データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 津島 増右衛門 (つしま ますえもん)
 明治6年~明治44年(1873~1911)水産功労者。西条を中心とする愛媛のり養殖の基礎を築いた人。明治6年12月4日新居郡禎瑞村(現西条市禎瑞)で,当時禎瑞漁業組合の初代組合長をしていて建干網漁業やうなぎ問屋を営んでいた父熊平と母タツの長男として生まれる。増右衛門は生まれながらにして進取の気性に富み,事業への研究心は人一倍旺盛であった。長じて家業としての漁業を営んでいたが,ある日妹背川(現乙女川)の樋門外側に少量ではあったがのりが付着していることに気づき,採取したところ品質も非常に良好であったところから,人工的なのり養殖が可能かどうか調査研究することを思い立った。早速同輩の久米唯次とともに朝鮮,琉球(現韓国,沖縄)方面へ視察旅行に出かけのり養殖の勉強をした。これは当時疲弊しきっていた禎瑞地区民に何とかして経済的向上対策はないものかと思案した結果の行動であった。明治43年禎瑞漁業組合の理事となった同氏は中山川河口尻の漁場において水産試験場の加藤分場長などの指導を受けるとともに先進県であった広島県からものり養殖の技術者を招いて女竹ひび方式による養殖研究に着手したのは翌明治44年8月のことであつた。現在禎瑞地区は県下一ののり養殖生産地として名高いが,その基盤づくりをした先覚者といえよう。また禎瑞地区は安永7年(1778)から西条藩が実施した伊予における最大の干拓新田であったが,明治20年~30年代は大暴風雨や干害に見舞われ不作つづきであったにもかかわらず小作地宛頭が苛酷な年貢とりたてを行ったので,久保勘次郎等とこれに抗議し,年貢減免を要求する小作争議を起こした。この事件はけが人が出るなどしてかなり紛糾したが,ついに地主側か折れて円満な条件で解決をみたが,このため増右衛門等は事件落着後に小作地をとりあげられたといわれる。このように漁業のみならず農業の面でも地区のリーダー的役割を果たしていたが,同地区ののり区画漁業権取得のため一身をなげうって免許中請に東奔西走したが明治44年12月10日38歳の若さで没した。禎瑞漁業組合では生前の功に報いるため現西条市氷見丙にある通称,岡林に墓碑を建立している。

 津田 茂尚 (つだ しげなお)
 天保3年~大正8年(1832~1919)能楽師。愛媛の観世流発展の基盤を作った人である。旧藩時代松山の能は藩能(喜多流・下掛宝生流)が主であったが,社会変動の中で町人勢力が拾頭し町方にも能楽趣味が普及し,幕末の有力商家の人の間には士族に対抗して観世流が謡われた。その一人黒田弥七郎が京観世の名家片山九郎右衛門の謡を聞き,その若き弟子津田多造(後茂尚と称す)の出稽古を受ける様になったのは嘉永4年1851)頃であった。天保3年生まれの若年ながら津田は大いに活躍し,財界の有力者を糾合して社中「唱平社」を作り,阿沼美神社に能舞台を造り能装束も新調し,江戸・京都より応援を求めて大曲を演じ,士族能楽人の鼻を明かしたと云う。暫くして出稽古は明治9年まで中絶したが再度来松し,妻を迎えて腰を落着け,家主松田某の末子四郎を養子とし,次第に地盤を築き上げた。士族連からは「町人の能なしが能をして家も無うする蔵も無うする」などと誹られながらも活動を続け,明治26年には還暦祝能を,明治29年には神能組に対抗して安芸の宮島から装束を借り出して能を行い,明治35年に養子四郎を家元内弟子に入れ,同39年には名家山階家の芸事養子にするなど意気盛んであった。松山市内玉川町円蔵寺に敷舞台を設けて本拠とし,明治36年松山能楽会に対峙して社中を「松諷会」として組織固めをした。その後次第に神能組との対立も融和し,明治41年の各流連合能楽大会には70余才で「盛久」を演じ,子四郎と共に参加している。明治43年彼の傘寿祝賀能が松山市公会堂で催されたが,この時師筋片山九郎三郎が後24代家元観世左近となる子清久を連れ,京阪の有力囃子方を率いて来援し栄華な舞台を繰り広げた。この様に意気軒昂たる活躍をしておりながら,如何なる理由があったか翌明治44年広島へ去っている。その後出稽古には足を運んでいたようであるが,没年までの様子は明らかでない。大正8年87歳で死去。

