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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

四 乳肉衛生


  1 屠畜衛生の変遷

 明治維新前後から、肉食の習慣が次第に広まり、食肉の需要が増すとともに、屠畜場もまたその数を増していった。屠畜場および食肉獣畜の取り締まりは、明治四年八月、大蔵省布達第三八号「屠牛取締方を定む」、および明治六年三月、太政官布告第七六号「斃禽獣取締」によって行われていたが、その施策は各府県まちまちで、決して十分なものとは言えなかった。
 本県における屠畜場の起源は、明治五年にして、松山市二番町士族富岡義幸は石鉄県の奨励に応じて、松山市大字持田に経営したのが始めであった。当時この地は水練場で官有地であったが、無料貸与せられ、また資本金若干も無利息の年賦払いの貸与を受けたものである。
 これについで明治七年にはじめて屠畜営業者に鑑札を下附し、同八年県税規則中に下の通り規定された。

  乾第六五号  県税規則(抜粋)
          第九則
   第一条 牝牛ハ蕃殖ノ基本ニ付屠殺不相成候事、
   第二条 病症ノ徴候アル牛ヲ屠殺売却不相成候事、
   第三条 斃牛又は腐敗の肉売却不相成候事、
          第十則
   第一条 腐敗肉類販売不相成候事、
   第二条 都デ肉類買入ノ節ハ出所相尋ネ原由不分明ノ肉類買入不相成候事、
    但牛肉ハ屠牛場ノ外ニテ買入レ不相成候事、

 明治九年に至り、前記富岡義幸は該地の払い下げ(価格三〇円)を受け、同一四年五月これを松山市唐人町安在義道に譲渡した。
 明治一四年初めて屠牛場および牛肉販売取締規則せられ、全編九か条より成り、位置、鑑札、屠殺、清潔などが規定された。
 明治一五年に至り前記の安在義道より、屠畜肉に対し、検印するよう請願が出された。
 明治一七年に初めて斃畜取り締まりが発令せられ、同年に獣畜埋えいおよび焼棄場設置方六か条が頒布せられ、同一八年一月斃畜剖剥取締規則九か条が発令せられた。
 その後さらに食肉の需要は旺盛となり、県下各地に屠場が設置せられるようになり、明治二〇年末現在における屠場の数は次のとおりであった。

 宇摩郡   一三      
 桑村郡    一      
 温泉郡    七      
 久米郡    二      
 東宇和郡 一〇      
 新居郡    七
 越智郡   一二
 下浮穴郡   一
 喜多郡    七
 北宇和郡 二五
 周布郡    二
 和気郡    二
 伊予郡     三
 西宇和郡   六
 南宇和郡   一

 なお当時の屠牛頭数は次のとおり。

 明治 八年 一、八七五    
 同 一〇年    九九三    
 同 一一年 一、一三六    
 同 一二年    八二四    
 同 一七年    六六〇
 同 一八年    六四八
 同 一九年    九六三
 同 二〇年 一、五六七

