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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 大山祇神社の甲冑・刀剣

神社の宝物と歴史

 大山祇神社の宝物類を述べるには瀬戸内海の歴史とともに大山祇神社の由緒を語らねばならない。わが国における「武器・武具」の優れた美術工芸の大半が、何故にこの瀬戸内海の大三島に存在するのか、それは大山祇神社の悠久の歴史とともにその神徳の故とも考えられる。日本総鎮守として古代からいつの世においても変わらぬ信仰を受け続けた大山祇神社が、美術工芸品の宝庫と称せられるのもうなずかれるものである。『与陽盛衰記』には、「翌年の春(斎明天皇七年)御進発、伊予国に御泊りなり、守興御殿をしつらい、昼夜勤番怠らず。この時、三島へ奉幣使を遣わされ、御剣を納めらる。御滞在の内、太子と共に道後の温湯に浴し給う」と伝えている。
 さらに、五世紀に造られたといわれる鉄鉾が御内陣に祀られ、唐代の船載鏡(国宝禽獣葡萄鏡)や日本最古の大鎧などが伝世していることは大山祇神社の歴史を物語るものであろう。

年紀銘のある工芸品

国宝 大太刀 銘貞治五年(一三六六)丙年 千手院長吉
重文 薙刀 銘一備前国岩戸庄地頭左兵衛尉源吉家 元徳二年(一三三〇)十二月日
重文 黒漆塗二引重藤弓 銘正中二年(一三二五)十一月廿一日
重文 塗寵所糸巻弓 銘奉施入三島大明神御宝前 貞治二年十一月二十日願主越智守綱
 次に奉納文書として伝えられるものは一三世紀の初め頃からで(『愛媛県史資料編・古代中世』参照)あるが、そのなかから大内義隆の奉納文書を次に紹介しておく。「敬白/奉寄進/三島大明神/奉幣一本/御剱一腰国吉/神馬一疋鹿毛/右祈願旨趣具載告文、仍寄進之状如件/天文十三年九月廿三日従三位行太宰大弐兼待従伊予介臣多々良朝臣(花押)/敬白」この文書のなかにある御剱一腰、国吉は現在重要文化財の指定を受け神社宝物館に展示されている。
 奉納の動機はさまざまであるが、各時代を経るごとにその数を増し、やがては全国の八割の武具類を占めるとまで称せられるようになった。大正八年一月一三日発刊の東京国民新聞は、「帝国第一の古物館」と題した志賀重昻(一八六三-一九二七)の寄稿を掲載している。「是れ即ち此の大三島神社に国宝一百十六点、国宝予定数十点、宝物一千幾百点を保蔵し、特に兵器類の国宝に至っては、日本全国の国宝の八割強を占め…」の一文によっても国宝の島としてはやくから知られていたのである。

『愛媛面影』

 半井梧菴(一八一三-一八八九)の『愛媛面影』に江戸時代末の大山祇神社が所蔵する主な宝物について述べているので紹介しておきたい。なお『愛媛面影』は梧菴の著書のなかで最も代表的なものである。

 宝物三島縁起に云う。順徳院建歴二年(一二一二)壬申三月廿三日火災、社殿総二三箇所焼失。後堀川院貞応元年(一二二二)壬午正月朔日、火災に依って宮殿を始め宝庫不残焼失、後醍醐天皇元亨二年(一三二二)壬成正月十九日火災、社檀を始め、経蔵に至る迄七一箇所焼失す。漸く残る所左の如し。
 長命富貴鏡 天智帝温泉に行幸の時、明神を祭玉う処と云う。
 鏡 一面  孝謙帝の寄玉いし所なりと云う。以上図集古十種出。
大塔宮御太刀 小松内大臣太刀長刀 図出集古十種以下多同。
能登守教経弓 平重衡太刀 薙刀一振 頼朝公の奉納なりと云う。
鎧一領 頼家公の奉納なりと云う。
源義経鎧 佐藤忠信太刀、武蔵坊弁慶長刀 和田義盛箙、河野親経兜
同白旗、同錦直垂、同鎧袖、浅利与市箙 図出集古十種
来国光刀 二尺五寸 七百貫折紙 松山少将定長公の奉納
左文字薙刀 二尺六寸 松山少将定長公の奉納
国吉太刀 二尺三寸 義政公湯瓶  図出集古十種
紺紙金泥法華経 高倉院宸筆    同無量寿経 同
同観普賢経 同 紺紙金泥法華経  空海筆   同無量寿経  同
同観普賢経 同 同仁王経     最澄筆   同般若心経  頼朝公筆
此外神鏡、仏経、甲冑、弓箭、有銘無銘太刀、刀、銅器等枚挙すべからず。

武具甲冑

 当社に伝世する甲冑は大鎧一一領(うち四領が国宝)、胴丸二七領、腹巻二〇領、膝鎧一領、兜八頭、前立三種、大袖七点、以上七七点が国指定文化財の甲冑である。
 刀剣類の特色は奉納用でなく実戦用のものが多いこと、刀身の鍛年代と装具の年代が同じであること、各年代に亘ってこのように多くの奉納がなされているのも全国に類例がない。また大太刀や薙刀を奉納している点も特色の一つである。これは海戦に有利であるため奉納も多いといわれている。

