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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 久世  竜 (くぜ りゅう)
 明治41年~昭和60年(1908~1985)殺陣師。本名河野幸政,東宇和郡野村町高瀬の生まれ,久世竜とは時代劇映画の名優月形竜之介が名付け親である。昭和2年芸名,岬弦太郎で日活に入るが後に殺陣師になり,マキノ正博や黒沢明監督との出会いで「弥太郎笠」や「椿三十郎」「用心棒」「隠し砦の三悪人」などの作品の殺陣師として数々の名作を生んだ。久世流剣法とは孤刀影裡流を基調にした臨戦即応の剣といわれている。文献資料を読みあさり,武士,やくざ,農民,町民,それぞれの風習生活様式の中で,異なったアクションを創り出す殺陣で,久世の研究熱心は有名であった。日本映画だけでなく日米合作映画にまでその技が買われ,アクションディレクターとして活躍する。「平和主義者でなければ殺陣は構成できない」が信条。ホワイトブロンズ賞受賞。昭和60年1月5日, 77歳で死去。

 久都 直太郎 (くと なおたろう)
 明治21年~昭和21年(1888~1946)実業家・県会議員。明治21年4月5日,北宇和郡宇和島竪新町(現宇和島市)で酒販売業久都直太郎の長男に生まれた。大正綿布会社を設立して社長になった。大正10年以来宇和島町会・市会議員を4期務め,15年宇和島商工会議所副会頭に推され,昭和6年9月~10年9月県会議員に一時在職した。昭和21年1月12日57歳で没した。

 久保 儀平 (くぼ よしへい)
 明治7年~大正三年(1874~1914)教育者。明治7年6月19日,喜多郡天神村柿原(現喜多郡五十崎町)で生まれた。明治28年愛媛県師範学校を卒業,伊予郡出渕小学校長,岡田小学校長を経て師範学校訓導にな,36年八幡浜小学校長,40年松山高等小学校長に就任,盲唖学校主幹を兼ねた。教育界の指導者の1人として県からしばしば表彰され,大正8年文部大臣の推挙で奏任官待遇となった。

 久保  勉 (くぼ つとむ)
 明治16年~昭和47年(1883~1972)哲学者。明治16年2月17日,伊予郡米湊村(現伊予市米湊)に生まれる。父の死去に伴い母の実家,砥部町麻生柳瀬の門田家に移り,麻生小学校に入学,明治25年卒業し,同29年,愛媛県尋常中学(後の松山中学校)に入学し,松山に下宿する。同級生に安倍能成がおり,親交を深めた。同34年,海軍兵学校に入学,特に語学に優れていた。日露戦争にも参加し,同39年海軍中尉となったが,同41年病気のため現役を去る。同42年,安倍能成をたよって上京し,東京帝国大学の哲学科の選科生として入学,同44年には教授のケーベル博士邸に寄寓し,うるわしい師弟愛の結びつきをもった。東京帝国大学卒業後は。岩波茂雄らとも交わるが,ケーベル教授との関係は大正12年のなくなるまで続いた。昭和4年東北人学法文学部助教授となり,同11年には文学博士,同15年には教授となり同19年退官する。同26年に『ケーベル先生とともに』を岩波書店より出したが,序文に,親友安倍能成が久保勉の略歴とその人となりを述べた名文は有名である。昭和28年東洋大学教授となり,千葉県に住む。同34年退官するまで古典哲学の研究を続け,昭和47年5月24日,死去。89歳。著書には『プラトン』『プラトン国家篇』訳著には『ケーベル博士随筆集』がある。

 久保 盛丸 (くぼ もりまる) 
 明治25年~昭和31年(1892~1956)神職。宇和島市で明治25年に生まれる。水晶と号し,明治43年神宮皇学館専科を卒業する。一時地方紙の新聞記者を務めたこともあるが,のち多賀神社の宮司となる。 24歳にして『南予史』を書き,筆勢は非凡といわれた。性器崇拝の研究に熱心で,その著書も多い。ペンネームは凹凸寺法主ともいう。神職会宇和島支部長も務めた。著書『生殖崇拝論』2巻『桃源』 2巻『お篠権現』などがある。昭和31年9月26日64歳で死去。

 久保 より江 (くぼ よりえ)
 明治17年~昭和16年(1884~1941)歌人。明治17年2月松山に生まれ,父は鉱山牧師で,東予の鉱山に勤めるようになってから,松山中の川の生家から二番町の上野家に預けられる。ちなみに愚陀仏庵の家主上野義方は祖父にあたり,明治28年より江の小学生時代には漱石が下宿しており,子規もころがり込んだりして爾来句席の末席に座り,松風会員とも顔なじみになった。同22年上京して,東京府立第二高等女学校卒業,福島県出身の医師久保猪之古と結婚,同40年,夫の九州帝国大学赴任で福岡に住む。本格的に俳句を始めたのは大正7年ごろからで,「ホトトギス」の同人となる。長塚節・泉鏡花・柳原白蓮・倉田百三らと交わり,服部躬治について短歌も学ぶ。著書に『嫁ぬすみ』があり,愚陀仏庵時代の思い出を書いている。昭和16年5月11日死去,57歳。

 久米 駿公 (くめ しゅんこう)
 文政11年~安政2年(1828~1855)松山藩士。松山藩士籾山資敬の子として生まれ,久米政寛の養子となる。諱は政声,字は駿公,通称は孝三郎,三郎右衛門と称す。幼時より非凡で,嘉永4年,江戸藩邸において松山藩世子松平勝成の侍講となる。同6年ペリーの来航の際,世論はあげて主戦攘夷を唱える中,『隣交論』を著して,ひとり平和外交を主張した。後,藩主勝成の命をうけて長崎へ出,洋学を修めんとしたが,病気により素志を果たさず,安政2年6月26日死去。27歳。松山市豊坂町蓮福寺に墓がある。

 久米  嵓 (くめ たかし)
 慶応2年~昭和13年(1866~1938)歌人・教育者。慶応2年6月に松山に生まれる。新居浜市高津八幡神社の社司をつとめる。 18歳のとき上京し,漢学専攻の斯文京を卒業し和漢の学に精通した。とくに皇漢医学の造詣が深かった。また書,詩歌もよくし,歌は師岡正胤の指導を受けて旧韻を伝えて雄勁蒼古のひびきを持っていた。著書に『皇漢医話』『漢方と鍼灸』『皇政明誼論』『医方集解」などがあり,昭和12年発行の『時舎家集』には三千首の歌が収められている。昭和13年5月22日, 71歳で東京都にて死去。

 久米 唯次 (くめ ただじ)
 天保14年~大正4年(1843~1915)貴族院多額納税者議員。天保14年10月禎瑞新田干拓以来の旧家久米伊勢蔵の長男に生まれた。明治8年村会議員になり,また学務委員として禎瑞小学校建設に多額の浄財を寄付した。のち新居郡会議員などを歴任し,明治30年9月に貴族院多額納税者議員に選ばれた。互選資格者名簿によると地租・所得税860円を納めており,久米家中興の祖といわれるゆえんである。しかし31年6月大病により貴族院議員を辞した。大正4年4月25日71歳で没し,氷見岡林山に葬られた。

 久米 成夫 (くめ なるお)
 明治15年~没年不詳(1882~)昭和前期の県知事。明治15年12月1日,鹿児島県薩摩郡山崎村で士族久米岳の長男に生まれた。 43年7月東京帝国大学法科大学卒業,文官高等試験に合格後,千葉県属を振り出しに神奈川県郡長・理事官,秋田県理事官,岩手県・神奈川県警察部長,山形県・岩手県内務部長を歴任,大正14年9月休職となった。昭和2年5月田中政友会内閣により広島県内務部長に復活,3年6月大分県知事に就任したが,4年7月浜口民政党内閣の地方官更迭で再び休職となった。昭和6年12月18日,犬養政友会内閣の地方官異動で愛媛県知事に就任したが,本県在職わずか6か月, 1度の県会も経験せず,事績をあげることもなく,昭和7年6月28日奈良県知事に転出した。

 久米直 熊鷹 (くめのあたえ くまたか)
 文武天皇3年~没年不詳(699~)羆鷹,久麻多加ともいう。久米郡天山郷戸主。直姓を帯びていることより,旧国造の系譜・を引く譜第家で,久米郡郡領一族の出自であったと推測される。
 天平19年(747)4月ごろ,金光明寺(のち造東大寺司)写経所に経師として出仕した。天平20年正月,写書(経)所で始まった千部法華経書写のための料紙を充てられたのが史料上の初見であるが,このころの熊鷹の活動の中心は,むしろ造寺司写経所内の写疏所でのものであったらしく,2月から5月にかけて法華経恵浄師疏等の写疏に従事している。また4月からは東大寺奉写一切経所で,疏師として因明論疏他の書写にも参加,翌天平勝宝元年(749)8月に及んでいる。天平20年4月,同僚30人と共に写書所から出家申請が行われた。「労1年, 50歳」とみえる。しかし熊鷹の申請は却下されたらしく,以後も写経師勤務が続いている。同年8月の上日帳には里人とみえる。すなわち正規の所属官司をもたず,叙位のための選考の対象にもなっていない,臨時採用の民間技能者(経師)というのが熊鷹の本来的あり方であった。
 同年11月20日付請暇解で熊鷹は,10月25日以来の腹病にもかかわらず寸時の休息の時もなく,当分参向することのできなくなったことを訴えている。事実この間は,上日も8月から12月まで合計14日にとどまっている。年が明けやや体調の回復をみたのか,天平21年正月末から4月末にかけて,新花厳経疏を写している。閏5月には再び写書所での千部法華経書写事業に復帰,12月までに第351以下の各部を写経した。この間も写疏所との間を往来している。
 天平勝宝2年(750)8月には散位寮散位小初位下とみえる。少初位下への叙位によって律令官人の最末端にその地歩を得たわけで,散位寮を本司とし,散位の肩書きのままで写経所に出向するという形となったものであろう。この年考紙銭を進上したことも確認できるが,さらに昇叙されることを目ざして考労を積みつつあったものと思われる。
 この年は,写書所では正月から9月にかけて千部法華経を,また写疏所では4月に仁王経疏,7月に花厳新疏を写している。前年8月からの上日帳によれば上日数284,夕264とかなり過酷な勤務を続けている。しかしその後,9月の30(夕29)をピークに上目数は減少し, 11月から翌3年正月までは不仕を続けている。先年の病状が再び悪化したためではないかとも推定されている。
 この後,おそらく3年2月ごろから始められたと思われる千部法華経第535部書写が,3月11口に終了,また同日をもって,約3年に及ぶ同経写経事業全体が完了している。これを契機に熊鷹の活動はほぼ終息状態に入ったようで, 4月から8月にかけては不仕,翌4年閏3月,六十華厳経の書写にあたったのを最後に,史料上その姿を消している。おそらくその後間もなく,散位少初位下のまま写経所を去ったと思われる。理由の1つとして,高齢に加えて体調不良が重なり,もはや過重な写経業務に耐えられなかったことも想像される。
 久米郡は,古代伊予国における仏教文化浸透の中心地の1つであり,熊鷹の仏教的素養もかかる環境下で培われたものであろう。

