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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 アーネスト・サトウ (Sir Ernest Mason Satow)
天保14年~昭和4年(1843~1929)イギリスの外交官。ロンドン大学卒業,文久2年イギリス領事館員として来日,パークス公使に従い日本語を自在に駆使する日本駐在外交官の先駆者となった。パークスの対日政策の樹立を助け,日本の政治体制は天皇を元首とする諸侯連合であり将軍は諸侯連合の首席にすぎないと主張し,幕府の権威失墜に手をかした。
 薩長の指導的人物との交友も深く,宇和島藩主伊達宗城との親交はとくに深かった。 86歳で死去。

 アイザクソン (Harord J. Isacson)
大正3年~昭和48年(1914~1973)学者。1914年3月,アメリカニューヨークに生まれる。ニューヨーク市立大学を卒業して,コロンビア・シカゴ・ミンガン等の各大学院でインド・東洋文化史を研究する。母校で仏教哲学・俳句・仏教芸術を教える。昭和21年来日して東洋史を学び,同27年帰国する。 10年後再来日して,本県上浮穴郡美川村に居を構え,正岡子規の俳句,漢文学を研究する。昭和47年からは伊予市上三谷へ移り仏教研究を深めた。その他,南宇和郡城辺町僧都にも住んだこともある。文楽も愛好し,県内外の公演によくでかけた。子規の俳句の英訳に力を注ぎ,子規の句約300を英訳する。日本文化に興味をもち,外国へ日本文化を紹介する大きな功績をあげた。昭和48年3月,59歳で死去。

 アダネス   (Isidoro Adanez)
明治12年~昭和34年(1879~1959)司祭。
 スペイン・サモラ市で1879年8月10日に生まれる。1844年ドミニコ会に入り,1905年司祭に叙階され,9月来日。高知で13年宣教し大正7年宇和島に転じ,40年の長きにわたって同市に住み伝道と教育に一生を捧げた。聖ドミニコ召天700年祭を記念して教会堂を大改築し,神父によって救われた田中哲太郎の寄付を受げてカトリック最初の愛和幼稚園を設立,さらに昭和10年ゴシック風の美しい会堂を建てたが,戦災のため灰燼に帰す。しかし,神父を慕う母親たちはいち早く幼稚園を復興し,その恩に報いた。同29年,老齢のため故国スペインに帰る。神父を常に「宇和島の神父さん」と呼んでいた市民たちは,市役所にブロンズの胸像を建て,その遺徳を偲んでいる。1959年2月7日死去。79歳。

 安達 玄杏 (あだち げんきょう)
 天保9年~明治24年(1838~1891)医師。天保9年12月25日喜多郡重松村(現五十崎町)で庄屋安達文哉の第二子に生まれた。嘉永4年14歳のとき新谷藩儒者児玉暉山の門に入り,安政元年大洲藩医鎌田玄台について医学を修めた。更に安政6年長州藩の松岡良哉,ついで文久元年長崎の蘭医について修学,帰郷して内子村で開業した。明治5年従来の蘭医では時勢に遅れることを悟り,大阪の府立病院で新しい医学を研究して帰郷,医業を再開したところ病客門に満ち,数多くの患者を救済した。 12年私立病院精得館を開き,一層医療に励んだ。大阪留学を早期に打ち切らねばならなかったことを悔やみ,郷里の青少年遊学のため私費を投じて東京に「安達社」を設け,勉学・宿泊などの便宜を与えた。そのため内子町からは年々遊学する者が続出して数多くの人材を輩出した。また内子町には明治23年ころから尚武会と称する青少年育成の組織が県下にさきがけて作られ,連綿として50余年続けられたが,そのきっかけをつくり奨学育英の実をあげたのも玄杏の遺業である。明治24年3月19日52歳で没し,門下生たちが頌徳碑(現内子小学校校庭)を建てた。

 安倍  恕 (あべ はかる)
明治26年~昭和57年(1893~1982)裁判官。明治26年8月4日,松山小唐人町(現松山市大街道2丁目)で医者安倍義任の子に生まれた。学習院長・文相安倍能成は実兄である。大正7年東京帝国大学独法科を卒業した。司法官試補を振り出しに東京・京都地方裁判所判事などを経て,昭和22年福岡高等裁判所長官になった。この後,大阪高裁・東京高裁長官を歴任,37年司法研修所長を最後に退官した。昭和57年1月6日88歳で没した。

 安倍 能成 (あべ よししげ)
明治16年~昭和41年(1883~1966)哲学者・教育者。明治16年12月23日,医者安倍義任の八男として,松山城下の大街道2丁目で生まれる。明治34年(1901)松山中学校を卒業後成績抜群により1年余助教諭心得として母校に勤め,翌35年第一高等学校に入学。岩波茂雄,阿部次郎,小宮豊隆など多くの知己を得た。同39年東京帝国大学文学部哲学科に入学し,波多野精一,元良勇次郎,大塚保次など各教授の印象深い講義に充実感を味わい,謡を稽古し始め,能を見だし,歌舞伎を観るなど大学時代の生活を送る。同42年同大学院に入学する。このころから高浜虚子の主宰する「国民新聞」の国民文学欄,次いで「朝日文芸」,同45年に「読売新聞」,「ホトトギス」などに寄稿し,小宮・阿部・森田と安倍の4人で文集『影と声』を発刊するなどさかんな文筆活動を始めた。
 大正元年12月波多野精一博士の媒酌で藤村操の妹恭子と結婚。同年から津田英学塾・日蓮宗・慶応義塾・法政などの大学で講義をする。同10年3月慶応義塾大学の文学部講師を辞め,同年4月第一高等学校の倫理の講師となる。同13年(1924)9月から哲学と哲学史研究のため,フランス・イタリア・ドイツなどに留学し,同15年3月新設成った京城大学教授,同法文学部長,昭和15年9月第一高等学校長に就任し,同20年には貴族院議員に勅選され,翌21年1月幣原喜重郎内閣の文部大臣に就任し,在職わずか4か月であったが,戦後の文部行政の刷新を図った。その後,帝室博物館長・学習院院長を兼務し,昭和41年6月7日学習院院長在職中に死去。 82歳。生前,平和主義に徹した自由主義者であった。昭和21年3月アメリカ教育使節団が来日した時,文部大臣として,相手国に当時の被占領国の国民の真情を吐露した演説は,我々の心底に永く残るものであった。その著『わが生ひ立ち』の前がきで………「誠は天の道なり,これを誠にするは人の道なり。」自分が薺に生まれるのも牡丹に生まれるのも天の道であり,誠である。この天の道,誠の道を自分の努力によって実現して,牡丹を羨まないと共に薺を恥ぢないといふのが,私の三十歳頃に得た一種の悟であった。……また,この自叙伝には,幼年時代,家族,在学中のこと,松山のこと,東京のことなど全て事細かに登場する人物と関連づけて記述され,明治・大正・昭和3代にわたり社会生活が記され,氏の記憶力のすばらしさをうかがうことができる。
 昭和42年,母校松山中学校の後身松山東高等学校前庭に胸像が建てられた。
 カント哲学研究の第一人者で『カントの実践哲学』『西洋古代中世哲学史』そのほか読売文学賞を受けた『岩波茂雄伝』をはじめ,『西洋道徳思想史』『予の世界』『思想と文化』『現代と文化』『わが生ひ立ち』『戦後の自叙伝』等多くの著書がある。

 足立 重信 (あだち しげのぶ)
生年不詳~寛永2年(~1625)松山藩加藤嘉明の家老,美濃国の人,字兼清,元清,通称半右衛門。年少から嘉明に仕え朝鮮の役にも従事し,嘉明が加増されて松前に転封されたとき重信も随って伊予に来た。関ヶ原の役には留守を守って佃十成らと共に毛利勢を破り領内を鎮定した。松前城の大拡張を行い重信川の大改修を断行し毎年の水害を除いて5,000町歩の水田をかんがいし,ついで石手川を改修し水害を除いて米十万石を産出するようになり川の名も重信川と称せられた。慶長5年嘉明が20万石の大名となり,勝山へ移転築城して城下町を松山と改めた。重信は普請奉行として多年努力したため過労から病を発し寛永2年11月17日死去,臨終に遺言し城と石手川の望まれる地に墳墓を求め来迎寺の稜丘に葬られた。大正8年正五位を贈られ,来迎寺境内に頌功碑もある。

 阿部 公政 (あべ きみまさ)
明治31年~昭和54年(1898~1979)スポーツ功労者。明治31年4月17日伊予郡砥部村(現伊予郡砥部町五本松)生まれ。大正13年(1924)東京帝国大学卒業。在学中ラグビー名ロックとして活躍,松山22連隊に入隊中,ラグビー経験者でチームを編成,大正14年2月22日地元松山高校チームと同校グラウンドで愛媛県初のラグビー試合を行う。昭和3年,(1928)砥部町長に就任,砥部焼,ミカンの地場産業の振興に尽くす。同23年県教育委員会委員,同委員長,同教育長を歴任。同年~25年,同30年~48年(1955~1973)21年間,県ラグビー協会長として普及発展に尽くした。この間,同28年第8回国民体育大会の誘致・運営に貢献,当時の日本体育協会国体委員長清瀬三郎とは東大ラグビー仲間で誘致に役立った。昭和54年2月21日死去。 80歳。同39年(1964)県スポーツ功労賞を受賞する。

 阿部 久一 (あべ ひさいち)
明治36年~昭和49年(1903~1974)明治36年1月7日越智郡竜岡村(現玉川町大字竜岡)の父が獣医師の家に生まれ,大正13年麻布獣医畜産学校卒業後直ちに上浮穴郡,ついで喜多郡畜産組合等に勤務し有畜農業の奨励,和牛の改良増殖あるいは繁殖障害除去専任技術員としてトリコモナスの除去検診等に活躍中応召し,昭和9年軍功により正八位勲六等瑞宝章を贈られる。除隊後喜多郡畜産組合に復職。その実績が認められて昭和12年愛媛県農林技手に任ぜられ,服務中再度の応召となり昭和14年8月陸軍獣医中尉となり,解除後県農業会畜産課主任技師として戦時体制下の畜産業が産業的軍事的にも一段と重要性を増す中で,有畜農業のすすめに持前の剛毅不屈,向う意気の強さと,口八丁手八丁と言われた,健筆と得意の弁で印刷物の配布,昼夜を分たず随所に講演を展開するなど,その活動ぶりは今も1つの語り草となっている。
 農業会退職後は生地玉川町において林牧共存経営を提唱し,自ら林間放牧を試行するほか,九州方面から和牛を導入して地域の農家に預託するなど,常に技術者の時代感覚やその公共性,経済性への対応を厳しく叱陀激励するなど気骨の人であったという。なおその後昭和26年に地元竜岡村長となり続いで,合併後の玉川町長を連続5期務める間には越智郡町村会長,県森連理事,県内水面漁業協同組合連合会長など数多くの役員歴を経る間自治大臣,厚生大臣,水産庁長官をはじめ全国町村会長,全国森林組合連合会長,全国社会福祉協議会長,日本赤十字社表彰ほか数多くの受賞に浴している。
 昭和49年11月18日死去,71歳,正五位勲四等瑞宝章を贈られた。

 阿部 平助 (あべ へいすけ)
嘉永5年~昭和13年(1852~1938)今治タオルの創始者。弟は今治綿業近代化に尽くした光之助。越智郡室屋町(現今治市)の生まれ。綿ネル業に従事していたが,あるとき泉州(大阪府)でみた今までの織物とは異なった感覚と使途を持つタオルに着目し,その将来性を確信した。そこで泉州から打ち出し織機という手織りばた4台を買い入れ,明治27年12月風早町(今治市)の民家を改造した工場で製織を始めた。これが織物の町今治へ落とされたタオル(当時は西洋手拭といった)の最初の種である。さらに阿部一族で設立した阿部合名会社に30台のタオル織機を据えつけ,中国地方へも販売をすすめたが,販路の開拓は容易でなかった。というのは,当時タオルの使用についての世人の認識が浅かったこともあるし,技術も未熟で1台1人がかりで1日やっと1ダースの生産では採算に乗らず,苦しい経営が続いた。その後明治33年,阿部会社では本業である伊予ネルの生産拡大のため,英国制動力織機50台を導入し,愛媛県に産業革命をもたらした。この時期に,不採算部門であるタオルの生産は一時中止のやむなきに至った。しかしこの時にまかれた種は枯れることなく,大正に入り麓常三郎,中村忠左衛門などの努力もあって次第にタオル業が興り,現在の全国一の大産地発展へとつながった。昭和13年11月16日没(86歳),墓は今治市円光寺。今治市吹揚公園に胸像が建っている。
 