紺糸威鎧・兜・大袖付

 黒漆塗りの鉄と革の平札を一枚交りにし、紺の麻糸をもって毛引きに威し啄木打ちの組糸で耳を取り紅猿鞣で畦目と菱縫いを飾る。
 胴の立挙は前二段、後は押付、逆板、三の板の三段で、衝胴は四段からなり、草摺は脇楯とも四間に分かれ前後を四段、左右を五段に仕立てている。金具廻りおよび革所は襷入り獅子牡丹円文の染韋を張り、紅韋の小縁を回して紺糸と白糸で伏せ組み、金具回りはそれぞれ鍍金の覆輪を施す。化粧板は小草文の菖蒲韋包みとし、紅白の端喰を出し、鍍銀地板付きの透彫り桜花文金物の八双金物を二個ずつ三か所に打ち、逆板には鍍金剣酢漿文座に切子頭台をうち、総角付きの環を付してある。
 栴檀板は垂三段で、鳩尾板は栴檀板に比してやや狭小である。兜は鉄錆地塗りに厳星を打った円鉢で星が一一行あり、一行に七点ずつ、真向には五点ずつ打った三行の星があり、しころは杉立形の五段下りで、四段は吹返す。大袖は六段で、水呑緒の鐶を裏に打つ。
 この鎧は、威毛あるいは弦走り等に明治三八年に修補が施されているが、なお総体的に原形を存する部分が多く、平安末期の鎧の特色をうかがうことができる。現存する同様式の鎧は、厳島神社の小桜韋黄返威鎧、御岳神社の赤糸威鎧(以上いずれも国宝)等だけで、遺品はきわめて少なく、しかもこの鎧は類例のない麻糸威である点、注目に値する。
  (法量) 総高(胸板から草摺裾まで)七六㎝ 兜鉢高さ一二・五㎝ 径(前後)二五・五㎝ 径(左右)二〇・七㎝

赤糸威鎧・大袖付

 黒漆塗りの鉄と革の平小札を一枚交りに赤糸をもって威し、耳糸、畦目は啄木打ち、菱縫は紅猿揉である。胴は前の立挙が二枚、後は押付・逆板・三の板の三段で、衝胴は五段からなり、草摺は七間五段に仕立て、金具回りに朧銀の鏡地を張り、鍍銀の覆輪を施し、朧銀地開き扇文の八双金物を打つ。革所は枝菊小草文様の染章を張り、紅五星章を色糸で伏組みしている。押付の化粧板は松柳に騎馬人物文の菖蒲韋をもって包み、栴檀、鳩尾の板はともに先片花先形である。大袖は垂七段下りで、表に水呑緒の鐶がある。
 この鎧は兜を欠くが、大袖、栴檀、鳩尾板を具足し、障子板および逆板、弦走があって鎧の制を具備し、胴はひと続きで右脇に引合せがあり、草摺が七間に分かれているのは、まさに胴丸の形状であって鎧と胴丸の特色を兼備した特殊な形状の鎧である。この種の鎧は、平治物語絵巻、後三年合戦絵詞等に見られるものであるが、遺品としてはこの一領があるだけである。威毛と金物の一部に後補があるが、鏡地張りの金具廻りや精巧な小札板、あるいは絵画的文様の染革等に優美華麗な面影があり、稀有の遺品ということができる。おそらく鎌倉前期を下らないものと推定される。
  (法量) 小札高五・八㎝ 同幅一・七㎝ 胴高(胸板より胴尻まで)三一・O㎝ 胴廻(上)一一一・二㎝ (下) 一一六・五㎝ 草摺高二三・五㎝ 大袖高三五・五㎝ 同幅三三・〇㎝ 栴檀板高二一・二㎝ 同幅一二・二㎝、鳩板板高二五・五㎝ 同巾九・八㎝

紫綾威鎧・大袖付

 胴は黒漆塗りの鉄と革の平札を一枚交りにし、威毛は麻布心を紫地小葵文綾で包み、耳糸、畦目は啄木組打ちの組糸を用い、菱縫は紅猿鞣を施す。前は立挙二段、後は押付板、逆板及び三の板の三段で、衝胴は四段下り裾開きに仕立てる。草摺は脇楯とも四間五段下りで、前後の菱縫板を二間に割る。金具回りの難所は襷入獅子花円文の染韋で包み、小縁は紅五星韋で、白・浅黄、白、紫の色糸をもって伏組みし、紅韋、白綾をもって端喰を施し、鍍金の覆輪を回す。八双鋲・据文金物は透入り車輪座に車軸頭の鋲を打つ。脇楯の壷板の孔は三個あり、胸に栴檀、鳩尾板を付す。大袖は垂六段下りで、裏に水呑緒の鐶を打つ。
 綾威鎧は、このほかに厳島神社の浅黄綾威鎧(国宝)と当社の萌黄綾妻取鎧(重要文化財)などが知られているにすぎず、稀少な遺品である。中でもこの鎧は最も古く、染韋の意匠や特色ある文金物・小札・金具回り等の形状より推して、平安時代末期ないし鎌倉初期を下らないものと思われる。兜を欠失し、威毛、弦走韋などは後補であるが、総体的によく原形を残し、豪壮華麗な趣をうかがうのに十分である。
  (法量) 胴高(胸板より草摺裾まで)
     六七・四㎝ 胴回り(発手にて)九四。
  二㎝大袖総高四三・〇㎝ 胴幅三〇・六㎝

沢瀉威鎧・兜・大袖付

 三行孔の革札を三枚重ねに揺組に絨み、薄く生漆を施した横綴板を三手打の細い萌黄・黄・紅糸をもって沢瀉に象どり、縦取りに威している。耳糸、畦目、菱縫はすべて同式の紅糸で施してある。
 胴の立挙は前が二段、後は押付板、逆板、三の板の三段で、衝胴は四段、草摺は脇楯とも四間五段である。ただし射向の四段目、引敷の一段目、脇楯の四段目は欠失し、逆板には鍍金酢漿文座に切子頭の鎧台を打ち総角付きの鐶を付している。金具回り、革所・据文・八双金物等はすべて欠失し、大袖は小札板六段下りである。
 兜鉢は鉄地二一枚張り八間の星鉢で、星は一行に六点、腰巻に一点ずつあり、八幡座に星の足孔がある。響孔は左右二個あり、真向に三条、後中に二条の星孔がある。しころは五段下りで、頂の八幡座及び吹返しの包韋等は欠失している。
 幅の狭い三手組糸をもって縦取りに威した手法は、古墳出土の挂甲の残欠や、正倉院伝来の挂甲残欠に見られるが、平安時代の遺品としては法隆寺伝来の沢潟威鎧の雛形とこの鎧があるだけで、現存鎧中最古唯一のもので貴重な遺品である。当社では延喜の鎧と伝えているが、鎧の形成時代と目される天慶の乱の頃から前九年合戦の頃(九三九~一〇五一)のものと推定される。
  (法 量) 小札高さ 右端六・七㎝ 左端六・〇㎝ 幅三・〇㎝ 威糸幅〇・七六㎝ 兜鉢高さ一一・五㎝ 腰巻高さ三・六㎝ 径前後二二・一㎝ 左右二〇・三㎝ 頂辺孔径五・二㎝

