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愛媛の祭り(平成11年度)

(3)文楽の復活を願って

 **さん(北宇和郡広見町岩谷   大正11年生まれ 77歳)
 **さん(北宇和郡広見町出目   大正15年生まれ 73歳)
 **さん(北宇和郡広見町小西野々 昭和9年生まれ 65歳)
 **さん(北宇和郡広見町清水   昭和30年生まれ 44歳)

 旧泉村(明治22年〔1889年〕から昭和30年〔1955年〕まであった)は、現広見町の大字小倉(おぐわ)・小西野々(こにしのの)・上川(かみかわ)・岩谷(いわや)・興野々(おきのの)・出目(いずめ)からなり、鬼北盆地の東部に位置し、平坦部と山間部からなっている(①)。
 鬼北(きほく)文楽の名は県文化財指定申請にあたって命名されたもので、もと「泉文楽」と称して昭和28年(1953年)まで公演を行ってきた人形座であった。その由来は、明治30年(1897年)ころ、東宇和郡横林(よこばやし)村坂石(さかいし)(現野村町坂石)で興業不振のために淡路人形芝居上村平太夫座が解散し、人形その他諸道具類を土地の素封(そほう)家(財産家)に売却した。また、座員6名が近隣に住みつき、当地に人形芝居愛好の下地をつくったことにあるといわれる。昭和10年(1935年)、旧泉村の愛好者であった毛利善穂は、坂石の三瀬家から頭、道具一式を譲り受け、泉文楽を開いた。人形頭は、記名のあるもの17点を含め計42点あり、うち天狗久作が7点含まれている。昭和44年(1969年)に所有者宅の火災に伴い、大部分が損傷を受けたが、昭和58年(1983年)に修理が完了し、現在は町民会館で展示公開され、教育委員会が保管管理している(⑧)。

 ア 泉地区は浄瑠璃の盛んな地

 鬼北文楽保存会の会長**さんは、かつての泉村の浄瑠璃の状況を次のように語った。
 「もともと泉地区は昔から浄瑠璃の盛んな土地柄でした。特に岩谷地区は盛んで、徳島から浪太夫という浄瑠璃語りを招き、指導を受けていたそうです。その他にも語りの上手な人はおり、40戸余りの集落ですが、浄瑠璃を知らない者はなかったといいます。その全盛期には、川原に小屋掛けをし、忠臣蔵の浄瑠璃歌舞伎を上演したそうです。しかし、人形を遣っての芝居をしたことはなかったようです。人形芝居は阿波から源之丞、六之丞という一座が交互に巡業に来ていました。わたしも子供のころ、鎧武者(よろいむしゃ)や馬が登場した芝居を見たことを覚えています。芝居小屋は近くの小倉の商店街の中にありました。しかし、いつの間にか人形芝居は来なくなり、代わりに歌舞伎が来るようになりました。しかし歌舞伎も長くは続かず、映画が取って代わりました。浄瑠璃は、思い出話になっていました。
 浄瑠璃が復活したのは終戦後のことです。戦後、戦地から帰還した者や引揚者なども、一時地域に落ち着き、この界わいも大変にぎやかになりました。そこで、自然と取り上げられたのが浄瑠璃です。珍しさもあり、大勢参加しました。わたしはシベリアに2年間おりましたから、途中からの参加になります。わたしは、大阪文楽のレコードを聴いてから、その語りが頭から離れず、先輩たちに浄瑠璃を教わりながらも、一方ではレコードを聴いていました。今から考えると生意気だったと思いますが、先輩たちが亡くなった今、レコード(カセット)による練習方法しかありませんから、そのことが役に立っているのは、皮肉な感じもします。
 素(す)浄瑠璃(*14)の発表会が回を重ねていくうちに、引揚者も職を求めてこの地を去っていきます。また、浄瑠璃は個人芸ですから、優劣がはっきり出てきます。だんだんと気まずい雰囲気も現れてきました。昭和26年(1951年)ころ、その解決の案として取り上げたのが人形です。ちょうど地区に一対の人形(『絵本太功記(たいこうき)』十段目の十次郎・お菊)がありました。たまたま公民館の行事に上演したところ、大変な人気を呼びました。以後、方々に出掛けて上演することになりました。そのころ、毛利さんが人形道具類を提供されるようになりましたが、その経緯についてわたしは詳しくは承知しておりません。しかし、毛利さんの人形は衣装はもちろん舞台道具も、それは豪華なものでした。また、人形遣いの方も旧の旭村(現広見町)や三間村(現三間町)などからの参加者もあり、毛利さんも座主という形で参加され、名前も大きく鬼北文楽と名乗るようになりました。
 人形芝居は人手が多く要りますから、浄瑠璃語りと人形遣いに分かれることになりました。やがて、一時の浄瑠璃熱も冷め、やめていく者も出てきました。わたしは語りの方を勉強していましたが、病気をしてから4年間は浄瑠璃どころではありませんでした。昭和28年、鬼北文楽は初めて松山市での文楽合同公演会に参加しました。『仮名手本(かなてほん)忠臣蔵』六段目の勘平切腹の場を上演しました。この浄瑠璃は当地でも上手という評判の方の十八番でした。浄瑠璃はよかったが、人形はいけなかったと後で聞きました。なぜかそれきりで、二度と公演には参加しておりません。昭和44年3月に火災がおき人形頭や衣装の大半が損傷したころはすでに鬼北文楽の活動は停止していました。」

