データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 フランシス (R. Mabel Francis)
 明治13年~昭和50年(1880~1975)宣教師。
 米国ニューハンプシャー州で1880年7月26日に生まれる。アライアンス宣教師養成学校,デファイアンス大学に学び,明治42年(1909)米国クリスチャン・アソド・ミッショナリー・アライアンス教団より日本に派遣された。この教団は特に全世界でキリストの福音が未だ届いていない地域を伝道の対象としているが,わが国もその一つであり,しかも農村都市に目を注いだ。広島に本部を置き,中国,四国(四国は愛媛だけ)関西を主とした。女史は始め広島県庄原で伝道したが,大正13年松山へ来り,先着していた弟トーマス・フランシスとともに湊町新町に教会を移し,緒方繁造というよい協力者を得て,毎年一か所ずつ伝道所を開く計画の下,柳原,大洲,内子,見奈良,宇和島,今治,出海,櫛生,磯崎,上須戒,北条など18か所に天幕を張り,劇場を借りて集会を持った。昭和9年,米国の経済恐慌のため教団より引揚命令が来た時,また,昭和16年,の日米開戦のときも,「神よりの引揚命令は来ていない」として松山に留まり,そのため軟禁や東京拘置所送りとなった。終戦となり直ちに教会の再建と伝道並びに困窮者,引揚者の救済に力を尽くし,懐疑と失意のどん底にいた県民に生きる力と希望とを与えるため県下を東奔西走した。昭和40年6月,県民館における松山市主催「松山市名誉市民」の称号贈呈式及び感謝送別会を最後に,56年の在日救霊の奉仕を終えて帰国した。昭和44年に行われた日本アライアンス教団再建20周年式典に出席のため再来日したが,フロリダ州にて1975年6月7日永眠,享年95才。

 二荒 芳徳 (ふたら よしのり)
 明治19年~昭和42年(1886~1967)伯爵・貴族院議員,少年団日本連盟理事長・ボーイスカウト育成のパイオニア。明治19年10月26日,宇和島で伊達宗徳の九男に生まれた。幼名伊達九郎。北白川宮能久親王の四女拡子と結婚,42年能久親王の興した伯爵二荒家を継いだ。大正2年東京帝国大学法科大学政治科・を卒業して文官高等試験に合格,愛知県属に任じ,ついで静岡県理事官になり,のち欧米各国に出張した。9年宮内省書記官兼参事官に任ぜられ,10年皇太子の海外巡幸に随行,14年貴族院議員になり,昭和22年まで在職した。イギリスで見た青少年運動に共鳴して,帰国後少年団日本連盟(のちボーイスカウと)の創立に奔走,初代理事長に就任した。また日本体操専門学校長(現日本体育大学)・体育協会会長などを歴任した。郷土発展のためにも南予文化協会長を務め,ボーイスカウトの育成に当たった。昭和42年4月21日,80歳で没した。

 府中屋 念斎 (ふちゅうや ねんさい)
 生没年不詳 松山城下町建設の功労者。松前城主加藤嘉明か関ヶ原の戦功により,10万石より20万石に大増封となり,慶長7年(1602)松山城を築城する。同時に町割を定めて城下町を建設した。はじめ30町の地割を行い,このうち20町は嘉明自身の縄張りとし,10町は佃十成が割ったという。(内山家記)このように城主と重臣で地割が行われたが,この際有力な御用商人相図屋宗郡・府中屋念斎が協力した。この両人は,嘉明の下手代奉行松本新左衛門の妻の兄弟で,殊に念斎は嘉明と親交があり,格別の信任をうける。古町分の町家の地割は,念斎の意見に基づいて行われ,三の丸の城濠及び念斎堀を掘って,新城郭・新城下町の建設に重要な役割を演じた。

 深尾 権太夫 (ふかお ごんだゆう)
 生年不詳~享保5年(~1720)塩田開発功労者。西条藩領新居郡垣生村,郷村,松神子村(現新居浜市)の地先海岸は,屈曲のほとんどない遠浅海岸で,干満の差が大きく,風波の影響も少ない。黒島干潟に注目し,塩浜築造を奨めたのは阿波の浜師(塩田経営師)六左衛門である。話を聞いた黒島浦の年寄五兵衛は西条藩留守居役森惣兵衛に届け出たところ,元禄14年(1701)9月,西条藩より五兵衛に対して塩田開発の世話をせよとの指示があった。五兵衛の奔走により,元禄16年升屋源八・讃岐屋新左衛門・奥村丈助・深尾権太夫らが塩浜開発を承諾した。開発の中心になった権太夫(信濃国出身)は,宝永元年(1704)着工したが,資金難や災害(宝永4年の大地震,同6年の高潮)の連続で工事が進まず,享保5年(1720)権太夫の死によって開発計画は中絶した。やがて天野喜四郎に継承される。