 阿部 倍太良 (あべ ますたろう)
 文久3年~大正9年(1863~1920)南伊予村長・県会議員。文久3年6月29日伊予郡上野村(現伊予市)で阿部鷹吉の長男に生まれた。村会議員・村助役を経て,明治30年~36年南伊予村長として小学校の統合などを図った。36年9月~44年9月まで2期県会議員に在職,南伊予村を東西に通じる県道の開設などに奔走した。39年産業組合の必要性を説き伊予購買組合を起こして組合長に就任,村信用組合長を兼ねた。大正9年7月3日 57歳で没した。
 
 阿部 万左衛門 (あべ まんざえもん)
 寛延2年~文化3年(1749~1806)赤坂泉開削者。道後平野は,瀬戸内少雨気候と,大河川を欠いでいるため,地上水が不足し,古くから山麓の`ため池。にたよったり,地下泉を掘削して,かんがい水を得ていた。この平野のうち,最大の泉は,重信川沿いの村内に掘削された赤坂泉であり,この難工事を完成したのは,伊予郡釣吉村(現松前町)の庄屋万左衛門であった。彼は生来,豪放果断,義狭心に富んだ性階で,社会公共に尽くすことを自分の任務としていた。たまたま付近の赤坂泉の開削の必要に迫られながら,工事難を理由に引き受け手がないので,彼は進んでこの工事を引き受け,私財を投げうち,全精力を傾注して,10か年の長い歳月を要して完工した。八倉・宮下・徳丸・出即などの部落ぽかんがい水をこの泉水にたより,干害からまぬがれ毎年豊作となり,水争いはあとを絶った。57歳で死去。
 
 阿部 光之助 (あべ みつのすけ)安政5年~昭和8
年(1858~1933)実業家,初代今治町長・県会議員・議長。今治業中興の祖といわれ,今治実業界の中心人物であった。安政5年3月8日,越智郡室屋町(現今治市)で,綿替木綿商などを営む商家に生まれた。兄は今治タオルの創設者阿部平助であった。明治10年代学務世話掛・学務委員を務め,町連合会議員に再三当選した後,明治23年初代今治町長に選任されたが1年在職したのみで実業を志し,25年今治融通会社(のもの今治商業銀行)を創設して社長になった。29年兄と共に阿部一族を糾合して阿部合名会社を設立, 33年には英国製の動力機械50台を導入して伊予綿ネルの動力化をはかった。35年伊予綿ネル業組合を設立して組合長に就任,以後20年間業界の団結と近代化に尽力した。 37年伊予木綿会社を引き継いで丸今綿布会社を設立,38年には伊予綿布同業組合の組合長にも就任した。明治25年3月県会議員に選ばれて以来36年9月まで在職して,34年11月副議長,ついで35年11月~36年9月議長を務めた。35年今治商工会が設立されると会長に推され,大正15年まで25年の長きにわたって在任して今治商工業の発展に尽くした。 39年には今治電気会社の創立に参画して社長になり,その他米穀商同業組合長・伊予織物同業組合連合会副会長などにあげられるなど,今治実業界の中心人物として地域経済・社会の発展に貢献した足跡はきわめて大きかった。昭和8年1月16日74歳で没し,今治円光寺に葬られた。長男阿部秀太郎は昭和16年10月~18年11月今治市長を務めた。

 阿部 芳太郎 (あべ よしたろう)
 元治2年~昭和年(1865~1935)実業家,今治町長・県会議員。元治2年2月28日今治で商家阿部(大和屋)亀之助の長男に生まれた。今治金星町に米穀取引所を設立,また保険代理店を開き,保険啓蒙宣伝のため北海道方面にまで活動した。明治23年今治町会議員になり政治面でも活躍したが,明治44年~大正4年今治町長に選任され,工費100万円,4か年の今治港大築港工事に着手した。また小学校教育に意を注ぎ,度々学校視察を行い,小学校教育基金制度を設定した。大正9年2月~11月今治市制施行に伴い臨時市長代理を務めた。大正12年9月県会議員になり,15年4月まで在職して政友会に所属した。その後は松山に住居を移し,日本赤十字社愛媛支部に勤務した。昭和10年10月23日70歳で没した。

 阿部 里雪 (あべ りせつ)
 明治26年~昭和48年(1893~1973)俳人。越智郡東伯方村木浦(現伯方町木浦)の生まれで,名は利行。20歳のとき,松山に出て,柳原極堂の経営する伊予日々新聞に入り,子規門の人々,ことに極堂をはじめ村上斉月,岩崎一高などに教えを受ける。昭和3年に上京し,五百木瓢亭主宰の雑誌「日本及日本人」の記者となり,同7年,極堂が東京で主宰した俳誌「鶏頭」の編集に従事し,俳句の道に精進する。同12年,瓢亭没後日満工業新聞に入社したが,同19年,伯方町木浦に帰郷し農業と句作に専念する。戦後,町の公民館長を務め,俳誌「島」を創刊し,島の俳句の指導にあたる。この間,『子規門下の人勺l『極堂書翰集』を著して,極堂の顕彰につとめた。同42年には愛媛新聞賞,県教育文化賞を受賞する。昭和48年3月9日死去,80歳。

 相川 勝六 (あいかわ かつろく)
 明治24年~昭和48年(1891~1973)昭和戦時下の県知事。決戦必勝下の県政を担う名知事とたたえられた。明治24年12月6日。佐賀県藤津郡嬉野町で相川定蔵の次男に生まれた。大正8年7月東京帝国大学法学部ドイツ法科を卒業して千葉県属に任官,同年高等文官試験行政科に合格。以来,徳島県理事官,警視庁警視,宮内大臣秘書官兼宮内書記官,内務書記官,警視庁刑事部長を経て,昭和6年京都府警察部長に転じ,神奈川県警察部長,内務省保安課長,朝鮮総督府外事課長などを歴任した。昭和12年7月宮崎県知事,14年9月広島県知事,16年3月愛知県知事,17年6月大政翼賛会実践局長にそれぞれ就任した後,昭和18年7月1日東京都と九地方行政協議会設置に伴う大異動で,四国行政協議会長兼愛媛県知事に任命された。「苦労多かった翼賃会の経験を生かして本当の意味の官民一体の地方行政をやって見たい」が本県知事就任の第一声であった。赴任早々の7月21日夜から三昼夜にわたって襲来した豪雨による未曽有の災害復旧が初仕事となった。相川知事は,臨時対策本部を設置して学徒・青年を総動員。自らも応急復旧作業に加わってモッコをかつぐなど,非常時の試練として県民を激励した。また政府に掛け合って「風水害二因ル愛媛県災害土木費国庫補助規程」を勅令で公布させて異例の高率補助を確保するなど,その手腕は「決戦必勝下の愛媛県政を運営するには正に人を得たり」と県民の信頼を集めた。更に水害対策本部を官民一体の戦力増強対策本部に発展させて食糧増産・生産増強の指令部とした。常に食糧増産を叫び,〝食糧増産知事″とあだ名された相川は,空閑地の利用,蔬菜などの自給態勢,女子の労務活用などの施策を講じ,18年8月の第一回地方行政協議会でも,四国の農会・水産会会長などを招集して食糧増産及び需給確保に関する意見を求めた。昭和19年4月18日厚生次官に転出した。1年に満たない在職期間であったが県民に強い印象を刻んで去った。20年小磯内閣の厚生大臣に抜擢された。戦後,追放解除の後,昭和27年10月宮崎県から衆議院議員に当選した。昭和48年10月3日81歳で没した。
 
 相原 熊太郎 (あいはら くまたろう)
 明治16年~昭和54年(1883~1979)郷土史家。明治16年4月20日下浮穴郡久谷村(現松山市)に生まれる。松山中学校から第六高等学校へ進み,明治40年東京帝大文学部哲学科を卒業,翌年都新聞(現東京新聞)に入社し,社会・整理部長を歴任して昭和7年に退社,同11年からは東京府立第三商業学校につとめる。同22年,帰郷して郷土史の研究に没頭する。たびたび「伊予史談」に論文などを発表する。故郷坂本村戦没者の慰霊碑建立を企図し遺族宅を回って295柱それぞれの戦死の状況を四行譜にまとめ,自筆で砥部焼の「鎮魂の皿」をつくり,松山市浄瑠璃寺の境内の供養塔にはめ込んだものが残っている。後,同23年東京に移り住み,昭和54年7月25日,96歳で死去した。

 相原  賢 (あいはら けん)
 文政4年~明治22年(1821~1889)漢学者・教育者・戸長。文政4年8月15日伊予郡鶴吉村安井(現伊予市)に生まれた。幼名は鷹次郎,長じて和佐助,字は士斉草野山人または草恭野人と号した。幼時,両親を亡くしたが学問を好み, 7歳,大洲藩士井上桂庵に素読を受け, 14歳,郡中の陶惟貞に学ぶこと3年,ついて道後義安寺の僧顕光,日下伯巌らに学び,後に鷲野南村の橙黄園塾に入り南村を生涯とするに至る。また,好学心強く,豊前小倉の和算の大家小松式部(鈍斎1806~1868)が遊歴して伊予に立ち寄ると直ちに行って和算,天文,暦学を学んだ。青年時代には,宗の孝宗の国子鑑主籍鄭耕老の勧学訓を板書して座右に置き,昼夜を分かたず読書研鑽に励んだ。『十三経』購入のため自己の良田3反歩を売却したのもこのころである。
 明治5年学制が頌布されると上三谷日進学校,上高柳墨水学校,神崎義方学校に四等教官として子弟の教育に尽粋した。愛郷心きわめて強く,戸長としても粉骨職務に精励した。
 生来資性純誠,辺幅を飾らず,名利を求めず,終生野に在って学問と教育に精進した。一時藩公より招聘のこともあったが固辞して受けなかった。明治22年『中庸校註』を著したが,同年9月14日自宅で没した。行年68歳。T大正13年10月18日,門弟ら相寄り,北伊予小学校々庭に頌徳碑を建てた。直筆の遺墨は僅少,令息海春の代筆が多数のこされている。相原賢伝は,鷲野南村同門の松山龍稔寺僧田中道円の『艸野相原賢略伝』相原海春著『相原先生年譜』に詳しい。同書に学友河東静渓,先輩武知五友の追悼詩がある。『中庸校註』は在所不明。

相原 正一郎 (あいはら せいいちろう)
 明治25年~昭和50年(1892~1975)体育指導者。明治25年1月29日温泉郡南吉井村見奈良(現重信町見奈良)に生まれ。大正3年(1914)愛媛県師範学校卒,温泉郡南吉井小学校訓導当時,景浦通武校長に認められ戸山学校などの体育指導講習会に度々参加し立派な体育指導者に成長。大正11年第1回温泉郡総合陸上運動競技大会(参加3千人)を運営,愛媛県で最初の総合体育大会として県史に残っている。この指導ぶりが松山高等学校由比質校長の目に止まり同年小学校訓導から同校体育教師に迎えられる。異例の人事である。特に基礎体力の重要性を説き徒手体操の強烈さに「殺人体操」の異名がついた。また師範OBや県内小・中学校体育教師らで指導実習を研修し合う集い「R(アール)クラブ」を作り以後愛媛の体育の発展に大きな役割りを果たした。昭和5年民衆体育功労賞を四国で初受賞。同25年学制改革で愛媛大学教授となり体育学科担当。同28年(1953)10月第8回国民体育大会の堀之内開会式場で矩火リレー最終走者として燃える油がこぼれ落ち手にやけどしながら天皇・皇后両陛下の前で完走したことは今も語り伝えられる。県体操協会長,県体協副会長,日本スポーツ少年団県本部長を歴任,「愛媛スポーツの父」と慕われた。同30年県教育文化賞,同39年県スポーツ功労賞受賞。昭和50年2月1日83歳で死去。

 相原 経寿 (あいはら つねとし)
 宝永5年ころ~安永3年(1708ころ~1774)江戸時代初期の篤農家。『相原家系譜』によると,その先祖は美濃国相原荘に居住し,戦国時代に伊予に来て河野氏の部将平岡通倚に属して,浮穴郡棚居城に拠ったという。河野氏の滅亡後,帰農してその子孫は代々久米郡高井村の庄屋役を勤めた。経寿は父のあとをうけた享保13年(1728)に帯刀を認められ,同15年に改庄屋役兼務を,宝暦8年(1758)に大庄屋を命ぜられた。高井地域は古くから旱魃地として知られ,農家はこの地を西流する内川の水を唯一の灌漑用水とした。旱魃の年には,内川は枯れてしまい,70余町歩の稲の収穫は皆無となることが多かった。経寿は農民の困窮するありさまを見て,水源地の開発を決意し,日夜寝食を忘れてその探索につとめた。彼は苦心した結果,隣接している北野田村に伏流水かおるのを知り,その発見に工夫をこらした。同村野津合の地を選んで,ここを開さくしようとした。彼は近隣の庄屋たちを説得してその了解のもとに,藩庁に願い出て資金の融通をうけ,さらに村民の労働奉仕によって,およそ4畝歩の泉池(南北18メートル東西54メートル深さ6メートル)を開さくすることに成功した。時に寛延2年(1749)であって,それ以後高井村では灌漑用水が枯れることがなかった。そのうえ,その余水は下流の村落を潤し,多大の貢献をした。明和5年(1768)12月,彼は老齢のため大庄屋役を辞したが,藩はその徳望に対し,その功労を表彰した。安永3年(1774)10月に逝去し,その遺骸は高井の覚王寺に葬られた。