 久門 甚三郎 (くもん じんざぶろう)
 嘉永7年~大正6年(1854~1917)神戸村長・地方改良功労者。嘉永7年7月28日,新居郡安知生村(現西条市)で庄屋の家に生まれた。明治6年,学区世話掛,12年安知生村西田村戸長,19年新居周布桑郡書記を拝命した。 23年2月大保木村長,34年12月橘村長にそれぞれ就任,大保木村長12年間,橘村長6年間在任して村政に尽し,40年郷里の人々に懇請されて帰郷,6月神戸村長になった。神戸村では,村農会と協力して農事の改良発展を図り,水利組合の基礎を強固にするため基金財産の蓄積に努め,加茂川水害防止に関係町村を勧誘して大正2年神戸村外2力村水害予防組合を設置するなどの事績をあげた。6年地方改良功労者として県知事表彰を受けた。大正6年7月23日62歳で没した。

 久門 信太郎 (くもん のぶたろう)
 安政2年~昭和10年(1855~1935)氷見村長・地方改良功労者・県会議員。安政2年11月1日,新居郡氷見村(現西条市)で庄屋の家に生まれた。明治8年小学校授業生,14年氷見村戸長を拝命して学務委員を兼ねた。22年12月町村制施行と共に氷見村長に就任,以来連続して村政を担当,41年町制施行により町長に引き続き在任した。町民の信望を集め,基本財産の蓄積,農事改良,産業組合の設置発展,教育の振興,学校林の造殖,納税の完納など氷見村を模範村に成長さぜた。明治42年地方改良功労者として第1回県知事表彰を受けた。その間,明治25年3月~29年3月県会議員にも選ばれた。昭和10年12月18日80歳で没した。

 工藤 干城 (くどう たてき)
 安政2年~大正5年(1855~1916)西条地方の政治運動の草分けであり,県会議員・衆議院議員に選ばれた。新居郡中野村(現西条市)三並家に生まれ,のち神戸村工藤淑三の養子になった。自由民権運動に呼応して植松暢美らと正志社と称する政治団体を組織,大同団結運動時には大同派東予倶楽部の中心人物であった。明治16年県会議員となり,27年3月まで連続してその地位にあった。 27年3月第3回衆議院議員選挙に自由党所属で第4区から出馬して当選したが,わずか3か月で衆議院が解散した。 27年9月の選挙に再び立つが,改進党の藤田達芳に敗れ落選の憂き目をみた。 30年には神戸村村長の傍ら郡会議員を務め,西条銀行・西条織物会社の重役にもなった。大正5年5月2日61歳で没し,保国寺墓地に葬られた。次男養次郎は神戸村長・県会議員として活躍した。

 工藤 養次郎 (くどう ようじろう)
 明治11年~昭和39年(1878~1964)神戸村長・県会議員。地方自治・農事功労者とたたえられた。明治11年1月16日,新居郡神戸村(現西条市)で工藤干城の次男に生まれた。明治30年松山中学校を卒業, 44年29歳で神戸村農会長となり,村会議員・郡会議員を経て大正8年9月県会議員に選ばれ,昭和10年9月まで連続4期16年間在職した。大正12年には神戸村長に就任,以来20年間在職して加茂川水害予防組合の設立,小作争議の調停解決,煙害賠償交渉など多くの事績をあげ,昭和7年地方自治功労者として知事表彰を受けた。また新居郡農会長・養蚕組合長,県信用組合・購買販売組合連合会理事などを歴任して大正13年農事功労者として大日本農会から,昭和3年産業功労者として産業組合中央会頭から表彰を受けた。たびたび衆議院議員の候補に挙げられたが立たなかった。昭和16年西条市制実施促進同盟会長として町村合併による市制施行を円満に導き,以後,市会議員として市の発展を見守った。昭和39年4月1日86歳で没し,保国寺墓地に葬られた。生前から頌徳碑建立の議がしばしば出されたが,本人の強い辞退で建てられていない。

 百済 魚文 (くだら ぎょぶん)
 延享2年~文化元年(1745~1804)松山の豪商・文人。幼名は市之亟のち吉蔵,実名は武智方章のち方猷と改めた。剃髪して宗栄と呼んだ。俳号は魚文,百済氏を称するのは,魚文が唐人町で生まれ居住していることから,円光寺の明月の勧めたものといわれている。また別に孔雀楼・春眼堂・招隠堂・六々亭等の号もあった。茶屋三代目を継ぐ,文才に富み,俳句をはじめ,和歌・書・茶事等にたしなみがあった。俳諧の粟田樗堂,徂徠派の儒学者明月和尚,書の蔵山和尚,墨竹画の蔵沢など,当時一流の文化人と交流があった。小林一茶が粟田樗堂を頼り,寛政7年1月~2月松山に滞在したが,松山入りした1月15日魚文邸を訪ねた。自宅の孔雀楼で秘蔵の正風三尊(芭蕉・素堂・其角)の筆蹟を見せて歓待した。一茶の句に「正風の三尊見たり梅の宿」がある。また翌8年にも再度松山を訪れ,10月11日魚文邸で芭蕉忌の句会を開いている。また明月和尚の『扶桑樹伝』を出版するなど,文化事業に対して私財を投げ出した。彼の句に「真帆片帆吹くや若葉の青嵐」がある。文化元年10月26日59歳で没した。唐人町観音寺境内に葬られている。

 百済王 敬福 (くだらのこしき きょうふく)
 文武天皇2年~天平神護2年(698~766)百済国王義慈王の曽孫で大宝令制下最初の伊予守であった郎虞の三男。天平宝字3年(759)7月,阿倍朝臣嶋麻呂の後を受けて伊予守に就いた。従三位,61歳の時である。当時藤原仲麻呂政権による新羅侵攻計画が進行中であり,南海道諸国では軍船の建造が進められていた。一方敬福は,天平年間より陸奥守として蝦夷経略を担当し,天平勝宝4年(752)には検習西海道兵使に任命され,さらに天平宝字元年の橘奈良麻呂の乱に際しては,諸衛人を率いて関係者の追捕にあたったという経歴の持ち主である。敬福の伊予守補任は上記した政治情勢のもと,その軍事的手腕を期待されてのものであった可能性が強い。天平宝字5年11月南海道節度使を兼任し,外征に備え南海,山陽両道諸国の兵備を管検したという事実もその一証左であろう。天平宝字7年正月,讃岐守に転出,その彼も同8年10月の仲麻呂の乱の際には,外衛大将として数百の兵を率いて淳仁天皇を中宮院に捕縛するなど,武人としての歩みを辿り続けた。天平神護2年6月28日, 68歳で死去した。その伝には「性放縦不拘にして頗る酒色を好む」とある。

 来目部 小楯 (くめべの おだて)
 生没年不詳 伊予来目部小楯,山部連小楯あるいは磐楯ともいわれる。伝えによれば清寧天皇2年11月,大嘗供奉料調達のため(新嘗供物への弁進,あるいは租税徴収のためともいう)播磨国宰として臨時に派遣され
た時,赤石郡縮見屯倉の首忍海部造細目の新居で,雄略天皇に殺害された市辺押磐皇子の遺児である億計,弘計の2皇子を発見した。2人を仮宮に安置したのも天皇に奏上,同月改めて2皇子の奉迎使に任ぜられ,赤石郡に赴いた。翌3年正月摂津国に到着,皇子らは王の青蓋車で宮中に入った。弘計皇子が顕宗天皇として即位した元年4月,皇子発見の功により,山林管理の任にあたる山官に任ぜられ,山部連と賜姓され,山部や山守部らを率いた。当時その富はならぶ者がなかったともいう。小楯の実在が確かなものであるとすると,伊予国久米郡付近に分布した久米(来目)氏,久米部などと,何がしかのつながりを有した可能性は想定される。
 松山市北梅本町,南梅本町から温泉郡重信町にかけて続く,海抜80~100mの洪積台地上には,播磨塚古墳群と呼ばれる十数基にのぼる群集墳があり,これが来目部小楯ないしその一族の墳墓であるとする伝承もある。