 かくして明治二三年に新居郡金子朝三郎は屠畜検査に、同二五年に松山市成松時慶は斃畜・屠畜・牛乳検査に、喜多郡浅井審・伊達朔次郎は斃畜剖剥に、同二六年に愛媛医会長谷口長雄は牛乳検査に、同じく北宇和郡佐藤右太吉は斃畜剖剥にそれぞれ獣医の採用について建議をした。
 これより先、明治二五年度より、乳肉検査に巡査の名儀の許に獣医の採用の儀が起こり、両三名は受験、合格したが、待遇についての異議から沙汰止みとなり警察獣医の設置には至らなかった。
 その後明治二三年に警察部に獣医松井審を雇い入れ、保安課勤務を命じ、同三三年同人に松山警察署獣医を嘱託し、同三四年に飯尾新太郎を今治警察署獣医に、清家舎を宇和島警察署獣医に任用し、県下を三分して屠畜・牛乳の検査に従事せしめた。
 かくして食肉の需要が増すにつれて、間に合わせ的な屠畜場が乱立し、食肉衛生上憂慮すべき状態となったので、明治三九年四月一一日法律第三二号をもって「屠場法」が制定され、これを機会として県下の屠畜場の数を制限し、一郡市一か所以内とし市町村営のほかは許可せず、建物の構造なども県の模範設計に準ぜしめるなどして県下の屠場整備が進められ、明治四二年には屠場数も松山・宇和島・今治・八幡浜・新居浜・大洲・川之江の七か所となった。
 また明治三九年には屠畜検査技手一〇名が警察署に配置せられている。
 大正年代になると食肉が外国から輸移入されるようになったので、昭和二年に内務省令第四号で「食肉輸移入取締規則」が制定された。
 第二次世界大戦後の昭和二三年三月から屠畜検査は保健所に移管された。またその後の食肉需要の増加により屠場における処理能力の向上をはかるとともに、屠畜衛生の面からも、屠畜場の設備の改善、高度化が必要となったので、従来の屠場法が廃止され、新たに昭和二八年八月一日法律第一一四号をもって「屠畜場法」が公布されて、公営屠畜場優先の規定が除かれ、また屠畜場が一般屠畜場と簡易屠畜場の二種類となり、このころから豚・めんよう・山羊など中家畜の屠殺が増えてきた。
 その後急速な屠殺頭数の増加から県でも厚生省が昭和三二年に起債による屠畜場再建整備一〇か年計画の線にそって、屠場の再編近代化に着手、先ず新居浜市食肉センターなど公営屠畜場の整備計画に併せ、私営屠畜場の育成整備に努めた結果、昭和三九年五月三一日県経済連は伊予市下吾川字北野に枝肉取り引き増大への組織対応として、生産地と消費地を直結をめざす近代的設備を誇る食肉センターが総工費七、三〇〇万円で完成、やがて一日処理能力、豚換算で三〇〇頭の産地屠殺枝肉共同販売体制を確立して本格的な枝肉出荷がスタートした。
 次いで西条市に、日産処理能力五〇〇頭のプリマハムkk四国工場が建設され、さらに県経済連では、部分肉流通時代への体制整備を実現するため、大洲市春賀に、敷地面積三万六、七五四㎡、建物総面積八、九二五㎡、従業員一二八人、一日処理能力、豚換算八〇〇頭を有する中四国最大の株式会社、愛媛クミアイ食肉センターを、総工費二五億三、二〇〇万円で昭和五五年一月二三日落成し、伊予市の旧センターは、この新センターの分場とし、その運営は吸収移管された。
 かくして、戦後の畜産発展により増加しつつあった屠場数一〇か所に整理された。


  2 牛乳衛生の変遷

 牛乳衛生取り締まりに関する行政事務は戦前は警察獣医の担当であったが、昭和二三年三月衛生部公衆衛生課へ移された。
 本県で明治五~六年に宇和島・松山・大洲で営業が開始されたが、明治一四年に牛乳搾取並びに販売取締規則が発布され、新旧営業者を問わず出願せしめたが出願者は松山二名、今治一名、大洲二名、宇和島一名の六名であって、明治二〇年の本規則改正時は、温泉地区四、越智地区五、新居地区一、大洲地区三、宇和島地区二の一五名であった。
 牛乳の本格的な衛生上の取締規則は明治三三年四月七日「牛乳営業取締規則」の公布にはじまり、昭和八年にはこの規則の根本的な改正が行われた。
 戦後においては、昭和二二年一二月の法律第二三三号「食品衛生法」の公布により従来の牛乳営業取締規則の内容はすべて本法およびその省令に吸収された。
 特に成分規格などに関してはたび重なる改正が行われて、牛乳、乳製品の衛生に関する規定は著しく整備され、牛乳衛生行政の近代化および科学化が図られた。