 青木 重臣 (あおき しげとみ)
 明治33年~昭和57年(1900~1982)戦後の官選知事として本県に赴任,最初の公選知事として混乱期の県政を担当した。明治33年8月6日,長野県更級郡牧郷村で青木善蔵の三男に生まれた。昭和2年3月京都帝国大学法学部を卒業,石川県讐部を振り出しに警視庁警視,大阪府警察監察官,関東庁警務局警務課長,高等警察課長,福井県警察部長,内務書記官兼内閣総理大臣秘書官,平沼国務大臣秘書官,千葉県警察部長,警視庁官房主事と一貫して警察畑のエリートコースを進んだ。この昇進は,企画院総裁から東条内閣の大東亜相に就任した兄青木一男の縁故によるところが大きいといわれた。昭和19年石川県内政部長になり,広島県警察部長兼地方副参事官,地方総監府参事官,福岡県内政部長を経て,昭和21年10月4日愛媛県知事に就任した。警察畑で鍛えた果断実行型の長官で,〝猛牛〟とあだ名された。食糧確保のため農家に強制供出を命じ,隠退蔵物資を摘発するなどの強権を発動して強い知事を印象づけた。5か月間在職して22年3月14日依願退官,昭和22年4月愛媛県知事選挙に出馬して当選,「県民諸君が重役,私は支配人だ」と第一声を放ち, 4月16日本県初の公選知事に就任した。「地方自治法」の施行,「地方税法」の改革,農地改革,県教育委員会の発足と6・3・3制の実施,戦災都市の復興など山積する問題を抱えて多忙を極め,財政難と労働争議の頻発に苦しみながら,青木県政の4年間は食糧確保対策に主力を注いだ。また多年の銅山川分水問題を解決して最大の事績とたたえられた。しかし,青木の強い個性は独裁政治と批判され,与党愛媛民主党にも反発勢力が生まれ,再選を期した26年4月の県知事選挙で大敗した。その後,青木は東京に帰って事業を営み,昭和57年4月28日81歳で没した。

 青木 繁吉 (あおき しげきち)
 明治19年~昭和46年(1886~1971)実業家・太陽石油会社創設者。明治19年12月12日,高知県高岡郡(現土佐市)で青木寅次の次男に生まれた。 34年小学校卒業後高岡町内の鉱油店に勤め,石油の将来性に着目して41年青木商店を設立した。大正5年八幡浜に移住して青木石油店の看板を掲げ,ライジングサン(現昭和シェル石油)の代理店として出発,昭和6年青木石油株式会社に発展して,13年工場を菊間町に移した。16年2月太陽石油株式会社を設立して社長に就任,純民族資本系会社として西日本各地へのエネルギー供給と石油製品の普及に貢献した。 33年戦後日本で初めてソ連原油1万3,000キロリットルを菊間の亀岡工場に輸入して,その実行力・先見性が世間を驚かせた。昭和45年勲四等瑞宝章を受章し,46年4月21日84歳で没した。

 青木 正穀 (あおき まさよし)
 安政3年~大正8年(1856~1919)戸長・県会議員。安政3年10月27日,宇和郡吉波村(現北宇和郡広見町)で庄屋の家に生まれた。明治19年3月県会議員になり政治運動に参加,大同派一自由党に所属して29年3月まで10年間連続当選,一時議席を離れたが,30年12月の補欠選挙で返り咲き,32年9月まで在職した。地元のために県道宇和島一吉野生線の開通に奔走してこれを完成させた。大正8年4月5日62歳で没し,翌年青木家前の県道沿いに功績記念碑が建てられた。

 青地 快庵 (あおじ かいあん)
 生年不詳~寛政12年(~1800)藩医,儒学者。青地家は代々藩の漢法医者を務めた。俳人でもあった青地彫棠は曽祖父に当たる。快庵も藩医で九代藩主定国の侍医であった。徂徠学(蘐園学派)の賢才と称されていた(却睡草)。彼は藩の政治・経済にも強い関心を示し,門弟の浅山勿斎は,定国の側用人に任用された。寛政12年10月22日没し,松山城北の来迎寺の青地家墓所に葬られた。我が国物理学の創始者青地林宗は快庵の長男である。

 青地 彫棠 (あおじ ちょうとう)
 生年不詳~正徳3年(~1713)松山藩江戸詰医師。俳人。名は伊織。晩年は周東と号した。其角門。藩主定直(俳号三嘯・橘山)や久松粛山等も彫棠を介して其角門に入ったと思われる。元禄5年(1692),彫棠邸に芭蕉・其角らを招いて,芭蕉の「打よりて花入れ探れ梅椿」の発句に,彫棠が「降り込むまゝの初雪の宿」と脇句を付けて歌仙が巻かれた。この巻を松山に伝えて明和7年(1770)青梔が石手寺に花入塚を建てた。彫棠は其角門の代表的俳人として江戸で活躍し,正徳3年に没した。直接伊予俳壇に対する影響はないが,三嘯・粛山を通して,伊予俳諧興隆への道を開いた人であるといえる。

 青地 林宗 (あおじ りんそう)
 安永4年~天保4年(1775~1833)医者・物理学者。安永4年松山藩医青地快庵の子として生まれた。名を盈、字を子遠.号を芳滸ともいった。彼ははじめ家業の漢方医術を学び,京・大坂に遊学したが,年30歳のころ江戸に出て,天文台訳官馬場佐十郎や蘭医杉田玄白について蘭方医学を研究した。学ぶこと数年で頭角を現し,宇田川榛斎・杉田立卿・伊藤玄朴らとともに,当時の学界をリードしたと伝えられる。彼は文政5年(1822)幕府天文台訳員となり,洋学翻訳に従事した。このころから彼は究理学にも意欲を燃し,『格物綜凡』を訳出し,また『気海観瀾』を著して,わが国にはじめて物理学を紹介した。さらに地誌にも視野を拡げ,『輿地誌』65巻を著した。天保2年(1831)水戸藩の要請により医員兼西学都講に就任したが,天保4年2月に年58歳で病没した。松山山越の来迎寺には,彼の墓および頌徳碑がある。

 青野 市太郎 (あおの いちたろう)
 明治21年~昭和51年(1888~1976)実業家。明治21年7月29日,新居郡新居浜浦(現新居浜市新田町)に生まれる。明治36年から海運業に従事するが,昭和10年自ら経営者となる。昭和30年青野海運株式会社社長,のち会長になる。その間,昭和12年には市会議員となるとともに,新居浜港の港湾整備に尽力し,工業港としての基礎を確立する。また同31年には愛媛県商工会議所連合会の副会頭に就任したり,同34年には四国地区海運組合連合会会長に就任して,公正にして誠実,おう盛な実行力をもってその指導育成にあたり,本県海運会の発展に多大の貢献をする。同36年藍綬褒章,同40年には勲五等双光旭日章を受章する。同46年愛媛県功労賞を受賞。昭和51年5月1日87歳で死去。

 青野 岩平 (あおの いわへい)
 明治5年~昭和34年(1872~1959)庄内村長・県会議員,県農会長,産業組合設立の功労者。明治5年12月12日,桑村郡旦之上村(現東予市)で旧家青野春治の長男に生まれた。 25年伊予尋常中学校を卒業し,上京遊学を志したが,父の急病で果たせなかった。 34年1月庄内村長に選ばれ,村農会長を兼ねて44年10月まで村長の職にあった。 36年9月~44年9月の2期県会議員に在職,政友会の論客として農政問題に論陣を張った。村長としては,治山治水の根本対策と村財政の財源育成のため大明神川上流の村有林植林に着手,また農村の不況打開のため国策に沿って北海道集団移住を推進した。大明神川水利紛争の解決や四阪島煙害賠償問題にあたり,堅牢な庄内小学校校舎を建築するなど,名村長と称えられた。 41年には庄内村信用購買組合を設立,村長を辞して産業組合活動に一生を捧げる決意をし,45年庄内村信用購買販売生産組合長に就任,昭和19年辞任するまで30有余年を組合の発展と農民の福利増進に尽くした。その間,県内産業組合組織の大同団結を推進し,大正期から昭和の初めにかけて,産業組合中央会周桑郡部会長,県信用組合連合会長,県農会長,県購買販売利用組合理事会長,県農業倉庫協会副会長などの要職を歴任,今日の県農協連合会の基礎を築いた指導者の1人であった。昭和12年には産業組合法による医療利用組合連合会周桑病院を設立して農民の医療と健康管理を図った。庄内村を模範村に育て多年にわたる産業組合活動の貢献で,産業組合中央会や大日本農会からしばしば功労者として表彰され,賞勲局からは昭和大礼記念章を受けた。32年庄内農協が中心となって庄内公民館の前庭に胸像が建てられた。その除幕式に臨んだ後,昭和34年1月14日86歳で没した。 50年周桑病院にも頌徳碑が建てられた。

 青野 貞喜 (あおの さだき)
 明治31年~昭和55年(1898~1980)明治31年11月1日,周桑郡庄内村旦之上(現東予市)の代々の篤農家に生まれ,幼時より牛馬に関心深く,家業の傍ら家畜商を営まんと志し牛馬商免許を取り,地元出身で当時周桑郡畜産組合長の村上盛一らの意向を戴し村内の牛馬の振興を図るべく,尾道家畜市場を中心に優良基礎牛を,また北海道より優良種馬を導入して村内農家に飼育を奨励。特に当時耕牛のみであった和牛を繁殖あるいは肥育することを指導して県内有数の和牛の繁殖肥育地とし,これが素地となって昭和23年に庄内村が畜産模範村の指定を受けることとなった。この外家畜の公正な取引の改善については格段の意を注ぎ,当時とかくの批判の多かった牛馬取り引きの中にあってその信用は絶対的なものがあり,加えて牛馬の種付,去勢,登録,軍用保護馬の検査,鍛錬等卒先協力指導に当たり地域の畜産振興に多大の功労があった。かくして地域の衆望を担い昭和9年から庄内村会議員3期,合併後の三芳町会議員を1期勤めるほか,昭和21年から30年にわたり周桑郡家畜商組合長としてその重責を果たし,昭和35年から41年に至る6年間を庄内村農業協同組合長を勤めるなど地域の産業発展に尽くした功績は誠に大なるものがあったが,昭和55年6月26日,81年有余の生涯に別れを告げた。

 青山 好恵 (あおやま よしえ)
 明治5年~明治29年(1872~1896)言論人。「仁川新報」創刊者。宇和島笹町で村松喜久蔵の四男に生まれ,青山家に入籍した。村松恒一郎・山村豊次郎は兄に当たる。西河通徹・滝本誠一らの薫陶を受けた。一時末広鉄腸の「関西日報」を手伝い,やがて朝鮮にわたり,同地日本字新聞の草分けという「仁川新報」を創刊した。かたわら朝日新聞京城通信員を務めて日清戦争の報道に当たったが,病気で西河通徹と交代した。明治29年11月24歳の若さで没した。

 赤岩  栄 (あかいわ さかえ)
 明治36年~昭和41年(1903~1966)牧師。喜多郡宇和川村(現肱川町)で明治36年4月6日に生まれる。父長吉は肱川小学校長で神戸日本基督教会で信者となり,さらに,神学校に入って牧師となった。郡中,西条,小松の諸教会で伝道,牧会したので,栄は明治末郡中教会(日本基督教団)で少年時代を送った。大正3年(1914)広島に一家転住し広陵中学に入学,そこで大杉栄や堺利彦の書に親んだ。神戸神学校,大阪神学院に学んだがいずれも中退,東京神学校で高倉徳太郎校長の感化を受ける。昭和3年,日本基督教会佐渡伝道所へ赴き同時に高倉を助けて「福音と現代」誌の編集を担当する。昭和6年上京して中原伝道所を開き,11年上原教会を創立した。第二次世界大戦以後は,教会と社会,信仰と活動の問題を追求, 23年信仰の社会的実践の場を共産党運動に求めて,入党宣言を行ったが,日本基督教団の説得で断念した。同年12月,小説家椎名麟三に洗礼を授け,月刊誌「指」を創刊。教会内の講壇を除き,オルガンをピアノに替え,賛美歌を自作の歌とし,説教を告知とするなど,既成キリスト教からの脱出をはかったが,戦後日本キリスト教思想史において,重要な役割を果たしたといえる。『新約聖書要解』『日々の糧』『人間この逆説的なるもの』など著書は多い。昭和41年11月28日死去。 63歳。