浅葱糸威棲取鎧・大袖付

 黒漆塗り 錆地盛土した本小札で、威毛は浅葱糸の毛引威しで濃茶・薄茶・白・萌黄・白・黄の各色糸で四方草摺と大袖の肩を棲取りに成す。耳糸は亀甲打組、畦目は啄木打、菱縫は紅糸を施す。
 仕立は立挙前が二段で後は三段、衝胴は四段で、正面は弦走韋で、不動二童子文染韋(後補)で包み、紅五星韋の小縁、色糸の伏縫を施す。草摺は脇盾とも四間五段下りで上二段鉄一枚交ぜる。前後の裾板は二間に分かつ。胸板は牡丹獅子文染韋で包み、小縁は紅五星韋で、色糸を伏縫し、鍍金の伏輪を廻らす。壷板は獅子牡丹文の染韋で包み、紅五星韋の小縁、色糸の伏縫を施し、鍍金の伏輪を廻らす。壷板の孔は三個で、鍍金の菊座、玉縁とも三重の座を付す。脇板の包韋は壷板に同じく、菖蒲韋包みの境粧板を付し、八双鋲を打つ。下端に紅韋、白綾の水引を付す。押付板、綿噛とも同前染韋包み、綿噛には障子板を立てる。境粧板・一文字にかけて鍍金八双鋲を打つ。八双鋲は鍍金魚子地に桐枝文毛彫入の八双座に五三桐鋤彫入の笠鋲二個ずつを打つ。据文なし。緒所の高紐、袖付のわなは紅韋丸ぐけの伏縫付きで、繰〆・脇盾の緒は紅木綿の角打紐である。受緒・懸緒・水呑緒は紅角打・絹紐で先端に総を付す。総角付鐶は鍍金五三桐文鐶座に菊蕊鐶台を打ち大円鐶を付す。
 大袖の垂れ七段、上四段鉄一枚交ぜ、冠板の染韋・小縁・伏縫は胴に同じ、冠板の裏は襷入案文の茶染韋で包む。右袖の後に六段目まで篭手摺韋を付す。袖付の鐶は三個で鍍金し竪に打つ。境粧板は菖蒲韋包み、紅韋・白綾の水引を付す。八双金物は鍍金魚子地桐枝文の毛彫入八双座に五三桐文笠鋲二箇ずつを打つ。四段目に鍍金魚子地桐枝文の毛彫入座に菊蕊鐶台を打った笄金物を付け水呑緒を付す。明治三八年六月修理。
  (法量) 小札長(右)六・三五㎝ (左)五・七㎝ 同幅(上) 一・八五㎝ (下)二・〇㎝ 同厚〇・二五㎝ 胴高(胸板~胴尻)三〇・四㎝ (押付~胴尻)三六・九㎝ 草摺長(前後)二五・五㎝ (左右)二六・五㎝ 同幅(上))三〇・五㎝ (下)四九・〇㎝ 胴廻(立挙)八五・六㎝ (胴尻)八〇・二㎝ 威毛幅○・九㎝ 毛引長二・四㎝
 袖(総高)四二・〇㎝ (幅)三四・五㎝ 冠板高(前)四・四㎝ (後)二・八㎝ 同幅三五・五㎝ 脇楯壷板高(中) 一九・〇㎝ (端)二三・〇㎝ 同幅(上)二二・〇㎝ (下) 一五・四㎝

萌黄綾威腰取鎧・大袖付

 鉄革一枚交せのやや小振りな平札で、漆は厚目に塗る。威毛は萌黄綾威、立挙一段と発手を紫韋で威す。大袖の前肩萌黄、茶・紫・紅・黄・白の各色糸で腰取りを施している。耳糸亀甲打・畦目は啄不打組で紅韋で縫を施している。
 仕立は前立挙二段で、後は三段で、二の板は幅狭く、中央に鍍金の菊座二重・小刻二重・切子頭の鐶台を打ち、素鐶の総角付鐶を付す。衝胴四段、草摺は脇盾とも四間五段下り、壷板は総染韋包み、小縁を付せず、鍍金の覆輪を廻らす。三か所の孔には鍍金の菊小刻三枚重ね玉縁を付す。下端には蝙蝠付を施し草摺に接する。鍍金笠鋲で染韋を留める。胸板は黒色襷入霰地花文の染韋包み小縁なく伏輪は熏韋包み、引合板と脇板はなく、小札頭を菖蒲韋包みとし、白紅韋の端喰を付す。押付板と綿噛は胸板と同じく霞地花文の熏韋で包むが文様が消えかかる。包韋は鍍金の笠鋲留とし、一文字下は菖蒲韋包み、白綾と紅韋の水引を付している。八双鋲は、鍍金魚子地花文線刻の猪目透入八双座に菊小刻二重笠鋲一個ずつ打つ。緒所は重韋丸ぐけの高紐で、胸板裏より出し表で菱綴じする。茱莢、鞐金具は鍍金無地。大袖の冠板は胸板と同様霰地花文の染韋包み、小縁なく、鍍金の伏輪を廻らす。垂れ七段上三段まで鉄一枚交ぜ三段目に大八双猪目透座に魚子地梅花文を毛彫し、菊座小刻二重笠鋲一個ずつを打つ。冠板裏に、袖付金銅鐶を三か所竪に打つ。
  (法量) 小札長(右)六・四㎝ (左)五・七㎝ 同幅(上) 一・六㎝  (下)
一・七㎝ 同厚〇・二㎝ 胴高(胴板~胴尻)三五・〇㎝(押付~胴尻)三五・〇㎝ 草摺長(前後)二八・五㎝ (左右)三一・〇㎝ 同幅(上)三七・〇㎝ (下)四八・〇㎝ 胴廻(立挙)九二・五㎝ (胴尻)八八・五㎝ 威毛幅一・〇㎝ 毛引長二・八㎝ 袖(総高)四二・〇㎝ (幅)三二・七〇㎝ 冠板高(前)五・四㎝ (後)四・四㎝ 同幅三四・〇㎝ 脇盾壷板高(中)二一・三㎝ (端)二四・七㎝ 同幅(上)二一・〇㎝  (下) 一五・七㎝

