データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)
2 明治期の工作教育
工作教育のれい明期
工作教育のれい明期は、明治初年から同二〇年であろう。明治時代の工作教育は、明治九年(一八七六)一〇月、東京女子師範学校附属幼稚園で、フレーベルによって創始された手技を課したものに始まり、ついで同一三年、幼児保育法を女子師範学校の一教科として置いた。その教材は、折紙・豆細工・粘土細工・縫取糸・紐細工等が課せられた。これがわが国初等教育における手工教育の発端である。
同一四年、旧制中等学校及び師範学校においては、手工科の前身である工業科を課し、職業陶冶を目的とし、同一九年、師範学校の工業科は、中学校の工業科とその目的を異にすると考えたのか、名称を手工科と改めて必須科目とした。同時に小学校の高等科に随意科として手工科を設けた。ここに、わが国の工作教育の基盤ができた。
工作教育の確立期
工作教育は、明治二一年から明治末年にかけて確立していった。明治二三年(一八九〇)になり、尋常小学校においても、随意科として手工科が設けられた。当時の手工科に関係のある法令をあげておく。
手エハ眼及手ヲ練習シテ簡易ナル物品ヲ製作スルノ能ヲ養ヒ勤労ヲ好ムノ習慣ヲ長スルヲ以テ要旨トス
尋常小学校ノ教科二手エヲ加フルトキハ、紙・粘土・麦桿等ヲ用ヒテ簡単ナル細エヲ授クヘシ
高等小学校二手工ヲ加フルトキハ紙・粘土・木・竹・銅線・鉄葉・鉛ヲ用ヒテ簡易ナル細エヲ授クヘシ手エノ品類ハ成ル
ヘク有用ナルモノヲ選ヒ之ヲ授クル際其材料及用具ノ種類等ヲ教示シ常二節約利用ノ習慣ヲ養ハンコトヲ要ス
これによって初めて小学校の手工科がどんなものであるかが明示され、単なる実業科目でなくて、人間陶冶の基礎教育としての手工科の意義が確立したといえる。
しかしながら、明治二五年から同四〇年にかけて、手工教育の価値について疑問が持たれ、再び実業科の色濃い傾向に走った。当時、上原六四郎・岡山秀吉らが、著書や講演でこの傾向を憂え、手工の教育的価値の認識に努めた。
明治四〇年(一九〇七)義務教育が六か年に延長された。この時、小学校・師範学校の教育令が大幅に改正され、高等小学校の手工科は、純然たる実業科ではなく、一般陶冶の普通教科として取扱われることになった。
また、女子師範学校においても必須教科となり、同四三年ころには随意科である小学校でさえも、ほとんど加設を見ない所はないようになって、手工教育全盛期を迎えた。
ところが、同四四年の法令改正により、高等小学校及び中学校における手工は、農業・商業とともに再び実業科となり、選択科目である実業科の中では、事実上、手工科が廃止されるような状況になった。
明治時代の手工科は、このように制度の上でも幾多の変遷があり、小学校においては随意科目であったためであろうか、検定教科書もなく、その普及度は、図画教育に比べてはるかに低かった。
本県における実情は、教科書や教授細目がないので、詳細なことがわからないが、尋常科では加設されず、高等科において、適宜・紙工・木工・竹工・金工等の中から教材が選ばれて学習されていたと推測される。
愛媛大学教育学部附属小学校の『八十年史』によれば、「明治二一年、高等科男児に手工を課する。明治三一年手工科を廃する。明治三八年、尋常科・高等科を通じて手工科を課する」とあり、全国的傾向を反映している。
研究校においてすら、この状況である。ここから、本県の手工教育の状態を計り知ることができる。