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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)地方祭から市民の祭りへ

 今治という名前は、藤堂高虎(1556~1630年)が慶長7年(1602年)に蒼社(そうじゃ)川河口左岸に城を築き、この地を治めるに至って、新たにひらき治めるという意義付けのため、名付けられたといわれている。また、地元では、「いまはる」「いまはり」とも呼ぶが、大正9年(1920年)の市制施行後は「いまばり」となった。幕藩体制の時代には、城下町として栄えるが、明治時代に入り汽船の寄港地となり、大正11年(1922年)に四国初の開港場となり、昭和30年(1955年)代からはフェリーボートや高速船が就航するなど、今治港を中心に商工・港湾都市として発展してきた。

 ア みなと祭りの歩み

 **さん(今治市旭町  昭和23年生まれ 51歳)
 **さん(今治市大新田 昭和28年生まれ 46歳)

 (ア)みなと祭りの始まり

 今治市では、太平洋戦争後の窮乏生活からやや立ち直り、商店街も復興してきた昭和26年(1951年)に、商業発展の一環として新しい祭りをという声が商店街側から起こった。昭和28年には、藤堂高虎が慶長7年(1602年)築城開町してから350年の記念式典が吹揚(ふきあげ)城跡公園において行われたが、この年はタオル創業60年(*14)の記念の年でもあった。さらに第8回国民体育大会の種目別(ハンドボール、ボート等)の会場となった。この三つの大きな行事の重なりによって、商店街も美しく飾られ、大浜八幡神社の神輿の海上渡御も行われたり、大名行列も五日間市内パレードを行った。この時の熱気が、みなと祭り実施の大きな推進力となった。昭和30年(1955年)2月には、今治市と周辺の波止浜(はしはま)町、乃万(のま)村、日高(ひだか)村、清水(しみず)村、富田(とみた)村、桜井(さくらい)町が合併し、人口96,654人となり、待望の10万人都市まであとわずかとなった。その年に、今治商工会議所を中心に実行委員会がつくられ、10月15日から3日間、第1回みなと祭りが盛大に挙行された。3日間を通じて、花火、装飾コンクール、切手展、写真展、植木市、農業機具展、バラ展などが行われ、15日は駅伝、中学野球、獅子舞、畜産共進会、16日は高校野球、大浜八幡神輿海上渡御、競馬、ボートレース、17日は中学野球、広告宣伝車行進などが行われた。
 昭和32年の第3回みなと祭りでは桜井漆器展やNHKのど自慢大会や市庁舎および公会堂新築落成祝賀を兼ねた仮装行列があった(⑩)。
 昭和40年の第11回みなと祭りは、今治市制45周年に当たるとともに周辺6か町村と合併してから10年目に当たるので、「今治市および周辺6か町村合併10周年記念みなと祭り」として、恒例の港湾感謝祭のほか、今治市域一周駅伝や仮装行列など郷土色豊かな行事をたくさん組み入れた。特に赤穂浪士にふんした市長や商工会議所議員、商店街連盟連合会役員の市中行進には沿道からの拍手がわいた。

 (イ)みなと祭りの様子

 みなと祭りの様子を、祭りにかかわってきた今治商工会議所の**さんと**さんに聞いた。
 「(**さん)昭和30年から商工会議所が中心になって始めたみなと祭りは、台風などで4回くらいの中止がありましたが、平成9年まで開催されてきました。みなと祭りが始まった当時の商工会議所のメンバーには、商店街の商店主さんが多かったです。
 このみなと祭りでは、今治港が四国で初めての開港場となり、港によって今治市が発展してきたことに対する感謝ということで、オープニングセレモニーとして港湾感謝祭を行いました。平成10年に市民の祭り『おんまく』になっても、その感謝祭だけは引き継いでいます。
 初期のころの祭りのイベントの中心は、昔からこの地域にある盆踊りの木山(きやま)音頭(*15)でした。今治よいとこ音頭やタオル踊りなどもありましたが、最近は、今治お祭り音頭になりました。踊りの行列は、各所に置かれたスピーカーから流れる音楽に合わせて市役所の前をスタートして、広小路を通って港務所を右に曲がって、銀座商店街を通ってどんどび(*16)交差点で流れ解散していました。
 昭和61年(1986年)には、3年ぶりに花火大会が始まり、わたしは準備の段階からかかわってきました。まちに花火大会くらいないと寂しいというので、みなと祭りで行うことになり、打ち上げだけの花火大会を始めたのです。その当時、打ち上げる花火は、1,200発でしたが、最近は5,000発くらいは打ち上げるようです。」
 また、みなと祭りでは市民に親しまれていた小・中学生による鼓笛隊のパレードがあったが、そのことについて**さんに聞いた。
 「(**さん)小・中学生の鼓笛隊が登場するのは、昭和39年(1964年)の第10回みなと祭りの時のようで、その時には小・中・高校生800人に及ぶ音楽隊の行進があったようです。その後、今治市内のほとんどの小学校の鼓笛隊に参加してもらってのパレードを毎回行うようになりました。鼓笛隊のパレードは、土曜日の午後2時30分に美須賀(みすか)小学校をスタートして旭町に出て、どんどび交差点から銀座商店街に入って、まっすぐ港の方に抜けて港務所の所で左に曲がって、広小路を通るというコースを行進しました。この鼓笛隊は、小学校4・5・6年生で構成するもので、子供たちは楽しみにしていました。昭和40年代に鼓笛隊を経験した人たちの子供たちがまた同じように鼓笛隊で参加するといったこともあり、親子代々受け継ぐような伝統行事になってきました。」
 東京オリンピックの開催された昭和39年は、市庁前でオリンピックの聖火を模した聖火を点火するなど、初めての企画行事が繰り広げられた。これ以後、年ごとの意義づけと新しい催しで回を重ねるごとに祭りの彩りを濃くし今治の伝統行事として定着させていった。