紫韋威鎧・大袖付

 小札は黒漆塗り、鉄・革一枚交ぜに綴り、大形の平札で右肩を丸く落としている。威毛は幅広い紫韋の毛引威し、耳糸は熏韋畦目は紅韋、菱縫は紅韋を施す。仕立は立挙前が二段で後は逆板とも三段で、衝胴は四段である。草摺は三間五段下りで上三段鉄札交り、前後の裾板は二間に割る。脇盾欠失、弦走韋は牡丹三疋獅子文熏韋で、縁を洗韋で綴じる。胸板後補。脇板なく小札頭を熏韋で包む。後逆板に打つ総角付鐶は後補で押付板、綿噛は牡丹獅子文の染韋包み、同韋包の障子板を付す。一文字下に菖蒲韋包みの境粧板を付す。水引は白綾・紅韋は端喰み、八双鋲は鍍金菊座、小刻二重笠鋲を二個ずつ打つ。高紐熏韋丸ぐけ。
 大袖は垂六段で、三段まで鉄一枚交り。冠板は牡丹獅子文熏色染韋包み、小縁なし、鍍金の伏輪を廻らす。境粧板と水引は後補、八双鋲は後補(鍍金の菊座に小刻を二枚重ね・笠鋲を二個ずつ打つ)、笄金物は鍍金猪目透素文入八双座に小刻付き笠鋲一個を打ち、菊座に切子頭の鐶台に素鐶を通し水呑緒鐶となす。袖裏は菊文の熏韋で包み、袖付け鐶は鉄製黒漆塗の丸鐶ですべて竪打に三個を打ち、韋緒を付している。

  (法量) 小札長(右)八・三㎝ (左)七・七㎝ 同幅(上)二・三㎝  (下)二・三㎝ 同厚〇・二㎝強 胴高(胸板~胴尻)三七・〇㎝ (押付~胴尻)四三・五㎝ 草摺長(前後)三五・〇㎝ (左右)三五・五㎝ 同幅(上)三五・六㎝ (下)四七・〇㎝ 胴廻(立挙)八三・〇㎝ (胴尻)八五・五㎝ 威毛幅一~一・五㎝毛引長三・三~四・〇㎝ 袖(総高)四六・五㎝ (幅)三四・〇㎝ 冠板高(前)五・〇㎝ (後)三・〇㎝ 同幅三五・〇㎝ 重一五㎏

紅糸威鎧・大袖付

 黒漆塗盛上の本小札で鉄革一枚交り、草摺は三段まで鉄交りで以下革札、威毛紅糸八ツ打やや太い。耳糸は亀甲打組(紫・萌黄・紅・白)畦目は啄木打ち、欠失して現在孔に残るのみ、菱縫は紅糸である。仕立は立挙の前が二段で、後は逆板とも三段で逆板に菊座小刻三重に菊蕊の鐶台を打ち、紅糸の総角を垂れる。
 衝胴は四段、草摺は脇盾とも四間五段、三段まで鉄札交り、胸板は熏色の牡丹獅子文の染韋包み、小縁は紅五星韋、色糸で伏組する。
 脇盾の壷板は襷入円文韋包み三ヶ所に菊座に小刻み二重、玉縁を付した壷孔を穿ける。小縁は紅五星韋を貼り色糸で伏縫を施し鍍金の伏輪を廻らす。押付板、綿噛染韋包み、左右肩上に障子板を付す。境粧板は菖蒲韋包み、紅白綾の水引を付す。八双鋲は菊座小刻二重に菊蕊刻みの鋲を二個ずつ打つ。逆板に同上菊小刻二重の大座に菊蕊の鐶台を打ち、円鐶を付し、紅糸の総角を垂れる。緒所は藍韋の丸ぐけで鞐・茱莢金物は鍍金である。肩の左右に太い紅角打の執加緒を結び残存する。
 昭和三二年度に修理されたが、修理の際に総角付の鎧座の下から当初の紅糸が確認され、現在の威毛は紅糸が槌色した状態であることが判明した。付の大袖は欠失している。
※本調書作成時の名称「黄糸威鎧」であったが、昭和四四年六月二〇日付の重要文化財指定書で「紅糸威鎧」となった。
  (法量) 小札長(右)六・五五㎝ (左)六・一㎝ 同幅(上)一・八五㎝ (下)一・八五㎝ 同厚〇・三㎝ 胴高(胸板~胴尻)三三・五㎝ 草摺(前後)二八・五㎝ (左右)三二・〇㎝ 同幅(上)三五・〇㎝ (下)五三・五㎝ 胴廻(立挙)九二・五
㎝ (胴尻)八五・五㎝ 威毛幅一・〇㎝ 毛引長二・九㎝ 脇楯壷板高(中)二〇・五㎝ (端)二五・五㎝ 同幅(上)二三・〇㎝  (下)一六・〇㎝

