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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 毛山 森太郎 (けやま もりたろう)
 明治29年~昭和61年(1896~1986)立間村長・県会議員・衆議院議員。明治29年3月23日,北宇和郡立間村柏木(現吉田町)で生まれた。宇和島中学校中退後,大正8年早稲田大学文科に在籍して若山牧水に師事,歌集『聖土』を出版したりした。郷土で柑橘栽培に励むかたわら,13年立憲農村青年党を組織して政治運動や農村改革を指向した。昭和6年立間村助役になり,7年10月立間村長に就任して11年9月まで在職,国鉄誘致と立間駅設置,喜佐方隠道の開削,匡救農業土木事業としての村道改修・小学校の建設などの事績をあげた。昭和10年9月県会議員に選ばれ,14年9月にも再選され,民政党に所属した。この間,北宇和郡宇和島市連合畜産組合長,南予乾繭倉庫組合長,県農会副会長などに就任した。 17年4月第21回衆議院議員選挙(翼賛選挙)に際し翼賛政治協議会から推薦されて第3区から立ち当選,北宇和郡翼賛壮年団顧問などになった。戦後は松山に住んで岡田製作所や四国電気工業の専務取締役や愛媛日産自動車常務取締役などを歴任した。昭和61年6月23日90歳で没した。

 月   菴 (げつたん)
 嘉暦元年~康応元年(1326~1389)現北条市西明寺(臨済宗)の中興開山。美濃の大江氏,京都で生まれる。諱は宗光。美濃大円寺の峰翁祖一(大暁禅師)に入門,15歳で剃髪,やがて京に上って等持院の古先印元,天竜寺の夢窓疎石に従い,おりから来朝して南禅寺に入った竺仙梵僊に侍し,師に従って鎌倉建長寺にあった。のち峰翁の示寂にあい,その法嗣大虫宗岑の開創した現北条市宗昌寺(現黄檗宗)に投じ,峰翁一犬虫の法脈を受け,同寺2世となった。その後紀伊・伊勢・山城などを巡錫,但馬に大明寺を開創,さらに,応安7年1374)ごろ最明寺(最明寺入道北条時頼の開創と伝える)に入って再興した。やがて大明寺(現兵庫県朝来郡生野町)に帰り,康応元年,この寺で示寂,64歳。 著作に『月毎和尚語録』 (明徳2年-1391)と『月奄和尚法語』(応永10年-1403)がある。当時としては珍しく共に開板されたが,特に後者は仮名法語で読みやすく,禅の普及に貢献した。法語は,「示宗如禅屋」をはじめとする26篇から成り,実在したとみられる人々に示した書簡(「示予州大守」というのもある)という形式をとるが,最初から著作を意識して書かれたことは明らかである。対象とした人は,禅門の僧尼が主ではあるが,上は宰相中将や予州大守,下は在家の居士や一般の在家人(この中には女性も含まれる)などで,全く平等の立場で教化しようとしたことがわかる。そして,説くところの眼目は「即心是仏」で,「後世ノ成仏ヲ希望」したり「有相ノ仏」を求めることを戒しめ,「我心スナハチ仏ナリト信スル」ことにより,この身ながら仏になる(仏である)と教えた。また,世阿弥の能楽論を代表する『花鏡』に,この法語から月奄の偶示引用され,その能楽論に影響を与えた。その偈というのは,「生死去来 棚頭傀儡 一線断時 落々磊々」というもので,『花鏡』の「万能一心を縮ぐ」の項に引用している。その意味は,棚の上のあやつり人形は,糸が切れると一切がだめになってしまう。物まねを旨とする芸能も,あやつりなので,とうにかこれをつないで芸を生かすには,演者の心が大切である,というのが,世阿弥が月奄の法語から得たところの意味である。

 玄   室 (げんしつ)
 文安元年~永正11年(1444~1514)現北条市大通寺(曹洞宗)の中興開山。諱は守腋,『日本洞上聯燈録』によると,「本州源氏子」,すなわち伊予の源氏の出とあるから,あるいは河野氏の出身であるかもわからない。闢雲寺の法会に参じて英巌の鞭策を受け,やがて師に従って備中華光寺に入り,文明6年(1474)法衣を受けた。のち総持寺(現能登総持祖院)に住したあと帰郷,河野通宣に招かねて大通寺(もと安楽寺)を再興した。大通寺は,貞和年間(1345~1350)河野通朝を開基,大暁禅師を開祖とする臨済寺院であったが,玄室により再興され,曹洞寺院となった。その年代を明応8年(1499)とする説もあるが,必ずしも明らかでない。延徳3年(1491)には華光寺に,永正4年(1507)には闢雲寺にも住したらしく,永正11年華光寺に没した。70歳。