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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

六 周桑平野山麓の果樹

 山麓の地形と果樹園の分布

 周桑平野の南縁は、石鎚山地・綱付山(五一九・六m)および小松丘陵の山麓線に沿って直線的である・石鎚山地山麓に付着する台地群は、中山川の右岸を湯谷口より寺尾を経て明穂(現小松町)に至る。低位台地は最も広く、扇状地性の河岸段丘で、低位には新期の氾濫原堆積物がのっている。中山川との比高は五~一五mで、台地面には円礫が散乱し柿園になっている。西縁の山麓には高縄山塊東三方ヶ森に源を発する関屋川および支流の南谷川・ウルメ川・田滝川の形成した復合状の関屋川扇状地・大明神川扇状地の如き円弧状の扇状地が発達している(写真2―13)。
 関屋川扇状地は東西南北ともに四㎞におよぶ模式的な復合扇状地で、扇頂付近は関屋川・田滝川が各々勾配のちがった小扇状地を形成しつつ合流し、扇頂から扇央まではまだ山地内埋積原の性格が強く、完全に谷間を離れて急速に約一六○度の裾を開くのは、扇央から扇端にかけてである。扇端は北田野・長野・石経・来見付近で中山川氾濫原と接し、来見・石経にかけて側方浸食を受げ小崖を形成している。
 高燥な扇状地面は乏水性地形で、関屋川には通常表流水がなく、下流では天井川と化している。堆積土壌は粘板岩・頁岩などの風化生成物である粘土に富み、多数の礫はかえって土壌を良くし、果樹栽培に適した。大正年間から果樹園化され、愛宕柿の銘柄産地を形成し、近年は柑橘類が扇端付近で栽培されている。大明神川扇状地の扇央も、桑園から愛宕柿畑に転換していった。

 山麓台地および扇状地の土地利用の変化

 関屋川扇状地は乏水性の地形で、水田化がむつかしく、その土地利用は新しい。『愛媛県農事概要』明治二四年(一八九一)によると、徳川幕藩期の半ば以降農業経営の中に、零細ではあるが、工芸作物(櫨)の商品生産の伸展がみられる。
 松山市湊町二丁目、大濱屋喜兵衛の努力によって、「周布郡ハ志川村及び来見村・石経・長野・高松・川根・今井・久妙寺村二桑村郡ハ新町村及び旦ノ上市村邊」に普及した。主に開墾地あるいは、畦畔などに栽培されてきた。櫨は越智郡にないだげで各郡に分布し、周桑郡は享保四年(一七一九)からの記録があり、周桑郡中川村(現丹原町)の王櫨は特に有名である。最盛期には中川村だけで二〇万貫も収穫され、田野村長野部落には櫨畑が一五haもあったが多く耕土が薄いので収量も少なかった。中川村は王櫨の本場で、各集落ごとに製臘家があった。その櫨が。
 周桑の櫨は松山藩の奨励で発達してきたが、比較的平坦な扇状地に密集し櫨畑を呈した。扇央部は砂礫が多く耕土が薄いので収量も少なかった。中川村は王櫨の本場で、各集落ごとに製蠟家があった。その櫨が衰退したのは、電灯の普及、化学製品の開発などで特殊な用途以外に需要が減った。村上節太郎は『愛媛県の櫨及び製臘地域に関する地理学的研究』の論文中で、その衰微を次のように記している。

「石根村(現小松町)が愛宕柿の原産地で、之が普及した。柿は四年目から収入があるのに対して、櫨は採算がとれるまでに一〇年はかかるので歓迎されず、櫨は老木になると伐採され、而も更新されずいつの間にか櫨畑は次第に柿畑に変わっていった。又農商務省の櫨に対する補助が大正一〇年(一九二一)頃打切られたのも減少の一因であった。」