薫韋包胴丸壷袖付

 鉄黒漆塗伊予札と黒漆塗平札とを併用し、横綴小札板を熏韋で包み、洗韋で各段を菱綴する。耳糸、畦目、菱縫とも洗韋で施す。
 胴立挙の前が二段、後三段で、伊予札を綴じ、衝胴は三段で伊予札よりなる。草摺は八間四段下りで上二段まで伊予札、以下革札を綴る。胸板は牡丹獅子文染韋包み、小縁なく鍍金の覆輪を廻らす。引合板、脇板とも同上仕立よりなる。境粧板なく洗韋を菱綴じする。八双鋲は入八双猪目透に魚子地菊枝文を毛彫した座に菊座笠鋲を一個ずつ打つ。後には鍍金猪目透入八双座に菊蕊鐶台を打ち、総角を垂れる。高紐、引合緒は漆塗韋丸ぐけ紐で責、鞐金物鍍金無地、菊文毛彫の茱莢金具を付す。
  (法量) 伊予札長六・〇㎝ 伊予札幅二・三㎝ 小札長(右)六・三㎝ (左)五・七㎝ 同幅(上)一・八㎝ (下)二・〇㎝ 同厚〇・一五㎝ 胴高(胸板~胴尻)三〇・五㎝ (押付~胴尻)三五・〇㎝ 草摺長(前後)二三・〇㎝ 同幅(上) 一二・〇㎝ (下)二一・〇㎝ 胴廻(立挙)九九・五㎝ (胴尻)九六・五㎝ 菱綴〇・六㎝

紺糸裾素懸威胴丸

 錆地盛上黒漆塗の細い本小札で、胴部は鉄革一枚交ぜ、草摺は革札である。威毛は紺糸八ツ打組糸で、立挙と長側が毛引威しで、草摺は素懸威しである。耳糸と畦目は白糸で、菱縫は紅韋で綴る。仕立は立挙の前が二段、後が三段で、左脇、右引合にも各二段の立挙を付している。衝胴は五段で、草摺は二一間五段下りになる。胸板は黒漆塗雛韋包みで、銅小桜鋲留めし銅覆輪を廻らす。引合板は前後とも二間ずつに分かち、鰭状と山形の冠板を付す。左脇は三間に分け、仕立は胸板、引合板とも同様仕立である。境粧板なく、白糸の花緘みを施す。八双鋲は銅八重菊笠鋲二箇ずつ三か所に打つ。胸高紐、左右脇の高紐とも白糸丸打組、後の二の板に銅製長方形撫角菊唐草透入座に八重菊鐶台を打ち、丸鐶を付け、紅角打組の総角を垂れる胸の部分は大きく腰を細く、大祝家の鶴姫用として作られ、合戦に一八才で出陣し戦死したと伝えられる。
  (法量) 小札長(右)六・九㎝ (左)六・一㎝ 同幅(上)一・O㎝ 同厚〇・三五㎝ 胴高(胸板~胴尻)三五・〇㎝ (押付~胴尻)三九・五㎝ 草摺長(前後)三二・五㎝ (左右)七・五㎝ 同幅(上)一一・五㎝ 胴廻(立挙) 一〇八・〇㎝ (胴尻)七五・〇㎝ 威毛幅〇・六㎝ 毛引長二・二~三・〇㎝

熏紫韋威胴丸大袖付

 小札は黒漆塗の平札で鉄、革札一枚交ぜ、威毛は紫韋と熏韋交り(何れが元のものか未詳)に威す。耳糸は熏韋、畦目は朱描、菱縫は朱描菱である。
 胴は立挙前二段、後三段、衝胴は四段で、小札板を揺ぎに組み、草摺大袖は漆を施してはいるか塗り固めない。草摺は八間四段で、小札は総革札である。胸板は熏韋包みで覆輪は鍍金している。引合板の後二段目に熏韋のわなをつけて麻打紐の総角を付す。
 大袖は冠板が柵造で漆塗の馬革包みで伏輪は付かない。垂は六段で三段まで鉄、革札の一枚交ぜ、威毛、耳糸は燻韋で、畦目は菱縫、朱描。水引は紅韋、自韋後補である。
  (法量) 小札長(右)六・四㎝ (左)六・一㎝ 同幅(上)二・六㎝ (下)二・九㎝ 同厚〇・二㎝ 胴高(胸板~胴尻)五三・〇㎝ 草摺長二一・五㎝ 同幅(上) 一七・〇㎝ (下)二三・五㎝ 胴廻(立挙) 一〇八・〇㎝ (胴尻)九一㎝ 威毛幅一・三㎝ 毛引長三・一㎝
  ※この胴丸は「熏韋威胴丸」であったが昭和四四年六月二〇日の指定書で「熏紫韋威胴丸」となった。