 津田 泰政 (つだ やすまさ)
 明治5年~昭和19年(1872~1944)松山藩士族の北海道屯田兵移住の中心人物。東旭川村村長。明治5年10月16日,松山で士族津田東政の子に生まれた。津田家は700石取り,常府奉行を勤める家柄であった。松山高等小学校を出て明治25年20歳のとき旧松山藩家老の出である水野忠恭ら士族16名と屯田兵に応募した。北海道旭川兵村に入植して,やがて屯田兵村監視を奉じた。日露戦争に従軍して軍功により陸軍歩兵少尉になり,除隊後東旭川村長に選ばれて4期務め,富良野町長にも就任した。町村長を退いてからは旭川七条郵便局長として余生を送った。昭和13年4月15日NHKラジオの全国放送で「屯田事情と東旭川屯田兵村に於ける服務と開拓に就いて」を語り,これを補足して『屯田回顧録』を「北之開拓」という雑誌に連載した。この回顧録は屯田兵体験の貴重な史料として研究書によく引用されている。昭和19年11月21日,72歳で没した。

 都築  温 (つづき あつし)
 弘化2年~明治18年(1845~1885)宇和島藩維新三功臣の一人,初代北宇和郡長。弘化2年6月27日,宇和島藩士末広禎介の次男に生まれた。弟が末広鉄腸である。通称荘蔵,号を鶴洲と称した。 15歳のとき藩校明倫館教授都築織衛(燧洋)の養子となり,都築家を家督相続した。藩校で学んだ後,伊達宗城の命を受けて京都に出て,天下の情勢を探索し勤王の志士と往来した。慶応3年10月13日徳川慶喜が京都二条城に40余藩の藩臣を召集し大政奉還の可否を求めたとき宇和島藩を代表して出席,土佐の後藤象二郎らと共に大政奉還の急務を進言したという。明治元年宗城が外国官知事になったのに付随して外国官判事試補を拝命した。2年帰藩して軍監・大属になった。明治9年岩村権令により大区会が開設されると,北宇和地区の大区会議長として民会の発展に活躍,10年には特設県会に得能亜斯登・物部醒満らと共に宇和島から選ばれ,県会で官林処分・物産振興に関する建白を提議するなどした。また明治9年に開校した南予変則中学校の経営に当たった。 11年12月岩村県令の人材登用策により初代北宇和郡長に任命され郡政を担当したが,13年岩村の転任によりその地位を辞した。その後,八幡浜に退隠して西予義塾を開き若者を教導するかたわら,酒を好み清貧に甘んじた。明治18年9月27日40歳の若さで没した。墓は宇和島市泰平寺にあり,鉄腸撰の碑文が添えてある。また南予護国神社の境内には都築温と伊能友鴎・得能亜斯登の「維新三功臣之碑」が建立されている。

 都築 九平 (つづき くへい)
 慶応3年~大正10年(1867~1921)県会議員。慶応3年6月5日,宇和郡川之石村(現西宇和郡保内町)で兵頭庫三郎の次男に生まれ,明治20年上浮穴郡町村(現小田町)都築金五郎の養子になった。家業の酒造業に励み,41年~43年小田町村収入役にあげられた。 44年9月~大正4年9月県会議員になり,県道内子ー大洲一小田線開通に努力した。大正10年3月17日,53歳で没した。

 都築 馨六 (つづき けいろく)
 文久元年~大正12年(1861~1923)外交官,貴族院議員。万国平和会議の全権大使を務めた。文久元年2月,上州高崎藩領の名主藤井安治の次男に生まれた。その年,江戸詰西条藩士都築利忠の養子になった。長じて洋学を志し,横浜修文館・東京カルロサル英学塾に学び,のち東京開成学校(大学南校)に入った。明治14年東京大学文学部政治理財学科を卒業,文部省留学生としてドイツのベルリン大学に学んだ。 19年帰国して外務省に入り外務大臣井上図の女婿となり,22年内務大臣山県有朋の随行員として欧米を訪問,その間1人で通訳を務めて〝語学の天才〟と言われた。23年山県首相の秘書官,ついで内務省土木局長,文部・外務の各次官を歴任した。33年伊藤博文の勧誘で立憲政友会の創立に加わり,外交委員長になった。 40年第2回万国平和会議の特命全権大使としてオランダのハーグに赴き,軍縮と戦争法規の制定を強調し,平和外交を推進した。この年法学博士,41年男爵を授けられ勲一等旭日大綬章を賜った。貴族院議員・枢密院書記官長を務め,41年には桂太郎内閣の外務大臣候補にも推された。その後,枢密顧問官に任ぜられたが,若年からの結核病が悪化して,大正12年7月5日,62歳で没した。東京子駄谷仙寿院に葬られた。