 深川 正一郎 (ふかがわ しょういちろう)
 明治35年~昭和62年(1902~1987)俳人。明治35年3月6日,宇摩郡新宮村上山に生まれた。小学生時代,川之江市金田へ移る。二洲学舎卒業。大正13年上京,文芸春秋社へ入社,後,日本コロンビア宣伝部に入り,宣伝部長で退社。日本コロンビア時代,高浜虚子の俳句朗詠のレコード吹込みを企画実施して虚子の知遇を得て師事,人柄に強く感じ深く交わる。昭和21年より俳句に従い,虚子の遺訓に従って終生俳句一筋に生きる。高浜虚子のあとをついだ高浜年尾の亡きあと,年尾がその娘・稲畑汀子(「ホトトギス」主宰)に,「何事も深川正一郎によく相談するように」と書き残したほど,年尾からも深い信頼を受けた。かくて,正一郎は「ホトトギス」三代にわたって,生涯「ホトトギス」俳句の興隆につくした。「ホトトギス」同人の中心的存在で,ホトトギス同人会長,日本伝統俳句協会副会長(会長は稲畑汀子)をつとめた。また,昭和24年5月,「ホトトギス」派の月刊誌「冬扇」を創刊し,昭和48年5月発行の通巻197号に及んだ。以後休刊。同誌は,俳句のほか,「連句」の実作を掲載しているのが特長であった。
 温厚な人がらで句風も穏やかで巧み,連句の実作者としても知られ,写生文にも長じている。著書に『深川正一郎句集』,『俳小話』のほか,創元社版『高浜虚子全集』l2巻,『川端茅舎全集』の編著がある。
川之江市金田の深川家墓域に
 満月へ正面したる志     正一郎
 肌寒も残る暑さも身一つ    虚子
川之江市立南小学校に
 苗床の母に戻って来し子かな 正一郎
などの句碑があり,松山市立子規記念博物館の寄書帖に
 君来ませ花の館のとゝのへり 正一郎
とある。昭和62年8月12日,肺炎にて満85歳で没。 65年の俳句人生であった。

 深町 錬太郎 (ふかまち れんたろう)
 明治4年~没年不詳(1871~)大正期の県知事。明治4年1月27日石川県金沢下高儀町の士族の家に生まれた。明治29年帝国大学法科卒業,文官高等試験に合格後,逓信・通信事務官に任ぜられ,鹿児島・大阪・札幌の各郵便電信局に勤務した。 32年内務省に転じ,愛知・茨城・栃木・新潟の各県事務官を歴任,同42年愛知県事務官・内務部長になった。大正元年12月30日愛媛県知事に就任した。深町は赴任早々松山中学校の移転をめぐる紛争に巻き込まれ,その解決に苦労した。また大正3~22年度の20か年継続治水事業を計画,19主要河川を対象に本県初の本格的治水事業を開始した。この事業は昭和17年まで更正を重ねながら継続され,治水の進展を見ることになった。県会をはじめ各方面に高姿勢の施政で臨んだので,大正4年県会では野党政友会による弾劾決議案が可決され,また産米検査強行に伴う小作農民の反対運動激化を招いた。3年半本県に在任して,大正5年4月28日休職となり,同6年4月病気を理由に高等官を依願退職した。

 深見 寅之助 (ふかみ とらのすけ)
 明治10年~昭和3年(1877~1928)東伯方村長,県会議員・議長。明治10年11月2日,越智郡木浦村(現伯方町)で生まれた。今治の菅周庵に漢学を学び,商業に従事した。明治37年東伯方村村長に選ばれ,大正中期まで在職した。40年9月県会議員に選ばれ,以来大正8年末まで連続4期在職した。その間,大正4年10月~6年12月と8年10月~12月県会議長を務めた。政友会に所属して,9年5月の第14回衆議院議員選挙に第3区から立候補当選して代議士になったが,次の13年5月の第15回衆議院議員選挙では落選した。大正元年今治瓦斯(現四国瓦斯),7年愛媛自動車会社の創立に参与してそれぞれ取締役になり,伊予綿布同業組合長にも就任した。昭和3年3月6日,50歳で没し,伯方の禅興寺に葬られた。

 福島 正則 (ふくしま まさのり)
 永禄4年~寛永元年(1561~1624)戦国大名。尾張国海東郡二寺村に永禄4年生まれる。父は市兵衛正信,母は秀吉の伯母木下氏と伝える。安土桃山~江戸期の大名。年少で秀吉の側近に仕え天正6年の播磨国三木城攻めに18歳で初陣に功を立てた。幼名市松,通称左衛門尉,同13年従5位下左衛門大夫,元和3年には従4位下参議に叙任された。号は馬斉。天正11年近江国賤が嶽の合戦で七本槍の1人としての働きがあり,5,000石の知行をうけた。同15年9月,九州の陣の軍功によって東予5郡の11万3,200石を受封し,当初中予地方の歳入地約9万石も預かったため道後湯月城に入城し,後に今治の国分城に移った。文禄4年には征韓役や秀次自刃の検死の功により尾張清州へ24万石で転じ,関が原合戦では東軍の先鋒の功により安芸・備後49万余石の大封を与えられて広島に入城した。しかし元和5年広島城の無断修築などにより津軽に転封され,ついで越後・信濃両国のうち4万5,000石に減封され,のち信濃国高井郡高井野村に蟄居し,ほどなく63歳で病没した。豊臣恩顧の反骨非運の勇将といえる。伊予在城9年の治績としては入国早々からの検地と刀狩にあり,神社土豪等の旧勢力を一掃して近世の支配体制を確立した。また文禄の朝鮮の役には,四国勢5番隊の大将として4,800人を率いて出陣した。寛永元年7月13日死没,墓所は京都妙心寺海福院,法名海福院前三品相公月翁正印大居士。

 福原 燵洋 (ふくはら すいよう)
 文久3年~明治43年(1863~1910)教育者。今治藩士福原寿太郎の長男として生まれる。名は雅一,号は横秋。渡辺歩水や河上量太らに学び上京して苦学をする。明治22年旧藩主の久松定弘の援助を受けて「閏秀新誌」を創刊した。この本は日本における婦人雑誌の先駆をなすものであった。また「出版月評」の編集主任ともなり大いに活躍したが,のち文部省の文検に合格。明治24年,杉浦重剛の日本中学に奉職した。のち中津,函館,岩国,岐阜の中学にもつとめ,愛媛県師範学校でも多年教鞭をとる。詩文に長じており,明治42年,伊藤博文が道後に来遊したとき,伊沢多喜男知事の依頼で歓迎文を書いたり,伊藤公の宿舎鮒屋に伺候して,長詩を賦したとき,「当代の碩学」と激賞されたという。明治43年2月18日死去,47歳。著書に『燵洋一滴』がある。

