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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

第二節 東予西部の地域区分

 東予西部の地域区分

 『和名抄』(九三〇年代成立)によると、伊予国は一四郡七二郷の名がある。宇摩郡は山田・山口・津根・御井・余戸。新居郡は新居・丹上・島山・立花・加茂・神戸。周敷郡は田野・池田・井出・吉田・石井・神戸・余戸。桑村郡は篭田・御井・津宮よりなる。
 越智郡は朝倉・高市・桜井・新屋・拝志・給理・高橋・鴨部・日吉・立花。濃満郡は宅方・英多・大井・賞多・神戸の郷よりなる(図1―1・1―2参照)。
 

 越智郡の地域区分

 越智郡・今治市の地域を指す東予西部を次の五地域に区分し、その地域の住民の生活様式を地理的に論述していくことにする。
 一、今治市とその周辺 二、朝倉・玉川地域 三、野間地方 四、越智諸島 五、上島諸島(図1―3)。


 今治市とその周辺

 今治平野は蒼社川および頓田川の流域である。今治平野には奈良時代の国府や国分寺や国分尼寺の跡があり、条理制や太政官道の遺構が残っている。国府跡は未確認であるが、今治市域であることは確かである。今治の城下町は、藤堂高虎が関ヶ原の戦功により二〇万石に封ぜられ、臨海城を築いた。高虎は五角形の宇和島城もつくり築城家としても有名である。河上保固が蒼社川の河口を南に付け替えたのは、松山の足立重信が石手川を付け替えたのと似ている。今治の綿布は享保の昔から、タオルは明治三〇年頃からの歴史がある。綿布・タオル・染色・縫製の五〇〇余工場が市内から郊外に広がって分布し、東予市・松山市にまで伸びている。今治は日本一の模式的「綿都」である。
 来島水軍の伝統ある波止浜の附近の造船業は、場所が狭いので、来島どっくは西の大井浜に拡張し、今治造船は丸亀に、波止浜造船は多度津に進出した。今治は大正一一年(一九二二)四国で最初の開港場に指定された。今は港は輻湊し、巨船時代のため、織田が浜に港湾整備が計画されている。中四国連絡の瀬戸内海大橋(今治・尾道ルート)の開通も迫り、予讃線は現在、今治駅を中心に二・六㎞に及ぶ高架線の連続立体交差事業も目下工事中である。これで市内八箇所の踏切の交通渋滞も解消する(図1―4参照)。


 朝倉・玉川地域

 今治平野の南西部の山麓地域である。今治市の人口一二万五一一六(六〇年国調)に対して、朝倉村は四五〇四人、玉川町は六〇九九人で、地域は狭い。朝倉も玉川も今治市の近郊農村で、通勤距離で、いわゆるベッドタウン化されている。朝倉の農業は葉たばこ、いちご、きゅうり、花木、傾斜地はみかんが多いのに対して、玉川町は山間部が広く、しいたけ栽培が盛んなのが特色である。山間部は冷涼気候のため、夏秋作きゅうりに適し、特産物で知られている。
 「ふるさとこみち」の朝倉村のコースをみると、①古谷の五台山竹林寺―②式内社の多伎神社―③樹の本の古墳―④公民館の大楠―⑤満願寺と金毘羅山―⑥野々瀬の古墳群―⑦笠松山(海抜三五〇m)の史跡・展望と付近の国民休暇村、瀬戸内海国立公園の一環をなしている。
 玉川町の「ふるさとこみち」は、①石清水八幡(神像は県指定文化財)―②四国札所の五七番栄福寺―③犬塚池―④光林寺(宝篋印塔は鎌倉期のもので県指定文化財)―⑤玉川ダム―⑥鈍川温泉と国宝の奈良原山出土の経塚がある。


 野間地方

 「和名抄」には越智郡は一〇郷、野間郡は五郷(宅万・英方・大井・賞多・神戸)とある。明治二二年(一八八九)町村制施行のとき、野間郡は二九か村が次の八か村になった。本巻の野間地方と次の八か村とは若干区域が違う。八か村とは、波止浜・及万・波方・大井・小西・亀岡・歌仙・菊間である。このうち、波止浜と乃万は今治市に合併したので、残り六か村を本巻では便宣上、野間地方と称する。今治市の人口一二万五一一六に対して、波方町は一万〇三六三、大西町九六九五、菊間町九六九三人(六〇年国調)である。
 野間地方の産業では、大西町の来島どっく、波方町の海運業、菊間町の粘土瓦とみかんの灌水施設が特色である。
 「ふるさとこみち」の波方村のコースをみると、①玉生八幡(来島村上水軍の氏神)―②長泉寺と五重塔(鎌倉期)―③塔の峰(海抜一四九・七m)の来島村上水軍の見張所―④弘法の泉―⑤波方海賊城砦群(大角の砦)来島村上家の居館跡―⑥水崎遺跡(縄文前期土器出土)石錘―⑦太閣井戸(文禄元年(一五九二)秀吉が征韓の節、潮待ち風待ちした所で、今も年中きれいな水が湧いている。
 波方町の観光ルートとして、瀬戸内海国立公園の梶取鼻からの展望、森繁久禰の峰火山の碑、宮崎鼻のやまももこみち、海岸の磯釣も魅力がある。
 大西町の「ふるさとこみち」は、①尊真親王(後醍醐天皇の皇子)の墓―②妙見山古墳―⑤諏訪神社(祭礼行列絵馬)―④かくれキリシタン遺跡―⑤星神社(南北朝時代のもの)―⑥天水瓶が棟にある旧大庄屋井手家―⑦九王の地蔵堂が観光コースとなっている。大西町の祭の継ぎ獅子(町指定)と、菊間町の県指定のお供馬(加茂神社)は民俗芸能文化財として有名である。
 菊間町の「ふるさとこみち」は、①お供馬の行事のある加茂神社―②男根の型を奉納する比留女地蔵―③歌仙の滝―高仙山城跡―⑤かくれ切支丹の墓―⑥青木地蔵のコースとなっている。


