦飾(*8)に飾り立てた櫂伝馬の船上での、鐘(北条では火の見櫓(やぐら)につり下げていた半鐘のような鐘を使う)と太鼓に合わせたボンデンや剣櫂の踊りと神輿を乗せた御船を転覆させんばかりに揺らし続ける海上練りなんです。この両方が一体となって見せ場となるんです。」

 イ 海上渡御

 「(**さん)春は、昼前の宮出し、午後3時過ぎの宮入りです。鹿島で宮出し後の神事を行い、神輿を御船に乗せ、櫂練り船の先導によって鹿島と市街地との間、約400mの海上をボンデンと剣櫂の踊りを行いながら大きく3回左回りをして北条の内港に入ってくるんです。観客が内港を取り巻いています。その前を何周か櫂練り踊りと御船の揺さぶりを披露した後、内港を出て、さらに海上でゆったりと櫂練り船に先導されながら鹿島神社への宮入りになるんです。その間、ずっと鐘と太鼓に合わせての踊りは続きますが、神輿は一度も陸上には上がりません。いわば観客に見せるための櫂練りになっています。」

 ウ 海上の絵巻

 「(**さん)昔の櫂伝馬は、漁師のイワシ網船を借りてしていました。今は専用の櫂練り船を造っています。2隻をつなぎ合わせ、四角の平面ができるように四隅に高さ1mほどのタケを立て、横に渡したタケに、青地に白の鹿島神社の矢車の神紋を染め抜いた横幕を張ります。横幕のうちの胴の間(和船の中央部)には太鼓を据え、鐘をつり下げます。それぞれの船の中心には支柱を立て、それに大きなササを縛り付け、そのササの葉には鈴なりのように何百枚という日の丸の小旗をこよりで結び付けます。ササの先端からは5、6色の3mほどの吹き流しがなびきます。支柱には横木を取り付け、神紋と鹿島神社名の入った2種類の提灯(ちょうちん)を2段につり下げます。ササの先端からは、へさきとともへ4本の綱を張り、そこには白地に赤と赤地に白の矢車の神紋の旗がはためいています(写真2-3-10参照)。こうして満艦飾に飾られた船がゆったりと海上を滑っていくんです。その船上で少年と青年が、胴の間でたたく鐘と太鼓に合わせて、ボンデンを振り、剣櫂を力強く振りさばきながら踊るわけです。
 見る者はきれいで楽しみでしょうが、準備をするのはなかなか大変です。あの大ササの葉に旗を飾るのも、昔は雁皮紙(がんぴし)(和紙の一種)を印刷屋に持っていって、細く切ってもらって、まずこよりをよるんです。そのこよりで、あの満艦飾に飾った旗一枚一枚をササの葉に結び付けたんです。日の丸の旗は全部半紙ですから雨にぬれると駄目なんです。だから旗を付けたら、すぐに櫂練り船の倉庫へ入れ込んでおくんです。そして朝、船が出ていく時に最後に船に立てたんです。わたしらの若いころは、あの旗を作るのも、集会所に大勢集まって、半紙の一枚一枚に芋判を押して作ったものです。今は全部印刷して、1本のササに800枚ほど付けていますが、昔は1,500枚ほど付けていたと思います。付けるのは今もこよりを使い手作業です。だから今もこより作りはPTAの方々にお願いして協力してもらっているんです。」
 「(**さん)神輿を乗せた御船を先導する櫂練り船には、それぞれ1本の櫓(ろ)と3、4本の櫂を乗せています。船はエンジン付きの漁船が引くので、櫂は実際は飾りで、櫓は舵(かじ)取りです。ともの櫓は大人が漕ぎます。櫂は船べりから横に出したのを、中学生が扱いますが全然使ったこともないし、まったく漕げません。ですから、櫂はあっても飾りでありかっこうだけです。したがって、櫂の練習はなく、剣櫂とボンデンの踊りの練習をします。
 ボンデンを振る少年は小学校4年生くらいの子が中心で、鹿島神社の矢車の紋を付けた日本手ぬぐいの鉢巻きをきりりと結び、青色の法被(はっぴ)を着て、黒いタイツを履きます。法被には腰のところで白い帯を結び、前に垂らしています。へさきの板の上で、紅白のテープを巻き付け、細く裂いた7、8色の布を、先端に飾り付けた1.5mほどの細いタケのボンデン2本を、器用に振って踊るんです。
 剣櫂を振る青年の衣装は最も華やかで晴れ姿です。青年は、白い鉢巻き、錦(にしき)織りの着物、腰から下には、白いサラシを巻いて、ゆったりとした白のたすきを背中で結んでいます。赤い手甲(てっこう)(布や革で作り、手の甲を覆うもの)を着けて、金紙を張り、黒のテープの縁どりをした130cmほどの剣の形をした櫂を自由に振り回しながら、ともの四斗樽の上で勇ましい踊りを披露します。
 『ジャンジャンジャン ドンドンドン』と鐘が鳴り太鼓が響く中で、若者が腰をくねらせ、時には背中を一杯にそらせながら、剣櫂を勢いよく縦に振り、横に回転させて踊ります。その力強く振りさばかれる剣櫂が日の光に当たるとキラッキラッと輝くんです。へさきとともで力強く勇壮な姿で踊る少年と青年を乗せて、満艦飾に飾られた櫂伝馬がゆったりと海上を滑っていきます。それは、いかにも鮮やかで一幅の海上絵巻を見るようです。
 御船が海上を巡幸している間、ずうっと踊っていて、その間太鼓と鐘は鳴り続け、御船の海上の練りも続きます。時間が長いから結構疲れるんです。踊るのは1隻に一人ずつですが、今年は3人ずつ乗って交代しながら踊りました。剣櫂を振る場合、足元は、酒を入れる四斗樽を縄で締めて、その縄に足を引っ掛けて、揺れても落ちないように考えてはいるんです。でも、樽の縄に足を掛けていると、動けないんです。揺れる船の中で足を引っ掛けていると、足の自由がきかないから、バランスを崩した時にはかえって危ないから、実際は縄に掛けずに、船の揺れに合わせてバランスを取りながら、踏ん張って体を支えているんです。鐘と太鼓に合わせて歌を歌っていたら、踊りを間違えないから覚えよと言われて、歌も一生懸命覚えました。たぶん、『ヨイトマカヨイトセ ホーオーエンヤ ホーランエ ヨイヤサノサッサ ヨイヨイヨイトセ』と言ったと思いますが、これの繰り返しでした。」