 藤井 周一 (ふじい しゅういち)
 明治19年~昭和51年(1886~1976)教育者。明治19年2月11日,上浮穴郡久万町に生まれる。松山中学校を経て早稲田大学和漢文科を卒業する。早稲田大学の助教授などを歴任するが,大正10年帰郷して愛媛県師範学校や松山中学校の教諭となる。昭和37年県の文化財専門委員になる。漢籍,俳諧,美術史に造詣が深く,蔵沢会長を務める。著書には『伊予の古俳人』『松山藩偉人伝』など多数がある。「豆さん」の愛称で呼ばれ教え子たちより慕われていた。同38年県教育文化賞を受賞する。昭和51年4月19日,90歳で死去。

 藤井 未萠 (ふじい みほう)
 大正元年~昭和53年(1912~1978)俳人,医師。大正元年7月30日越智郡菊間村(現菊間町)の林家に生まれる。本名は建三。昭和10年藤井正子と結婚し藤井姓を名のる。同12年日本大学医学科を卒業し,同23年伊予市灘町の藤井内科を継ぐ。同年,俳句をはじめ,篠崎活東主宰の「光炎」に投句し,同30年「炎昼」同人となり,同37年「天狼」同人となる。同38年俳論集『現代俳句の観照』を出版。愛媛新聞「夕刊俳壇」の選者となる。昭和53年5月10日死去,65歳。

 藤内 金吾 (ふじうち きんご)
 明治26年~昭和43年(1893~1968)棋士。明治26年3月20日,温泉郡生石村南吉田(現松山市南吉田町)に生まれる。11歳で大阪に出,20歳のころからメリヤス製造業を営む。一方,少年時代から将棋が好きで,坂田三吉に師事して腕を上げ,大正9年4段,昭和2年6段,同8年に職業棋士となる。同26年に引退する。現役中にはたびたび帰郷して,県内のアマ棋界の発展に尽くした。引退後は神戸市内で後進を指導するとともに関西将棋界の重鎮として多くのプロ棋士を育成する。門下には高島九段,内藤九段,森安八段らがあり,谷川八段は孫弟子に当たる。生前に日本将棋連盟より八段位を贈られる。性格は豪放らい落で,酒を好み,弟子の面倒見も大変によかった。女優の森律子は従姉にあたる。昭和43年2月11日死去,74歳。

 藤岡 勘左衛門 (ふじおか かんざえもん)
 嘉永5年~昭和3年(1852~1928)実業家,現松山市末広町で嘉永5年10月2日に生まれる。明治3年,栗田与三,仲田伝之じょう(先代)らと本町に興産社を設立した。興産社は明治5年商法社を合併して興産会社と改称され,明治26年松山興産銀行となる。明治5年仲田伝之じょうらと温泉郡素鵞村立花,(現松山市立花)に桑園をおこし,旧藩士白石孝之らを養蚕製糸技術伝習のために京阪神地方に派遣し,彼らの帰郷後,松山養蚕舎を設立した。また明治中ごろ,伊予鉄道会社の創業に参画した。明治15年,松山商法会議所が設立されると理事に就任,商法会議所解散後,松山商工会を起こして副会長に,その後,松山商業会議所の副会頭に就任した。このほか市場の開設や伊予絣の販路拡張に努めるなど地方産業の発展のために尽力した。茶道,華道,謡曲に通じ,和歌,俳句を詠じるなど文人的趣味をもつ。花を愛し近郊に植樹する一方,石手川岩堰を奥村敬孝らと開き,遊園地にするなど松山の美化に寄与した。昭和3年12月8日76歳で没す。彼を偲んで岩堰に秋山好古陸軍大将題額の藤岡翁頌功碑が建てられた。湊町の円光寺に葬られる。

 藤岡 継平 (ふじおか つぐへい)
 明治17年~昭和14年(1884~1939)学者。周布出身。明治24年周布小学校教授生となり,松山中学校,熊本第五高等学校を経て,東京帝国大学文学部卒業,更に大学院で国史を研鑽し,国学院大学,広島高等師範学校,日本女子大学の教授をつとめる。後,文部省の図書監修官となり,国史の編集と教育指導に当たる。著書も数あるが,特に『国史教科書教師用』『国史教科書』の編者として有名である。勲四等を受け,昭和14年55歳で死去。

 藤岡 光長 (ふじおか みつなが)
 明治18年~昭和30年(1885~1955)農林学者。周布出身。西条中学校から第一高等学校を経て東京帝国大学農科大学林学科を卒業。農商務省に入り欧米留学中,林学博士となる。東京帝国大学教授となるとともに農林省林業試験場長を兼ねる。日本林学会名誉会長となり,我が国林業界の権威者となる。

 藤田 達芳 (ふじた たつよし)
 安政5年~大正12年(1858~1923)衆議院議員,塩業功労者。安政5年6月28日,新居郡松神子村(現新居浜市)小野甚三郎の三男に生まれ,幼時に多喜浜塩田支配人の一人郷村(現新居浜市)藤田五郎の養子になった。泉川の遠藤石山について漢学を修めた後,大阪に留学して数学を学び詩文に親しんだ。明治19~22年東京専門学校(現早稲田大学)政治科に学んで帰郷した。 26年多喜浜東浜産塩会社設立に参与して重役となり,終生塩業とかかわりを持った。政治を志し,改進党に所属して25年2月と27年3月の衆議院議員選挙に立候補したがいずれも落選,27年9月の第4回選挙でようやく当選した。国会では対清強硬論を弁じ28年の日清講和会議では伊藤博文の随員となったが,代議士は病気のため1期だけで退いた。台湾総督児玉源太郎の知遇を受け,30年台湾に渡って塩業調査を行い,塩田国有論を提唱して36年塩業専売法制定に至らしめた。政界を退いてからは師の遠藤石山らと詩文と書を楽しみ,大正12年6月21日,64歳で没した。