藍韋威胴丸大袖付

 小札は本小札、黒漆塗の錆地盛り上げにし、草摺二段まで鉄、革札の一枚交ぜ、威毛は藍韋、胸板の下と脇板下の花威みぱ啄木組糸である。耳糸は紺、紫、白の亀甲打組、畦目は啄木組糸で菱縫は紅糸。
 立挙は前が二段、後が三段で、衝胴は四段で鉄、革札の一枚交ぜ。草摺は八間五段で上二段までを鉄、革札の一枚交ぜにしている。胸板は鉄板一枚造り、一文字付きで牡丹獅子文の染韋で包み、小桜鋲で留め、小縁を菖蒲韋で包む。伏組の色糸残る。鍍金伏輪を廻らし、高紐は表に出す。胴裏は留塗韋で包む。境粧板、押付板、綿噛は胸板と同様染韋で包む。境粧板は菖蒲韋包み。八双鋲は総角付鐶座、笄金物すべて鍍金入八双猪目唐草透座に牡丹花高彫の笠鋲を二箇宛打つ。総角付座は牡丹花高彫の茄子形鐶台に円鐶を付けている。猪所は高紐が啄木丸打、緒は紅丸打である。
 大袖は垂七段で、冠板は牡丹獅子文染韋で包み、小桜鋲留にし、小縁を菖蒲韋包みにして伏組色糸、伏輪は鍍金である。裏は「正平六年六月」銘の染韋で包み、小縁は菖蒲韋を用いている。境粧板は菖蒲韋包み。水引は紅白綾、八双金物と笄金物は同前。
  (法量) 小札長(右)六・七㎝ (左)五・六㎝ 同幅(上)一・八㎝ (下)一・八㎝ 同厚〇・五㎝ 胴高(胸板~胴尻)三三・五㎝ (押付~胴尻)三七・〇㎝ 草摺長三二・〇㎝ 同幅(上) 一七・〇㎝ (下)二五・五㎝ 胴廻(立挙) 一一六・五㎝ (胴尻) 一〇七・五㎝ 威毛幅〇・七~〇・八㎝ 毛引長二・一~三・三㎝ 袖(総高)四四・〇㎝ (幅)三五・〇㎝ 冠板高(前)五・〇㎝ (後)三・〇㎝ (同幅)三五・七㎝

藍韋威胸紅白紅腹巻
 
小札は鉄黒漆塗り盛り上げの本小札、威毛は紅、白、紅糸、以下を藍韋で威す。耳糸は亀甲(白・萌黄・紫・茶)畦目は啄木、菱縫は紅糸である。
 胴は立挙が前二段、後二段、衝胴は四段である。草摺は七間五段、胸板は牡丹獅子文の染韋で包み、小縁は紅五星韋、伏縫は色糸を用い、鍍金の覆輪を付し小桜鋲止めにする。脇板、背板、冠板前に同じ、八双金物は鍍金菊枝透彫入八双座に菊笠鋲を二箇宛打つ。押付板、綿噛は牡丹獅子文の染韋包み、小縁は紅五皇韋伏組色糸、境粧板は菖蒲韋包み、水引は紅白綾、八双鋲は鍍金菊枝透彫入八双座に菊笠鋲を二箇宛打つ。緒所は高紐は源氏丸組、受緒、懸緒、水呑緒は紅角打、繰〆緒は亀甲組糸(以上後補)である。
 大袖は冠板は牡丹獅子文の染韋包み、小桜鋲止め小縁は紅五星韋を施し、伏縫は色糸で縫う。覆輪鍍金、垂は七段で一段は鉄、革札の一枚交ぜ、以下革札である。境粧板は菖蒲韋包み、水引は紅白綾、八双金物は鍍金菊枝透彫入り八双座に菊笠鋲を二箇宛打つ。笄金物は鍍金菊枝透彫座である。
  (法量) 小札長(右)七・〇㎝ (左)五・六㎝ 同厚〇・四㎝ 胴高(胸板~胴尻)二九・〇㎝ (押付~胴尻)二八・〇㎝ 草摺長三〇・〇㎝ 同幅(上) 一四・七㎝ (下)二二・五㎝ 胴廻(立挙)八五・〇㎝ (胴尻)七五・〇㎝ 威毛幅〇・八㎝ 毛引長二・七㎝ 袖(総高)四四・〇㎝ (幅)三五・〇㎝

白綾威二十四間四方白星兜

 兜張板二四枚張、地星二〇間で一行一一点、腰巻に一点、八幡座に鍍金星一点を打つ。前後左右の四方地板鍍金、花先鎬垂前三条左右後とも二条ずつで、各々花先形で鍍金の星を打つ。星は正面中央が一〇点で他はすべて九点ずつ。天辺葵葉座は山金造り菊座二重、小刻一重鍍金玉縁を重ねる。腰巻やや外に折り曲げ開く。八幡座と四方白は後補、眉庇は鉄黒漆塗り、丸笠鋲の三光鋲を打ち、中央に立物抜立を打つ。響孔は四個で玉縁付きで、四天鋲はない。
 忍緒付きの乳韋三個を付ける。しころは五段で、四段を吹返す。小札は黒漆塗盛上の本小札で、上三段まで鉄札が交る。菱縫は薄紫、畦目は啄木、耳糸も啄木打。威毛は白綾の毛引威しであるが後補のものである。韋所の包韋は獅子牡丹又染韋包み、五星韋で小縁をとり、鍍金の笠鋲で留める。伏組色糸で染韋とともに後補、鉢裏に高韋の受張りを伏す(後補)。
  (法量) 兜鉢高九・五㎝ 同径(前後)二〇・八㎝ (左右) 一八・〇㎝ 頂辺孔径二・六五㎝ 腰巻幅三・五㎝ 小札長(右)五・六㎝ (左)四・八㎝ 同幅(上)一・八㎝ (下) 一・九㎝ 同厚〇・二五㎝

紫韋威三十二間筋兜

 兜の張板は黒漆塗り鉄板三二枚張り、筋三二間で覆輪なし。前後左右伏板なし。天辺孔は鍍金甲菊、小刻、玉縁とも四重の八幡座を付ける。腰巻は下方少し外に開く。眉庇は花先形で覆輪付き牡丹獅子文の染韋包み、小縁、伏縫なし。小刻付きの三光鋲を打つ。正面に鍍金の据文一個を打つ。据文は菊座二重。小刻二重、笠鋲とも五重の金物である。響孔四個、玉縁を付せず、その上に鍍金の小刻付きの四天鋲を打つ。忍緒乳韋三個を腰巻に通し、外側で結留める。鍬形台、立物なし。後勝鐶後補。しころは垂四段で三段を吹返す。小札は薄く盛り上げた黒漆塗りの平札で、三段まで鉄革一枚交ぜ、威毛は紫韋の毛引威し。耳糸、畦目、菱縫とも自韋で後補。吹返しは牡丹獅子文の染韋包み小縁、伏縫なし。鍍金笠鋲留め鉢裏に後補の熏韋の受張を付す。
(法量) 兜鉢高一二・三㎝ 径(前後)二二・三㎝ 左右一九・八㎝ 頂    辺孔径二・二㎝ 腰巻幅三・〇㎝ 小札長(右)五・〇㎝ (左)四・六㎝ 同幅(上)一・六㎝ (下)一・九㎝ 同厚〇・二五㎝ 威毛幅〇・九㎝ 毛引長二・二㎝