 空   海 (くうかい) 
 宝亀5年~承和2年(774~835)真言宗開祖。讃岐国多度郡弘田郷に生まれる。俗姓佐伯氏,母は阿刀氏。幼名真魚,貴物。延暦7年(788)15歳で上京,伯父阿刀大足のもとで文書を読習,同10年大学入学,明経生として毛詩,尚書などの経典を学ぶ。時に一沙門より虚空蔵聞持の法を示され,生地四国での山林苦行に入った。修業の地として阿波大滝嶽,土佐室戸崎などとともに伊予石鎚峯「金巌加禰乃太気」などが伝えられるが,後者については大和国の修験道の地金峰山とも,空海の護摩供修法に因む護摩が岩の伝承をもつ金山出石寺(喜多郡長浜町)ともいう。帰洛後,儒仏道三教の優劣を論じた『三教指帰』を著わしてのち出家,延暦23年得度すると共に,同年遣唐大使藤原葛野麻呂らに従い入唐した。その動機は,大和久米寺東塔下で大日経を感得したと伝えられるように,すでに部分的に伝来していた古密教に接した空海が,その秘奥を究めんと志したためとされる。長安に入った空海は,翌年青龍寺僧で唐代密教の権威であった恵果から金剛胎蔵両部の真言密教を伝授され,かつ伝法阿闍梨位を許され,数多くの典籍,図相を携え大同元年(806)帰国した。同4年7月都に入り,高雄山寺に居住した。この頃から嵯峨天皇の宮廷に接近し重用されると同時に,天台宗開祖最澄らとの親交も始まった。(のち弘仁4年ごろには絶交)弘仁3年(812)末,最澄ら多数の僧に金剛胎蔵両界の結縁灌頂を実施,密教の阿闍梨としての名声を確立すると共に,同7年には高野山下賜の事が認可され,続いて同14年には東寺が給与されて密教の根本道場となり,真言宗僧50人の居住が許された。翌年には高雄山寺が定額寺となり,神護国祚真言寺と改称,真言僧14人が常住した。天長4年(827)大僧都就任。同7年には『秘密曼荼羅十住心論』を著わして密教理論の体系化を完成させるとともに,この間皇族,貴族への灌頂,祈雨など鎮護国家の修法を精力的に行った。承和2年(835)はじめ,真言宗の年分度者3名が認められたことにより,宗派としての真言宗の土台は確立した。同年3月21日,高野山金剛峰寺で入寂した。時に62歳,大僧都伝燈大法師であった。弘法大師の諡号が与えられたのは延喜21年(921)のことである。
 空海の活動分野は宗教者として以外にも多彩で,唐代詩文の理論書『文鏡秘府論』,個人漢詩文集『遍照発揮性霊集』などの著作にみられるように文学者(詩人)として,嵯峨天皇,橘逸勢らと三筆と称せられたように書家として,儒仏道3教による庶民教育をめざした,天長5年の綜芸種智院設立にみられるように教育者として,さらに弘仁12年故郷讃岐国の万濃池修築の際における別当就任にうかがえるように社会事業家としてなど,広範な分野に及んでいる。
 現在愛媛県内における空海の開宗,改宗を伝える寺院は多数に上り,年代的には大同,弘仁年間に集中しているが,いずれ。も空海の伊予巡錫によるものとは考えられない。また県内四国巡礼札所26か寺のうち25か寺は真言寺院であるが,大師伝承を残すものも数多い。大師が護摩修法を行った三角護摩壇跡に因むという川之江市の三角寺,大師が土砂加持の秘法により蒼社川の氾濫から農民を救ったという伝えの残る今治市泰山寺,大師自刻の不動明王を本尊として開創したといわれる上浮穴郡美川村岩屋寺などである。空海入寂後,高弟真済以下大師を慕って,あるいは修業のため四国を遍歴する真言僧が増加した。本来雑多な信仰の霊地遍歴であった四田霊場巡歴は,やがて彼ら真言僧の普及させた大師信仰の性格を強めながら,四国遍路の成立へとつながっていくのである。

 日下 伯巌 (くさか はくがん)
 天明5年~慶応2年(1785~1866)幕末期の松山藩士,明教館教授。天明5年2月に日下篤の子として松山に生まれた。彼は名を梁,通称を宗八,字を伯巌,号を陶渓といった。はじめ古文辞学を杉山熊台について学んだ。文化12年(1815)藩命によって昌平黌に入学し,古賀精里に師事して朱子学を修得した。文政10年1827)帰国し,藩主松平定通に仕えた。明教館の開設により,教授として藩士の子弟の育英事業に従うこと,およそ40年に及んだ。彼の指導は温雅しかも寛厚であったので,多数の俊秀の士が輩出し,幕末の文運の興隆に貢献した。そのうち矢野玄道・伊藤克誠・武智五友・大原観山・藤野正啓らの篤学の士が著名である。また皆既は詩文に秀で,『詩文存稿』・『洗冤録』が知られている。また書道にも巧みで,その筆跡は京都の貫名海屋と並び称賛された。慶応2年9月に年81歳の高齢で逝去した。

 草間 時福 (くさま ときよし)
 嘉永6年~昭和7年(1853~1932)愛媛英学所・北予変則中学校(後の松山中学校)総教・校長に招かれ,自由な教育と民権論で生徒たちに大きな感化を与えた。嘉永6年5月19日京都御所南門衛士下田好文の四男に生まれた。幼名六蔵。草間列五郎の礼養子となり,明治3年上京,安井息軒・中村敬宇に学び,ついで慶応義塾に入り福沢諭吉の教えを受け8年卒業した。この年愛媛県英学所を設立してその指導者を求めていた権令岩村高俊と,末広鉄腸の仲介で面談,民権自由論や国会論を議論して岩村の意に投じ,23歳の書生ながら月給40円の総教(所長)として迎えられた。英学所ではスマイルスの「自助論」やギゾーの「文明論」などを洋書でもって論じるかたわら,月に2,3回の演説,討論会を開き,先生も生徒も交り合って議論の機会を持った。この文明開化を想わせる自由な学風が優れた生徒を集め多くの人材を輩出したが,中でも岡崎高厚・門田正経・永江為政・森肇・矢野可宗ら言論人を志す者が多かった。明治9年6月松山の英学所は教育内容を充実して中学校の形態に近づけようとし,折から宇和島に南予変則中学校が設立されたので,北予変則中学校と名乗った。草間は引き続きこの中学校の校長に任じ,南予中学校長には友人で慶応義塾出身の細川波を斡旋した。この間,明治9年3月に末広鉄腸の依頼で朝野新聞に投稿した「改革論」が新聞紙条例に触れ,岩村権令の庇護で監獄刑は免れたが禁固3か月,罰金刑50円の罰を受けた。 10年に結成された民権結社公共社の指導や機関紙「海南新聞」の編集にも当たった。中学校の基礎を築いて12年7月岩村県令はじめ知友・生徒に送られて松山を去った。東京に帰り朝野新聞にかかわった後,大阪に行って毎日新聞の前身である立憲政党新聞創刊に加わり論説を担当した。 17年逓信書記官として工部省に出仕,以後,灯台局次長・為替貯金局管理部長・郵便電信学校長などを歴任して,大正2年定年退職した。大正10年6月,草間は田内栄三郎らかっての門下生の招きで来松,師父として多くの同窓生の歓迎を受けた。昭和7年1月5日78歳で没した。

 櫛部 國三郎 (くしべ くにさぶろう)
 明治24年~昭和30年(1891~1955)本県特産あたご柿の優良系統選抜者。周桑郡田野村(現丹原町田野)長野に生まれる。農業学校卒業後,温泉郡桑原村東野(現松山市東野町)の久松家果樹園(明治43年開園)の管理に当り,その整備充実に努めるとともに栽培技術の修得に努めた。その後大正元年家業に専念して果樹の栽培をはじめ,富有柿を導入,更に岐阜より渋柿(蜂屋,横野,平核無等)を導入したなかに,現在のあたご柿が混入していたといわれ,当時は伊予蜂屋ともいわれた。これを品評会に出品入賞したので,苗木を委託育成して普及を図った。これが現在の特産あたご柿である。 64歳で死去。

 櫛部 忠雄 (くしべ ただお)
 明治34年~昭和47年(1901~1972)古事記研究家。越智郡上朝倉村(現越智郡朝倉村)に生まれる。幼少のころ周桑郡吉岡村(現東予市)の叔母の婚家櫛部家に入籍する。中央大学中退。大正12年関東大震災後,南画の巨匠小室翠雲の知遇を得て,美術雑誌の発行を計画する。京都に駐在員を置いて東西画壇の結集を図って,「詩と美術」という豪華版の月刊雑誌を刊行する。太平洋戦争中は資材の欠乏で廃刊のやむなきに至る。戦時中千葉県木下町に疎開して,古事記の研究に没頭し,古代仮名の意味をさぐり『アイウエオの心』を出版するなど,古事記の研究一途に精進し,昭和47年5月,71歳で死去。

 楠岡 奇骨 (くすおか きこつ)
 明治2年~大正14年(1869~1925)医師。明治2年6月3日今治に生まれる。本名,謙吉。家は代々医家で謙吉は四代目に当たり,医業以外に新聞に投稿したり紀行感想文を書くなど文学方面に多くの業績を残した。碧梧桐や東洋城の指導を受けて句会を催したり,下村為山の世話をしたりもする。号を奇骨と称したが,信念を曲げない剛の面と,恬淡,洒脱な柔の両面を合わせ持つ幅の広い性格であった。郷土史研究も熱心でイマバリと呼ぶ地名を,自ら市会議員となってその呼称を上程可決させたという。晩年は近見山の開発に情熱を傾けその計画は綿密をきわめていた。「医は仁術」の信念で終生診療費を請求しなかったという奇骨,景観美の地盤作りに心骨をけずる奇骨。まことに偉大といわざるを得ない。大正14年6月,56歳で死去。
 近見山八合目に酒井黙禅揮ごうの句碑が立っている。

 楠本 イネ (くすもと いね)
 文政10年~明治36年(1827~1903)シーボルトの娘で産科医。文政10年5月6日,長崎に生まれた。父はシーボルト,母は遊女瀧(遊女説と名附遊女つまり外人の妻となるため便宜上遊女となったとする両説あり)である。幼名は矢本伊篤で「イトク」とも「イネ」とも呼ばれたらしい。矢本は「シーボルト」に由来する。シーボルト事件で父が国外退去を命ぜられ,幼時は母の手元で養育されたが,母の再婚もあってか,数か年卯之町(現東宇和郡宇和町)にあって,父の弟子二宮敬作のもとで養育された。
 成人するに及んで,父の跡を追って産科を志すようになり,弘化2年(弘化3年説もある)から嘉永4年まで,岡山にあって父の弟子であった石井宗謙に学ぶ。その間,彼との間に一子高子を産む。後の三瀬周三の妻となる女性である。宗謙死後長崎に帰り,開業しながら同地の医師阿部魯庵に就いて学ぶ。安政元年より卯之町に来て二宮敬作に学ぶようになる。この間,来藩していた大村益次郎に語学を学び,また藩侯の命で夫人を往診したりしている。安政3年,父シーボルトの再来日の報に接し,敬作等とともに長崎に帰る。文久2年,父が帰国し敬作も死去したのち,出島のオランダ人医師ポンペ・ボードウィン・マンスフェルドに就いて産科を修業している。明治3年東京府京橋区築地で開業,明治6年には権典侍葉室光子妊娠に付,宮内省御用掛を拝命している。その後長崎へ帰るが,福沢諭吉や杉孫七郎らの推薦で再び朝廷に召され,明治36年8月26日,東京で死去した。満76歳。