 イ 鬼北文楽の復活にかけた取り組み

 火災で傷ついた人形頭をなんとか今のうちに修復しておかなければならないと、鬼北地方の心ある人たちは頭を痛めていたが、その当時、頭一体の修理費用が40万円という見積もりで、とても財政事情が許さず、人形は焼けただれたまま10年が過ぎた。昭和55年(1980年)ころより、鬼北ライオンズクラブが中心となって修復運動が起こった。昭和56年12月には、鬼北ライオンズクラブ主催による文楽修復費助成チャリティ絵画展が催され、世話役の熱意も加わって、文化財保護への関心も高まり、思わぬ浄財を得ることができた。こういった保護運動と県や町の補助体制も整って、天狗久の流れを継ぐ阿波でこ製作保存会会長さんに修理の依頼をすることになった。この方の献身的な取り組みにより、第1期修理10体と第2期修理17体が昭和58年(1983年)に完成することができた(⑪)。
 一時中断されていた鬼北文楽の復活に至る経緯を、**さんは次のように語った。
 「もともとこの地は浄瑠璃語りが盛んでありました。ところが、人形遣いの方がおもしろいでしょう。それに、人形遣いは素人の人が割合に取り組みやすいのです。浄瑠璃という語り芸は客と対面で語らねばいけないので、これは大変緊張します。人形を取り入れますと、観客は人形に注目しますし、またずっと楽です。それでおのずと人形遣いが主体となります。また、どちらも難しい芸ですが、素人にとっては人形の方に興味がありますので、ついに浄瑠璃語りや三味線弾きの後継者が育たないことになりました。人形遣いも大事だが、今は浄瑠璃語りや三味線弾きの後継者を育てようと懸命になっているのです。が、中断していたばっかりに、この掘り起こしは大変です。幸いわたしはレコードやカセットで練習するこつを覚えていますので、浄瑠璃語りは下手ながらも一応間に合わせています。三味線弾きの方も今のところ阿波の鳴門だけですが、立派に対応できます。したがって、方々での公演も自前でできますので、公演回数が多いのもそのせいです。浄瑠璃は下手でも、人形を上手に遣えば何とかなると思っていたのが、今では文楽は結局浄瑠璃語りが元なのだと分かってきました。浄瑠璃語りが下手では頭は遣えないということが分かってきたのです。頭も語りで変わるということです。今では両方が成果を挙げてきています。
 火災にあった人形の修復は、当時の後援会会長さんをはじめ多くの方々の御尽力によりまして、昭和58年(1983年)に完了しました。それを受けて、昭和59年に『文楽愛好会』ができ、昭和61年になって『鬼北文楽保存会』が発足し、定期的に練習することができるようになりました。ただ、わたしたちにはもともと師匠がいませんでした。しかし師匠を呼ぶとなると、1日に3万円以上は要りますので、なかなか雇えません。そこで今、わたしたちの練習の手本はビデオです。ビデオはプロの芸を映していますから、そのとおり演じればよいはずですが、なかなかうまくいきません。しかし、他に方法もなく、今後とも、ビデオを大いに活用し、勉強していきたいと思っています。」