 イ みなと祭りと商店街

 **さん(今治市本町  昭和10年生まれ 64歳)
 **さん(今治市常盤町 昭和13年生まれ 61歳)

 今治商店街協同組合の理事長である**さんと副理事長である**さんからみなと祭りと商店街のかかわりについて聞いた。
 「(**さん)みなと祭りの時には、商店街協同組合から警備に参加していました。以前は、商店街協同組合でも地域ごとに仮装行列を出したり、八幡(ばはん)船の形をした山車をつくってそれに七福神のかっこうをして乗ったり、踊りを出したりしていました。わたしの住む本町では、共栄(きょうえい)町に今治劇場という芝居小屋がありまして、そこの衣装やかつらなどを借りて仮装行列を出したことがあります。」
 「(**さん)今治は港町ですから駅よりも港の方がにぎやかで、昭和40年くらいまでは、毎日、朝早く周辺の島の渡海船が60隻くらい港に来て、島の住民の注文した日用雑貨や食料品などを商店街で買い、昼過ぎにはそれぞれの島に帰っていました。桟橋以外の岸壁に渡海船が数多く着いていたのですが、フェリーボートが運航してからは、少なくなってきました。
 最初は、港周辺から本町(ほんまち)通りがにぎやかだったのですが、やがて港から駅までを結ぶ通りの方がにぎやかになり、今治銀座と呼ぶようになったのです。
 商店街にアーケードが最初にできたのが昭和34年ころです。その後建て替えがあり、昭和63年にどんどび交差点入り口のアーケードができて、今治銀座のアーケードは完成しました。アーケード内では、いまばり銀座朝市や土曜夜市などを開催し、集客に工夫をしました。今治市内には神社の秋祭りがありませんので、みなと祭りは人集めに非常に効果がありました。」
 今治市内に秋祭りが行われないことについて、「吹揚(ふきあげ)神社の例祭は毎年旧暦の8月14日、15日の二日間行われていた。住民にとって年に一度の楽しい行事であった。だが時期的に年々ずれを生じることから商店街ではいろいろの不都合があった。大正2年の商工会総会で、2、3の会員から『これを春季に変更して、秋は思う存分商売に打ち込んではどうか。』との提言が出された。種々協議した結果、この案が採択され、早速その年から実施することに決まり、今日に至っている。県下各地で、秋祭りが盛大に行われているが、今治のみ春祭りを実施して特色となっている。(⑩)」と記されている。

 ウ バリ人のバリ祭

 **さん(今治市常盤町 昭和36年生まれ 38歳)
 今治の夏の踊りの祭典として始まったバリ祭について、バリ祭の仕掛け人の一人として中心的な役割を果たした**さんに聞いた。

 (ア)若者の祭りづくり

 「10数年前にわたしが所属する今治青年会議所の先輩たちが、架橋後の今治の在り方を考えて、白砂青松(はくしゃせいしょう)の砂浜の海をテーマに町おこしをしようと提案しました。そこで、昭和63年(1988年)に『ホッと今治』という名前で第1回ビーチバレーボール大会とジェットスキー大会を開いて、唐子浜(からこはま)の海やそこから見える島なみを観光の目玉にしようということで全国に発信したのです。平成元年から『ホッと今治』が終わった後、唐子浜の浜辺で打ち上げも兼ねてコンサートを始めたのです。ビーチバレーボール大会は、平成11年から、しまなみカップ大会となっていますが、ジェットスキー大会は平成2年でやめました。
 平成3年に、今治市を中心に1市15か町村で、架橋後の人材育成や観光レクリエーション事業を行っていくために、広域行政事務組合『ふるさと創成基金』がつくられました。その基金から、青年会議所に観光レクリエーション事業として何か考えてくれと言ってきたのです。それで考えたのが、海の上に浮かべたポンツーン(台船)の上でのコンサートです。平成3年には第1回『瀬戸内音楽祭』として、今治市出身で世界的ミュージシャンのコンサートを開催しました。第3回からは、有名なバンドを呼んできて、同じ形態で開催していたのですが、平成10年からやめています。」