 忽那 兼平 (くつな かねひら)
 生没年不詳 鎌倉初期に忽那七島を中心とし,幕府の御家人の地位を留保して,活躍した在地勢力。兼平は俊平の子であって,忽那島武藤荘(東荘)を父から譲渡された。松吉荘(西荘)は兼平の弟家平に継承された。ところが,兼平・家平が対立することになり,兼平は家平の松吉荘を侵犯するに至った。そこで家平は,この間の事情を鎌倉幕府に訴え,父俊平の譲状にしたがって,兼平の乱暴を停止するように歎願した。これに対し,幕府から家平の希望どおりにとり計る旨の関東下知状が下された。その結果がどのようになったかは,史料がないので不明である他家平およびその系統の人物が史上に姿を現さないのを見ると,兄兼平およびその子孫に圧倒されたためであろう。『長隆寺文書』によると,兼平は幕府から忽那島地頭職を安堵されている。彼は文治3年(1187)忽那島のなかに本山城(100メートル)を,同5年(1189)泰山城(289メートル)を築き,さらに付近の高島・長師・熊磯・神ノ浦・九多児・熊田・梅ノ児・牟須岐等に要塞を設けて,同氏の活動の素地をつくった。

 忽那 久吉 (くつな きゅうきち)
 慶応3年~昭和11年(1867~1936)教育者。慶応3年3月,伊予郡北河原村(現伊予郡松前町)に生まれ,北河原村旭川小学校を卒業し,教員検定試験に合格する。伊予郡内の小学校訓導や校長を歴任する。傍ら俳句,短歌,漢詩の勉学に努め,後,漢詩を生涯の友として暮らすようになる。号を「宮橘」と称し,創作漢詩1万余『愚吟集』20巻『味史』2巻『離別集』(1巻)がある。教育者としての久吉は渾身の力をこめて人格教育に力を注ぎ教え子たちは「国士」とよんだという。教え子の中からは陸軍中将:三本善太郎や鉄道次官喜安健次郎らがおり,師恩を忘れず昭和11年には三木中将らが発起人となって,岡田地区こぞって盛大な謝恩会を開いたほどである。昭和11年69歳で死去。

 忽那 国重 (くつな くにしげ)
 生没年不詳 鎌倉中期に忽那七島を中心にし,幕府の御家人の地位を持ち,近海の制海権を掌握して活躍した在地勢力。国重は俊平の孫,兼平の嫡子であって,兼平のあとを継承した時,すでに忽那島地頭職および松吉荘を領有していたことは,承元2年(1208)付の関東下知状,貞永元年(1232)付けの裁許状等によって諒解される。したがって,彼は武藤・松吉の両荘(このころは名という)を領有し,忽那氏の権勢を一本化していたと想定される。国重には,重俊・通重・盛重・重康・忠重らの子があり,同家の諸職・所領について分割譲与がなされた。重俊は東浦地頭職を,通重は西浦惣追捕使職を,盛重は東浦惣追捕職を,重康は西浦地頭職を,忠重は延成名地頭職・七島代官職を継承した。これら諸職の細分化によって,かえって忽那氏の権勢が各地域にわたって波及し,忽那氏の基礎はますます強固なものとなった。

 忽那 重氏 (くつな しげうじ)
 生没年不詳 南北朝末期に忽那氏を代表して活動した宮方の武将。重氏ははじめ怒和島地頭職を留保し,重澄のあとを継承した。彼は重明の弟であって,四郎兵衛・又三郎といった。天授元年(1375)11月に南朝から兵糧析所として,讃岐国伊賀野の領家職ならびに郡家内の公文職をあてがわれた。その後を継いだのは,重清の子親重(重勝の弟)であったようで,幼少のために同島粟井の長福寺の慶全房(国垂の予て,重俊の弟)に授けられた。親重は法師丸(法名道企)といい,大炊頭に補せられ,元中8年(1391)4月,すなわち雨北両朝の合一の前年に,雨朝から忽那島一分地頭職にあてがわれた。 忽那 重清 (くつな しげきよ)
 生没年不詳 伊予国風早郡忽那諸島に拠り,鎌倉末期一南北朝に活動した武将。はじめ弥次郎,後に次郎左衛門尉といった。御家人として在地勢力を構成した忽那重義の長子。元弘の変に,垂清は父の指令に従い,従来の鎌倉幕府従属の態度を変え,伊予国本土の土居・得能氏らと提携して,喜多郎根来城・越智郡府中城を攻略し,また来侵しか長門探題北条時直の軍を久米郡星ノ岡に潰滅した。建武の中興ののち重清は得能氏らに協力し,周布・越智郡における北条氏の残党の反乱を鎮定した。足利尊氏が鎌倉で反旗をひるがえすと,重清は中興政府の指示により,東進して信濃国に武家方を撃破し,引き続き京都で尊氏の与党と戦闘を交えた。しかし,尊氏が九州で退勢を回復し東上を企てるに及んで,重清は従来の態度をかえ,急に尊氏に呼応した。尊氏らが建武3年(1336)京都に入った時,重清も従軍し宮方を掃討するのに努めた。翌年重清は帰郷し,伊予国の実力者であった武家方の河野通盛を援けて,宮方と和気郡和気浜に戦い,さらに翌年安芸国沼田庄によった小早川氏を討つために出征した。しかもこのころ忽那島では,彼の弟の義範が宮方の武将として活動を続けていたから,重清はじゅうぶんな功績をあげることができなかった。重清の晩年の行動は,内乱期における一小在地勢力をまもるための政略的なものとも解される。ほどなく重清は逝去したようで,忽那島は完全な宮方の策源地と化した。

 忽那 重澄 (くつな しげずみ)
 生没年不詳 南北朝の中期に忽那氏を統率して活躍した宮方の武将。忽那義範逝去ののちは,彼に続く強力な統率者がなかったために,忽那氏の権勢は急に衰微して,昔日の面影を失った。義範の活躍時代に同家の惣領職をついだのは,重清の子重勝であった。重勝のあとを継承したのは,重義の弟重澄であった。重澄は孫三郎といい,雅楽佐に補せられ,正平22年(1367)12月に伊予国守護の河野通尭(通直)から,本領を安堵された。通直ははじめ武家方であったが,讃岐国の細川頼之の攻撃をうけ,一時苦境にあったために,九州の征西将軍に通じて宮方となった。そのため忽那重澄と提携を堅くして,その後援を得る必要があった。また重澄としても,昔日の雄姿を失った忽那氏の勢威を維持するため,河野氏を利用することが最も有利であった。忽那氏と南朝との関係は,南北両朝合一(1392年)まで存続した。

 忽那 重義 (くつな しげよし)
 生没年不詳 伊予国風早郡忽那諸島に拠り,鎌倉時代末期に活躍した武将。重義は鎌倉幕府の御家人として地頭職を留保した久重の子であり,孫次郎,法名を道一と称した。重義は忽那氏一族を糾合して,近海の制海権を掌握し,在地勢力を確立していたことは,幕府の諭示に反抗したことによって知られる。元弘の変に重義は河野氏従属の態度を改めて,伊予本土の土居・得能両氏と連合し,その子の重清・義範らを派遣して,喜多郡根来城および久米郡星ノ岡に幕府側の軍を潰滅さぜた。重義はその功労によって左少弁に叙せられたという。

 忽那 俊平 (くつな としひら)
 生没年不詳 平安末期から鎌倉初期に忽那七島(現中島町を中心)を基盤として活動し,忽那氏隆盛の端を築いた在地勢力。俊平は寿永元年(1182)に後白河法皇が長講堂を創設された時,その造営の資として,米麦二百斛を寄進した。やがて忽那島は長講堂領となり,国役を免除された。長講堂領となった時期については明らかでないが,『島田文言』によって建久2年(1191)に同領が存在したことを確認し得られる。長講堂の本家が後白河院で,領家は長講堂で,俊平は地頭職に補任せられ,これを子孫に相伝したのであろう。また同島の開拓は進捗したようで,武藤庄・松吉庄の成立を見た。前者は島の東方にあって東荘とも称し,のちの大浦・神ノ浦を含み,後者は島の西方に存在して西荘とも称し,のちの栗井・吉本等を包含していた。

 忽那  恕 (くつな なだむ)
 文久2年~昭和15年(1862~1940)西中島村長・地方改良攻労者。文久2年2月14日,風早郡吉本村(現温泉郡中島町)で庄屋忽那次郎太の子に生まれた。明治15年~18年吉木饒畑里村戸長, 20年登録所傭, 23年西中島村収入役を経て27年1月父の後を継いで村長に就任,人正3年1月まで在任した。従来この村は旧藩時代数藩に分属していた余習として部落割拠の風があったのを全村一致融和に努め,小学校を統合して設備の完成を期し,柑橘の栽培を試みるなどの事績を重ねた。大正3年地方改良功労者として県知事表彰を受けた。昭和15年12月14日78歳で没した。