 藤田 若水 (ふじた わかみ)
 明治9年~昭和26年(1876~1951)弁護士,衆議院議員・広島市長。明治9年12月新居郡中村(現新居浜市)で素封家藤田甸之の四男に生まれた。 31年東京専門学校(現早稲田大学)政治科を卒業,33年弁護士試験に合格した。34年大阪ついで広島で弁護士を開業,41年以来広島県会議員に在職した。昭和2年11月衆議院議員補欠選挙に広島第1区から立候補当選,以後,3年,5年,7年,12年の衆院選挙に連続して再選され,民政党に所属した。昭和14年12月広島市長に就任して戦時市政を担当して18年5月退職した。広島弁護士会長も長く務めた。戦後,広島復興審議会長・広島戦災供養会会長として原爆で痛めつけられた広島復興に心を砕いた。昭和26年12月30日,75歳で没した。

 藤谷 庸夫 (ふじたに つねお)
 明治29年~昭和37年(1896~1962)教育者,画家。明治29年3月7日伊予郡北山崎村(現伊予市稲荷)に生まれる。大正5年(1916)愛媛県師範学校を卒業。在学中より当時の新鋭洋画家,美術教師塩月桃甫の薫陶を受け大正8年東京美術学校に入学。卒業後,佐賀県三養基中学教諭を経て,同13年母校愛媛県師範学校に帰任する。以後引続き30余年間愛媛大学教授を退官するまで多くの学生を指導。その中から人材輩出,県教育界,美術界,美術教育界の大先達として活躍する。昭和4年第10回帝展出品の「金扇」が出世作となり,愛媛画壇の主動的地位を確立,白塔社結成,愛媛美術工芸展委員,蒼原会愛媛県支部長,愛媛美術協会理事長,愛媛美術教育研究会々長など,その創設・運営の中核となり活躍。その人柄は直情経行,名利にとらわれない言動は多くの後輩に慕われ,昭和27年県美術会結成に当たり,名誉会員に推され,同30年愛媛県教育文化賞を受賞する。その作風は穏健な写実,明快豊潤な色感で,晩年になるにしたがい具象・抽象の接点をさぐり仏像に傾倒し典雅な画境を創造する。昭和37年11月25日,心筋硬塞で病没。 66歳。墓所は伊予市稲荷の藤谷家墓所にある。著書に『築紫平野の考古学遺跡・遺物』・『美育とその実際』等がある。

 藤谷 豊城 (ふじたに とよき)
 安政6年~昭和8年(1859~1933)郡中町長。郡中港改修に尽力した。安政6年6月29日,大洲藩士稲葉六右衛門の三男に生まれ,長じて郡中藤谷家に婿として入籍した。明治11年町会議員,17年伊予郡連合会議員に選ばれ,任を重ねて町政・郡政に参与した。この間,郡中銀行・南予鉄道会社・伊予汽船会社などの設立に加わり,勧業委員・所得税調査委員・郡中電信局設置委員・町農会長などの要職に挙げられ,共進社と称する灘町青年修養所を設けて青年の薫陶に当たった。明治44年2月郡中町長に就任,大正4年3月まで町政を担当,苦しい財政事情を克服して郡中港の大改修を実施して船舶の往来を容易にし,町発展の基礎を築いた。また五色浜神社の建立を計り,港南の地に社殿を造営して町内各社を合祀した。町長退職後は町保安組合長などを務めた。昭和8年6月29日,74歳で没した。のち住吉神社前に銅像が建てられた。

 藤谷 隆太郎 (ふじたに りゅうたろう)
 明治31年~昭和38年(1898~1963)農業指導者。明治31年9月伊予郡北山崎村稲荷に生まれ,大正7年3月,愛媛県立松山農学校研究科卒業,同時に同校の助手拝命。大正8年から喜多郡出海村技術員をふり出しに伊予郡北山崎村技術員,伊予郡農会を歴任,昭和8年県農会技師を拝命。いらい農村青年の教育に専念,昭和15年11月,大政翼賛会愛媛支部の組織部長,実践部長に就任。昭和18年4月から同20年8月まで,食糧増産隊の愛媛県隊長をつとめる。昭和20年9月,公職を離れて郷里の北山崎村稲荷で果樹園芸に従事,昭和29年,懇請されて愛媛県指導農業協同組合連合会会長と愛媛県共済農業協同組合連合会会長を勤める。同年11月,農業団体の再編成で新設の愛媛県農業協同組合中央会の初代会長に就任,そのほか愛媛県拓植農業協同組合連合会会長,愛媛県電化協会会長,愛媛県電柱敷地補償料対策協議会会長,愛媛県農業会館理事長,愛媛県農業会議員,家の光協会理事など,生涯を農業団体の発展に尽くし数々の業績を残す。昭和38年10月9日,65歳で逝く。同日正六位叙五等瑞宝章を授かる。昭和48年4月7日,有志により生地の稲荷神社境内に胸像が建立される。

