データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)
二 銅山川可水統制事業の略年譜
銅山川疏水(銅山川より分水)の問題は、古く安政年間にさかのぼり、明治・大正時代にも数多くの人々がその実現に努力を重ねてきたが困難を極め、昭和に入ってもこの苦難と努力の歴史は長く続き、遂に昭和一一年「銅山川第一次協定」の成立をみることになる。これ以降のこの事業の竣工に至る主な経過を次の略年譜で示すこととする。
昭和一一年 愛媛県と徳島県との間に、銅山川分水に関する「銅山川第一次協定」の締結。
〃 一二年一二月五日 銅山川第一次協定に従い事業の起工式。但し第一隧道一八〇mに着手したが、日中戦争以降の大戦により工事中止。
昭和二〇年四月 「灌漑用水の補給と発電を目的とし、農業水補給量は毎秒一・三九立方メートルとする」という主旨の第二次協定が成立、但し着工に至らず終戦となる。
〃 二二年三月 第三次協定が成立、銅山川総合開発計画樹立。
〃 二三年四月 工事再開。
〃 二四年六月 第二燧道工事完成。
〃 二四年九月 愛媛県営事業として銅山川堰堤事務所発足。治水・発電・灌漑の各工事が進行。
〃 二五年八月 初めて銅山川の水が隧道を通して宇摩平野に流れる。
〃 二六年三月 柳瀬ダム堰堤五三メートルの第四次協定成立。
〃 二八年一〇月 伊予三島市上柏の第一発電所で最初の発電開始。
この銅山川河水統制事業の概要は表用2―3・図用2―1のとおりである。工業用水はこの事業の表面にはあらわれてこないが、これについては次項で述べることとする。