 赤川 戇助 (あかがわ こうすけ)
 天保14年~大正10年(1843~1921)岩村愛媛県令を補佐して創成期の県政に尽力した。天保14年10月,長州萩藩医赤川文悦の長男に生まれた。藩の医学校好生堂で医師となるべく修学するが,文久元年藩主と共に江戸へ出だのを機に志士に身を投じた。元治元年四か国連合艦隊が下関を砲撃すると,膺懲隊を率いて防戦に当たった。,慶応2年の長州征伐では健武隊副督として出陣し,周防三田尻の警備を担当した。明治5年宇和島県十一等出仕.6年愛媛県七等出仕,7年12月岩村高俊権令の着任と共にその補佐役権参事,同12年官制改革で大書記官になり,岩村県政を助けた。岩村県令の転任と共に本県を去り,13年福岡県大書記官,15年青森県大書記官,16年内務省戸籍局長心得,秋田県令を歴任した。官吏になってからの実績は,他の長州の俊英に比して淋しく,明治23年官吏
を辞した後は浪人生活を過ごし,晩年は親友桂太郎のすすめで,兵庫県西宮の広田神社,神戸の長田神社の宮司を務めた。大正10年1月20日77歳で没した。

 赤堀 五郎吉 (あかほり ごろきち)
 天保15年~大正10年(1844~1921)県会議員・初代神拝村長。天保15年5月26日,西条藩士赤堀正弼の長男に生まれた。名は正孝。大阪城守衛,御近習番,頭役などを勤めた。明治17年3月植松暢美の補欠で県会議員に選ばれたが, 5月満期退職した。明治23年初代神拝村長に就任,大正4年まで23年間在任して村政を担当した。大正10年12月1日77歳で没した。

 赤松  勲 (あかまつ いさお)
 明治28年~昭和57年(1895~1982)下灘村長・県会議員・議長。明治28年5月8日,北宇和郡下灘村須下(現津島町)で赤松隆一郎の長男に生まれた。宇和島中学校を経て大正6年水産講習所を卒業した。日本漁業に入り技師として北千島に出張し肝油製造に従事した。8年帰郷後宇和島畜産会社専務となり,青年団長を務めた。12年下灘村長に推され,昭和19年まで長期にわたり在職して松尾トンネル開通などに尽力した。昭和2年9月から県会議員一期,7年11月の補欠選挙に当選してからは二期連続,21年まで在職した。その間,12年には副議長, 20年12月議長に選ばれた。県漁業組合連合会長,漁船組合会長なども歴任した。昭和57年1月16日86歳で没した。

 赤松 勝馬 (あかまつ かつま)
 明治8年~昭和20年(1875~1945)泉村長・地方改良功労者。明治8年11月15日,宇和郡小倉村(現北宇和郡広見町)で赤松長太郎の長男に生まれた。27年泉村書記,31年助役兼収入役を経て40年9月村長に就任した。村長はわずか1期務めただけであったが,「青年百則」などを配付して青年教育の振興を図り,特に専任養蚕教師を置いて地場産業の技術改良を図り,道路の整備に務めるなどその村治はみるべきものがあった。村長退職後も共済講を作って村民の相互親睦と融通を進めて,消防組頭を務め,郵便局を創立して局長になるなど村内の福利増進に意を注いだ。これらの事績で大正14年地方改良功労者として県知事表彰を受けた。昭和20年11月25日70歳で没した。

 赤松  桂 (あかまつ かつら)
 明治9年~昭和18年(1876~1943)高光村長・県会議員・宇和島市長。明治9年10月5日,宇和郡宇和島御殿町で士族告森桑圃の四男に生まれた。告森良・清水隆徳・谷口長雄の末弟に当たる。のち北宇和郡高光村(現宇和島市)の旧庄屋赤松新古の養嗣子になり,明治33年東京専門学校(現早稲田大学)政治科を卒業した。 43年5月郷里の高光村長に就任して昭和5年8月まで5期連続村政を担当した。同5年5月清家吉次郎の補欠で県会議員に選ばれ,同6年9月の任期満了まで務めた。昭和11年7月宇和島市長に選任されたが,13年3月任期途中で病気を理由に辞任した。昭和18年8月26日66歳で没した。

 赤松 甲一郎 (あかまつ こういちろう)
 元治元年~明治42年(1864~1909)県会議員・議長。元治元年6月20日,宇和郡立間尻浦(現北宇和郡吉田町)の旧庄屋赤松則傚の長男に生まれた。父は維新後戸長を務め,明治13年「南鎨会社」(吉田銀行の前身)を創立し,14年4月~17年5月県会議員にも在職した。甲一郎は,家業の網元・農業に従事するかたわら,23年村会議員,28年末には立間尻村長に推挙された。 27年3月県会議員に当選し,以後39年1月まで4期,40年9月から死去の日まで1期,合わせて5期14年間県会にあった。党派は自由党一政友会に所属,40年10月から42年12月まで議長の重責を担った。明治42年12月22日45歳で没した。養子赤松則義(1889~1963)は,昭和6年~13年立間尻村長,13年~14年吉田町長を務め,戦後の26年4月吉田町長に公選されて一期町政を担当した。

 赤松 祐徳 (あかまつ すけのり)
 明治2年~昭和31年(1869~1956)三間村長・地方改良功労者。明治2年6月18日,宇和郡北増穂村(現北宇和郡三間町)で生まれた。26年三間村書記を経て35年同村長に就任, 38年岡本景光に村長職を譲って助役に退いたが,45年再び村長に返り咲き,以来昭和4年まで在任した。その間,林政事務の整理,教育の普及発展,里道改修,勧業の振興,村是の確立に努め,大正7年地方改良功労者として県知事表彰を受けた。昭和31年4月9日86歳で没した。

 赤松 泰苞 (あかまつ たいほう)
 安政元年~大正11年(1854~1922)初代畑地村長・県会議員。安政元年12月18日,宇和郡川名津浦(現八幡浜市)の庄屋菊池家に生まれ,宇和郡下灘村(現北宇和郡津島町)の庄屋赤松家に養子に入った。上甲振洋に学び,上京して法律を修め長崎地方裁判所検事になった。やがて養父の請いにより帰省して酒造業に従事した。明治23年5月町村制施行に伴い初代畑地村長になり, 25年4月まで在職して治水・殖産・道路開削に努めた。その間,宇和島の政治運動家坂義三らを財政面で支援した。郡会議員を経て29年3月県会議員になり,府県制改正で30年11月辞職した。大正8年9月再度県会議員にあげられ,死去するまでその職にあった。人望があり郡農会長・漁業組合長・畜産組合長を歴任,南予の鉄道誘致運動にも活躍した。
 大正11年5月7日67歳で没し,昭和3年その頌徳碑が建てられた。

 赤松 明勅 (あかまつ めいちょく)
 明治45年~昭和40年(1912~1965)新聞記者,衆議院議員。明治45年3月11日,宇摩郡金砂村小川山(現伊予三島市)で篠永与市の四男に生まれた。中之川小学校を卒業後,大阪に出て布施市の実践商業を卒業して日本大学大阪専門学校に学ぶが,中退して毎日新聞布施支局の記者になった。のち海南新聞社(現愛媛新聞社)に入り,昭和10年から従軍記者として中国大陸に渡り13年帰国した。大阪の赤松平次郎の養子となり,製本業の赤松博集堂を経営,関西製本業統制組合連合専務理事・全国製本紙工商工業協同組合会関西支部長を務めた。戦後郷里に帰り,上分村農民組合長などに推された。昭和21年4月戦後初の第22回衆議院議員選挙に無所属で立ったが落選,22年4月の第23回選挙では愛媛2区から社会党公認で立候補,最高点で当選した。23年1月,平野力三らと社会党を離れ社会革新党を結成,24年1月の選挙では同党から立ったが落選した。27年1月篠永姓に復帰,その後大阪で海員組合や競艇関係団体などに関与した。昭和40年2月6日52歳で没した。

 赤松 義光 (あかまつ よしみつ)
 明治21年~昭和18年(1888~1943)三島村長として「村是」を確立した。明治21年11月10日,北宇和郡好藤内深田村(現広見町)で河野通倫の四男に生まれ,28年三島延川の赤松光雄の養子に入った。大正2年三島村助役4年三島村長に就任,昭和2年8月まで村政を担当した。その間,「三島村是」を定め,自治の振興,教育の進展,村風の振興,保健衛生の普及,産業の発達を五大施設方針として村政を運営,納税については納税組合規約10か条を作り,租税完納の村づくりに取り組んだ。この結果,三島村は大正10年優良村として県知事表彰を受けた。藤村と号し短歌文章をよくした。昭和18年1月1日54歳で没した。

 秋葉 豊平 (あきば とよへい)
 文政10年ころ~(1827ころ~)農業土木技術家。父は兼助といって新居郡下泉川村(現新居浜市)の大庄屋格兼割方役であった。父は病弱なため,おじの秋葉竜右衛門が後見者となり,このおじによって彼の心身はみがかれた。天性明敏で,農業技術のみならず俳諧にも秀れている風流人でもあった。嘉永4年(1851)より中村中之町池,高尾池の着工,また広瀬池,滝の宮池の改修岡の久保池を築いた。文久元年(1861)には船木村(現新居浜市)に田手原池に着手したが折からの経済界の混乱で米代が異常に値上がり,西条藩からの補助金でやっと完成する。慶応2年いよいよ阿島新田の開発にかかる。彼は40歳の男ざかりで組織的に周到な計画のもとに行われた。後年中村戸長,中萩大生院村学務委員,市之川の基安鉱山の取締役にもなる。新居地方に尽くした豊平の農業土木技術の功績は大きい。

 秋山 真之 (あきやま さねゆき)
 慶応4年~大正7年(1868~1918)軍人。松山藩士秋山久敬の五男として,慶応4年3月20日松山城下の歩行町(現松山市)に生まれる。15歳のとき兄好古に招かれて上京し,その下宿に寄遇したが,東京大学予備門に入校してからは神田猿楽町に正岡子規と下宿生活を送った。その後海軍を志し,明治23年海軍兵学校を優等の成績で卒業した。日清戦争には第4遊撃隊軍艦「筑紫」の航海士として従軍した。その後しばらく水雷関係の学生や艇付をし,同29年,海軍軍令部牒報課員を命ぜられ,満鮮方面で任務に就いた。同30年にはアメリカ留学を仰せつけられ,マハン大佐・ダードリッチ大佐・サムソン提督らの指導で近代海軍戦術を究めるとともに,米西両国の交戦を視察し報告した。帰朝後は常備艦隊参謀・海軍大学校教官を歴任し,日露開戦が予測される明治36年12月には第1艦隊参謀(司令長官幕僚)に就任するとともに,同時に編成された連合艦隊参謀(次席,作戦担当)も兼務した。開戦後は黄海海戦・旅順港口閉塞作戦に従事し,同38年4月には連合艦隊首席参謀に進んだ。わが国の命運を決する日本海海戦では,遠来のバルチック艦隊を対馬海峡に待ち受け,旗艦「三笠」に「皇国の興廃此の一戦に在り」のZ旗を掲げて対戦した。作戦は露艦隊の意表をつく敵前逐次回頭(いわゆる丁字戦法)を採り,一挙に露艦隊を撃滅,海戦を大勝に導いた。「舷々相摩す」「本日天候晴朗なれども波高し」の名報告文は,後世永く語り伝えられている。
 戦後は再び海軍大学校教官を務めた後,軍艦「三笠」の副長,軍艦「秋津州」・「音羽」・「橋立」・「出雲」・「伊吹」の艦長を歴任した。同44年3月には第1艦隊参謀長に,大正元年12月には軍令部第1班長兼海軍大学校教官に,続いて軍務局長に累進し,同5年には軍令部出仕となって8か月間欧米を視察。帰朝後は第2水雷戦隊司令官に就任し,同6年7月には海軍将官会議議員に列した。同年12月,海軍中将に昇進するが,病を得たため待命となり,翌大正7年2月4日小田原にて没した。享年49歳。