 都築 温太郎 (つづき はるたろう)
 嘉永6年~大正7年(1853~1918)県会議員,西宇和郡長・宮内村長。嘉永6年10月5日,宇和郡宮内村(現西宇和郡保内町)で庄屋都築信行の長男に生まれた。幼少のころ緒方勇禅・曽根愛山に漢学を学び,のちに大洲の矢野玄道に師事した。明治7年には都築家の所有地となっている旧庄屋無役地の返還を村民に訴えられ,いわゆる「無役地事件」の発端となった。 12年2月県会開設とともにその議員に選ばれ,28年3月まで,20~21年西宇和郡長の在任期間などを除いてほぼ県会にあって,改進党に所属した。 23年1月宮内村初代村長に就任したが,24年3月辞任して在職は1年余に過ぎなかった。その後,朝鮮馬山で鉱山を経営したり,大阪で石炭商を営んだりした。大正7年4月16日,64歳で没した。

 都築 三喜太郎 (つづき みきたろう)
 文久3年~昭和10年(1863~1935)初代下灘村長・県会議員。文久3年2月5日,浮穴郡串村奥南(現伊予郡双海町)で旧家都築弥六の長男に生まれた。父は明治15年3月~17年県会議員に在職した。明治22年町村制実施により初代下灘村長に就任,38年3月まで5期15年間村政を担当,教育・産業の振興や貯蓄の奨励,民心の安定に努力した。明治36年9月~40年9月県会議員に在職,愛媛進歩党に所属したが,犬寄峠開削問題で政友会に同調したため,進歩派の憤激をかい殴打される事件が起こった。昭和10年2月12日,52歳で没した。

 月原 紋左衛門 (つきはら もんざえもん)
 安永元年~天保6年(1772~1835)越智郡桜井の人。桜井漆器製造創始者諸説の内の1人。桜井では紀州黒江の漆器や,肥前有田の陶磁器を仲介する椀舟行商が盛んであり,六代目に当る紋左衛門の家も,代々喜多屋を称する廻船問屋であった。桜井綱敷天満宮の文政IO年2月建立の大鳥居には,7軒の廻船世話人の中に,喜多屋紋左衛門の名がある。九州で漆器の売れ行きがよいため,紋左衛門は桜井での製造を思いたち,技術者を招いて重箱や箱膳など,簡単な箱物を作って販売した。更に天保2,3年ころには角の接合部分を堅牢にする串指法を考案して(月原久四郎ともいう)好評となり,桜井漆器発展の基となった。桜井にある末孫宅には,紋左衛門が創業当時の仕事場の平面図を保存している。墓所は今治市浜桜井にあり,法号滋性軒泰寿道栄居士。

 佃  一予 (つくだ かずまさ)
 元治元年~大正14年(1864~1925)行政官僚・日本興業銀行初代副総裁。元治元年7月12日,松山で藩士山路一審の次男に生まれ,佃家を継いだ。兄は愛媛県師範学校長山路一遊,弟は海軍中将山路一善である。明治14年松山中学校を修了して上京,23年東京帝国大学法科大学を卒業した。その間,常盤会寄宿舎の舎監を務め,大の文学嫌いで舎生の正岡子規らの文学活動を攻撃した。内務省参事官ついで大蔵参事官,松方首相の秘書官を経て,大阪兼神戸税関長を勤めた。ついで児玉源太郎陸相の要請で陸軍省参事官になり経理事務改革を推進した。更に陸相の推薦で清国直隷総督・袁世凱の財政顧問を5年間務め,この間日露戦争中の日支協同工作に尽力した。帰国後,39年日本興業銀行の副総裁,大正2年満鉄理事,のち報徳銀行頭取に就任した。大正14年3月14日,60歳で没した。