 周桑では大正二年(一九一三)田野村(現丹原町)長野の櫛部国三郎によって、愛宕柿の有望性が実証され、愛宕柿の増植がすすみ、昭和三〇年代が最盛期であった。
 周桑平野山麓地帯の耕地利用をみると、中南予および越智郡の果樹地帯にくらべ、急傾斜地の利用率が極めて低いことである。果樹園面積の最も広い田野村が一・六%、中川村四一・一%(現丹原町)で、関屋川扇状地の平坦面を利用していることがわかる(図2―12)。果樹の種類別では渋柿の愛宕柿が中心で、柑橘類は約一五%、桃と梨・ぶどうか僅かに存在する程度で、柿が周桑果樹園芸の根幹を占めた。明治末期に、温泉郡で発達していた梨・みかん栽培に関心をもった一部の人々が栽培を試みたが成功しなかった。大正一二年(一九二三)周桑郡農会によって、果樹栽培が農家の副業として奨励されるに及んで、柿栽培に一段と拍車が加えられ、さらに養蚕業の不況によって伸展し、周桑郡の果樹地帯の中核部を形成した。
 愛宕柿の原産地石根村(現小松町)妙之谷川流域の大郷を中心とした地区、大谷池東側の川原谷地区、中山川上流丹原町に隣接する安井地区にも顕著な果樹栽培地域がみられるが、それも戦後の温州みかんブームによる柑橘栽培の台頭が著しい。柿は比較的低位の山麓面に分布し、大郷・安井地区では柿園の分布は海抜八〇m、岡村地区で一〇〇mを超える部分が小範囲にみられる。妙口・大郷といった柿園を多く所有している地区は、経営規模が比較的大きい。小松町は果樹栽培面積一ha以上の経営農家が七〇戸二・九%を占めるのに、丹原町は果樹経営農家一四一五戸中一ha以上は、五〇戸三・五%で〇・五ha以下が六二・七%を占め、零細経営が多い。
 みかんの新植が急激にすすんだ地区は、小松町明穂・西大頭・川原谷・岡村など兼業率の低い農家がより高い収入を果樹に求めた地区である。これら山麓台地の果樹を中心とした開発は、その要因に戦後の土地所有の変革がある。戦後の自作農への転換と部落所有林・住友所有林の解放および農地改革なかばに行われた旧住友所有林一三〇haの解放は、農民の生産意欲と相まって、見事な果樹園へと転換を促していった。

 温州みかんと落葉果樹との競合関係

 果樹栽培は、表2―16の如く次第に生業として成長し、果樹地帯としての地位を確立してくる。田野の柑橘栽培は、明治四〇年(一九〇七)ころ渡部春本が兵庫県川辺郡から一八三本の苗木を購入し、西長野に四反五畝の園を開いたのが、村内果樹園の第一号である。同年ころ沼田藤吉が温州みかんを栽植したのが、温州みかん園の最初である。大正一二年(一九二三)沼田富平が、温泉郡興居島から改良温州を導入、その後各地から優良系統が入り、早生温州も栽培するようになった。
 ネーブルは、大正初年に沼田藤吉・沼田芳吉らが屋敷に植えたが、土地に適せず僅かに混植した程度であった。八朔は昭和三年徳永寅一が、五年生の苗を試植した。同五年村農会に依頼して穂木五〇〇匁を得て育苗し、九年に園地化した。しかし、柿にくらべてみかんの栽培は、柿ほどには盛んにならなかった。温州みかんが柿を追い越すのは、昭和四〇年以後のことである。
 周桑の果樹はもともと落葉果樹を中心とした地帯で、昭和三五年頃までは、特産の愛宕柿を中心に桃・ぶどうの落葉果樹の主産地であった。ところが昭和三五年ころから、全国的なみかんブームにのって、胴枯病の被害に悩まされた愛宕柿の改植、水田転換の温州みかん園の造成がすすみ、桃もなくなり特産の愛宕柿も半減した(図2―13)。しかし、転換されたみかん園も、経済的に恵まれた期間は短く、全国的な生産過剰による価格暴落によって、品質的に恵まれない周桑みかんは、特有の酸が強く皮が厚く、貯蔵して年明けに出荷する市場対応すら困難になり、安いジュース用加工みかんになってしまった。こうしたなかで、平坦地の田野地区(現丹原町)四五〇戸は、宮内伊予柑を中心とする晩柑類に品種更新の先導的役割を展開した。
 伊予柑の生産量も年々増加して、ようやく軌道にのりはじめた矢先、昭和五六年二月の異常寒波(図2―14)によって、中晩柑類が壊滅的打撃を受けた。被害は約二九〇億円。県寒害調査班は、「異常低温という気象的要因だけでなく、自然条件を無視した品種更新が原因……。」と総括した。しかし、伊予柑への品種更新は、東予でも成功したと思う。温泉青果農協管内産ほどの良品はできないが、単価は温州みかんの何倍も高く、収入が多くなるのだから、頭から不適地ときめつけられるのは不満であるという声も強い。現に、丹原町は越智郡菊間町の二八五haに次ぐ一二一haの伊予柑を栽培する東予第二の伊予柑産地である(写真2―14)。
 寒害を契機に、東予地方では落葉果樹や野菜への転換をすすめるべきだとの提言も相次いだが、東予特産の柿も価格変動が大きく不安定であること、野菜も市況変動が激しく、現状では伊予柑の経済的産地論の考え方もある。しかし、寒波被害は生産体制に何の変化ももたらさなかったわけではなかった。農家をふるいにかけ、片手間での柑橘生産者とそうでない農家の生きる道をはっきり区別させるきっかけをつくった。
 他産地と競争していけるものは施設以外にないと、ハウスみかんの試験栽培を試みるものがでてきた。丹原町のハウスみかん栽培農家(昭和五五年調査)は、来見五戸四八アール、石経六戸八六アール、関屋五戸六四アールで、長野は二三戸四五三アール、北田野二七戸四〇六アールと、扇端の水田転換園に集中している(写真2―15)。しかしかように、柑橘栽培に意欲を燃やしていた農家でも、再び来るであろう寒波を恐れ、ある者は施設栽培に、ある者は落葉果樹に切り替える兆しをみせはじめている。