 秋山 英一 (あきやま ひでいち)
 明治28年~昭和56年(1895~1981)郷土史家,宗教団体役員。明治28年6月25日新居郡氷見村(現西条市)の生まれ。石鎚登山回数100余回に及び,石鎚の研究に全生涯を捧げ,石鎚山から伯耆(鳥取県)の大山を遠望できる個所を発見したのも彼である。公立中小学校の教師を勤め後,天理教愛東分教会長となり,傍ら郷土史研究を深め,全国各地に藤堂高虎,福島正則らの足跡を丹念に調査し,記録を残した。また,史料の収集解読をし健筆を振った。小松藩主についての史料に詳しかった。著書には『石鎚連峰と面河渓』『西条藩史』『小松藩史』『山本雲渓伝』などがあり,また「伊予史談」に掲載した論文も25余編に及んでいる。昭和56年3月15日85歳で没した。

 秋山 好古 (あきやま よしふる)
 安政6年~昭和5年(1859~1930)軍人。安政6年1月7日松山藩士秋山久敬の三男として,松山城下の歩行町(現松山市)に生まれる。はじめ大阪小学師範を出て教職についたが,陸軍を志して明治12年陸軍士官学校を卒業,騎兵少尉に任ぜられた。同16年には陸軍大学校入校,卒業後同20年には旧藩主久松定謨の補導役としてフランスに留学した。日清戦争では第1師団騎兵第1大隊長として,旅順攻略から蓋平・田庄台などに転戦した。戦後は陸軍乗馬学校長・騎兵実施学校長・第5師団兵姑監・清国駐屯軍参謀長・清国駐屯守備隊司令官を歴任し,同36年には騎兵第1旅団長になった。日露戦争には同旅団を率いて出征,秋山支隊として曲家店・得利寺・熊岳城と世界最強のコサック騎兵を敵にして蕭戦した。遼陽戦においては第2軍の左翼の援護に任じたが,さらに進んで露軍の右側背に圧力をかけ,全局の戦闘に寄与した。沙河対陣中には永沼・長谷川両挺進隊を長駆公主嶺・長春方面の敵中に挺進させ,橋梁爆破や兵姑襲撃などを敢行し,露軍の背後に多大の脅威を与えた。次いで黒溝台戦においては,優勢な露軍の猛襲に対し,騎兵による拠点防御戦術を操り,沈且堡などの要地を固守して遂にはこれを撃退し,全軍の作戦に大きく貢献した。さらに奉天会戦においては騎兵第2旅団も併せ指揮し,奉天西方に進出して,大包囲作戦のための第3軍の旋回運動の翼側を掩護するとともに,露軍に対しその企図を秘匿して,本会戦大勝の素因を成し遂げた。その後も露軍を急追し,同38年3月末には支隊主力を率いて昌図に入城,さらにその北方の鴜鷺樹も占領した。この地は本戦役中わが軍が行動した最北端であったが,ここでもわれに三倍するミシチェンコ騎兵団と遭遇,激戦の末同地を固守し遂にはこれを撃退した。 これは自身の「本邦騎兵用法論」を実戦に臨んで完成させたもので,捜索・警戒・戦闘・挺進などの戦術的用兵からさらに発展し,機動集団としての騎兵運用にまで強化したものであった。これによって我が国騎兵の父と仰がれるに至った。
 戦争後は騎兵監・第13師団長・近衛師団長・朝鮮駐剳軍司令官と要職を重ね,大正5年陸軍大将に昇進し,軍事参議官・教育総監を歴任した。同12年現役を退いたが,郷党に請われて同13年4月から昭和5年7月まで北予中学校の校長に就任し,余生を後進の育英に尽くした。このとき病を得て,東京の陸軍軍医学校に入院したが,同年11月4日病没,享年71歳。墓所は道後の松山市鷺谷共同墓地。

 穐月 聖憲 (あきづき せいけん)
 明治21年~昭和13年(1888~1938)高野山大学教授・高野山中学校長を経て愛媛県立周桑高等女学校長,東予市実報寺(真言宗)住職。明治21年桑村郡吉岡村(現東予市)人徳院穐月聖圓の三男として生まれる。幼名孝丸。6歳で実報寺徳永霊仙に剃髪授戒,16歳のとき,同師により得度する。真言宗聯合京都中学,第六高等学校を経,京都帝国大学哲学科(教育学専攻)を卒業。その間周桑郡楠河(現東予市)神宮寺住職,大学卒業後大正7年より実報寺住職。その後実報寺に在籍のまま,大正9年高野山大学教授兼高野山中学教諭となり,同14年同中学校長。その間,高野山における教学関係の要職を歴任。昭和7年愛媛県立周桑高等女学校長に迎えられ,最後の6年間,子女の教育と社会教育に尽くし,その徳化は県下に及んだ。婦人会・女子青年団に招かれて講演すること二百数十回と,全く多忙の生活であった。そのためもあってか昭和13年50歳で実報寺で没し,少僧正,そして後に中僧正という法位を贈られた。

 芥川 準一郎 (あくたがわ じゅんいちろう)
 明治16年~昭和36年(1883~1961)教育者。桑村郡福成寺(現東予市)に生まれ明治39年,愛媛県師範学校を卒業。直ちに郷軍の庄内小学校の訓導となり,早くも4年目には25歳で同校の校長となる。新進気鋭の青野岩平村長の協力を得て校舎の新築とともに内容の充実をはかり,県下一の模範校として県内外から多くの参観者を迎える。大正4年,南宇和郡視学,同6年伊予郡視学になり伊予郡立実業学校(現県立伊予農高)を創立して,自ら初代校長となり,地域開発の礎を築いた。同9年,代用付属である余土尋常高等小学校が開設されると,初代校長となり,教員養成に全力を尽くす。同12年,今治第四尋常小学校が設置されるとその初代校長に迎えられ,ペスタロッチの愛と修養団の勤労奉仕の精神を学校経営にとり入れ,業績大いにあがり,令名は県下に響いた。後,東京王子小学校長として異例の抜てきを受け, 8年間,続いて牛込高等小学校の7年間,まさに45歳から59歳の働き盛りで,この間,文部省の調査官も兼任し,日本に芥川ありの名をほしいままにした。昭和19年郷里の子安中学校(現県立小松高校)の教頭として迎えられ,創立時の偉業を達成して,のち同校の校長となる。昭和22年の新制中学の発足で,庄内,三芳,楠河の組合立河北中学校が設立されると迎えられ63歳で初代校長に就任,同26年67歳で退職した後も,保護司,民生委員,人権擁護委員,教育長を努めるなど,その生涯を教育一筋に生きた。昭和36年78歳で死去。河北中学に彼の徳望を慕うものによって,昭和43年2月11日胸像が建立された。

 下見 吉十郎 (あさみ きちじゅうろう)
 延宝2年~宝暦5年(1674~1755)甘藷の導入者・芋地蔵。越智郡上浦町瀬戸の農民。諱は秀誉。下見氏の祖先は伊予の名族河野家の出で,天正年間河野通直が没落したとき帰農したという。吉十郎は妻すずか(竹原の土屋氏)との間に二男二女を生んだが,皆夭死したのを悲しみ,供養のため正徳元年37歳の夏,六部姿で日本回国の旅に出た。
 まず尾道に渡り京阪を見て九州に下った。 11月22日薩摩国伊集院村の農家士兵衛宅に泊まり,食事に出された甘藷が飢饉に強いことを知り,栽培法をきき,種芋をひそかに持ち帰った。
 彼の旅日記によれば,12月20日から翌年2月3日まで36日間,筑前粕屋郡須恵村に逗留したことになっている。実はその間に大三島に帰り,甘藷苗の栽培の準備をして九州に引き返したのである。2月4日から山陰,越前永平寺,富士登山,松島,江戸見物,伊勢参宮して越年している。1月に大和の長谷寺,京阪を経て,正徳3年2月1日帰郷し,さらに約60口で四国八十八ヶ所を順拝して4月21日に帰郷した。この648日間の大旅行の旅日記と宿報謝帳は現在,上浦町の歴史民俗資料館に保管されている。
 享保17年西日本が蝗害のため凶作飢饉のとき,餓死者が多数出た。松山藩でも義農作兵衛をはじめ餓死者が数千人出たが,芸予諸島では下見吉十郎の普及した甘藷のお蔭で,餓死者が出なかったという。大三島の瀬戸に彼の墓があり,芋地蔵として大三島・因島・伯方島など二十余か所で祀っている。81歳で死去。
 瀬戸の向雲寺では旧8月朔日の命日に法要が行われる。「芸予諸島の芋地蔵の分布」については「愛媛の文化」第24号昭和61年3月発行に詳しい。

 浅井 清足 (あさい きよたり)
 文政2年~明治9年(1819~1876)八幡浜の庄屋浅井記の養子。通称十兵衛。歌人・国学者。初め二宮正禎に学び,後本居内遠の門人となった。近田八束・清家堅庭・野井安道らと交わり,歌をよくした。『四捨番歌合』の詠者となり,『ひなのてぶり』にも3首入集している。明治9年9月7日57歳で病没したが,その墓誌は半井梧菴の撰である。

 浅井 伍瑯 (あさい ごろう)
 慶応4年~昭和11年(1868~1936)久米村長・県会議員。慶応4年2月22日,久米郡南久米村(現松山市)で浅井佐太郎の四男に生まれ,27年分家して一家を成した。34年久米村会議員を経て36年9月~40年9月県会議員に在職,政友会に所属した。大正9年5月久米村長に就任,13年まで村政を担当して,村の行政事務整理,村功労者表彰現程の判定,遍路道の改修などに尽力した。その間,郡町村長会長・県町村長会長に推された。また松山酒造組合長・県酒造組合長などを歴任した。昭和11年7月26日68歳で没した。

 浅井 記博 (あさい のりひろ)
 嘉永3年~明治45年(1850~1912)県会議員,三大事件建白運動で西宇和郡総代人になるなど政治活動に従事,のち初代八幡浜町長。嘉永3年12月12日,西宇和郡八幡浜浦本町で国学者浅井清足の長男に生まれた。上甲振洋の謹教堂に学び,早くから八幡浜浦の里正・戸長を務めた。明治13年県会議員になり,17年5月にも再選されたが,18年八幡浜浦の戸長職に専念するため一時県会を去った。19年3月県会議員に復活,25年3月まで在職した。20年三大事件建白運動の発起人に名を列ね,西宇和郡内の署名集めに奔走して政治運動にかかわった。小林信近・高須峯造らの改進党系豫讃倶楽部の結成に加わりその有力者であった。明治23年1月初代八幡浜町長に選ばれ,30年4月まで在任して町政の基礎を確立した。29年には八幡浜商業銀行創立に参与,その他自己の所有の田畑を埋立て水路を造成するなど町の発展に寄与した。町長退職後の30年年10月再び県会議員に戻ったが31年9月辞職して,以後は町会議員として八幡浜町政を見守り,明治33年の大根ヶ浦製煉所設置問題では町民を公害から守るため反対運動の先頭に立ってこれを阻止した。明治45年3月14日61歳で没した。

 浅井 文治郎 (あさい ぶんじろう)
 文化14年~明治21年(1817~1888)文化14年,北宇和郡下波村(現宇和島市)で父六八の次男として生まれる。家は旧家で代々農業と漁業を兼ねていた。文治郎は生来,豪快な性質で,自ら帆船を操作して,当時ご法度であった通商貿易に従事し,大きな利益をあげていたという。文久元年に土佐の国幡多郡の清水港に行ったとき,偶然,甘藷を手に入れ,試植をして栽培を奨励し,各地に広めることに功績があった。晩年は事業に失敗し,家政衰えて不遇であった。明治21年2月7日,71歳で死去。墓は宇和島市の保福寺にある。また結出の海岸近くの神明神社の境内に「故浅井文治郎碑」の彰徳碑がある。

 浅井 平三郎 (あさい へいさぶろう)
 慶応4年~昭和8年(1868~1933)北吉井村長・県会議員。慶応4年6月1日,久米郡西岡村(現重信町)で浅井熊之丞の次男に生まれた。明治25年以来北古井村会議員,40年温泉郡会議員・議長に選ばれた。明治45年1月~大正4年3月北吉井村長として,水利紛争の解決,部落有財産の統一,青年教育の振興などに当たった。大正4年9月~8年9月県会議員に在職して政友会に所属した。実業面では,伊予絹糸・東洋染業会社の役員として織物業の発展に貢献した。昭和8年7月25日65歳で没した。