紺糸威膝鎧

 黒漆塗り盛上の革本小札で、上二段下重ねとし、威毛なく下に草摺一段三間を垂れる。上段家地との綴じは紫糸の縄目綴じとし、草摺は紺糸の毛引に威す。耳糸、畦目とも啄木打組で、紅糸の菱縫を施す。両脚とも膝二段草摺一段、家地白麻地、力章、於女里、小縁とも紅五星章で色糸の伏組を付す。
 (後補)
(法量) 小札長(右)六・九㎝ (左)五・五㎝ 同幅(上)一・六㎝ (下)一・五㎝ 同厚〇・五㎝ 総高五五・O㎝ 草摺長二〇・五㎝ 同廻(上)六四・〇㎝ (下)六一・〇㎝ 同幅(正面) 一九・五㎝ 家地高三五・〇㎝ 威毛幅〇・九㎝ 毛引長二・五㎝ 力韋長三〇・〇㎝ 同幅一・六㎝ 胴〆緒長二六一・O㎝ 同幅二・二㎝

洗韋威大袖

 「嘉吉三暦仲呂吉日 桑原越智通則」の銘文がある。黒漆塗りの平札で、左右袖とも三段までで以下を欠失する。鉄、革の一枚交ぜで鉄札は割合は地板が厚い。
 射向袖三段目に刀痕がある威毛は藍韋が小札の孔に残存する。洗韋の毛引威は後補である。耳糸は亀甲打で後補、冠板は鉄黒漆塗り、鍍金の細い覆輪をめぐらす。裏は馬革の溜塗り包み、鍍金の笠鋲六か所に留める。袖付の鐶は鍍金を施し、中央は竪打、前後は横打ちに取付ける。境粧板なく、射向、馬手の両袖の冠板下の小札取付部に「嘉吉三暦仲呂吉日桑原越智通則」の墨書紙片を貼付している。両袖とも受緒は熏韋の打畳み緒で、執加緒は熏韋の丸ぐげ麻心入りで、糸引目薫韋の丸ぐけで浅黄麻心入りの緒と綿噛の付わなに結びとめたまま切断し、綿噛の先を存している。綿噛のその手先は生革を二枚重ねにし、下側には紅絹糸のくずを詰めて紙を張り、熏韋で包む。表は薫色地の牡丹獅子文染韋包みとしている。高紐は熏韋、執加緒付きのわなは熏韋で、茱筴、鞐は金銅製である。
  (法量) 小札長(右)六・四㎝ (左)五・九㎝ 同幅(上)一・八五㎝ (下)一・九五㎝ 同厚〇・二㎝ 袖(現 存部)高一九・五㎝ 同幅三三・七㎝ 冠板高(前)四・四㎝ (後)二・六㎝ 同幅三四・〇㎝

大太刀

 銘 貞治五年丙午千手院長吉鎬造、庵棟、身幅は広く、反りは高く、腰に踏張りがあり、先は大切先である。地は流れごころの大板目で渦巻き状につみ、腰元には二重に棒映が通り、また地斑がある。刃文はのたれごころの中乱れ刃で小足がにぎやかにはいる。
 やや荒めの小沸出来で刃縁はほつれ砂流しがかかる。切先の刃は乱れ込み、先は尖ってやや深く返る。彫刻は表裏に樋先の下がった棒樋と連れ樋を彫り、区際で丸に留めている。茎は生ふで長い。先は深い栗尻、
鑢目は勝手下がり、目釘孔は二個、上の方の孔が元孔である。佩裏の中央に細鏨で長銘を一行に刻している。大太刀は鎌倉時代末から南北朝時代にかけて流行したが、これはその一典型で、貞治五年(一三六六)はちょうどそれの盛期に当たる。作者の長吉は大和国の千手院派(奈良の東大寺の千手院谷に居住した刀工団)の一人であるが、遺作はほとんど知られていない。そのうえ、この太刀に関するかぎり大和伝の特色は余り顕著でない。銘を佩裏(指表)にきっているが、このやりかたは、やがて室町時代以降に大流行をきわめる打刀がみなこれであり、それの先駆をなすものといえる。後村上天皇(在位一三三九~六八)が当社に奉納された品と伝えている。
  (法量) 身長一三六㎝ 反り四・八㎝ 元幅四・一㎝ 先幅三・二㎝ 切先長六・八㎝