 越智諸島

 越智郡の島しょ部を戦後、南部の越智諸島と北部の上島諸島に分けている。全国離島振興協議会発行(昭和四一年)の『離島―その現況と対策』をみると、魚島群島が第六次(昭和三三年)に、関前諸島が第八次(昭和三四年)に、来島群島と上島諸島が第九次(昭和三六年)に、越智諸島が第一〇次(昭和三九年)に、離島振興対策実施地域に指定された。これで越智郡の島々は、四阪島を除いて全部、総理府の離島に指定された。
 来島群島とは今治市の来島・小島・馬島・比岐島・小比岐島、平市島、吉海町の津島・大突貫島・武志島・中渡島である。関前諸島とは岡村島と大下島と小大下島である。本巻の越智諸島とは、大島(人口五七八八の吉海町と人口四五三七の宮窪町)、人口一万〇〇〇七の伯方島(町)と、大三島(人口四九二五の上浦町と人口五九三二の大三島町)と、来島群島および関前諸島(人口一三九六)の区域である(人口は昭和六〇年の国調による)。
 宮窪村大字友浦に属する四阪島だけは、昭和二八年制定の離島振興法による離島に指定されていない。周知の如く四阪島は明治中期から住友財閥の島で、今は淋れて交代勤務の宿直者が一〇人ほど泊っている。大正の最盛期には五〇〇〇人、戦後の好況には社員八〇〇戸四〇〇〇人が住み、中学生三〇〇名、小学生六〇〇名、別子学園の教師が三〇名もいた。船便も今治へ三便、新居浜へ四便あった。昭和四六年に銅の製錬所を磯浦の西の東予製錬所に移した。技術の発達で、わざわざ四阪島に送って製錬する必要がなくなり、四阪島の施設も老朽化したからである。四阪島の住民のため飲料水・食料、物資を送る無駄が多かった。昭和五二年三月学校も閉さした。
 今は今治からの定期便はなく、新居浜発七時五〇分発の「みよしま丸(四九九トン)」の水船の通勤船が、海上一時間で二往復し、社員二〇~三〇名が通い、細々と酸化亜鉛を製造している。古い社宅は取りこわし、跡は桧が植林されており、学園の校舎は見るかげもない。今治とは矢野商店主が、しさか丸(一三トン)で朝出かけ、午後一時半発で海上四〇分で今治に帰り、物資を仕入れて翌朝出かける便がある。
 越智諸島の特色をみると、将来来島海峡に瀬戸内海大橋が完成するまでは、今治―大島(下田水)のフェリーが(海上二〇分)三〇分毎に通っていて便利である。吉海町には漁村集落と農村集落があり、宮窪町にも漁師と石材業者と杜氏と農家集落がある。伯方町は海運業と造船と車えび養殖が盛んである。大三島は柑橘栽培と観光に力を入れている。
 藩政時代大島と伯方島は今治領であったが、大三島や関前は松山領であった。史跡・名所としては、大三島町の大山祇神社・歴史民俗資料館・美術館・国宝館・大祝館・大三島海事博物館・楠の巨木・鷲ヶ頭山・蜜柑狩りなどがある。上浦町には歴史民俗資料館・大三島大橋・甘崎城跡・小蜜柑の古木・芋地蔵がある。宮窪町には友浦の善福寺の宝篋印塔(鎌倉期・国指定重要文化財)・能島城跡(国指定)、村上水軍資料館、吉海・宮窪町の大島の「ミ二四国」などがある。島四国は文化四年(一八〇七)以来旧暦三月二〇日と二一日で、毎年約四〇〇〇人の順拝者があり、善根宿が有名である。
 関前村の消防団は伯方警察署傘下でなく、交通上今治市に属している。蜜柑栽培が盛んである。
 関前村は「活力あるふるさとづくり」推進事業として、年一万円コースで「サンソン関前友の会」に加入させ、年末に蜜柑や正月用品を、一月にはタイやサワラの加工品を約束郵送する組織を発足させている。
 大三島は国鉄周遊指定地で、島には無料貸の自転車が四〇台も宮浦港と井ノロ港にある。大三島町のキャッチフレーズは「オレンジと国宝の島」から、今では「国宝とロマンの島」に変更した。しかし「みかん狩り」は継続し、一〇月中旬から一一月末まで、早生みかんの熟期に、入園料六〇〇円、食べ放題、二㎏の土産品がある。中学校の合併で、空いた旧校舎を活用し、「少年自然の家」を始めている。    