 キウイフルーツ産地の形成

 キウイフルーツは、中国揚子江流域から台湾にかけて分布し、特に陝西省・秦嶺山脈と大巴山脈・河南省の西部山地に多いマタタビ科マタタビ属の果樹である。嘉永元年(一八四八)イギリス人路ロバートーフォチェンが、中国から持ち帰って紹介したのが最初という。日本への導入は、昭和三八年横浜国立大学の工藤茂道が、ニュージーランドから種子を入れたのが最初である。苗木は同四五年にニュージーランドから三〇〇本導入して、試作した。愛媛県への導入は同四四年である。同四九年に農林水産省果樹試験場安芸津支場から、愛媛県果樹試験場へ初めて、ヘイワード・ブルノー・モンティ・アボット・マリア・トムリの休眠枝(穂木)が導入され、挿木が行われた。昭和五〇年にはニュージーランドから苗木二〇〇〇本が導入され、県下でも試作が始まり、毎年多くの新植がみられた。特に温州みかんの過剰生産にともなう品種転換作目として、また米の減反政策の影響もあって過熱気味に増植がすすみ、愛媛県は全国一のキウイフルーツの栽培県になった。
 昭和五七年には温泉青果・西宇和青果についで東予園芸が三位であったが、五八年には先進産地を圧倒して、丹原町が県下の栽培面積の首位となり四七haを占めた。しかし、キウイフルーツの栽培面積は産地間の年次変動が著しく、昭和六〇年統計では松山市八九・六ha・北条市六三・三ha、丹原町六二・〇haの順で三位である。生産量も松山六八八トン、北条四一〇トン、八幡浜市三四八トン、伊予市二二〇トン、丹原二〇〇トンで五位である(図2―15)。
 キウイフルーツの名は、ニュージーランドの国鳥キウイに果実の外観が似ていることから命名された。キウイフルーツは、雌雄異株で樹勢は強く枝はつる性で新梢の先端部のみ巻きつく性質があり、棚仕立が必要である(写真2―16)。気温はみかん地帯よりも二~三度C低いところでもよく、甘柿の栽培可能地帯までが適地という。晩霜常襲地帯今秋早く気温の下がるところ、初霜の早い地域は木や果実の障害、品質低下を招くので不適である。また潮風害に弱い。

図2-12 周桑平野山麓の果樹園の分布

図2-12 周桑平野山麓の果樹園の分布


表2-16 田野村(現丹原町)の年次別果樹面積の推移

表2-16 田野村(現丹原町)の年次別果樹面積の推移


図2-13 丹原町の果樹栽培面積の推移

図2-13 丹原町の果樹栽培面積の推移


図2-14 昭和56年2月27日の等温線図

図2-14 昭和56年2月27日の等温線図


図2-15 愛媛県市町村別キウイフルーツの栽培面積の分布

図2-15 愛媛県市町村別キウイフルーツの栽培面積の分布