 藤野 海南 (ふじの かいなん)
 文政9年~明治21年(1826~1888)学者。もと松山藩士で,諱は正啓,通称立馬という。はじめ明教館に学んだが,23歳のとき江戸に出て昌平黌に入り,史学に通じた。帰藩して明教館の学寮長となったが,後再び江戸に出て昌平黌の舎長となった。若いころ蘭学を志し,天文学,航海術も学んだ彼は,文久3年,藩命により藩の汽船で江戸より三津に帰航し,また江戸に出航するなど,藩の政治に大きく関与した。蛤御門の変を経て征長の役が起こると藩命により土佐に使いをし,山内容堂と謁見して修交を修めた。その後も藩主を補佐し大勢を考え処置よろしきを得て,維新の際は三上是庵らとともに進言して藩論を統一し恭順の実をあげさせた。明治2年,昌平黌教授,藩制改革では松山に帰って大参事鈴木重遠を助け,明治5年東京の権参事となり『東京府誌』を編集した。後年さらに修史局編集官となり国史の編集に力を尽くした。明治21年3月18日,東京湯島で死去,62歳。

 藤野 古白 (ふじの こはく)
 明治4年~明治28年(1871~1895)俳人。明治4年8月8日旧松山藩士藤野漸の長男として浮穴郡久万町村(現上浮穴郡久万町)に生まれる。本名は潔,幼名は久万夫,別号を壷白,湖白堂と称する。母の十重は大原観山の三女であるから,子規とは従弟の関係になる。明治25年,東京専門学校(現早稲田大学)に入学し,子規に俳句を学ぶ。清新な句風で将来を注目されたが,精神状態が不安定になり,句作も月並みになり子規を心配させた。同28年戯曲『人柱築島由来』(早稲田文学)が文壇から黙殺されたことに落胆してピストル自殺をはかり,明治28年4月12日23歳で没した。子規はその死を悼み,三周忌に遺稿を整理して明治30年『古白遺稿』を出版する。

 藤野  滋 (ふじの しげり)
 明治23年~昭和51年(1890~1976)学者,俳人。東京麻布で明治23年10月7日,藤野漸の三男として生まれる。藤野古白の異母弟で,号は枯柏という。松山中学校から第一高等学校に進むが病気のために中退する。松山商業学校をはじめ鹿児島・茨城・福山などの中学校で教師をするかたわら,「ホトトギス」派の俳句や,川柳,下掛宝生流の謡曲をやる。翻訳に『ヘンリー・ライクロフトの手記』などがあり,遺著に『偕老』がある。昭和51年12月15日,86歳で死去。

 藤野  漸 (ふじの すすむ)
 天保13年~大正4年(1842~1915)下掛宝生流洋々会創始者。天保13年11月11日松山に生まれ,幼時から藩校に文武を学び,長じては松山地方政財界に活躍し,明治9年愛媛・香川両県が合併され愛媛県とされた時高松支庁長を勤めている。後明治13年上京したが明治25年に帰松し,五十二銀行(伊豫銀行前身)の創立に参画し二代目頭取を勤めた。上京中は会計検査院などに勤め,又旧藩主久松家家職となり,その間甥正岡子規等郷土出身者の援助に努めた。然し彼の後半生の生甲斐は能楽にあった。幼時池内信夫に下掛宝生流を学び,上京中旧藩ワキ方吉田寛親の口添えで同流八代家元宝生新朔に入門して免許皆伝を受け,帰郷後明治26年私宅に稽古場を設け,書斎に旧藩主久松勝成筆「洋々乎」の額を掲げて自ら洋々と号し,後輩の指導育成に努めた。素人名人と称され,小川尚義・安倍能成・伊藤秀夫等はその薫陶を受け,添田芳三郎以下の四天王を中心としたその一門は松山能楽の中心的役割を担った。自ら松山能楽会会長として東雲神社神能の地頭を勤めるなど能楽の維持発展に力を盡した。晩年同流五番綴謡本の校正を手がけ,没時10番を残すのみであった。師筋宝生新朔・同金五郎・同新等各代家元は藤野の縁を頼って度々来演して妙技を見せたが,松山が日本能楽界にその存在を示しているのは彼の力に負う処が多い。明治27年宝生新朔来松時,池内信嘉が一日私宅に招じ教えを受け,その礼金額を藤野に尋ねた時,〝五十銭でええそれ以上出すと癖になっていかん〟と多くを出させず気骨のある処を示している。彼の稽古場は後に洋々会と名付けられ今に到るまで連綿と続き,例会は800回を超えている。大正4年6月25日72歳で死去。墓所は松山市道後の常信寺。

 藤野 正年 (ふじの まさとし)
 明治4年~昭和18年(1871~1943)実業家,衆議院議員。明治4年1月松山に生まれた。東京法学校(現法政大学)で法律を専修した後,24年アメリカに遊学。帰国後兜麦酒会社の東京支店長ついで大阪支店長となり,37年セントルイス世界博覧会を機会に欧米を視察した。 39年東京製材会社専務,40年大阪米穀取引所理事になり,浪花火災保険・大日本冷蔵会社などの創設にも努力した。大正4年には鬼怒川水電取締役に挙げられ,日本製麻会社の専務に就任するなど実業界に知られるようになった。大正6年4月の第13回衆議院議員選挙に郷土の政友会から推されて,愛媛県郡部から出馬当選した。次の9年5月の選挙でも再出馬が予想されていたが,選挙戦中に実業多忙を理由に立候補を取り下げた。昭和18年12月13日,72歳で没した。