 佃  十成 (つくだ かずなり)
 天文22年~寛永11年(1553~1634)松山藩加藤嘉明の筆頭家老。三河国西加茂郡猿投郷の出身で岩松次郎十成といった。はじめ徳川家康に仕え武名を顕したが朋輩と戦功を争い,これを討って摂津国西成郡佃郷に蟄居し佃次郎兵衛尉と改め天正14年加藤嘉明に仕えた。慶長2年(1597)朝鮮再征のとき唐島の戦いで十成は諸舟に先立ち敵の番船に乗移る時,敵兵の槍が口中に突き入ったにもひるまず乗り移ったのを敵兵が筋鉄の入った棒で甲の真っ向を強く打ち,十成は海中から従者の熊谷覚兵衛の差出した長刀に取りつき番船に移り船中の兵を悉く討取ったという。関ヶ原の戦いでは留守居を勤め来襲の毛利勢を撃退して松前城を守った。その功により浮穴郡久万山6,000石の知行所を与えられた。慶長8年松山城の北に一廊を構え,石を畳み塀を堅くし5か所の高櫓を設けここに居住した。佃櫓と呼び主として道後湯築城跡の石を移したもので,これを後世高石垣とよび清水町に中屋敷,山越に下屋敷を置いた。中下屋敷の建築は広大でしかも壮麗であったという。
 久万山の地方知行を与えられた十成は久万山庄屋から更迭を願い出られ,嘉明から知行所を取り上げられ,嫡子三郎兵衛に譲った。寛永4年嘉明の会津転封により,嘉明から1万石の隠居料を与えられる。寛永11年,病中で,子弟を集め若い時の合戦の様子を語り,身体の中に入っている鉛丸を剃刀にてえぐり出し,かたみにと端座して没したという。寛永11年3月2日,81歳であった。

 辻田  力 (つじた ちから)
 明治39年~昭和55年(1906~1980)愛媛大学学長。明治39年1月22日道後湯之町に生まれる。松山中学校・松山高等学校を経て,昭和4年東京帝国大学法学部政治学科・卒業。同4~8年文部省普通・公民教育に関する事務嘱託,同8年文部属に任官,同10年地方視学官(鳥取県学務部学務課長)となり,同12年文部事務官に任官,大臣官房会計課勤務後,同14年北支那方面軍司令部付,興亜院事務官,同15年興亜院調査官を歴任,同17年文部書記官となり,実業学務局商工教育課長・専門教育局専門教育課長・国民教育局総務課長・学校教育局師範教育課長・社会教育局社会教育課長・大臣官房文書課長兼総務室長・大臣官房審議室参事を経て,同22年1級官に叙せられ,調査局長・調査普及局長・初等中等教育局長を歴任した。同27年2月文部教官となり,出身母校の第二代愛媛大学学長に就任し,同33年2月まで2期6年間在職した。その間同28年7月には,愛媛大学地域社会総合研究所を開設し,地域社会の科学的研究に着手した。同29年4月には,愛媛県立松山農科大学の国立移管を推進して農学部を設置し,総合大学としての愛媛大学の充実発展を図った功績は大きい。愛媛大学名誉教授となり,退職後は国立競技場常任監事・私立学校教職員共済組合常任監事・日本学校安全会常任監事等文部省関係特殊法人の役員を歴任した後,財団法人学徒援護会常務理事を務めた。その後同45年松本歯科大学設立準備委員会委員長を経て,同47年学校法人松本歯科大学理事長の職につき,翌年同大学の相談役となった。同52年勲二等瑞宝章をうけた。同55年8月11日74歳で逝去。正四位に叙せられ,東京都八王子市梅洞寺霊園に葬られる。

 土谷 フデ (つちや ふで)
 明治8年~昭和19年(1875~1944)女姓教育者。県下最初の女性校長。建築設計士の父久治郎の長女として明治8年に宇和島市富沢町に生まれる。同30年にお茶の水の女子高等師範学校を22歳で卒業。福岡県尋常師範学校を振り出しに教壇に立ち,同34年奈良県高等女学校から郷里の宇和島高等女学校に転勤,それ以後,宇和島を出なかった。大正3年,宇和島実科女学校の校長に就任,3代目でしかも女性の校長として,私立時代から県立家政高女となるまで17年間務めた。教育者としてのフデはその時代の女学校教育いわゆる良妻賢母型の教育に身をもって範を示し,家庭生活も,なかなか厳しかった。自分の主張を押し通すシソの強さは,むこ養子に入った夫,頼三郎の温厚な人柄とは必ずしもうまくいかなかったようである。校長としては,設立主体がたびたびかわり,校舎の移転,新築もあり,多忙な毎日の中で,これらの波をのりきった経営手腕は高く評価されている。強い性格だけでなく政治的にもすぐれたものをもっていたようである。校長としての激務,一家の主婦,好人物の銀行員の夫,三児を抱えての生活は全く暇のないきびしいものであった。
 昭和6年教育界を去り,夫とも離婚して,宇和島には家族もいないので,呉にいる長男のもとに身を寄せ,ふたたびふるさとを見ることはなく昭和19年鹿児島市で死去69歳。