 エ 御船の海上練り

 「(**さん)神輿は、船に横に乗せて横滑りしないように船に縛るんです。そうすると、神輿のかき棒は、船べりの両側から海上にはみ出します。そのかき棒の端に若い衆が足を掛け、神輿に架けている綱を握り船の両方から揺するんです。陸上から若い娘さんたちがキャアキャア言うて叫ぶと、よけ(いっそう)おもしろがってやりまさい(しますよ)。時には揺らし過ぎて船をひっくり返すんです。
 昔の御船には、たすきを掛けた15人以外は、どんなに近しい人でも乗せなかったです。今はむしろ人が足りないほどで、祭りに帰ってきた者たちも誘って乗せたりもしています。御船では『とも押し』が大事な存在で、力も要るし、技が要求されるんです。とも押しとは櫓(ろ)による舵取りの操作をする人を指します。御船を左右に揺するわけですが、船が左へ沈みそうになる時は、櫓はいっぱいに引っ張り、右側へ沈みそうになった時には、櫓はいっぱいに押してバランスを保っているんです。船が右左に揺すられる度に、押しと引きとを一瞬一瞬に変える技術が大切です。船を揺する力が強ければ強いほど櫓に力が掛かるし、櫓のさばきが難しくなるんです。船の傾く力と進む力が櫓1本にズシーンとこたえてくるんです。櫓をさばく人は力も技も要るんです。そのあたりの技術と操船の勘が働かなくては、とも押しは失格なんです。それと『とも走り』という役が一人いて、船の後ろ(とも)で船の揺すりに合わせて、反対側、反対側に動いて船のバランスを取っているんです。さらに、御船を左右に大揺れに揺らすものだから、海水がどんどん入ってくる、それをバケツでかえ出す(汲(く)み出す)者もいます。
 船が揺れる度に、それも揺れが大きければ大きいほど、見物人は喜んでくれ、揺する若い衆は一生懸命で揺すっていますが、それを3人か4人が必死で加減を取っているんです。御船は大頭取(おうとうどり)(責任者)が2隻の船に一人ずつ乗って指揮をとっているんです。赤いたすきを掛けて、そのたすきには御船大頭取と白抜きの文字が入っています。それ以外は頭取(神輿のかき手)と文字が入ったたすきを掛けています。船一隻動かすのにもそれぞれの役目があるんです。そして事故を起こさぬように気配りしますが、わたしら総代も宮司が乗る船に乗って、御船の後についていて、何かあった時にはすぐに船を着けて対処するようにしておるんです。」