 藤野 政高 (ふじの まさたか)
 安政3年~大正4年(1856~1915)県会議員・衆議院議員,海南新聞社長。明治期の県政界を代表する人物で,自由党一政友会の領袖として活躍した。安政3年5月25日,松山藩士藤野政経の長男に生まれた。幼年時,明教館で近藤元脩らに学び,明治9年ころ東京に出て法律学を修め,代言人の免許を得て11年帰県した。長屋忠明らの民権結社公共社に入り,14年松山自由党を結成して地方民権運動家として知られるようになった。19年県会議員になり,海南新聞社副社長も務めた。 20年には大同団結運動下の三大事件建白者総代として上京したが,保安条例により帝都を強制退去させられた。一時鈴木重遠を擁し旧松山士族を中心とした大同派の団結を策したが,やがて鈴木と別れて23年3月板垣退助来県を機に白川福儀・井手正光らと愛国公党に参加した。明治23年7月第1回衆議院議員選挙に第1区から出馬当選して代議士となり,25年2月と27年3月の選挙に引き続き再選されたが,27年8月の選挙には資金難を理由に立候補を辞退した。 26年6月自由党愛媛支部を組織して幹事長になり,29年3月には白川らの懇請で県会議員に復活して議長に選ばれた。 31年自由党と進歩党が合同して憲政党が誕生するとその愛媛支部幹事長となり,憲政党が分裂した後も民党の合同を維持して井上要らと共に海南政友会を結成した。しかし同会は長く続かず,長屋忠明の説得で憲政党愛媛支部に復帰,34年4月立憲政友会愛媛支部を結成してその支部長になった。以後,政友会の代表者として,また海南新聞社長として政敵井上要らと激しい政争を展開した。安藤謙介が県知事に就任すると,県当局と結託して党勢拡張を図り,41年5月の県会で三津浜築港など22か年上木事業計画を実現に移した。安藤に代り伊沢多喜男が県知事に就任すると,42年10月三津浜築港疑獄事件が摘発され,その中心人物として逮捕された。公判では,罪を一身に背負い,懲役1年6か月・執行猶予3年の刑に服し,以後政界から引退した。大正4年6月30日59歳で没した。遺骸は道後竹谷の墓地に葬られ,明治31年以来18年間社長の座にあった海南新聞社(現愛媛新聞社)の玄関に銅像が建てられた。性格は「剛毅直実」で〝伊予西郷〟と称せられ,政敵井上要は「元来熱情の人である」と評した。

 藤村 紫朗 (ふじむら しろう)
 弘化2年~明治42年(1845~1909)明治期の県知事で養蚕の振興に尽くした。弘化2年3月1日に肥後国熊本寺原瀬戸坂袋町で藩士黒瀬市右衛門の次男に生まれた。その後,菅野大平の養子となり,旧名を嘉右衛門と称した。青年時代,勤王の志士として十津川郷士と共に高野山に義兵を挙げた経歴を持ち,岩倉具視に従い王政復古に参画した。明治維新,御親兵会議所詰,北越出先軍監,兵部省出仕など兵事関係に従事した後,京都府少参事・大阪府参事を経て,明治6年1月山梨県権令,同7年10月県令となり,14年の長い年月にわたり在任,養蚕の振興,土木事業,文明開化の推進官庁・学校々舎の洋風建築採用など,各方面に事績をあげて山梨県政の基礎を確立,地方官会議幹事としての活動や発言と相まって開明県令として知られた。明治20年3月9日愛媛県知事に就任。本県の気候・地味が養蚕に適していることに着目,当時の養蚕・製糸業が士族授産を主体としていたのを改め,広く民間の産業として県下全域への普及を進めた。このため,各地に蚕業専門の技術者を配置し,農事巡回教師制度を設けるなど,養蚕の技術指導・奨励をした。また温泉郡持田村(現松山市)の桑苗田を1町6反歩に拡大して同21年この地に県立松山養蚕伝習所を設け,更に県費で桑苗を山梨などから取り寄せて無料配布し,農家の子女を山梨・群馬など養蚕先進地に派遣して技術習得させるなど,養蚕製糸業を本県の地場産業として定着させた功績は大きい。迅速な行政執行を旨とした藤村は,本県の懸案事項であった土木事業に関する地方税と町村費負担対象区分設定などの具体化を急いだり,讃岐地方の製塩業者を中心とした十州塩田組合会紛議事件の解決に乗り出すなど精力的な行政活動を続けた。また愛媛県尋常師範学校の敷地を松山の木屋町・府中町に求め,山梨の洋風建築家小宮山弥太郎を招いて,後に〝愛媛の阿房宮〟と呼ばれる華麗な近代美を誇る校舎建築を計画施行したが,強引な校地買上げが地主の裁判所提訴の事態を起こし,収賄をもって知事が山梨県の土木業者に落札させたとかの噂も飛び交った。藤村は,明治21年2月29日突然愛媛県知事を依願退職して郷里熊本に帰り,やがて熊本農工銀行の頭取に就任した。「海南新聞」は藤村の辞職に際し「殖産興業に熱心せらるゝは夫の養蚕の奨励を以て明なる所」であるが「或は少しく干渉の弊に陥ることは無きやとは昨今世人の専ぱら唱導する所」と評した。藤村は,29年男爵を授けられ,23年9月貴族院議員に勅選され再選して,明治42年1月5日,63歳で没した。