 (イ)バリ祭の始まり

 「(**さん)瀬戸内音楽祭と同時に、『ホッと今治』でも夏に若者が盛り上がる夏祭りをしようということになり、平成5年に夏祭り実行委員会ができました。わたしが委員長となり、商工会議所が中心の商工業のお祭りといった感じの『みなと祭り』ではなく、踊り中心の市民祭りとしての夏祭りを目指そうということで始めたのです。最初の年は、お祭りサミットのような形で、よさこい鳴子おどりや阿波おどりを呼んで来て踊ってもらい、2年目から今治独自の祭りにしようと委員会に投げ掛けたのです。そうすると、曲も踊りも全て独自のものをつくろうということになったのです。そこで、曲は、有名なパーカッション演奏家でバリ島ともなじみの深い方にお願いしたのです。振り付けは、わたしの友人でジャズダンスの教師につくってもらった踊りを基本形としました。今もその振り付けが基本です。夏祭りのネーミングは、スタッフのある女の子が聞いたという今治市民はバリ(治)人だという言葉をヒントに、バリ人の踊りの祭りだからバリ祭となったのです。
 祭りの準備は、半年前からしていました。しかし、いろんな団体が絡んでおり、新規で行うことですので、曲が出来上がったのは、祭りの3か月くらい前でした。いきなりバリ祭をして、失敗したのではいけないから、第1回バリ祭というよりも、その前に行うということでプレバリ祭ということにしたのです。そして、踊り隊の勧誘には、曲を入れたCD(コンパクトディスク)を5,000枚つくって、それを配布しながら踊りに参加してもらうように頼みに回りました。
 踊りの基本形を我々が説明に行った時に、『これは基本形ですので、変えてもいいです。踊りは自由です。』と伝えていました。そして、本番前日のリハーサルで全部の連に集まってもらって、舞台の上で一連ずつ踊ってもらいました。すると、ほとんどの連の踊りがほぼ基本形でした。ところが、中にまったく踊りを変えてきた連がありました。それに刺激を受けて、その晩に集まって踊りを変えて練習をした連も幾つかありまして、本番の時には、踊りに工夫が見られました。ここにバリ祭が誕生したのです。」

 (ウ)バリ祭を続けて

 「(**さん)平成5年に始まるバリ祭の踊りの会場は、今治銀座と広小路の商店街沿いの側道です。そしてメインストリートは港務所前の通りで、通り沿いの広場は車の進入や駐・停車を遠慮してもらい、舞台をつくって中央会場としました。初日の土曜日には、この中央会場から内港を通って広小路に出て、市役所の方に向かって踊るのです。日曜日には、商店街と広小路と中央会場で踊っていました。審査は、最初は実行委員会でしていたのですが、市民から公募で10人選んで審査をしてもらうようになりました。踊りの1連の人数は、5人から50人くらいでした。連の数は最初28連でしたが、平成9年には100連くらいになりました。
 踊りのルールとしては、今治産のタオルを身に着けることと、水軍太鼓(和太鼓)をイメージしばちを持つということで、最初から変わっていません。それらの形や色については自由です。
 バリ祭は、みなと祭りと競うということでなく、みなと祭りと違うものをしようという意識だったのです。だから踊りにこだわったのです。そして、若者たちがだんだんと加熱していきまして、年配の人たちが、参加しにくくなってきたのです。
 タオル組合青年部もプレバリ祭と第1回バリ祭には連を出して踊っていたのですが、第2回からは、タオルのファッションショーをするようになったのです。そして、パリコレクションにあやかって、バリコレクションということになって、バリ祭の中のイベントになったのです。」