 浅海 友市 (あさみ ともいち)
 明治16年~昭和25年(1883~1950)南宇和郡におけるいわし揚繰網漁業の本格的な操業の開始者。
 明治16年2月27日父浅海和太郎,母ツ子の長男として南宇和郡内海浦762(現御荘町中浦)に生まれる。父和太郎は地先海面で沖取網漁業(揚繰網の約三分の一規模に該当し,沖合で主としていわしを採捕する網で操業する)を営んでいた。浅海友市は地元の濱田清太郎の三女マツと大正元年12月18日結婚し,漁業を営んでいたが,大正5年従来の沖取網漁業より,はるかに高能率の揚繰網を西外海村(現西海町)より購入し,その導入をはかった。このことはこの地方におけるその後のいわしまき網漁業の発展に大いに寄与した。さらに同10年にはこの揚繰網の集魚燈としてカーバイドを使用し,夜間操業を開始したので漁獲効率は非常に向上した。その後時代の推移とともに漁船の動力化も行われ,この地方におけるいわし揚繰網漁業は他郡に比して隆盛をきわめていった。昭和9年における県下の揚繰網は南宇和郡54,北宇和郡7,喜多郡4,西宇和郡3,宇和島市1,伊予郡1,温泉郡1計71統で,南宇和郡はこのうち76%も占めており,その隆盛ぶりを語っている。昭和17年~20年ころがこの揚繰網漁業(2そうびき)の全盛期で当地方で12統が操業し活況を呈したが,このことは同氏の先覚者としての功績が大きい。昭和25年7月22日67歳で没した。太平洋戦争終了後から昭和30年ころにかけて現在の大浜グループを除きこの地方に6統のまき網(1そうびき)が操業していたが,昭和40年ころまでにいずれもいわし漁業不振のため消滅した。

 浅田 仙吉 (あさだ せんきち)
 明治34年。~昭和56年(1901~1981)県官,県議会議員・副議長。明治34年1月3日,南宇和郡一本松村増田(現一本松町)で生まれた。南宇和農業学校を経て大正11年明治大学自治科を終了した。7年以来南宇和郡役所に勤務,14年愛媛県属になり,昭和15~17年知事官房秘書課長, 17年会計課長兼務19年人事課長,20年7月~21年2月温泉地方事務所長を歴任して退官した。 22年4月戦後初の県議会議員選挙に当選,38年4月まで在職して愛媛民主党一自由党一県政クラブ一自民党に属した。32年7月~33年10月副議長に選ばれた。昭和56年7月4日80歳で没した。

 浅野 長政 (あさの ながまさ)
 天文16年~慶長16年(1547~1611)豊臣時代の大名で五奉行の1人,幼名長吉,浅野長勝の養子となる。信長に仕え,秀吉とは相婿で親しく秀吉に重用され,若狭小浜の城主,文禄の役には軍監として渡鮮した。文禄2年甲斐22万石に増封され,検地奉行首座となり,秀吉の検地の強行をし命令を聞かぬ城主はなで斬りにしている。(浅野家文書)「天下一同御竿入,当国は浅野弾正殿御竿入」(古今見聞録)と伊予国に検地を行っている。秀吉の死後隠居し関ヶ原の戦いには嫡子幸長とともに東軍に属している。

 浅野 長道 (あさの ながみち)
 安政3年~大正元年(1856~1912)温泉郡長・松山市長。安政3年6月27日,松山城下八坂町で浅野長英の長男に生まれた。幼名房五郎。明治10年愛媛県師範学校を卒業して派駐訓導となり,11年下浮穴郡書記ついで伊予郡書記として学務係に任じた。14年下浮穴伊予郡書記,19年三野豊岡郡書記, 20年神奈川県属を経て32年温泉郡長になった。 35年2月松山市長に推されて就任,41年2月任期満了で退職した。その後,越智郡長になり,43年4月退官した。大正元年8月4日56歳で没した。

 浅山 忽斎 (あさやま もつさい)
 宝暦4年~寛政9年(1754~1797)松山藩士で古文辞学者。諱を尹,字を道甫,通称を太郎左衛門。第八代松山藩主松平定静(1729~1779)及び定国(1757~1804)に歴仕した。彼は好学の士で,古文辞学派の青地快庵について研鑽した。その学統は大月履斎一松田通居一佐藤勘大夫一忽斎であったと思われる。その学識はひろく,単に古文辞のみでなく,崎門学・古学をも習得していたから,他の学派にも理解を持っていた。安永4年(1775)藩主定静か家中に対し文武を奨励するため,月次講釈をはじめた時,25歳の忽斎が抜擢されて講師となり,藩士の教育に当たった。さらに注目すべきは,12項目にわたる藩政改革案を書いて,藩主に献策したことである。その主なるものをあげると,藩主自身が率先して学問に志し,学校を設けること,要職に対する藩士の任免に留意し,徒らに老齢を理由として家老を更迭しないこと,藩主が家老屋敷を訪ねるのは冗費が多いから,訪間の気持ちを万民に及ぼすようにすること,郡郷に対し租税を軽減して恩を売っておき,内々でお礼金を取りたてるのは過っていること,三津において藩で塩田開発を強行したため,在来の塩田所有者の利益を圧迫する結果となったことなどであった。忽斎は悲壮な決意のもとに,藩政を論議して,その改革案を献策した。これらの改革は順次に実施に移され,庶民から善政と称賛された。しかし最もよい理解者であった定静か急逝したこと,守旧を主張する老臣たちの反撃をうけて実施は中止された。さらに忽斎が寛政9年6月に年43歳で死去したため,彼の事績も高く評価されないで終わった。遺骸は道後祝谷の常信寺に葬られた。

 朝井 猪太郎 (あさい いたろう)
 嘉永4年~昭和7年(1851~1932)北洋漁業の先覚者であり三瓶地域発展の功労者。嘉永4年5月5日吉田藩朝立浦(現西宇和郡三瓶町朝立)で父又太郎,母トワの長男として生まれる。少年時代は父が酒屋を家業としていた卯之町で育ったが,明治初年一家をあげて朝立浦(現三瓶町朝立)へ移住した。父又太郎はここで運送業を営み,当地方の生産物や綿糸雑貨類を取り扱った。商魂たくましい父の指導を受け商人としての生き方を身につげた。猪太郎は幼少の頃より大志をいだき,性素ぼくにして活ぱつの気概があった。明治8年,25歳のとき当地方産の伊予縞を買い集め,宮崎県の細島に出向いてこの町を中心として販売したが事業成績は順調であった。同21年には北海道と青森県に支店を置く程にまで業績を伸ばしたが,同35・36年の2ヶ年にわたっての東北特有の冷害のため購買力が急減したので支店を閉鎖せざるを得なくなった。明治38年の日露戦争終結後,日本は北洋漁業へ進出できるようになったので,進取の気性に富む猪太郎はこれに目をつけ,早速ロシア領の海域について気象,海象,漁場,入漁権等の調査研究を実施した。その後熱心な請願によってカムチャッカ半島西岸のコルサコフ付近2ケ所にタラ,サケ漁業の入漁権を取得し,富山県の伏木港に事務所,ウラジオストックに出張所を設けた。同41年住吉丸(142t),42年太洋丸(162t)を購入し,コルサコフ漁場で操業させたが,漁期が短いため日夜の別なく作業し漁獲物は塩漬けにして東京や大阪方面に送って販売した。このほか北海道でニシンを買い付けて肥料用として三瓶港へ回送させ,これを町内や卯之町方面で販売した。大正6年ロシア革命のため北洋漁業の漁権は喪失した。そこで同年北朝鮮元山を中心とする数ケ所の漁場で大敷網漁業(定置漁業の一種)を操業し,その主な漁獲物である,さば,さわら等を下関に陸揚げして事業成績を上げつつ,その後子の三郎に継がれたが,昭和20年8月15日の終戦で一応の終止符をうった。また事業意欲の旺盛な猪太郎は親譲りの資産を単に維持するだけでは飽き足らず明治26年,地元で最初の金融機関朝屋銀行を創立して頭取となり,地方の機織業者や,網元などへ融資し,地場産業の振興に努めたほか,その後宮崎県の細島と神門町に支店を開設し,大いに業績を伸ばした。明治39年~41年の間に朝屋新地の埋め立てを行い商業地域約16,500㎡を造成したが 当時としてはこれは大事業であり世の注目を集めた。氏は地方自治の面でも明治39年4月から41年7月まで三瓶村長を務めた。本県における北洋漁業開拓の先達の役を果たす偉大な功績を残したが,昭和7年7月26日東京において81歳で没した。

 朝家 萬太郎 (あさいえ まんたろう)
 明治6年~大正15年(1873~1926)愛媛県における缶詰製造業開拓の功労者。明治6年12月15日北宇和郡魚棚町(現北宇和郡吉田町魚棚)で父利平の長男として生まれる。明治28年水産講習所(現東京水産大学)に入所同30年布哇貿易に従事して輸出の方法を講じて帰郷し,33年8月ついに地元で朝家罐詰所を開設した。明治36年6月3日付で特許局には三輪)印で登録商標が登録されている。これによると登録番号は第19510号で営業所は吉田町字魚棚57番地,営業品目は牛肉,獣肉,鳥肉,魚類,海苔,昆布,荒布,佃煮,雲丹,野菜類,果実の缶詰等となっている。大正3年にサンフランシスコで開催された万国博覧会にかまぼこ缶詰を出品し,銅賞を授与されるなど,その名声は全国的にもとどろいていたが輸出額においても全国の半数もしくは三分の一を占めたといわれる。さらに,夏みかんを原料としたオレンジママレードは有名で,陸軍や海軍向納品を主力として業績を大きく伸ばしていった。昭和12年11月,町内外の有志が出資して吉田産業株式会社が設立され,翌13年吉田港の一角に工場を建設して缶詰製造を開始したが,同14年には朝家,吉田の2工場でみかん50万貫(1875t)の加工計画がもたれるなど,当時缶詰工業はまさに吉田町の花形産業となっていた。さらに昭和16年4月には広島県宇品に本社をもつ宇品確詰が開設され,筍缶詰などを製造した。狭い吉田町に缶詰を製造する工場が3社もできたのであるから,従来からの町の主産業であった製糸業にかわる勢いにあったとわれる。しかし3社が出そろった昭和16年12月太平洋戦争のぼっ発で産業界も大きく変わり,缶詰工業もきびしい規制のもとで生産活動は非常に制限された。このため同業界はたちまち極度の業績不振を余儀なくされ,宇品罐詰の操業停止にひきつづき,19年には企業整備により吉田産業が愛媛罐詰宇和島工場に吸収されるなどして,吉田町の缶詰工業は急激に衰退していった。昭和14年6月信濃弥太郎が東洋製罐の紹介で朝家罐詰所を買収してその後社名は愛媛食品興業株式会社になるなど,経営陣が変わり,本社工場を宇和町に移すまで吉田町の産業界の主軸となっていた。三輪マークの商標が現在の愛媛食品興業株式会社(社長信濃行雄)に引き継がれて生きていることは朝家罐詰のかつての名声を今もとどめているものといえよう。 53歳で死去。

 朝汐 太郎(初代) (あさしお たろう)
 元治2年~大正9年(1865~1920)大相撲力士。元治2年八幡浜浦(現八幡浜市)生まれ。本名増原太郎。幼時から体力抜群,地主野本吉蔵家に奉公,怪力でロウ(蝋)打ち作業に励む。明治14年(1881)16歳で大阪相撲押尾川部屋入り翌15年初土俵。8年を経たが,あき足らず同23年東京相撲の高砂部屋に入門,朝汐を名乗る。けい古好きで精進を重ね同26年関脇,同31年35歳で大関昇進,得意は右四つ寄り,上手投げ。初代朝汐の名は5代続き高砂部屋の象徴となる。同41年引退。年寄り佐野山を名乗り,検査役。幕内取り組み総数257回,138勝76敗31分け12預り。身長178cm,体重101.25kg。大関として故郷に錦を飾り晴天2日間興業。その記念に架けた朝汐橋が今も八幡浜市大黒町3~4丁目に名を残している。大正9年8月26日死去。享年55歳。

 朝潮 太郎(二代) (あさしお たろう)
 明治12年~昭和36年(1879~1961)大相撲力士。明治12年4月19日新居郡玉津村(現西条市玉津)生まれ,本名坪井長太郎。明治35年(1902)初代朝汐に23歳で弟子入り朝嵐を名乗る。同40年1月入幕同43年6月関脇,師匠の名,朝汐太郎と改名,同45年5月「汐」を「潮」に改め大正4年(1915)1月大関に昇進。身長176cm,体重112,5kg,右四つ下手投げの得意技で大豪栃木山を3度も破っている。同9年1月引退,年寄高砂を襲名。幕内生活16年26場所のうち10場所大関,勝負検査役,取締,幕内取り組み総数194回, 98勝64敗25分け7預り。高砂部屋で横綱男女川,前田山,東富士など多くの力士を育てた。昭和17年(1942)年寄高砂を前田山に譲り潔ぎよく角界を離れた。昭和36年4月30日82歳の長寿を全うす。