 土屋 正蒙 (つちや せいごう)
 天保12年~明治34年(1841~1901)県官・温泉郡長。天保12年10月,松山城下南堀端町で藩士の子に生まれた。通称弥七郎。明治2年松山藩権少参事.3年小隊長,4年大属東京常詰を務めた。6年愛媛県官吏に任ぜられ,少属・聴訟課専務,9年警部,15年副典獄など警察関係に専従した。19年8月風早・和気・温泉・久米郡長になり,30年4月これらの郡が温泉郡に統合された後も郡長を継続,32年4月退任するまで13年余の長きにわたって同一郡役所に在勤して郡治を担当した。その間,松山市長の候補にも再三推挙された。明治34年3月8日,59歳で没した。

 続木 君樵 (つづき くんしょう)
 天保6年~明治16年(1835~1883)画人。宇摩郡土居町野田の旧庄屋の家系に天保6年4月11日生まれる。諱は雅直,字は寿民,通称を宇多三といい,六宣道とも号す。嘉永2年(1849)15歳で九州に遊学して,豊後南画の本拠地で修業を積む。 30歳を過ぎる5年間を長崎に住み,当地の南画の大家木下逸雲や僧鉄翁について絵を学ぶ。外来文化,特に黄薬僧のもたらす中国絵画との出合いは君樵の求道の姿勢を一層奮起させた。明治2年には一旦郷里に帰るが,やがて山陰地方へ画遊遍歴の旅に出て,明治7年40歳で中国へ渡る。天野方壷と同じく胡公寿門下で修業。帰朝後は郷里に居て作画のかたわら後進の指導に当たる。しかしその後も土佐・出雲地方を歴遊。旅先で病に倒れ48歳の若さで没す。場所は出雲とも尾道とも言われている。
 君樵は方壷とともに伊予画壇の双璧とうたわれたが,彼も明治にかかる激動期を,ほとんど全国各地の遍歴に明け募れている。しかし郷里に落着く僅かの期間,彼の画塾へは近隣の,村上鏑邨,三好鉄香,三好藍石といった,後の愛媛の南画を風靡した画人達が集まり,求道を分ちあっている。君樵の遺墨は郷里にも少ない。「山水図」(個人蔵)などにみられる清楚で一筆一筆を誠実にかく画風は,激動の世に世俗の欲を一切捨てた画人のひたむきな姿勢をうかがわせる。明治16年7月16日,48歳で没した。

 椿 蓁一郎 (つばき しんいちろう)
 嘉永3年~昭和10年(1850~1935)県官。明治30年代の県内務部長として府県制・郡制の施行を担当した。嘉永3年7月桑名藩士塚田長平の次男に生まれ,長じて同藩士椿重三郎の養子となった。戊辰戦争時代には大鳥圭介らと新政府軍に対抗,戦後桑名に帰るが,明治6年に東京師範学校に入り,12年新設の三重県師範学校長になった。その後,初代文部大臣森有礼の知遇を得て文部省視学官となり,28年地方行政官として愛知県書記官,ついで29年愛媛県書記官・内務部長に就任した。本県に在ること3年余,室・牧・篠崎と1年も満たずして知事が頻繁に交代する中で,知事の補佐役として,「府県制」「郡制」の施行に当たり,宇摩・周桑郡役所の位置紛争などを解決した。和歌山県書記官を経て33年10月同県知事に抜擢され,36年秋田県知事を最後に退官した。昭和10年9月8日,85歳で没した。

 坪井 睡巌 (つぼい すいがん)
 寛政6年~慶応4年ころ(1794~1868ころ)吉田藩の儒者。名は㐮,経史に通じ,その学殖の深いことでは,安井息軒,塩谷宕陰と伯仲するとまでいわれ,江戸の常府で子弟を教育するが,一時は昌平黌の教官にとの話がでたほどの人物である。晩年は吉田に住み,詩文,風月を友にし,また子弟の教育に専念する。慶応4年ごろ74歳で没す。