 忽那 通著 (くつな みちあき)
 生年不詳~天正7年(~1579)戦国時代末期に活躍した在地勢力。忽那通光の子通乗のあとをうけて,式部少輔と称した。永禄8年(1565)6月に,豊後国大友義鑑の家臣星野氏が,河野氏の湯築城を目ざして侵入をはかった。河野氏の一部将の地位にあった通著は,弟通恭及び村上通康らの来援を受けて,温泉郡忽那山城(現松山市)によって防戦し,星野氏の野望を一挙にくじくことができた。7年後の元亀3年(1572)毛利氏の軍が温泉・和気・風早郡地区に来襲した。通著は三津浜で侵入軍をむかえ戦った。『予陽河野家譜』によると,この時忽那勢は初めて鉄砲を使用して,大いに戦果をあげたという。風早郡に進撃した毛利氏の軍は,恵良城を占領して凱歌をあげた。この報に接した通著は,長駆して同地に赴き,恵良城を奪還して,毛利氏の軍を海上に撃退した。つぎに河野氏にとって恐るべき戦国大名は,天正年間に強大となった土佐国長宗我部元親であった。このころ喜多郡地蔵嶽に拠った大野直之は,元親に通じて河野氏に反旗を翻した。通著は大野氏を討つため,村上氏の軍とともに喜多郡長浜に上陸し,進んで大洲盆地に向かった。通之は河野氏側の優勢なのを見て,降伏してその罪を謝した。ところが天正7年大野直之が再び河野氏に反したので,通著は喜多郡に出陣したが,同郡の花瀬(現大洲市)で戦死をとげた。

 忽那 通光 (くつな みちみつ)
 生没年不詳 室町時代末期から戦国の初期にかけて活躍した在地勢力。豪族河野氏に隷属した武将。通光は忽那通定の子であり,兄通賢のあと家督を継承した。通称を新右衛門尉という。文正元年(1466)安芸国の武田氏が河野教通・通宣父子の上京しているすきに乗じて,伊予国に侵入を企てた。この時,留守を預かっていたのは河野通生(教通の弟)であって,まず忽那通光の来援を求めた。そこで通生・通光の連合軍は,風早郡恵良城に武田氏の軍をむかえ撃って,彼の野望をくじくことに成功した。武田氏との紛争は,通光あての通生の書簡によると,すでに寛正6年1465)9月ころから起っていた。7月に通光は,本知行半分の代地として郷内の得重名地頭職を中分することを認められ,また忽那島東分の検断職に補任せられた。その後通光は武田氏の軍を撃退しか功労を賞せられ,出作・鹿子の地を与えられた。いっぽう京都では応仁元年(1467)応仁の乱が勃発し,各国の守護を始めとして武士たちも東軍の細川勝元と西軍の山名宗全のどちらかに属して参戦し,おのおの自己の政権の拡大をはかった。伊予でも,河野教通・通春が入京して活動した。宗全・勝元らは相ついで没したけれども,戦火は容易におさまらないばかりでなく,騒乱は各地に伝播した。教通・通春らも帰国したが,両者の抗争はなおも持続した。このすきに乗じて,文明11年(1479)讃岐国の細川頼春が伊予侵入をはかった。教通は配下の諸将士を動員して,防戦につとめた。通生の子勝生は桑村郡世田山城,忽那・南の両氏は風早郡宅並城,宇都宮氏らは本拠の湯築城を守備した。頼春は宇摩・新居両郡の諸城を陥れて,世田山城に迫った。通光は配下の水軍を率い,海上から細川勢の背後を突いて,大打撃を与えた。その結果,細川勢は大敗し,讃岐国へ引き揚げるに至った。

 忽那 義範 (くつな よしのり)
 生没年不詳 伊予国風早郡忽那諸島に拠り,南北朝時代に宮方として活躍した在地勢力。忽那重義の子,同重清の弟,後に下野法眼といった。はじめ柱島の地頭であったが,元弘の変に兄重清とともに後醍醐天皇に応じ,伊予本土における土居・得能氏と結んで,喜多・越智両郡の各地における幕府の与党の打倒に奮戦した。さらに来侵した長門探題北条時直の軍を久米郡星ノ岡に撃破した。建武新政の崩壊ののちも義範は伊予における宮方の統率者となり,武家方の河野・大森氏らの討伐につとめた。重清か武家方になり,忽那氏の勢力が二分されたのちも,義範は忽那島神浦を本拠とし,積極的な活動を続けた。同島に来襲した吉良貞義の車を撃退したのを始めとして,讃岐国の細川氏および河野氏の連合軍を和気郡和気浜に,さらに河野氏の与党を温泉郡桑原・久米郡井門の両城に攻略し,進んで新居郡西条方面をも占領した。その後,伊予守護として大館氏明か,伊予国司として四条有資が来任し,さらに暦応2年(1339-異説がある)征西将軍として懐良親王が,五条頼元・同良遠・冷泉持房(北畠親房の弟)ら12人を従えて忽那島に来た。親王の忽那島滞在すること3か年,義範は親王の内海統御策を心から援助した。この間に義範は安芸国の守護武田氏,ついで河野通盛らの来襲を退けたばかりでなく,進んで通盛の本拠湯築城を,さらに中予・東予の武家方の諸城をも攻略した。そのため武家方は圧倒せられ,伊予国はあたかも宮方の一策源地の観を呈した。親王の九州に去ってのち,康永元年(1342)脇屋義助新田義貞の弟)の伊予入国に際し,また熊野水師の内海進出の時乱義範は兵糧を送って援助した。いっぽう室町幕府には内談が続き,足利直義の養子直冬は九州に拠って反抗した時,義範の権勢を重視し,しきりに彼を味方になるよう勧誘した。その後,直冬が長門国で宮方となり,義範がこれと通じていたことは,『忽那家文言』のなかにある直冬関係の文書によって知られる。義範の没年は不明であるが,延文元年(1356)から遠く隔たっていない時期であろう。忽那氏には義範に続く強力な統率者がなかったので,その威勢は急に衰微した。

 国   房 (くにふさ)
 文禄元年~没年不詳(1592~)豊後の高田鎮政の門人で初銘は国林藤原石見守,宇和島城主,戸田氏か藤堂氏に仕えた鍛冶であると推測するが,伊達秀宗が宇和島藩主に転封された後も秀宗に仕え,代々伊達家に仕え九代まで続く。

 国   正 (くにまさ)
 寛政4年~宝永2年(1627~1705)土佐の長宗我部氏滅亡後に宇和島へ移り主み,慶安5年(1652)3月,藩主伊達秀宗より御扶持方四人扶持米11俵給さる。寛文4年に駿河守を受領す。宝永2年10月20日没,77歳。銘は予州宇和島住藤原国正。
 二代国正
 元禄10年(1697)7月初代国正を相続し,西本市衛門藤原兼正と号す。銘は二代目駿河守兼正,享保5年10月吉日,愛宕山大権現奉進宝剣。
 三代国正
 二代国正の嫡男で三代を継ぐ。第八代の南予宇和島住駿河守八代藤原国正作,元治2年(1865)2月の銘を最後に五代で宇和島藩御用鍛冶国正の名は絶える。

 国松 武雄 (くにまつ たけお)
 天保12年~明治37年(1841~1904)戸長・県会議員。天保12年5月12日,宇和郡高田村(現北宇和郡津島町)で庄屋の家に生まれた。維新期同地区の戸長を拝命して村政に努めた。明治23年2月~27年3月県会議員に在職,大同派―自由党に所属した。明治37年3月18日62歳で没した。子国松磊奇智は県会議員,孫国松福禄は県会議員・宇和島市長を務めた。

 国松 福禄 (くにまつ ふくろく)
 明治23年~昭和33年(1890~1958)弁護士・県会議員・宇和島市長。明治23年6月9日,北宇和郡津島村高田(現津島町)で旧里正国松藻奇智の長男に生まれた。父は明治32年9月~40年9月県会議員であった。宇和島中学校を経て中央大学に学んだが,京都第三高等学校予科に転学,大正6年東京帝国大学法科大学を卒業した。7年宇和島で弁護士を開業,15年以来市会議員を経て,昭和6年9月~10年9月県会議員に在職した。 15年宇和島市会議員に戻り,議長を務め,傍ら宇和島新聞の経営を引き受けて「南予毎日」と改題した。戦後,昭和22年第1回宇和島市長選挙に立候補,中川千代治を破って当選した。市政では戦災復興工事,宇和島病院,図書館の新築,宇和島城の市移管,赤字財政の克服などを推進, 25年3月12日天皇陛下を奉迎, 11月市制30周年記念式典を挙行した。 26年4月市長再選を期したが,中平常太郎に決選投票の末敗れた。昭和33年2月15日67歳で没した。

 国松 磊奇智 (くにまつ らいきち)
 慶応4年~昭和10年(1868~1935)県会議員。慶応4年8月20日,宇和郡高田村(現北宇和郡津島町)で庄屋国松武雄の長男に生まれた。明治32年9月~40年9月2期にわたり県会議員であった。昭和10年12月30日67歳で没した。

 国村 三郎 (くにまつ さぶろう)
 明治38年~昭和55年(1905~1980)教育者・県教職員組合委員長・県議会議員。明治38年9月23日,北宇和郡宇和島町追手通(現宇和島市)に生まれた。大正12年宇和島中学校を卒業後,教育界に入り,34年3月宇和島市鶴島小学校長を退職するまで36年間小・中学校教員を勤めた。その間,市教職員組合長. 30年~32年県教員組合委員長として活躍,また宇和島地区労働組合共闘会議長などを務めた。昭和38年4月県議会議員に当選, 42年4月まで1期在職した。国村侍の名で短歌や小説などを発表,方言研究家としても知られ,『宇和島語法大略』『宇和島ことば』などの著書がある。昭和55年5月3日74歳で没した。

 窪田 吾一 (くぼた ごいち)
 明治9年~昭和8年(1876~1933)実業家・県会議員。明治9年12月15日山口県美禰郡岩永村に生まれ,33年温泉郡新浜村(現松山市)窪田加藤次の養子になった。中学校卒業後一時県官になったが,ほどなく退職して海運業を営み,高浜商船組を結成して組長にあげられた。村会議員,温泉郡会議員・議長を経て大正8年9月~昭和2年9月県会議員に在職,憲政会に所属した。諸会社の重役や県産業調査会・消防義会委員など多くの要職を歴任した。昭和8年3月21日56歳で没した。