 油屋 熊八 (あぶらや くまはち)
 文久3年~昭和10年(1863~1935)実業家。宇和島竪新町,(現宇和島市新町1丁目)で文久3年7月油屋正輔の長男に生まれ,やがて家業の米問屋を継いだ。明治23年37歳のとき町議に選ばれるが,大阪に出て米相場師となる。しかしこれに失敗,アメリカに渡る。そして3年後に帰国。再び大阪で相場師となる。明治44年別府に出て,亀の井旅館を経営,大正13年12月1日亀の井ホテルを創立(総資本金20万円)する。昭和2年に自動車4台を購入し,地獄巡りをはじめ,日本最初のバスガイド嬢を採用するなど観光事業に新しいアイディアをとり入れた。昭和3年1月23日,株式会社亀の井ホテル自動車部の資産,営業の一切を継承して亀の井自動車株式会社を創立(総資本金10万円)した。油屋熊八は城島高原,別府ゴルフ場,由布院,九州横断道路の観光事業開発に力を注ぎ,また民衆外務大臣と称し観光都市別府を広く内外に宣伝し,別府の観光事業史上,大きな功績を残した。昭和初年ころ別府商工会議所が設立されると,同商工会議所議員になった。昭和10年3月27日71歳で死去。別府市の油屋記念公園には彼の功績をたたえ,「観光大分開発の恩人」の碑が建てられた。

 天岸 季寧 (あまぎし きねい)
 文政12年~明治18年(1829~1885)松山藩医。幼名介五郎,のち左織と称した。文政12年12月19日,讃岐国広田村(現香川県丸亀市)に生まれた。丸亀藩医尾池相陽について医学を修業した後,天保11年松山藩医天岸昇安の養子になった。嘉永3年華岡青洲の門に入り,外科医学を修業した。明治18年12月24日56歳で没した。

 天野 喜四郎 (あまの きしろう)
 生年不詳~宝暦6年(~1756)多喜浜塩田開発者。備後国御調郡吉和村(現尾道市吉和町)の生まれ。吉和浜で塩田経営に従事,屋号を米屋と称した。元禄年間伊予国で深尾権太夫らが企画した塩田築造が失敗し,西条藩の意を受けた黒島浦(現新居浜市黒島)の年寄好兵衛らの要請により,享保8年(1723)同志善右衛門・与市郎・七右衛門・保三郎・忠右衛門とともに塩浜築造を引き受け,喜四郎は吉和の財産を処分して伊予に渡った。第一期工事は翌9年に完成し,16町6反・11浜(浜子195人)が生産を開始した。喜四郎はその功績により永世庄屋元締役および薪塩の問屋に任命されて,塩田一浜について銀100匁の徴収を許された。塩田築造工事は継続され,享保18年には喜四郎の建策により,前年の飢饉による困窮者を救済する事業の一環としての東多喜浜(26町5反・17浜)造成が行われた。彼は第3期工事の計画中,宝暦6年12月29日に没し,塩田を望む大久貢山に葬られたが,その遺志は歴代の喜四郎(六代目まで)に受け継がれ,幕末までには伊予最大の240町歩に及ぶ大塩田地帯を現出するに至った。

 天野 義一郎 (あまの ぎいちろう)
 慶応3年~昭和4年(1867~1929)弁護士・県会議員・松山市会議長・能楽功労者。慶応3年2月4日,松山市城下湊町で藩士の家に生まれた。明治20年愛媛県師範学校を卒業して教職についたが,25年英吉利法律学校(現中央大学)に進んで,弁護士になった。明治32年~大正8年松山市会議員に在職して,明治37年~同45年の長期間にわたり議長の重責を担った。明治44年9月県会議員にも選ばれて大正4年9月まで一期務めた。党派は愛媛進歩党に所属したが,大正4年進歩党員の大半が立憲同志会の結成に加わったのに対し,代議士村松恒一郎や大関信一郎らと共に国民党に残留してその支部を結成した。愛媛県教育協会図書館長・伊予教育義会副会長・松山幼稚園長・済美女学校理事長など教育方面にも貢献した。能楽で若いころ松山藩抱えの能楽ワキ師吉田寛親に教えを受けて下掛宝生流を学んで以来一家をなし,松山能楽会の活動に力を尽くした。後年邸内に舞台を作り能を女性に解放するなど能楽指導に努めた。俳句をよくし,箕山と号した。昭和4年12月25日62歳で没した。

 天野 精吾 (あまの せいご)
 弘化元年~明治23年(1844~1890)県会議員・副議長。弘化元年12月16日新居郡黒島村(現新居浜市)で生まれた。明治10年特設県会の議員に新居郡から選ばれ,ついで12年2月~14年12月県会議員に在職して12年3月~13年11月副議長を務めた。明治21年県警察が調査した「政党員名簿」には,政治思想を持ち弁論に長じ,政論者と交わって同志を募る周旋をしているとある。明治23年11月20日45歳で没した。

 天野 知規 (あまの とものり)
 安政6年~明治41年(1859~1908)造林事業の恩人。上林村(現重信町)の庄屋森政意の子として安政6年2月17日生まれ,幼名を光通という。天野家を継ぎ,明治23年拝志村発足以来,明治41年3月22日死去(49歳)するまで,村会議員として産業及び教育の振興に貢献した。特に,林業の振興に尽力した。当時,山林は濫伐されて顧みられず,なかでも村の共有山林は荒廃の一途をたどり,収益の途を講ずる者はいなかった。天野知規は上林区所有の広大な林野が放置されているのを憂い,区民に造林推進を熱心に説いた。苗木の経費は県費補助を当て,労力を提供することで,明治34年~35年大規模な造林を実施した。即ち,桧・杉・松の苗木50万本余を44haの区有林に植林し,世人の注目を浴びた。彼の献身的な指導によって始められた造林事業は今日見られるような美林の基盤となり,後世に引き継がれて多大の恩恵を遺している。大正3年9月,上林区では彼の功績をたたえ,旧小学校跡に彼の頌徳碑を建立した。

 天野 方壷 (あまの ほうこ)
 文政11年~明治27年(1828~1894)和気郡三津浜(現松山市三津)の商家に生まれ,名は俊,通称大吉。方壷・雲眠・壷山人・白雲外土と号す。三津の絵師森田無眠に師事し,のち京都四条派の中林竹洞門下となり,さらに清国に留学。帰朝後は仙台から鹿児島まで全国を遍歴。岐阜高山で没したという。在京中から鉄斎との交友も厚く,スケイルの大きい遍歴画人であるが,その生涯はほとんど不明確である。各地に数多く残された雄健多彩な山水,丹念で雅趣に富む作風にその画境・力量がうかがわれ,郷土人士の愛好・追慕はあとをたたない。その代表作に松山城天主閣蔵の「山水花卉図屏風」がありよく知られている。墓は京都市下鴨霊厳寺にある。

 天野 元敬 (あまの もとゆき)
 明治17年~昭和28年(1884~1953)教育者。新居浜市多喜浜に生まれ,明治38年愛媛県師範学校を卒業,泉川第一尋常小学校の訓導,同39年に多喜浜小学校校長となり,その後,郡内各小学校の校長を経て,大正12年,新居浜補習学校の校長となった。これは後に公民学校の改称されたが,この時以来,青年団文庫を作り,図書館設立の必要を痛感し,白石町長の助力のもと,町立図書館を設立し館長を兼任した。昭和24年8月,20年間の館長を退職するまで,ひたすら青少年に良書を読むことを奨励するために苦心惨たんの連続であった。退職後は多喜浜塩田史の執筆を続け,また小松仏心寺の燈外和尚の下に参禅した。ちなみに天野喜四郎はその遠祖である。昭和28年6月28日,69歳で死去。

 尼崎 安四 (あまがさき やすし)
 大正2年~昭和27年(1913~1952)詩人。大正2年7月26日,大阪市で生まれる。第三高等学校に入学して,竹内勝太郎に師事し,野間宏らの同人雑誌『三人』に詩を発表して注目された。続いて京都帝国大学英文科に進むが中退して,出征し南方に転戦して復員する。戦後は夫人の郷里の西条市に住み行商などで苦労するが,のも西条高等学校の教師となり,平井辰夫らと詩誌『地の塩』を刊行する。宗教詩人として知られた彼の詩は端正で格調が高く,古典的な香気を放つ珠玉の作品として有名であった。その作品はいまも熱烈な支持者があり,高橋新吉は「宮沢賢治や中原中也をしのぐ」と評していた。彼の死後,昭和50年『定本尼崎安四詩集』が出た。昭和27年-5月5日,38歳で死去。

 尼子 誉一 (あまこ たかいち)
 明治22年~昭和44年(1889~1969)教育者。明治22年11月16日。越智郡今治町(現今治市)の秋山家に生まれるが,のち伯母の嫁ぎ先の尼子家に養子として入る。愛媛県師範学校を卒業して小学校の教員となるが,昭和9年今治第一高等小学校在職のとき,竹内浦次作「感恩の歌」「報恩の歌」の朗詠をコロンビアレコードに吹き込み,全国的に広まり,名声を博した。のち前後2回にわたりレコードに録音をして,各地に広まった。退職後は兵庫県下の各会社の青年学校長を歴任する。昭和44年11月16日80歳で死去。

 荒瀬 弥五左衛門 (あらせ やござえもん)
 生年不詳~享保20年(~1735)西条藩士。享保17年(1732)西国一帯を襲った飢饉のため伊予松山藩では5,705人の餓死者を出すほどであった。当時勝手方を勤めていた弥五左衛門は,多喜浜庄屋元締役の天野喜四郎を呼んで飢餓対策を諮問した。喜四郎の案を実現すべく,妻鳥屋(新名)定七を鞆津へ,花屋(猪川)権六を尾道へ派遣して,米穀5千余石を購入し,この米をもとにして難渋者救済事業としての多喜浜東分(塩田17浜26町5反・田畑及び宅地9町3反余)干拓工事を開始,享保18年1月より3か年を費やして完成させた。就労者には救済米が支給されたから,西条藩では1人の餓死者もださなかったといわれる。弥五左衛門の墓所は西条市北町荒木万福寺にある。

 有友 正親 (ありとも まさちか)
 安政2年~大正2年(1855~1913)県会議員・衆議院議員。安政2年10月21日,喜多郡若宮村(現大洲市)に生まれ 9歳のとき有方平右衛門の養子になつた。井上要は義弟である。県政創成期,戸長・学務委員・勧業委員・村会議員・同議長などを歴任した。明治17年5月県会議員に選ばれ,松方デフレ下の重税にあえぐ農民の立場を代弁して,県の四国新道開さく計画に反対するなど論客として活躍した。同20年の三大事件建白運動では喜多郡の署名代表者として民権運動に奔走した。明治23年7月第1回衆議院議員選挙には改進党に所属して第4区から当選,25年2月の衆議院議員選挙でも再選された。有友家に保存されている「在京日誌」は当時の代議士活動を伝えている。代議士の傍ら菅田村村長を務め,晩年には郡と県の農会会長や喜多郡蚕糸業組合長,大洲商業銀行取締役,大洲製糸会社社長などを務め,大洲中学校の設立にも貢献した。大正初期には憲政擁護運動に同調して護憲演説会などを催した。大正2年2月15日57歳で没した。

 有光 輝一朗 (ありみつ てるいちろう)
 明治38年~昭和45年(1905~1970)教育者。明治38年3月11日温泉郡石井村古川(現松山市)に生まれる。生後,まもなく父が死没し,母や2人の姉と叔父の烏谷岩松宅(伊予郡岡田村)に寄寓して,農耕を手伝う。大正13年愛媛県師範学校を卒業,昭和3年同専攻科を卒業。この間南予・伊予郡内の小・中学校に勤め,同35年,松前中学校長を最後に定年退職する。青年期から短歌に興味をもち赤木格堂の知遇を得て,「あけび」の同人となる。また「やまぶき」の同人となり,同20年歌誌「美許等」を創刊するが,翌年「若鮎」に改題し,この経営に力をいれた。昭和45年4月17日65歳で死去。松前町西高柳国道沿いに歌碑が建っている。遺歌集『出合の津』がある。