 オ 秋の祭り

 「(**さん)この鹿島神社のお祭りは、本来は秋の祭りなんです。戦前の春祭りは鹿島内での神事くらいでした。戦後間もなくと思うが、春にも櫂練りを出そうということで始めました。今は春の櫂練りが主になってしまったんですよ。というのは、春は昼間だけの行事で、観光客が集まり、港の周辺で歓声をあげて見てくれます。そういうお客さんたちの中で、櫂練りをする方も、港の中で1回でも多く回って、皆さんに見せてあげようというショー的なものになってきたんです。北条の秋祭りは、10月9日が宵祭りで、10、11日が国津彦命(くにつひこのみこと)神社の祭り、12日が鹿島神社の祭りです。鹿島神社の宮出しは9日で、御霊(みたま)を入れられた神輿は鹿島から北条市内港のそばにあるお旅所のお宮に入って、12日の朝までお泊まりです。その間、宮司さんはお旅所でお守りをします。12日の朝5時に、お旅所から出発ですが、普通は、それを宮出しといっています。この神輿2体が一日中旧北条の氏子の家々を練り歩いた後で、鹿島へ宮入りする前に、禊(みそぎ)と言って明星川(みょうじょうがわ)へ幾度もの神輿の放り込みがあって、これと内港での櫂練りが見物(みもの)になります。夕方の5時ころ神輿は内港へ帰り、お旅所の前のお休み所で神事をし、すぐに鳥居の前に着けてある御船に乗せて、鹿島へお帰りになるんです。その先導に櫂練り船が出るんです。その時、港内を3回ほど回って内港を出て、海岸沿いを進んで、海岸にある鳥居の辺りから鹿島へ向かっていました。最近は内港を出てそのまま鹿島神社へ一直線に向かうこともあります。」

 カ 送り火・迎え火

 「(**さん)昔は宮入りの時には送り火・迎え火をたいていました。年寄りが主でしたが、『鹿島様のお帰りだ。送り火をたこう。』と言うて浜へ出て行くと隣も隣もと、浜辺に近い者は、すくず(松葉の落ちたもの)を持って出てくるんです。そうすると、すでに浜へ出て見送っていた者も寄ってきて、送り火をたいて皆がこぞってお送りしていました。鹿島のすくずをかいて(かき集めて)きて、木小屋などに納めておいて、それをたいたんです。夕日が西に落ちて夕やみが迫るころ、先導する2隻の櫂練り船と2体の神輿を乗せた御船2隻が、静かに鹿島へ帰っていきます。9日に鹿島を出られて12日に、還御(かんぎょ)(神輿がお宮に帰られる)されるんです。その間は神様は皆とともに町においでになった。その神様をお見送りする。そんな思いで送り火をたきながら手を合わすんです。鹿島の方でも鳥居の前で迎え火をたいてくれるんです。夕やみの中で送り迎えるたき火が静かに波に揺らいでいきます。そうした光景は、敬けんでしみじみとした、何とも言えない思いを抱かせてくれました。
 戦前は伝馬船で鹿島へ渡してくれる年寄りがいました。鹿島には一般の人は常駐はしてなかったんです。その渡しをしてくれる人が、鹿島にいて、もう、お帰りだというころになると準備をしていて迎え火をたいてくれていました。」
 今年(平成11年)の鹿島へのお帰りは、日が沈み夕やみ迫る時刻であった。風もなく穏やかな海上を鐘と太鼓の音が遠ざかりながら船団はゆったりと漕ぎ進んだ。昔を懐かしむ人たちが、一か所ではあるが陸側で送り火をたき、それを囲むように数人の人たちがいて、無言のうちに帰り行く御船の一団に手を合わせていた。だれかの『迎え火だ。』の声で気が付いたが、確かに対岸の鹿島でも迎え火がともされていた。


*7:河野氏は平安時代から天正15年(1587年)に滅亡するまで伊予の国の中世を代表する豪族である。
*8:ここでは船いっぱいに日の丸の小旗や神紋旗をなびかせて飾り立てていること。

写真2-3-9 櫂練り船と先導される御船

写真2-3-9 櫂練り船と先導される御船

平成11年10月撮影

写真2-3-10 飾りも整った櫂練り船

写真2-3-10 飾りも整った櫂練り船

平成11年10月撮影