 窪田 而笑子 (くぼた じしょうし)
 慶応2年~昭和3年(1866~1928)川柳作家。慶応2年3月15日に,江戸の小石川に生まれる。本名は道雄。明治38年,読売川柳会を創始し,井上剣花坊,坂井久良伎とともに明治の川柳界の三羽烏といわれる。同39年海南新聞創刊30周年に川柳がとりいれられ,その選者となる。全国の川柳人の指導をするとともに柳誌の経営発刊をする。大正10年,愛媛県の川柳界の懇請で「媛柳」を発行し,死去するまで続ける。本県の前田伍健ら多くの柳人を育成した功績は大きく,愛媛川柳界の大恩人ともいうべき人である。昭和3年10月27日死去, 62歳。

 窪田 文治郎 (くぼた ぶんじろう)
 明治23年~昭和50年(1890~1975)宮大工。久米郡久米村大字鷹子(現松山市鷹子町)に生まれ,明治36年久米尋常高等小学校を卒業するやただちに父光太郎のもとで社寺建築の技術を磨き,大正4年6月,岩屋寺大師堂建設工事棟梁を務め,その後,浄土寺仁王門・岩屋寺本堂など40棟に及ぶ社寺の建築を手がけ,木造建築美術の真髄を表現する。昭和20年4月に愛媛県建築工養成所が開設されると,同指導主任に任命され,多くの後輩を養成する。同33年には繁多寺本堂,同34年には菅生山大宝寺客殿及び庫裡の建設をする。同41年から45年にわたって,国指定重要文化財伊佐弥波神社の解体修理の棟梁として敏腕をふるい,その芸術的価値は高く評価されている。さらに同44年には,卓越した建築技能が認められ,愛媛県指定無形文化財の保持者として認定された。昭和45年,勲六等瑞宝章を受章し,同46年には愛媛県教育文化賞を受ける。昭和50年5月23日死去,84歳。

 窪田 兵右衛門 (くぼだ ひょうえもん)
 生年不詳~安永3年(~1774)伊予郡砥部村下麻生の組頭,明和8年(1771)水論の義民と仰がれている。この地方は重信川の水を古樋井手と市之井手の2水路から5か村に分水して用水としていた。それが天領,松山藩,大洲藩,新谷藩に支配されていた。明和8年の大旱ばつでは市之井手がかりの5村約700人が麻生村の矢取川原で乱闘となり天領の宮ノ下八倉で各1人の死者が出た。大洲藩から幕府に訴え出たため,勘定奉行松平右近将監から備中代官所へ出頭を命ぜられた。
 翌9年1月,関係庄屋組頭百姓ら308名が倉敷,笠岡に出頭した。麻生側は初めから加害者扱いで投獄された。1年以上獄舎の責め苦で発議者,加害者を出そうとしたが乱闘の際のことで判明しない。また主謀者のある筈もない。兵右衛門は組頭として付添人であったが村民の悲惨を見るに忍びず村のため衆人に代わって発議者,加害者であると申し出て死罪となり,事件を解決させた。安永3年2月23日34歳で刑死した。村民はその義心と恩徳に感泣し寛政3年の命日に新谷藩の許可を得て,きさらぎ神社を造営した。社名は彼の辞世の句〝衣更着のあわれ尋ねよ法の道〟に由来している。墓碑は村内円通寺の境内に五輪塔を建立「大機院観月浄照居士,俗名窪田兵右衛門居士」とある。

 窪田 節二郎 (くぼた せつじろう)
 弘化4年~昭和8年(1847~1933)県会議員・副議長,岡田村長,松山市会議長。弘化4年11月24日,伊予郡昌農内村(現松前町)で庄屋窪田守一の長男に生まれた。5歳で庄屋を継ぎ,明治初年には戸長・副区長を務めた。明治12年2月県会開設と共に議員に選ばれ,22年1月まで在職して,13年11月~15年9月と17年3月~9月副議長を務めた。 23年第五十二銀行・伊予農工銀行の取締役になり,31年岡田村長, 43年昌農内耕地整理組合長を務めて村政の発展に貢献した。沈着温和な人柄で郡内に名望があり,義農神社建設など義長作兵衛の顕彰にも努めた。やがて住居を松山市に移し, 44年市会議員になり45年10月議長に選ばれ大正3年1月まで在任した。3~5年愛媛県農工銀行の頭取に就任したが,7年一切の公職を退き出家した。昭和8年12月23日86歳で没した。義農公園内と伊予鉄道岡田駅近くの隅田川畔に頌徳碑がある。

 倉根 是翼 (くらね ぜよく)
 慶応元年~没年不詳(1865~)郡長・大洲町長。,慶応元年9月25日,松山市士族の家に生まれた。明治30年福岡県警警部を拝命,警視庁警部を経て36年内務属となり,愛媛県官に転じて帰郷した。 39年伊予郡長を最初に喜多・越智・温泉郡の各郡長を歴任した。大正12年郡役所廃止と共に免官,松山市助役となり15年退職,昭和6年~10年大洲町長に迎えられ,久米・大洲村との合併を推進した。

 倉根 蒼峰 (くらね そうほう)
 文化3年~明治13年(18O6~188O)教育者。松山藩士,名は是明,通称源蔵という。高橋復斉にはじめ師事するが,のち江戸の昌平黌に入って学ぶ。帰藩して久万山の代官を勤めるが,その後,藩学明教館で教える。晩年は隠退したが子弟の教育に生涯努める。詩文に長じ,和歌をよみ,俗謡俚歌に至るまで通じていた。貪根清風はその子で,名は穆といい藩儒目下伯巌に学び,兼ねて砲槍の術を習い,藩に仕えては大小姓より祐筆となり,明教館教授を兼ねた。親子そろって,松山藩の教育に尽くした。蒼峰は明治13年3月死去。74歳。松山市宝塔寺に墓がある。清風は明治25年9月死去,60歳。

 倉橋 宗由 (くらはし むねよし)
 明治17年~昭和51年(1884~1976)軍人。上浮穴郡弘形村(現美川村)の神官の家に生まれる。明治38年陸軍士官学校を卒業し、歩兵第22連隊付となる。同44年から大正2年にかけて連隊は満州に駐剳し、遼東半島の警備に任じた。同8年のシベリア出兵には中隊長として沿海州方面の警備に当たり,翌9年には蘇城派遣隊の救援やシコトワの露軍武装解除に活躍した。同9月,帰還後は松山連隊区司令部付となり,少佐に進級したが,同12年9月,山梨軍縮より予備役に編入せられた。翌13年3月,愛媛県立松山中学校の教練教官となり,じ後14年間にわたり生徒の軍事教官を担当した。この間大正15年には同校山岳部を結成し,部長に就任,続いて三坂峠にスキー場を開設し,スキーの普及に尽力した。昭和11年,他に先んじてOB2名と共に厳寒の石鎚登頂にはじめて成功した。軍事教練は厳格であったが,温情もまた厚く生徒はよくその指導に従った。日中戦争になって臨時召集され,同13年3月,再び松山連隊区司令部付となり,太平洋戦争に突入すると第45碇泊場司令部(陸軍船舶部隊)付として,釜山・スラバヤ・ショートランド・ラバウルと各地に従軍したが,戦塵の余暇には趣味の画筆を楽しんだ。同19年2月に内地帰還,三たび連隊区司令部付として終戦を迎えた。中佐に進級。昭和25年7月,愛媛県山岳連盟の発足に際しては,副会長に就任してさらに後進の指導に当たった。また,松山中学校同窓会長(第9代)にもなる。同51年6月8口没。享年92歳。墓所は美川村大川の累代墓地。

 鞍懸 啄磨 (くらかけ たくま)
 明治26年~昭和39年(1893~1964)教育者。明治26年2月4日兵庫県赤穂郡塩屋村(現赤穂市)に生まれる。本籍は岡山県。東京郁文館中学校,岡山第六高等学校から京都帝国大学法科大学政経科を大正10年卒業。同11年松山商業学校教諭,同時に野球部長兼監督となり,終始率先垂範。ユニフォーム姿で生徒とともに練習,直情径行居士の異名を持ち,公正無私ざっくばらんの中に温情を秘めた指導により夏の甲子園出場7回,選抜出場10回,同全国優勝2回,昭和10年7月八幡浜商業学校長となった年には,松山商業念願の夏の全国大会優勝を果たした。以後松山商業学校長,松山中学校長を歴任し昭和22年9月退職。松山商業の野球,そして愛媛野球の育ての親といわれる。愛媛県高等学校野球連盟会長,松山野球協会長,愛媛県野球連盟会長等をつとめた。著書『ノックバットは語る』(昭和30年発刊)昭和39年1月17日70歳で死去。

 栗上 通正 (くりがみ みちまさ)
 生没年不詳 室町・戦国時代の武将で,河野氏の重臣。右京亮の官途を有する。主として,15世紀後半の河野氏の家督教通(通直)に仕えた。文明13年(1481)には,越智郡仙遊寺の寺領坪付に証判を加え,同じころ仙遊寺の寺領確保のために働いている。また同じころ,三島神社(大山祇神社)の社家大祝氏と神大夫の間に相論が発生した際,その調停にあたっていることが知られている。戦国末期の子孫に,伊予郡松前城陣代といわれる因幡守通宗,但馬入道道閑,風早郡宅並城を本拠にしていたという左衛門尉通妙らがいる。

 栗坂 一真 (くりさか いっしん)
 明治19年~昭和25年(1886~1950)下灘村長・県会議員。明治19年2月27日下浮穴郡串村満野(現伊予郡双海町)で栗坂善三郎の長男に生まれた。早くから果樹栽培を営み,昭和5年下灘円山園芸組合を創設して組合長として果樹振興に尽くした。昭和3年4月~11年7月と16年11月~18年9月下灘村長を務め村政を担当した。昭和10年9月~14年9月県会議員にも在職して,国鉄予讃線の海岸回り実現に長浜町長西村兵太郎・上灘町長井上熊太郎らと奔走,これに成功した。昭和25年10月29日64歳で没した。