 上島諸島

 上島諸島は弓削町(六〇年国調人口五七五四)・魚島村(同人口四二四)・生名村(人口二九九九)・岩城村(同二九三一)の一町三村の区域を称する。昭和二八年町村合併促進法が、第一六国会を通過し、一〇月一日から施行された。中学校一校の行政区は人口八〇〇〇の町村を適当とした。上島の四か町村は何れも離れているため、合併できなかった。四か町村のうち弓削と魚島とは今治藩領であった。生名村が広島県因島市に近接し、因島経済圏のため、県境を越えて合併を昭和三〇年村会で議決したが、愛媛県が認可しなかった。因島市の日立造船の況不況が強く影響しており、目下造船不況が深刻で、その対策が講ぜられている。
 魚島村は明治維新に弓削村に属し、『太平記』には沖ノ島とある。文政から明治時代には魚島に網元が九人いた。鯛しぼり網の本場で、八十八夜頃の鯛網の漁期が来るのを、燧灘沿岸では「ウオジマが来た」と称した。漁期には今治藩から鯛奉行が来島して差配し、鯛の卵巣の塩辛を江戸の将軍に献上した。(寛政年間一八〇〇頃)薩摩の吉田丸が、米を積んだまま魚島の南の岩礁で沈んだ。そこが餌蒔きの鯛の好漁場となり、吉田磯で知られている。大正一二年(一九二三)には二万尾も獲れた記録がある。今は鯛しぼり網は非能率的なので消滅した。
 魚島は、明治一二年(一八七九)弓削村より分離独立して魚島村となったが、同二三年の町村制施行でまた弓削村に合併し、さらに同二八年九月一二日にまた分離した。分離した理由は、村会があっても往復七里もあり、今のように汽船はなく、交通不便で、議員が遅刻したり欠席したこと。当時鯛しぼり網の漁業収入で島民が裕福になり、分離独立しても経済的に安定したので、分村を県が二七年一二月に内務大臣に申請している。
 魚島の人口は昭和六一年三月末で、魚島本島三三三人、高井神島七五人、計四〇八人である。電気は昭和四三年中国電力が島伝いに通じ、飲料水は深井戸三本を掘り、冬不足する時には、広島の三原市から補給されている。六階建の開発センターなど公共施設も整っている。中学生六名、小学生一六名で、教員は中学校四名、小学校六名で校長は兼任である。高校生六名は毎日弓削に通っている。現在は弓削とは一日四往復あり、今治とは個人船が一往復している。昭和六〇年八月一〇日より福山――魚島――新居浜一往復の高速艇が寄港するようになり、新居浜と海上五〇分で結ばれて便利になった。蜜柑畑を開いたが失敗した。漁業の村で、海苔養殖、桝網・小型底曳網・刺網、イカ巣などが盛んである。
 魚島村は人口で全国六番目に小さい村であり、別子山村(一五四戸三五四人)が全国五位である。最も小さいのは愛知県北設楽郡富山村で、七九世帯一九四人である。なお魚島の人口は昭和六〇年一〇月一日の国勢調査によれば一九二世帯で男一九六、女二二七、計四二三人である。魚島村長佐伯増夫は「明るく豊かな住みよい村づくり」のため、『島に生きる』の著書(昭和五八年発行B6判二八二頁)の如く、精力的に頑張っている。
 上島諸島の民俗・芸能・史跡として、弓削神社の御神体と、松原の海水浴場、魚島のテンテコ踊りと亀井八幡境内の宝篋印塔(国指定重要文化財)、生名島の立石山(メンヒル)の遺跡と水軍城址、岩城村の国指定の禅雲寺観音堂(一四三一年建立)と三浦家の本陣海駅(松山藩)の家と古文書などがある。間ロ一二間奥行二七間の本陣跡は、昭和五七年に岩城郷土館として村が整備し、見学できる。庭には若山牧水夫妻の歌碑があり、吉井勇の書などが展示してある。三浦家一八代当主敏夫と牧水や勇は歌を通じて知己であった。
 越智郡の島しょ部には、大島・大三島・伯方・弓削の四高等学校があるが、何れも生徒が三〇〇名余で小さい。島しょ部の中心は伯方町木ノ浦で、岩城には伯方高校の分校がある。


図1-1 藩政時代の村名(現在は大字)

図1-1 藩政時代の村名(現在は大字)


図1-2 明治23年(1890)の市町村制実施当時の越智郡町村名

図1-2 明治23年(1890)の市町村制実施当時の越智郡町村名


図1-3 東予西部(今治市・越智郡)の地域区分

図1-3 東予西部(今治市・越智郡)の地域区分


図1-4 今治市の大正末から昭和初期の頃の地図

図1-4 今治市の大正末から昭和初期の頃の地図