 藤本 定義 (ふじもと さだよし)
 明治37年~昭和56年(1904~1981)プロ野球監督。明治37年松山市三番町生まれ。大正9年~同12年松山商業野球部第2次黄金期の投手・三塁手。小柄だが度胸十分,大きく割れるアウドロで決め球を投げるとき「打ってみい」と掛け声を発した。夏の全国大会(鳴尾球場)で大正11,12年に連続出場するも二度とも不覚をとり悲運の名投手といわれた。早大入りし竹内愛一投手に読心投球術を伝授され同15年春の早慶一回戦で一塁走者を4度けん制で刺し新記録。昭和10年東鉄大宮実業団チーム監督のとき米国遠征帰りの職業野球東京巨人軍に2タテを食わせた指揮ぶりが買われ巨人軍監督となる。球史で名高い館山茂林寺の月夜千本ヘドハキノック練習で昭和11年(1936)秋のリーグで初の日本選手権優勝,同14年から4連覇など巨人第1期黄金時代をつくる。この間,三原,水原,沢村,スタルヒン,中島,川上,千葉ら名選手を育てた。奇策を嫌い強気の正攻法で平凡の非凡作戦を駆使,投手ロ―テーションを日本で初めて確立させた。監督優勝回数は川上,水原に次ぎ7度。戦後は太平,太陽,金星,大映,阪急の各監督を歴任,同36年阪神監督に就任,同37,39年と川上巨人軍を降してリーグ優勝,一旦総監督となり同44年引退。評論家として「球界の家康」と呼ばれた。監督在任29年は最長,監督勝数1,657勝,1,450敗, 93引き分けは史上3位。同49年(1974)野球殿堂入り。昭和56年2月18日死去,享年77歳。

 藤本 薫喜 (ふじもと しげき)
 明治35年~昭和55年(1902~1980)医学者・本県公衆衛生活動の指導者。明治35年2月27日,喜多郡五十崎村古田(現五十崎町)で生まれた。大洲中学校・松山高等学校を経て昭和3年東京帝国大学医学部を卒業した。栄養研究所技師・同附属病院医師を勤めた後,陸軍医として太平洋戦争に従軍した。 21年長崎医科大学(現長崎大学医学部)教授になり,42年の定年退官まで衛生学・公衆衛生学の教育と研究に当たった。 29年から郷里五十崎町の環境衛生モデル地区事業を指導,本県における健康管理・地域保健活動の基礎づくりをした。 35年県医師会顧問になり,県と医師会の公衆衛生全般について助言を与え,45年には県地域保健対策協議会の設立と事業活動を促した。 51年から3年間松山東雲短期大学教授として栄養士養成に当たった。五十崎町から名誉町民の称号が贈られ,昭和55年12月10日,78歳で没した。

 藤原 勘一 (ふじわら かんいち)
 大正5年~昭和62年(1916~1987)水産功労者。大正5年2月4日南宇和郡西外海村(現西海町)に生まれる。漁業協同組合長を33年間,県漁連会長は昭和42年来つとめてきた。その間,宇和海漁業はイワシまき網の大不振,真珠・ハマチの養殖漁業の導入など漁業の転換期を体験してきた。県水産業の歩みは,そのまま藤原の個人史ともいえる。漁業生産額全国五位,ハマチ・真珠母貝では一位を占める漁業県に育てた力は大きい。これからの漁業は資源管理型漁業でなくてはいけないと展望し,漁村営漁団地を構想する。ソフトな人当たりで,多弁ではないが,海,漁業を語るときの口調は次第に熱を帯びる。戦後,西外海村(現西海町)の最初の村長を1期務めた。昭和37年知事表彰,同54年藍綬褒章,同57年科学技術庁長官表彰,同61年勲四等旭日小綬章を受ける。昭和62年5月29日,71歳で死去。

 藤原 純友 (ふじわらの すみとも)
 生年不詳~天慶4年(~941)藤原冬嗣の子で権中納言長良の曽孫。父は従五位下で筑前守,大宰少弐良範。摂政藤原忠平の家人であったとする見方もある。やがて伊予掾となるがその時期は不明である。ただ承平6年(936)3月の純友の初見記事にはすでに前掾とみえる。秩満解任後も私営田領主として,南予地方に勢力を有したとみられている。初見記事では党類を率いて伊予国に向かう途中,河尻(摂津国)を虜掠したという。同年海賊追捕の宣旨をうけ,追捕南海道使で伊予守であった紀淑人と事にあたり,6月には日振島に屯聚する海賊2,500余名とその魁帥30余人を帰降させた。ただ『日本紀略』にはここで「南海賊従首藤原純友」ともみえ,この時純友がすでに海賊の首領であったのかどうかについて,記事の史料的信憑性の問題も関わって,議論がわかれている。
 天慶2年(939)12月17日,純友が紀淑人の制止を振り切って海上へ出奔しようとしており,早くこれを召喚するようにという伊予国解状が届けられた。続く26日備前介藤原子高が摂津国須岐(藁屋ともいう)駅で純友の兵士と合戦して捕縛され,子息は殺害されるという事件が起こった。「純友追討記」は,事件の指揮者は純友の郎党藤原文元であり,原因は都における純友士卒の行動に関する情報を,子高が上洛して報告しようとしたためであるとするが,事件に純友自身がどの程度関与していたのかを含め,真相は不明である。ただし17日の事件との関連で理解しようとする見解もある。いずれにしろ,この事件を純友の反乱と国家がまだ見做していなかったことは,翌天慶3年1月,純友への五位昇叙の事が決定し,翌月位記が伝達され,純友も喜んでこれを受けたことからも推察される。
 その後平将門の乱の終熄にともない,純友士卒への追捕が強化されていったことに触発されてか,同年8月,伊予,讃岐,阿波各国への本格的襲撃が始まる。厳密な意味での国家に対する純友の反乱は,この時以降ではないかと推測され,同月備中,備後,紀伊,11月周防鋳銭司,12月には土佐国幡多郡,さらにこの頃長門,宇佐八幡宮へと,攻撃対象の範囲は一挙に拡大していった。しかし同年末頃から,小野好古ら山陽南海両道追捕凶賊使の巻き返しが始まり,純友次将藤原恒利の離脱にみられるような純友軍の分断政策も功を奏し,天慶4年2月ごろまでには伊予,讃岐両国とも完全に回復されたらしい。窮地に立った純友は,同年5月大宰府に向かいこれを掠奪したが,博多津での戦いで好古軍に大敗,伊予に逃げ帰ったところを翌6月20日,伊予国警固使橘遠保に捕えられ,息子重太丸ともども斬首された。(獄中死ともいう)その首は翌月都に届けられた。その後8月から10月にかけて,豊後国の佐伯是基,桑原生行,但馬国の藤原文元,文用兄弟,三善文公ら純友の有力部将たちが次々と逮捕,殺害され,乱は完全に鎮定された。 現在愛媛県内には,純友伝承をともなう史跡がいくつかある。純友を祭神とする新居浜市中野神社,純友の乱鎮圧の祈願を受けた住吉神を祭神とし,付近に大明神山と呼ばれる純友城館址,純友の駒繫岩と称する伝承等をともなう,松山市近郊古三津地区の久枝神社などがその代表的なものである。