 栗田 邦住 (くりた くにずみ)
 天保9年~大正10年(1838~1921)初代天神村長・県会議員。天保9年1月26日喜多郡平岡村(現五十崎町)で庄屋の家に生まれた。維新期惣代・戸長を拝命,明治22年町村制施行とともに初代天神村長に就任して31年まで村政を担った。30年9月~10月と33年9月~36年9月県会議員に在職,33年以来郡会議員も務め,副議長に選ばれた。大正10年12月12日83歳で没した。弟栗田熊雄(1855~1925)も大正8年9月~12年9月県会議員に在職,養蚕の振興に尽くした。

 栗田 樗堂 (くりた ちょどう)
 寛延2年~文化11年(1749~1814)大年寄・俳人。寛延2年松山松前町に生まれる。酒造業豊前屋後藤昌信の三男。通称は直蔵。諱は政範。後に専蔵。明和2年(1765)酒造業廉屋栗田家六代政賀早世。樗堂は栗田家に入り,未亡人とら(俳号羅蝶)の後夫となり,七代与三左衛門政範を襲名。 23歳で町方大年寄役見習,25歳から寛政3年(1791)42歳まで町方大年寄役,48歳から享和2年(1802)53歳まで再び勤めた。俳諧への道は入夫のころからであろう。5代栗田与三左衛門政恒(安永3年没,75歳)は,天山と号して俳諧を嗜み,二畳庵を創設しており,妻とらの父松田次郎左衛門信英(明和6年没, 55歳)は円羅井含茅(のち岸雅)と号し,樗堂が「風流の長者」と呼ぶほどの人であり,その感化を受けたであろう。天明5年(1785)には九腕室・蘭之・蘭芝,さらに息陰・樗堂と改めた。天明7年の大和俳諧紀行集『爪じるし』に,その師加藤暁台は序を付し,『暁台七部集』に収めたし,樗堂も度々上洛しては暁台一門と連句を闘わせた。寛政元年3月6日閨秀俳人の妻羅蝶は44歳で病没,享和3年その遺句100句を集め,「夢の柱」を編集したが,その序のみ『筆花集』にある。来遊俳人中に小林一茶と井上士朗がいる。二六庵竹阿門の小林一茶は,寛政7年(1795)春と,翌8年から9年春まで松山に滞在,『寛政七年紀行』『旅拾遺』には動向を,『樗堂俳諧集』『さらば笠』には両吟などを載せる。暁台門の井上士朗は,寛政9年,同12年に来松,連句を楽しむ。寛政12年庚申に因み,味酒郷に「庚申庵」を営み。「庚申庵記」を認めた。享和3年(1803)安芸御手洗島に隠棲,安芸の三原藩宇都宮氏から後妻を迎えたためで,以後盥江老漁と称し,二畳庵を営み,文化11年8月21日没, 65歳。墓は松山の得法寺と御手洗にある。著書,『樗堂発句集』享和2年自選跋,『樗堂俳句集』士朗序,文化3年自践,『石耕集』文化4年自序自筆,『萍窓集』士朗ら序,文化9年刊など,句集4種。『樗堂俳諧集』3冊には,天明7年から没年まで,諸風土百余人との連句類200巻を収め,孫娘の夫松田三千雄筆写。文集『筆花集』は文化3年三千雄序,写。「月夜さうし」や倭詩など10余編,諸家句集の序践40編を収める。その他著作は多い。『新十家発句集』文化10年刊は成美・道彦・士朗・蒼虬ら10人の冒頭に選ばれ,『万家人名録』翌年刊には第二編に肖像入りで「花盛ちるより外はなかりけり」の句,第五編の跋も需められるなど,当時全国屈指の俳人であった。句碑3基。

 栗田 与三 (くりた よぞう)
 天保元年~明治20年(1830~1887)事業家。天保元年松山に生まれる。家は松山の素封家で酒造業を営んでいた。明治3年,興産社を改称して興産会社を設立し,茶,紙,綿,織り物,染料を扱うとともに藍の取引所,米商会所,松山縞会社等を創設経営するなどつぎつぎ手がけ産業開発,とくに商業取引の発展に尽力する。明治10年松山初の勧業博覧会を開催したり,松山三津~大阪に汽船を就航させるなど地方経済発展に貢献する。また,社会公共事業にも力をつくし,産姿養成所をつくったり,貧困家庭児教育施設をつくるのに尽力した。明治20年12月1日,57歳で死去。墓は松山市得法寺にある。

 栗原 善次郎 (くりはら ぜんじろう)
 明治17年~昭和35年(1884~1960)酒造家・県会議員。明治17年10月17日,温泉郡三津浜町(現松山市)栗原善七の子に生まれた。 42年大阪高等工業学校醸造科子卒業して酒造業を継ぎ,銘酒を売り出した。大正8年9月~12年9月県会議員に在職して政友会に属した。また三津浜町商工会長や松山酒造組合長・県酒造組合連合会副会長なども務めた。昭和35年4月10日75歳で没した。

 栗本 看山 (くりもと かんざん)
 天保5年~明治19年(1834~1886)教育者・西条藩士。諱は義貫。通称碌,看山と号した。もともと町家に生まれたが,幼時より学を好み,紀州の水野某に学び,のち江戸の昌平黌に入り,さらに,今治の半井梧菴,松永二水らに師事して和漢の学を修め,とくに士班に列せられ,藩学揮善堂の教授となった。維新後は,西条育英館,別子校,開明校,自助校,大町校などで教鞭をとった。茶を愛し,酒を嗜み,詩歌をよくした。明治19年7月31日死去,52歳。

 栗本 露村 (くりもと ろそん)
 明治12年~昭和9年(1879~1934)ジャーナリスト。西条藩士栗本看山の子で明治12年8月12日に生まれる。伊予日日新聞の記者をやり,後伊予公論の主幹となる。著書には『新居郡案内』『宇摩郡案内』『I日1人』などがある。昭和9年12月8日死去,55歳。名は諒二という。

 来島 長親 (くるしま ながちか)
 天正10年~慶長17年(1582~1612)来島城主通総の子,来島に生まれる。野間・風早二郡1万4,000石領主,のち豊後国日田・玖珠・速見三郡1万4,OOO石領主。幼名宮松,通称右衛門,実名康親のち長親。慶長2年1597)2月,朝鮮で戦死した父の遺領を継ぎ,自ら願って朝鮮の役に出陣した。同5年7月の関ヶ原の戦では毛利との関係から初め西軍に属したが,後に東軍に移ってのち家康の許しを乞うた。しかしこの間流浪の身となったため,譜代の家臣の多くは離散した。翌6年9月ようやく豊後森に入城し,家臣を集め藩体制の建設に着手したが,途上,慶長17年3月25日わずか30歳で没した。墓は大分県森町安楽寺にあり法号は大滋院雲山玄竜。

 来島 通総 (くるしま みちふさ)
 永禄4年~慶長2年(1561~1597)旧姓村上,来島城主村上通康の子,母は河野通直の娘。安土桃山時代の来島水軍の武将,野間・風早郡の領主。幼名牛松丸,通称助兵衛,勘兵衛,通昌の名もある。従五位下,出雲守。父の死により永禄10年に来島城主となった。代々河野家に属したが元亀元年ころから毛利氏に通じ,天正4年には毛利水軍の先陣として木津川口で信長の水軍を破った。同8年ころからは主家に離反し,13年の秀吉の四国攻めでは兄通之と共に小早川隆景下に属して戦功があり,野間・風早二郡で1万4,000石を領した。その後秀吉の九州・小田原征伐にも参戦し,秀吉から常に居城の愛称で「来島」と呼ばれたため来島と改称したという。文禄の役では四国勢の5番隊として兵700名で出陣し釜山浦で戦った。続く慶長の役では6番隊として出陣し,唐津沖や蔚山では軍功をあげたが,全羅道鳴梁の海戦で敵将季舜臣の水軍と戦って破れ,慶長2年9月16日36歳で戦死した。墓は北条市下難波の大通寺にあり天叟常清節巌院と号する。

 黒川 形久 (くろかわ かたひさ)
 大正3年~昭和16年(1914~1941)社会運動家。大正3年に喜多郡長浜町に生まれる。大正末年に大洲中学校を卒業して上京し,日本大学芸術科に入学し,洋画を修業する。昭和の初めの激動の時代に,真実を貫いて生きようとする激しい意志をもつ。当時の友人として秋田雨雀,小林多喜二,村山知義らがいた。小林多喜二が昭和8年虐殺されてその葬儀に参列して捕えられたが,その後も熱心に社会運動を続げて,しばしば検挙される。結核になって帰郷し,「青年美術家集団」に加わり,病身であったが洲之内徹,畦地梅太郎,渡辺徹らと行をともにする。昭和16年27歳で死去。 黒川 通尭 (くろかわ みちたか)
 生没年不詳 戦国期の周敷郡の領主。通俊の子。民部少輔,備後守の官途を有する。小松町妙口の剣山城を本拠とする。同城は,標高245メートルの山中に位置する要害堅固な山城で,今も多数の郭や堀切の跡を確認することができる。天文2年(1533)には,小松町横峰寺に懸仏を奉納し,永禄2年(1559)には,吉田勅旨八幡宮(東予市)を大壇那として再興したことが知られている。またしばしば,高野山に参詣したことが知られ,永禄2年には,上蔵院を一族参詣の際の宿坊とすることを約している。天文年間に久万大除城(久万町)主大野利直が浮穴郡小手滝城(川内町)の戒能氏を攻めた際,父通俊は大野氏に味方して戦死した。その恨みをはらそうと通尭は大野氏と結んで,戒能氏の大熊城(川内町)を攻めたが,果たさなかったという。あとを山城守(美濃守とも)通博が嗣いた。通博は,河野家御侍大将18将の1人に数えられ,河野家臣団の中で重きをなした。

 黒川 通成 (くろかわ みちなり)
 嘉永元年~大正5年(1848~1916)教育者。もと今治藩士で通称は直三郎。若いころ藩学克明館に学んだ後,上京して安井息軒に師事する。3年後帰郷して克明館の舎長となる。廃藩後,県官になり,明治14年越智郡長となり,下浮穴,伊予の郡長を務める。明治13年地方教育の振興のため,私財を投じ,越智中学校を設立する。後年,越智中学校の廃止論が出たときには,自分の年俸全額の提供を決意公約して存置に同意させたという話がある。のち今治高等女学校が設立されると,校長となり多年女子教育に尽瘁した。威厳があるが,決して誇らず,雅量が広くて清貧に甘んじ,道義を重んじたので,徳望大いに上がったという。大正5年10月死去, 68歳。今治市寺町の大仙寺に墓がある。