 露口悦次郎 (つゆぐち えつじろう)
 慶応3年~昭和28年(1867~1953)中等学校長。慶応3年8月23日伊予市上野の阿部鷹吉の次男に生まれ,叔父の露口家を継いだ。明治22年愛媛県尋常師範学校を卒業して,東京高等師範学校に学んだ。愛媛県師範学校教諭,今治高等女学校長を経て,大正2年松山高等女学校長に就任,同4年今治中学校長に転じた。大正7年教育界を辞して伊予鉄道に入り監査役から取締役を務めた。伊予鉄道会社重役のまま昭和10年私立北予中学校長を兼ね,同13年同校の県立移管とともに退職した。昭和28年6月14日,85歳で没した。

 鶴井 浅次郎 (つるい あさじろう)
 明治15年~昭和41年(1882~1966)地方自治功労者。植林による村の基本財産確保と水源涵養を達成。明治15年9月5日上浮穴郡柳井川村(現柳谷村)に生まれ,17歳のとき,鶴井源五郎の養子となる。
 明治42年5月柳谷村の村長に就任,伊予水力電気株式会社の黒川水力発電事業に伴う協定により,毎年会社から支払われる寄付金で,初めの5か年間は道路改修費に,後10年間は植林を行うことを契約する。約300haの部落有林を村有林に統合,村の基本財産の造成のために,植林の必要性を強調し,また長期間の造林事業による住民の働き場,現金収入が得られることになった。大正3年村有林野条例を制定し,林地保護のため組合を設立し,村有林保護の報酬として伐採期収入の100分の1を交付することを規定した。村長在職6年間に毎年植林を推進し現村有林の基礎を確立した。次期村長鶴井菊太郎にバトンタッチして退任した。昭和39年3月柳谷中学校(統合中学校)の建築費もこの村有林伐採により捻出された。昭和41年10月10日,84歳で没した。

 鶴田 義行 (つるた よしゆき)
 明治36年~昭和61年(1903~1986)体育功労者。明治36年10月1日,鹿児島市伊敷町に生まれる。大正13年には明治神宮競技大会水泳200m平泳に優勝し,翌14年には日本選手権で優勝,昭和3年の第9回アムステルダムオリンピック大会水泳200m平泳に優勝,昭和7年明治大学を卒業した年,第10回オリンピックロスアンゼルス大会水泳200m平泳にも優勝するなど連続優勝という史上稀有の偉業をなし遂げた。戦後,松山に来て,愛媛新聞社に入社するとともに愛媛県体育協会の理事や水泳連盟の理事長に就任し,卓抜する技量で,本県水泳界の向上発展に寄与し,後輩の指導に活躍する。昭和34年には愛媛県教育文化賞,同37年,紫綬褒章,同49年には勲四等,旭日小綬章,同52年には愛媛県功労賞を受ける。昭和61年7月24日,82歳で死去。

 鶴村 松一 (つるむら まついち)
 昭和7年~昭和57年(1932~1982)郷土史家。昭和7年11月25日,現山口県大島郡東和町に生まれる。同25年松山へ来て商業をやり,かたわら郷土史に興味を持ち,愛媛の俳人文人を中心に調査研究をする。同50年『伊予路の正岡子規文学遺跡散歩』を出版し,昭和57年11月12日,49歳で死去するまでの8年間,精力的に執筆活動を続ける。代表的な著書には『野村朱燐洞』『森田雷死久』『四国遍路280回中務茂兵衛』『木食仏海上人』『愛媛の自由律俳句史』など数多い。また松山市内に子規,朱燐洞の句碑を建立顕彰した。

 鶴本 房五郎 (つるもと ふさごろう)
 安政6年~昭和13年(1859~1938)余土村長・地方改良功労者。安政6年5月15日,伊予郡余土村(現松山市)で生まれた。明治23年~大正3年余土村会議員,35年~大正5年村農会長,41年~大正5年村産業組合長,大正2~11年村耕地整理組合長として村長森恒太郎(盲天外)を補佐して「余上村是」の実行を担い,同村を全国的に有名な模範村に発展させた。その間,県農会副会長に推され,大正2年帝国農会から農会功労者として表彰された。大正11年2月余土村長に就任,村治では自作農奨励会を組織して自作農創設維持に尽力,地主小作者間の調停に努め,村是の方針を踏襲して一層の発展を図った。村長就任と共に県町村会長に選ばれ,大正11年11月行啓の摂政宮殿下の御下問に奉答した。翌12年地方改良功労者としての県知事表彰を受けた。昭和13年5月17日79歳で没した。余土公民館前(現松山市余土小学校)にその頌徳碑が建立された。