 エ 市民の祭り「おんまく」

 (ア)おんまくの始まり

 「(**さん)平成10年からは、商店街のお祭りから市民総参加の市民祭りという形になったのです。そして、市民総参加であるから、企画運営の段階から市民が参加するようにということで、市内の各種団体の代表者に実行委員会に参加してもらうようになったのです。みなと祭りとバリ祭の統合については、どちらかの組織を中心とした吸収合併ではなく、新しい組織をつくろうということになりました。それが商工会議所の中につくった『祭り活性委員会』です。商店街では、春は吹揚神社の例大祭、夏は夜店、秋はみなと祭り、年末には大売り出しがあってというように年間のイベントが組まれていました。このうち、秋がなくなると困るので、吸収合併しても秋にしてくださいという意見があったのです。しかし、委員会では、みなと祭りは10月、バリ祭は7月、どうせ一緒にするのだったら盆の帰省者にも楽しんでいただくために、新しい祭りは、8月の盆の前に実施することに決めたのです。
 名前についても、40年続いた『みなと祭り』という名前は残してほしいという意見もありました。しかし、一から新しいものをつくろうということで、一般公募をして、選定委員会によって『おんまく』という名前が決定されたのです。すでに、『おんまく』という名前は悪用されないように商品登録しています。おんまくという言葉は、今治地方の方言で「大変な」「相当な」という意味なのです。
 去年(平成10年)名前を発表した直後には、市民の方から『おんまく』という名前についていろんな苦情の電話をいただきました。しかし、去年の今治の流行語大賞になってなじんできたのか、今年は名前を使わせてくれないかという問い合わせをいただきました。
 おんまくの日程は、1日目が前夜祭、2日目が各種の踊り、3日目が花火大会となります。1日目の前夜祭では、今治市公会堂で踊りの代表連が踊ってみせたり、各イベントの紹介をしたりします。2日目の踊りは、広小路を通行止めにして、午後4時からはダンスバリサイの踊りがあり、午後7時からは自治会等の連が出て今治お祭り音頭などの盆踊りがあります。踊り子は総勢6,000人くらいで、一斉に同じ音楽を流して踊りながら踊りのコースを回っていくのです。曲は同じでも、振り付けは連によって多少違いますので、連と連との間は適当な間隔で間を空けています。ダンスバリサイはコンテストをしますが、盆踊りはコンテストはしません。最後の30分は総踊りということで、広小路で盆踊りの連とダンスバリサイの連と観客の飛び入りの参加も交えて踊ります。昨年(平成10年)の観客動員数は、11万人でした。」

 (イ)おんまくの効果

 「(**さん)おんまくが夏に決まった理由は、西条市や新居浜市の祭りはだんじりや太鼓台の組み立てなどの準備でそれぞれに市民の心の高ぶりがあると思うのですが、今治市ではそういうものがないので、市内の各地域の盆踊り連の練習で心の高ぶりをつくろうということです。また、盆踊りは今まで毎年行ってきたことですから、それの延長線上に市民のお祭りがあるというようにすれば、まったく新しいものをつくってするより無理なくできるのではないかということもあるのです。
 おんまくとなった時に、バリ祭も名前を変えないといけなかったのですが、たまたま踊りの曲が『ダンスバリサイ』だったので、この名前が残ったのです。そして、わたしも、おんまくの踊り部門の委員長になり、踊りの練習は盆踊りとダンスバリサイと同じ場所で一緒に行うようにしたのです。それまでは、若者は盆踊りを嫌い、年配の方はダンスバリサイを嫌っていました。しかし、今回は、時間ごとにそれぞれの踊りを練習するので、他の踊りの練習の時に待つのが嫌なので、自然とダンスバリサイの練習に年配の人も入る、若者も盆踊りの練習に入るというようになりました。今では、年配の人もダンスバリサイが踊れるし、若者も盆踊りが踊れるという相乗効果が出るようになったのです。
 昨年(平成10年)おんまくになって、広小路を通行止めにして、通りいっぱいに6,000人の踊りの輪が広がっているのを見て、わたしは気持ちが高ぶるほど感激しました。というのも、みなと祭りとバリ祭と祭りが分かれていた時には、実現できなかった広小路の車の通行止めが、おんまくという形で実現したのですから。
 昔は、人々の生活の中に、寺社の祭りが、春の祈り、夏の払い、秋の祝いという形でうまく入っていました。しかし、都市化が進むことによって一度そういったものが失われます。そして、もう一度市民の力でそのリズムを取り戻そうとしたのが『おんまく』であるように思います。」


*14:明治27年(1894年)に綿ネル業を営む阿部平助によって、今治地方で最初にタオルの製織が始まる。
*15:慶長7年に藤堂高虎が今治城築城の時に、現場監督に当たった木山六之丞が作業員の士気を鼓舞するために地固めの
  際、歌わせたといわれるものである。
*16:今治市の中央部を東に貫流する蒼社川の右岸(旧日高村小泉川原)から分流した泉川が、蒼社川氾濫原の北縁を北東に
  流れ、国道196号と国道320号の分岐点で金星川と名称が変わる。そこに設けられた樋門が呑吐樋(どんどび)である。