 黒川 通軌 (くろかわ みちのり)
 天保14年~明治36年(1843~1903)明治初期の軍人で,東宮(後の大正天皇)武官長を務めた。天保14年1月14日,周布郡小松村(現小松町)で藩士黒川通太の長男に生まれた。幼名武夫,通称易之進,通軌はその諱である。嘉永3年7歳のとき近藤篤山の長男南海の塾に入った。維新後上京して軍隊に入り,明治6年陸軍大佐に昇進,陸軍裁判長兼軍馬局長に任命された。佐賀の乱・熊本神風連の乱などの鎮圧に従軍, 10年の西南の役には熊本鎮台第三旅団長として西郷軍と戦い戦功をあげた。翌年陸軍少将広島鎮台第五師団司令官,18年中将に進み,20年男爵となった。第3及び第4師団長歴任後,英敏誠忠の人柄が宮内省に着目され,明治26年東宮武官兼東宮大夫を拝命,皇太子(のちの大正天皇)の養育に当たった。 30年休職,病気静養を許されて郷里小松に帰省,明治36年3月8日60歳で没した。葬儀は小松川河原で執行され,東京から勅使,松山第22連隊からは歩兵1個中隊が派遣された。

 黒河 健一 (くろかわ けんいち)
 明治32年~昭和60年(1899~1985)周桑郡丹原町出身,郷土史家。郷土史研究に本格的に取り組んだのは愛媛県師範学校卒業後,教壇に立ってからである。庄内小(東予市)教諭の頃,遺跡を調査中に,当時県下で二番目の縄文式土器を発掘,徳田小(丹原町)に転任して,地元の西山興隆寺の解体修理が行われ,古代建築に興味をもつ。指導者として景浦稚桃に師事し,指導を受ける。昭和31年,周桑地方の歴史を『周桑史談』にまとめ自費出版する。学校では『郷土史国史読本』を作り,国史の副読本として使用し,好評を博する。また,故郷に残る民謡,わらべ唄も根気よく集め,『わが郷土,童謡及び民謡』の第一集を発刊し,子供会をつくり,遊びを教えた。その一生を「修養の道場」とし「生きている民俗探訪・愛媛」に60年の研究成果をまとめている。昭和60年12月29日,86歳で死去。

 黒河 順三郎 (くろかわ じゅんざぶろう)
 明治17年~昭和34年(1884~1959)県会議員・議長,壬生川町長。明治17年3月31日,周布郡三津屋村(現東予市)で生まれた。西条中学校を卒業して日露戦争に従軍,農業を営むかたわら周桑銀行に勤務した。大正2年多賀村収入役,8年周桑綿布会社を創立して社長になった。昭和2年県会議員に選ばれ,民政党に所属して21年12月まで4期連続して在職した。昭和9年12月~10年9月副議長,18年12月~19年11月には議長を務めた。昭和18年11月~21年11月壬生川町長に就任して町政を担当した。昭和34年1月26日74歳で没した。

 黒田 汲泉 (くろだ きゅうせん)
 天保8年~明治18年(1837~1885)工芸家。松山市の木屋町の酒造家に生まれる。諱は泰徂,通称,若狭屋吉郎兵衛という。波賀井昇斉に彫刻を習い,遊技として茶盆,茶媒,欄間等を作り,よい作品を残した。明治18年12月9日大阪で病没, 48歳。

 黒田 広治 (くろだ こうじ)
 元治2年~昭和26年(1865~1951)文化人・県会議員・実業家。元治2年1月4日周布郡北条村(現東予市)で生まれた。名は宗昌。梅渓と号し,俳句・漢詩・南宋画・生花に堪能であり,多趣味の文化人であった。明治36年9月~44年9月県会議員に在職して,政友会に属した。製糸業など実業面に従事し,大正13年周桑製糸会社社長になった。昭和26年8月3日86歳で没した。

 黒田 此太郎 (くろだ これたろう)
 明治3年~昭和3年(1870~1928)薬剤師・県会議員。明治3年7月30日松山で生まれ,紙屋町黒田青菱の養嗣子になった。 22年薬剤師試験に合格して薬業を家業とした。 32年松山市会議員,34年商業会議所議員となり,政友会に所属していたが,大正2年立憲同志会愛媛県支部の設立に奔走して以来憲政会に代わった。8年9月~12年9月県会議員になったが,強烈な党派心を燃やし,褒貶交々の評を受けた。青江と号し俳句・書にも親しんだ。昭和3年-6月2日57歳で没した。

 黒田  幸 (くろだ さち)
 明治23年~昭和46年(1890~1971)教育者。明治23年,松山市に生まれ,神戸頌栄保母伝習所を卒業して,前橋市の清心幼稚園に赴任する。清心幼稚園は明治28年設立され,日本のキリスト教幼稚園としては全国でもかなり古いものである。大正3年から,昭和45年まで幼児教育に専念し,実質的に清心幼稚園を発展させたのは3代目の園長となった黒田の功に負うところが大きい。昭和6年,名義上の園長グリスウォールド女史が帰国し,清心の存続が難しくなったが,自分の預金をはたき,実家と姉を説得して当時の金て,数千円の援助を受け,昭和9年園地と園舎を買い受け,在日アメリカンボード宣教師団の手を離れて,彼女の幼稚園となった。以後,一生を幼稚園経営に捧げ,同46年,81歳で人生を終わった。荻原朔太郎とのラブロマンスも語り伝えられている。戦後の混乱期にも一貫した保育精神は変わらず,愛と不屈の清き心で貫ぬいた。昭和42年,勲五等瑞宝章を受ける。

 黒田 青菱 (くろだ せいりょう)
 天保11年~明治29年(1840~1896)俳人。天保11年松山城下,札の辻の西・紙屋町に生まれる。薬種商(製薬業)を営む豪商で,屋号は亀屋。本名弥七郎,別号星陵・其照・函翠居・一華庵・一蓮庵・五井園ともいう。祖父黒田白年(1776~1839)は松山の大俳人粟田樗堂(1749~1814)の門下で,その養子黒田其東(1798~1871)其東の子黒田青菱,その養子黒田青江(1870・8・7~1928)と四代にわたる俳句の名門。松山市日の出町10の金刀比羅神社に明治19年(1886)4月中浣(中旬)の日付のある俳額があり,その最後に「追加」とし

 ほそうなる田中の道やほととぎす
           函翠居黒田青菱
とあり,又,宇都宮丹靖(1822~1909)とともに俳諧結社「睡辟社」を興すなど,その頃,この松山を中心として,地方俳諧の宗匠として活躍していたことがわかる。明治29年4月17日没。享年56歳。祝谷東町の常信寺には
 色鳥のいろこぼれけりむら紅葉 青菱
の句碑がある。大正14年(1925)3月,弟子・小倉青蓋が書き,建立したものである。なお,青菱の祖父白年が20歳代から俳諧をはじめたとすれば,この黒田家四代の俳諧歴は約130年間にわたることになる。

 黒田 直保 (くろだ なおやす)
 明治34年~昭和40年(1901~1965)長浜町長・県会議員。明治34年1月15日,喜多郡長浜町で黒田伊勢松の長男に生まれた。父は伊豫長浜銀行の創設に参与し肱川木材会社・伊予木材商会を起こした実業家であった。大洲中学校から東京暁星中学校に転じ,大正9年早稲田大学予科を修業した。軍隊除隊後,昭和5年長浜町会議員,7年8月助役を経て, 11年5月長浜町長に就任,21年12月まで町政を担当,町立長浜家政女学校(現長浜高校)の創立などに尽力した。昭和14年9月~21年12月県会議員であり,終戦後公職追放を受けた。昭和40年1月13日63歳で没した。

 黒田 政一 (くろだ まさいち)
 明治18年~昭和50年(1885~1975)三津浜町長・松山市長。明治18年9月13日,和気郡新浜村(現松山市)で生まれた。 42年県巡査に就職,大正13年壬生川警察署長,昭和2年宇和島警察署長, 4年松山警察署長,6年県社寺兵事課長を歴任して10年退職した。10年7月松山市収入役, 14年2月三津浜町助役を経て14年3月同町長に就任,松山市に合併と共に15年10月市助役になり,21年3月松山市長に就任したが, 22年2月辞任した。 26年4月公選で市長に返り咲き, 38年5月まで3期連続して市政を担当した。その間,周辺10か町村の合併実現,財政再建,丸善石油・帝人など臨海工場の誘致,下水道や公園整備など50万都市の基礎作りに貢献した。 40年勲四等瑞宝章,45年愛媛県功労賞を受け,49年には松山市名誉市民の称号を与えられた。昭和50年8月4日89歳で没した。

 桑原 忠博 (くわばら ただひろ)
 大正5年~昭和30年(1916~1955)県議会議員。大正5年11月18日,新居郡西条町明屋敷(現西条市)で生まれた。昭和9年~21年砲兵助教,准尉として各地を転戦した。復員して農業を営んでいたが,昭和26年4月県議会議員に立候補当選した。中正クラブの闘士として副知事廃止問題で動揺する久松県政をいわゆる「桑原メモ」をかかげて,不正政治献金疑惑などで糾弾した。昭和30年4月再選されたが,同年5月1日38歳で没した。

 桑山 鉄男 (くわやま てつお)
 明治14年~昭和11年(1881~1936)逓信次官・貴族院議員。明治14年11月,宇和島鋸町で士族桑山吉輝の子に生まれた。父は明治24年ロシア皇太子を傷つけた津田三蔵巡査の上司大津警察署長であり,責を負って帰郷,宇和島町助役を務めた。松山中学校・第三高等学校を経て39年東京帝国大学法科を卒業した。逓信省に入り,初代簡易保険局長を経て大正13年逓信次官に昇進,昭和4年退官して貴族院議員に勅選された。昭和11年2月20日54歳で没した。