 粟野 秀用 (あわの ひでもち)
 生年不詳~文禄4年(~1595)奥州陸奥国の出身,幼名藤八郎,後に字を喜右衛と改め,通称を木工頭と名乗り実名を秀用と称した。陸奥出身の秀用ははじめ伊達政宗に仕えて徒士であったが罪を犯して死刑に擬せられ,逃れて京都へ奔り,秀吉の武名を聞いて尾張へ向かい秀吉に仕えて次第に累進した。秀用性勇悍,常に軍に従い,功衆に越す,秀吉一万石を褒賜し,中軍の前鋒とした。政宗これを聞いて怒り,秀用を請うたが秀吉はかばい,重用して3万石の物頭とした〟。秀用は遂に10万石に加増せられ伊予柾木城主となり従四位下侍従に任ぜられる。其後関白秀次の付臣となり3万石加増される。のち,秀次が秀吉の怒りにふれ,高野山で自刃したので,秀用は主君に殉じて京の粟田口で切腹したという。時に文禄4年7月15日であったという。

 安国寺 恵瓊 (あんこくじ えけい)
 生年不詳~慶長5年(~1600)安土桃山時代の禅僧・政治家,諱は恵瓊・瑶甫と号し幼名を竹若といい安芸国の守護家の銀山城主武田信重の遺孤という。天文10年(1541)銀山城が毛利氏に陥落された時,逃れて安芸国安国寺(不動院)に入る。同22年東福寺の竺雲恵心の法弟となる。恵心は毛利一族の帰依を受け,毛利氏と中央との連絡や,尼子・大友両氏の和平交渉に奔走する。弟子の恵瓊もやがて一人だちの使僧となって活躍する。天正元年足利義昭と織田信長の不和調停のため上洛し木下藤吉郎秀吉と接触し,秀吉と信長の10年先の運命を予言している(吉川家文書)。備中高松城の水攻めで奔走し,毛利氏に講和の条件を守らせたことが秀吉の天下制覇を容易にし,豊臣政権下の毛利氏の立場をも有利に導いた。同11年ごろから毛利の使僧としてより,秀吉の直臣として働くようになり,四国征伐後,伊予国和気郡で2万3千石(のち6万石)九州征伐後北九州で3千石,また安芸国安国寺で1万1,500石の知行が与えられ,豊臣政権下の一大名でもあった。文禄慶長の両役では毛利氏の目付と豊臣氏の奉行を兼ねて渡海し,その間に豊臣氏の武将派と親しい吉川広家と衝突してしまう。また秀吉の死後,石田三成らと結び,徳川家康を討つため毛利輝元を味方にしそのため広家らに裏切られ,関ヶ原戦に敗北し捕えられる。
 慶長5年10月1日石田三成,小西行長と共に京都六条河原で梟首される。年齢は63か64歳であったという。墓は京都市東山区建仁寺方丈の裏手にある。

 安藤 音三郎 (あんどう おとさぶろう)
 明治19年~昭和46年(1886~1971)言論人・愛媛新報社長。明治19年9月7日,新居郡大町村(現西条市)で安藤安太郎の五男に生まれた。大町高等小学校を卒業して県巡査に奉職,やがて上京して,憲政新聞社に勤務のかたわら,明治大学法科の夜学に学んだ。大正3年世界公論社を設立して月刊雑誌を発行した。大正13年台湾総督伊沢多喜男に委嘱されて南シナの制度経済を調査した。昭和2年愛媛新報社長に就任,新聞発行と共に政治活動に従事,昭和7年と11年民政党公認で衆議院議員に出馬したが,いずれも落選した。その後上京して,東京機械工業・日本無線電気などの会社社長を歴任,昭和37年には東予育英会の副会長を務めた。昭和46年2月8日84歳で東京で没した。

 安藤 謙介 (あんどう けんすけ)
 嘉永7年~大正3年(1854~1914)日露戦争後の愛媛県知事として大上木事業を計画した。嘉永7年1月1日土佐藩郷士安藤常三郎の長男として安芸郡羽根村に生まれた。19歳のとき上京,ニコライ塾外国語学校でロシア語を学び,同郷の先輩中江兆民についてフランス語も修得した。9年4月勝海舟の推挙で外務省に出仕,露国コルサコフ領事官付書記一等見習を振り出しに露国公使館在勤の外務書記生を務めて,18年2月帰朝した。外務属を経て司法省に転じ, 20年7月検事に任ぜられ,名古屋控訴院・岐阜始審裁判所詰から24年前橋地方裁判所検事正になり,以後,熊本・横浜地方裁判所検事正を歴任した。29年4月第2次伊藤内閣の下で富山県知事に就任,一時非職となったが,31年1月第3次伊藤内閣の時再び官界に復して千葉県知事に就任,憲政党内閣が成立すると再び非職となった。成田火災保険・植田無姻炭坑などの会社社長を経て,明治36年の第8回衆議院議員選挙に富山県から立候補して当選した。松山市に露国俘虜収容所が置かれたのに伴い,ロシアに精通している関係で明治37年11月17日愛媛県知事に任命された。以後,休職になるまで4年7か月本県に在って,政友会系の知事として藤野政高ら同会愛媛支部と緊密な関係を保ちながら県政を執行した。戦後経営の最重点策を土木事業の推進に置き,大野ヶ原軍用道路を開さくし,ついで22か年継続土本事業を立案した。これは継続中の二土木事業に三津浜築港などを新規に加えた700万円の大事業計画であり,県政史上空前の政争史を生むことになった。愛媛進歩党は,県財政窮迫の折から政友会との結託によるこの事業は県政を紊乱するものとして反対に起ち上った。ことに同派の領袖井上要は明治40年4月5日~25日と5月28日~6月23日の「愛媛新報」紙上に「安藤知事横暴史」を連載して安藤県政を糾弾した。この土木事業は内務大臣原敬の政治力で条件付認可を受けて明治42年7月の三津浜築港起工式を皮切りに施行されたが,同月30日安藤は第二次桂内閣により休職させられた。県政上においてとかく政友会に偏する行為があり,不偏不党を本旨とする地方長官の職務を忘却しているというのが解任の理由であった。安藤の更迭に際し,政友会の機関紙「海南新聞」は,「安藤氏は本県に於て最も活動せる知事にして其の働き振りは今日迄未だ嘗て見ざる所なりとす」と称賛すれば,進歩派の機関紙「愛媛新報」は,「吾人は既に今日あることを期するや久し,寧ろ遅きに失する感を有す」「公人として安藤氏の行動は我県民に利ならざること思へばなり」と安藤の更迭を歓迎するなど,これほど県政界の評価が分かれた知事はなかった。その後,安藤は韓海漁業会社社長に就任したが,第二次西園寺内閣の下で44年9月長崎県知事に返り咲いた。大正2年に新潟県知事に転任したが,3年休職となった。以後,横浜・京都市長を歴任して大正3年7月30日60歳で没した。

 安藤 正楽 (あんどう せいがく)
 慶応2年~昭和28年(1866~1953)県会議員・歴史学者・画家。宇摩郡土居町清太の長男として慶応2年11月15日出生。幼名岸蔵,通称鬼子太郎。寺小屋にて本田某に学び,明治5年小学(法正校)に入る。明治15年ころ詩歌俳句を作り鴎眠・三外・天美・天乎などと号し,明治19年正楽と改名。同22年明治法律学校に入学する。同25年同校卒,相国寺荻野独園管長につき坐禅。同27年上京し,歴史を学習する。同28年伊予三島の住夕力女と結婚し,同30年上京し『日本外交史』などを書き,同32年帰郷,郡会議員当選。翌33年『ロシア南下史』を脱稿する。同35年『古事記新論』を書き,任堂と号す。子規の死を悼み香奠5円を贈る。同36年県議当選。初議会で同和教育問題を糺す。翌37年月島丸邁難記念碑を中村に建立。同39年戦死者の墓に「徴兵之一大背理戦争之一大惨毒」とかき,翌年県議会で軍用道路建設反対演説をなし,郷村の日露戦争記念碑に「忠君愛国の四字を滅すべし」と書く。41年「日韓古史年表」作成,同年11月人類学会に入り,明治43年鳥居龍蔵の「南満州調査報告」の全図録と第2章を書く。同年日露の役碑文官憲により抹殺され拘留される。翌44年2月幸徳秋水処刑の日釈放される。翌45年「紀年修正論」を脱稿し,翌大正2年保安条例により東京退去を命ぜられ帰郷。大正3年上野の健筆会に作品出陳,翌4年3月出陳作「社頭杉」は官憲により撤回を命ぜられる。大正9年銀婚記念に部落のため井戸を掘り上水道建設,翌10年久米邦武,鳥居龍蔵らに私淑して上京,『石器時代図文綜観』出版のため画会を興し,以後書画に専念。この間郷党合田和の石斧発見の報を喜び,昭和10年郷土「根々見史」を「伊予史談」83に寄稿。爾来日中戦争出征兵を見送り,戦死遺族に梅の絵で弔問。昭和20年日本降服の際,夜狸の図に「月涼し腹は得切らぬ狸ども」と吟じ,孝道を説き節婦を援助。人生150年説をたて詩作揮毫を楽しんだが,昭和28年7月24日没,享年87歳。

 安藤 継明 (あんどう つぐあき)
 延享4年~寛政5年(1747~1793)吉田藩紙騒動で切腹し,神として祀られた同藩の家老。通称儀太夫。宇和島藩主伊達村侯の御声がかりで家老となったと言われ,和漢の学に通じ,槍術をよくし,事務の才にめぐまれた人物と評される。彼の仕えた伊達村賢・村芳の時代,藩財政は窮迫し,農民の疲弊も極限にきていた。天明7年には土居式部騒動もおこったが,収奪はやまず,寛政4年には紙方の仕法が改められ専売制が強化された。安藤は納税法の改革等を主張したが容れられなかったと言う。こうして寛政5年の吉田藩紙騒動がおこる。この騒動の特徴は,規模や結果にも見られるが,闘争手段として,宗家宇和島藩に逃散と言う形をとり,同藩を調停役に引き出した点である。安藤は,一揆勢が吉田領内宮野下村(現北宇和郡三間町)に集結した時,年貢以外の話合いに応じ,藩の危機を回避しようとしたが失敗。その後一揆勢は宇和島領内中間村八幡河原(現宇和島市)に移動し,吉田藩との交渉を拒否,要求事項も提出しない態度に出た。安藤は八幡河原に赴き再度の交渉をするが一揆勢の態度を変えることはできず,全責任をとって同所で切腹した。以後,事態は収拾に動く。寛政5年2月14日,安藤の誕生日であり,享年46歳であった。海蔵寺(現北宇和郡吉田町)に葬られる。法号大節院殿顕翁道危居士。死後61年目の命日,嘉永6年2月14日,海蔵寺山上の中天に神光があらわれ,安藤の霊験であるとされ各地から参詣者が来るようになった。明治6年安藤邸跡に継明神社(現安藤神社,北宇和郡吉田町)が建立され現在に至っている。

 安藤 陽洲 (あんどう ようしゅう)
 享保3年~天明3年(1718~1783)宇和島藩儒者。藩校内徳館教授。享保3年10月に讃岐で生まれる。本姓高畑氏。後に安藤家の養嗣子となる。本名は謙之,長じて知冬。通称は満茂,字は貞郷。陽洲または依中と号した。若くして京都堀川の古義堂に入り,伊藤仁斎の長子東涯(紹述先生),末子五男,東涯の異母弟蘭嵎(紹明先生)に師事,古義学を修めること12年。博学多識ひたすら仁斎の学術紹述を己が任とする東涯の謙虚な精神と広範囲の学問に眼を向け「仁に当たりては師に譲らず,孝子はその親に諛らず」(原漢文,『大学是正』)として学問の紹明を第一とする蘭嵎との両精神を継承して古義学の蘊奥をきわめた。
 延享4年師蘭嵎の推挙により宇和島藩五代藩主伊達村侯に招聘され宇和島に来住した。翌寛延元年開校された藩校内徳館の教授となり,併せて藩内の学校を司った。その学問の深さと資性剛直,門弟に不行跡の者があれば改悛せしめてやまず,筍も正道に違わぬ人格により藩内全域に信望を得た。宝暦3年藩命により古義堂より帰藩した藤好南阜と共に藩内文教興隆の基礎を確立した。村候の信認きわめて厚く,その漢詩集『楽山文集』に参勤に出発するに際しての「留別妥藤知冬」がある。陽洲もまた漢詩に長じ『詩十全集』の著がある。国典にも通暁し,明和9年7月「群籍を参考,諸家を折衷,律令格式を裒輯,傍ら国史家乗を考え,その萃を抜きその綱を挙げ大唐六典に擬え」(原漢文序)『日本大典』10巻を著して権大納言源言通より「憲章文物燦然として見るべし」(原漢文,同書序文)と激賞された。天明元年退官,同3年4月12日没。享年65歳。宇和島市宇和津町金剛山大隆寺に埋葬された。