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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 手島 石泉 (てしま せきせん)
 嘉永5年~昭和22年(1852~1947)画家。嘉永5年11月12日越智郡瀬戸(現上浦町)の生まれ。名は正誼。明治4年(1871)の廃藩置県後官界に入り,讃岐丸亀警察署長,宇摩郡長などを歴任。郡長在任中,川之江の南画家三好藍石に師事,藍石に上阪をすすめ師を大成させるきっかけを作り,同39年来松の田能村竹村とも交友。晩年は松山弘願寺で後進を指導。伊予美術展,愛媛美術工芸展委員として活躍する。淡黄色の着彩山水に優れた本県最後の南画家。昭和22年9月1日,94歳で没した。

 手島 北斗 (てじま ほくと)
 明治19年~大正13年(1886~1924)作家。松山藩士手島正誼の長男として明治19年3月13日。松山に生まれる。名は俊郎。松山中学校から中央大学へ進み,卒業後,南満州鉄道株式会社に入社,生来,文章に秀いでる彼は勤めのかたから満州の事情,風物を内地に通信し,絶えず松山市内の日刊新聞に掲載され好評であった。著書には『大陸のロ―マンス』がある。大正13年10月12日死去,38歳。

 豊島 章太郎 (てしま しょうたろう)
 明治32年~昭和56年(1899~1981)終戦直後の県知事。明治32年1月16日,現広島県呉市浜田町で生まれた。大正14年東京帝国大学法学部政治学科を卒業して,宮城県属に任官した。 11月文官高等試験に合格して内務属警保局勤務となり,以後,栃木・神奈川・兵庫・大阪県警察部,内務省警保局に勤めて,昭和14年1月愛媛県警察部長に赴任,1年6か月在任して岡山県警察部長に転じ,ついで警視庁保安部長・経済警察部長,神奈川県経済部長,大阪府部長を歴任した。20年10月愛媛県知事に就任。「政治の根本は食糧にあり」と着任第一声をあげ,県政懇談会を開催して食糧確保に各方面の協力を求めた。進駐軍との交渉,男女平等選挙や公職追放の開始など騒然とした日々が続くなか,在任1年で21年10月3日,岡山県知事に転出した。昭和56年10月30日,82歳で没した。

 鉄   牛 (てつぎゅう)
 生年不詳~観応2年(~1351)現東予市上市観念寺(臨済宗東福寺派)の中興開山。諱は景印(継印),河内の菅氏で,菅公の末裔といわれるから,桑村郡か越智郡の菅氏とみられる。弘安3年(1280)東福寺開山円爾弁円示寂のときその会下にあったともいわれるが明らかでなく,その法嗣無為昭元を師とする。元亨3年(1323)渡元,10年滞在して正慶元年(1332)帰国,間もなく桑村郡観念寺に迎えられて同寺を再興,臨済宗の名刹としての基礎をつくった。ちなみに,同寺は,越智盛氏による文永年間(1264~1275)の開創で,数代の間は時宗の念仏道場であった。また,同寺の伝承に,鉄牛以前に南溟殊鵬が入寺していたという説があり,現に本堂裏の開山堂に,鉄牛像とともに南溟像が祀られている。いずれにしても,南溟の住持は短期間であり,鉄牛の入寺は,盛氏から三代目の盛康か四代目の盛清の代,建武2年(1335)以前のことである。在寺15年余,貞和6年(1350),造営の完成を見て翌年没した。この間の事蹟を示すものとして,「観念寺相続住持職事」。「鉄牛継印置文」。「師檀契約状」などの文書がある。