大太刀

無銘、伝豊後友行、附野太刀拵
 鎬造、丸棟、姿はたいそう大きく、そうして長いので、深い反りも深めにさえ見える。切先は大切先である。
 地は流れごころの板目で肌立ち、点々と淡い湯走りの並ぶのが見られ、また白気映が広がっている。刃文は細かい沸出来の小乱れ刃で、こずんで小足がはいり、また刃縁は繁くほつれる。区上六㎝ほどのところで焼落としている。この焼落としは、この国の鎌倉初期の刀工、行平の作によく見受けられる。切先の刃は大きくのたれ込み、深く返る。彫刻は表裏に樋先の下がった棒樋を彫り、区上で丸にとめる。両チリである。
 茎は生ぶで長い。先は栗尻、鑢目は勝手下がり、目釘孔は二個である。銘は刻していないが、南北朝時代の豊後国の友行の作と鑑定される。彼には「豊後州高田庄住藤原友行」「正平弐年三月日」と銘した大きい太刀の作がある(重要美術品)。正平は南朝年号であり、豊後国の刀工は南朝方に協力していた。
 付属の拵は、柄は革で包み敲塗り(地を石目地にして黒漆を塗る)とし、鞘は黒漆塗りの薄革で包み、その上を飴色の革で二重に包み、渡巻のところはさらに黒革で菱に巻いている。
 鐔は木瓜形の練革を六枚重ね、黒漆をかけ、それに金銅の覆輪をかける。足金物と責金とは本来つけない拵である。
 拵の全長二七五㎝あまりある。これは当時の野太刀拵の代表的作品といえるものである。
 この太刀は足利尊氏の武将で建武三年(一三三六)の湊川合戦に楠木正成を討って功をたてた伊予国の人、大森彦七の愛刀であったものである。孫の直治が当社に寄進したと思われる願文が伝わっている。
 この太刀並びに拵の図は松平定信が編纂した『集古十種』に載っている。これによっていまは欠失している太刀拵の兜金や鐺の状態をうかがうことができる。
  (法量) 身長一八〇㎝ 反り五・四㎝ 元幅四・六㎝ 先幅三・三㎝ 切先長一〇㎝ 茎長五八・五㎝

牡丹唐草文兵庫鎖太刀拵

 柄は白鮫を着せ、魚子地に牡丹唐草文高彫の金銅の覆輪をかけ、牡丹文の大形俵鋲を表裏四個ずつ据える(後補のものがまじる)。冑金と縁金物(新補)は覆輪と同文で、冑金には鎖で露金物を取り付ける。鞘の口金物(新補)、二個の足金物、責金物、鐺などの諸金物は牡丹文の高彫である。帯取の兵庫鎖は三筋の編立てで、留めの飾金具は牡丹花の容彫である。佩緒は紫革(新補)、鞘の長覆輪は銀銅無文である。鞘の地板は金銅で、足間、足と責、責と鐺の各間になかほどから左右の枝に分かれて伸びる一茎の大牡丹を線彫にしている。鐔は金銅の木瓜形で厚い覆輪をかけて、これには牡丹唐草の高彫を施し、鐔の地板の四隅には猪目を透かし、大切羽のあたる箇所だけ鍍銀している。大切羽は長木瓜形で牡丹唐草文の彫透かしである。
 この太刀は護良親王の奉納品と伝え『集古十種』にも載っている。刀身は無銘で、長さが六〇・八㎝ある繋の程度のもので焼刃はなく切先はかます切先である。
 牡丹文をあしらった兵庫鎖太刀は鎌倉時代大いに流行し、厳島神社に三口、丹生都比売神社に二口、須佐神社に一口の優れた遺例がある(いずれも重要文化財)。
  (法量) 総長九七㎝

薙 刀

 銘一備前國岩戸庄地頭左兵衛尉源吉家元徳二年十二月日
細身で重ねは厚く、先端で反っている。地は大板目がながれて、刃文は広直刃がほつれて先は二重刃となっている。帽子は焼詰める。薙刀樋に細い添樋を掻流す。茎は生ぶで、表裏に上記の長銘がある鉄鎺を付す。備前国の岩戸に住した一文字流の吉家の作で、脇屋義助の奉納にかかる。義助は新田義貞の弟で伊予国府におり、ここで生涯を終えたという。下半の地に荒と刃こぼれが惜しまれる。
  (法量) 身長六一・五㎝ 反二・四㎝ 元幅二・八㎝ 先幅二・七㎝ 茎長六二・六㎝

長 巻

銘 宗吉
 大太刀に鉄の長柄を鋲止めにして付け足し、長巻の代用にしたものである。鎬造、庵棟で、腰反りである。鍛は板目流れる。刃文は直刃調の小乱で小沸つく。表裏に棒樋を掻通して、区下で流している。その下の佩表に「宗吉」と大振りの銘を切る。
 薙刀は上代の鉾に代わって、平安時代から中世に盛行した武器であるがその遺品は非常に少ない。この薙刀類は鎌倉時代から南北朝時代のもので、当社に伝存する多数の甲冑類とともに用いられたものである。このようにまとまって多くの薙刀が遺存することは極めて珍しい。
  (法量) 身長一〇五・〇㎝ 反り三・二㎝ 茎長八一・四㎝

金象嵌両添刃鉄鉾

 鉄製。身は表裏とも中央に鎬をたて、左右の面は区元を少し残したほかは肉を削ぎ落とし、断面が菱形になるように仕立てている。その下部は塩首、袋穂となっている。またこの鉾身の左右には逆刺(鈎)を取り付けており、逆刺は上下に大刺とその中間にある四個の小判とからなっている。
 なお身部の元の平らな部分に雲文、その側面に唐草、袋穂には斜十字形と菱文を金象嵌によって表している。
 柄は槻の長い自然木を用いており、これには藤蔓が巻き付いたままになっている。製作時代は飛鳥時代以前と推定されるものであるが、他に類を見ないものである。『古事記』に、倭建命の東征に際して景行天皇から賜ったとある「比々羅木の八尋矛」とは、とげとげしい柊の葉に以てしかも長大な、このような矛を示すものと思われる。
 なお、当社と鉾との関係については、祭神の大山積神の御孫は御鉾大明神とも称され、鉾は特別の由緒を有するもので、極言すれば御霊代であると考えられていたようである。その一例として当社の社記によれば、三韓征伐のさい、祭司の越智大領守興は御鉾を先頭にして神領である霧力島(現在の広島県厳島)まで出陣したという。また越智氏の邸内には現在も御鉾山を設け、祖神である御鉾神を祀っているという。
  (法量) 鉾の身(切先から袋穂の元まで)四九・五㎝ 逆刺(鈎)三六・〇㎝ 身幅四・一㎝ 逆刺の張上刺の間六・七㎝ 下刺の間九・四㎝ 総長五六・一㎝ 鉾の柄二九三・〇㎝