 ウ 鬼北文楽の新たな出発

 (ア)皆に親しまれる鬼北文楽に

 「(**さん)鬼北文楽は、技術的には劣っていますが、浄瑠璃語り、三味線弾き、人形遣いとそろっていることは自慢してもいいと思います。浄瑠璃語りの後継者も今、女性の方が一人語ることができるようになりました。三味線弾きは今のところ一人ですが、こちらも若い人の育成が必要だといつも話をしています。この三味線弾きの人は独学ですが、今後レパートリーも広げられるようにと彼なりに考えて練習しています。鬼北文楽の演じる演目は、まだ数は少ないのですが、名作でも、観客が理解できないものは避け、分かりやすいものを取り上げています。具体的には、『三番叟』『傾城阿波の鳴門』『八百屋お七(写真3-1-37参照)』『安珍・清姫』『壺坂霊験記』など、一般受けするものを心掛けています。全国のアンケートでも、『三番叟』を演じているか否かが調査されますが、三番叟は祝賀行事などに招かれ、方々で大変喜ばれています。」
 保存会会員の**さんは、祝い芸は三番叟からと次のように語った。
 「わたしたちの若いころは実際に歌舞伎型の『三番叟』を踊っていることもありました。昭和22年(1947年)ころ、100人くらいの青年団員がおり、昭和33年(1958年)ころまで盛んに活躍していました。青年団の活動は演芸が主体で、芝居、楽団、舞踊など、それは盛大なもので大いに楽しみました。その時の経験が文楽の三番叟(写真3-1-38参照)に大いに役立っていると思います。鬼北文楽の三番叟は、昭和61年(1986年)の『ふるさとづくり推進事業』の一環で、人形垣(人形頭作家)の新作の三番叟の人形2体を、1体が約50万円、2体計約100万円で購入しました。その費用は、県や町からの補助をいただいてのものです。この2体を遣って踊るのは二人三番叟といっています。今後とも、鬼北文楽の華の一つとして続けていきたいと思っています。」

 (イ)仕事の合間を割いて練習

 保存会会員の**さんに、練習の様子を聞いた。
 「練習は週に1回、現在は水曜日にしています。もともとは、保存会の壮年組が火曜日に、青年組が水曜日にしていたのですが、今は両方の組が一緒に水曜日に練習しています。実はもっと回数を増したいのですが週に1回が限界だと思います。会は壮年組が10人ほど、それに青年組が6、7人います。青年組といっても、平均年齢は40歳くらい、一番若い人で32、33歳くらいです。扱う人形は淡路系の人形、練習はいつの間にかビデオで大阪文楽系をしています。わたしたちには、人形の師匠がいませんので、ビデオを見つめる目は真剣そのものです。正直言ってなかなか難しいですが、忙しい時間を割いて集まってきていますから、皆熱心でかつ和気あいあいとしたものがあります。」

 (ウ)交流の輪を広げて

 芸域の拡大と技術の向上のためには交流が大切だと、保存会会員の**さんと鬼北文楽の振興に携わる**さんは次のように語った。
 「(**さん)鬼北文楽は歴史が浅いですし、長期にわたり中断していましたので、芸は未熟で高いレベルにあるとは考えていません。それだけに、すべて勉強だと思って、謙虚な姿勢で取り組んでいます。浄瑠璃語りの養成も数は少ないのですができています。問題は三味線弾きの養成の方です。また、地元の小学校での児童に対する文楽教室、地元の高校や宇和島の高校での公演など若い人たちとの交流にも努めています。若い者たちも人形の魅力を感じ取るようです。県内の一座との交流や情報交換も欠かせません。淡路や阿波の全国サミットなどにも積極的に参加するようにしています。平成4年の全国サミットで知り合いになった清和(せいわ)文楽(熊本県清和村)の見学にも二度出掛けましたが、これは勉強になりました。村全体が文楽一色なのです。ふるさと創成資金の1億円を元に4億円を投入し、会館を建て、語り手を2年間淡路に派遣し、三味線弾きの女性は公募で募集したそうです。村民の村おこしの面からも大変勉強になりました。」
 「(**さん)交流は大切だと思います。芸域を広め技術を高める機会であるのはたしかです。広見町としましても、平成11年11月14日の日曜日に、徳島県の阿波人形浄瑠璃平成座、香川県の直島(なおしま)女文楽の2座を招いて、鬼北文楽との3県3座による合同公演会を、多くの観客を迎えて広見町勤労青少年体育センターで開きました。義太夫と三味線弾きをかかえた3座の上演には山場ごとに観客から大きな拍手がわいて大変好評でした。」

 (エ)鬼北文楽後援会

 「(**さん)鬼北文楽には、保存会とは別に『鬼北文楽後援会』があります。この後援会には、人形の修理修復を手掛けた方々が会長、副会長となり、鬼北文楽のお世話をしていただいています。文楽は、人形頭、衣装、舞台装置などに非常に金がかかりますので、町や後援会から資金の援助を受けていますし、運営も相談しながら行っています。また、わたしたちの方もわずかながら公演の収入を充てています。地域の後援は本当に有り難く、今後も地域に根づいた芸能として、皆さんの理解や協力を得て継承していきたいと思っています。」


*14:人形を遣わず、または立方(たちかた)(舞い踊る役目の人)の踊りなしで、語りと三味線のみで演奏される浄瑠璃。

写真3-1-37 八百屋お七「火の見櫓」

写真3-1-37 八百屋お七「火の見櫓」

平成11年10月撮影

写真3-1-38 人形芝居「三番叟」

写真3-1-38 人形芝居「三番叟」

平成11年10月撮影