 鉄井 豊太郎 (てつい とよたろう)
 文久2年~大正3年(1862~1914)能楽師。松山能楽ワキ方として忘れてはならない人である。初め2年程は津田茂尚に観世流を習ったが飽き足らず,明治13年22歳頃,当時窮迫して元結屋を営んでいた旧藩抱えワキ師下掛宝生流吉田寛古・寛親父子の門に入った。家業の鍛冶業を営みながら地道な努力を続け,明治27年頃には弟子を教える域に達し,社中を宝謡会と名づけて組織しワキ師としての活動を始めた。以後東雲神社神能や県下各地の催能には必ずといってよい程その名が見られ,吉田師亡き後松山ワキ方の第一人者となった。度々米松した下掛宝生流宗家新朔・金五郎・新等の厳鞭に耐えて共演し,県下広範囲に指導の輪を広げ,県外にも活躍し喜多六平太・金子亀五郎等喜多流重鎮や川崎利吉・幸五郎(後祥光)等の名人達とも共演して広島・山口等中国地方にも足跡を残している。旅に出る時は藤野漸にもらった山高帽を冠り紋服姿で出かけたという。今一人のワキ師柳田音五郎と並び立ったが,柳田が終節をまっとうしなかった様であるのに比し,鉄井は大正3年,52歳で没するまで終生ワキ師の道を歩み続け,明治末期,大正期の一門の弟子達はワキの大勢を占め,没後弟子達は師の徳を慕い六角堂常楽寺にその顕彰碑を建てた。風貌いかめしく真剣味あふれる舞台姿をなつかしく語り残している人も多い。子息昂もその跡を継いでいる。

 徹   伝 (てつでん)
 生年不詳~延宝5年(~1677)八幡浜地方で活躍した臨済宗の僧侶。現八幡浜市の川舞三本木に生まれる。諱を玄興,字を徹伝と称す。鶴眠山万松寺(現八幡浜市)の玉法祖温禅師について得度。のち備前国の国清寺達源和尚に師事して修業を積んだ。慶安2年八幡浜浦の庄屋浅井市重郎が天台宗の西海寺を臨済宗の江西山大法寺(現八幡浜市)として再建する時,開山として迎えられた。その後各地の衰退した寺院の再興に尽力し,大法寺一派13か寺の中興開山と称された。寛文9年現保内町の海蔵寺に隠退し,寺名を龍潭寺と改めて住職となる。延宝5年10月10日没。墓は龍潭寺と大法寺の両寺にある。

 寺井 温一郎 (てらい みついちろう)
 安政3年~大正4年(1856~1915)正岡村長・地方改良功労者。安政3年8月9日,風早郡神田村(現北条市)で生まれ,大内穀親・近藤元弘らについて儒学・漢書を学んだ。 23年正岡村会議員になり,35年2月正岡村長に就任,大正2年9月まで在職した。村政では,伝染病舎の改築,火葬場の設凡教育施設,基本財産の増殖,青年会の指導などに尽力,ことに他町村に先がけて耕地整理事業を起こし実績をあげた。明治42年第1回地方改良功労者として県知事表彰を受けた。大正4年3月14日,58歳で没した。

 寺石 正路 (てらいし せいじ)
 明治元年~昭和24年(1868~1949)教育者。明治元年高知市九反田に生まれ,海南私塾で学んだ後,大学予備門に入学するが,病気のため高知に帰り,高知尋常中学校(現追手前高校)をはじめ各中学校で教師を務める。明治24年,同僚と考古学の調査旅行をして,高知県の宿毛貝塚や,愛媛県の平城貝塚を発見して,「東京人類学雑誌」に報告した。その後,考古学に関する論文や報告を数多く発表し,考古学の先駆的役割を果たす。昭和24年81歳で死去。

 寺尾 威夫 (てらお たけお)
 明治38年~昭和49年(1905~1974)明治38年4月5日,奈良県北村文治の三男に生まれる。長じて八幡浜市出身の寺尾利一の婿養子となる。昭和4年3月東京帝国大学法学部卒業,同年4月野村銀行入行,大宮支店長,企画課長,銀座支店長,調査役,総務部長を歴任。 22年1月取締役に就任。同年4月常務取締役,23年6月専務取締役,25年8月45歳で取締役社長となる。 26年10月行名を大和銀行と改めて頭取となり,48年4月会長となる。大和銀行頭取時代の44年2月「信託業務を分離してほしい」との大蔵省の要請に対して「応じられない」と回答,信託併営の自主独立の道を歩んだ。「立派な銀行,立派な行員」「人材の養成と職場精神の昂揚」「人間的なものの蓄積をはかれ」「物事の観察に多面的であれ」等絶えず行員の指導に意を注いだ。昭和49年5月25日,69歳で没した。