 藤原 佐理 (ふじわらの すけまさ)
 天慶7年~長徳4年(944~998)書家。平安中期の名書家の一人で,小野道風,藤原行成とともに三蹟の名が高い。正三位兵部卿であった。大三島の大山祇神社に,佐理か書いたと伝えられる木造の扁額(国指定重要文化財)がある。これについては,「大鏡」の中に逸話として次のように書かれている。
 長徳元年大弐(太宰府の次官)の任を終えての帰路,伊予国の手前で海が荒れ出帆できないで困っていると,夢の中に三島明神が現れて,「実は私かあなたを引き止めているのだ。ぜひ私の社の額を書いてほしい」と懇願する。そこで大三島に赴き,神前で額を書いたという。しかも,これは舟板に鮮かに書いたものである。なお,弓削町明神には佐理か漂着したという碑がある。

 二神 駿吉 (ふたがみ しゅんきち)
 慶応4年~昭和36年(1868~1961)実業家,衆議院議員。慶応4年6月8日,宇和郡城辺村(現南宇和郡城辺町)で郷土二神深蔵の次男に生まれた。父は国会開設期の政治運動家で県会議員を務めた。南予中学校(のも宇和島中学校)を経て英吉利法律学校(現中央大学)を卒業した。内国通訳会社員,東京モスリン紡織会社支配人となり,やがて三井物産に迎えられ九州における石炭部の事業を統轄,大阪西・名古屋・門司の各支店長を歴任した。大正10年大日本人造肥料会社創立に伴い三井系の代表として専務取締役に就任,ついで日本油脂会社社長になった。大正13年5月の第15回衆議院議員選挙に郷党から推されたが,本人は気乗りしないままあまり運動をしなかったので落選した。昭和3年2月の第16回衆議院議員選挙では雪辱を期し,地方実業界もあげて支援したので最高点当選した。政友会に所属し,代議士としては当時高知・愛媛両県で紛糾七ていた宿毛湾入漁問題の中央交渉に働いた。5年2月の衆議院議員選挙には立たず,実業界に戻って太平洋戦争の直前国策会社である樺太開発会社社長や宇部興産社長を務めた。母校の中央大学理事・南予時事新聞社取締役にも名を連ねた。俳句をよくし,白雨と号した。弟二神節蔵は山下近海汽船会社の社長であった。昭和36年10月1日,93歳で没した。

 二神 喜十 (ふたがみ きじゅう)
 明治23年~昭和56年(1890~1981)牧師,教育者。明治23年5月10日,桑村郡壬生川村(現東予市)に生まれる。松山夜学校に入学し,校長の西村清雄,ジャドソン牧師の感化を受けてキリスト教に入信する。教員養成所を卒業して,松山市の道後,石井小学校に勤める。のち母校に帰り,西村校長の片腕となって勤労青少年教育に一生を捧げる。西村校長引退後,第二代の校長となり,昭和32年まで在職する。その間同志社大学神学部に学び,70歳で日本キリスト教団正教師の試験に合格し,同36年から9年間,松山古町の教会牧師をつとめた。昭和56年8月11日,91歳で死去。

 二神 深蔵 (ふたがみ しんぞう)
 弘化2年~大正9年(1845~1920)初代城辺村長・県会議員・副議長。弘化2年6月3日,宇和郡城辺村(現南宇和郡城辺町)の庄屋二神家に生まれた。幼名道太郎,後に作馬ついで深蔵。小沢種春について経史を学び,宇和島藩の指南役巽為風について剣法を習った。慶応元年の長州征伐の際には民兵を率いて従軍した。明洽初年,藩商佐々木隼人らと国産会社を創設したが失敗,それ以来専ら地方政治に生きることにした。地租改正の郡総代人ついで南宇和郡役所の郡吏となったが,20年ころには宇和島の山崎惣六らと民権運動に従事して土佐の林有造らと気脈を通じた。 23年町村制実施に伴い城辺村の初代村長になり,3期連続して在任, 180町歩の山林所有権の獲得・河川改修,大社教会所の建設など村民のために尽した。 27年3月初めて県会議員になったが,29年4月には副議長に選ばれ,30年11月までその地位にあった。漢籍に通じ,和歌俳句をたしなみ,淡水と号した。大正9年9月6日,75歳で没した。代議士二神駿吉は次男である。

 二神 清八 (ふたがみ せいはち)
 天保4年~明治26年(1833~1893)水産功労者。三津魚市場の再建と施設整備を図ったほか公共並びに地域文化の向上に尽くした功労者。
 天保4年7月12日,大洲藩怒和村(現温泉郡中島町元怒和)で父井上又新の長男として生まれる。清八は15歳のとき三津浜に出て商業を見習い,29歳のとき独立した。明治4年7月廃藩置県によって松山県が設置されたが,そのとき官船保管を命ぜられた。以後長期にわたって公務に尽すいしたほか,地場産業や文化の向上に多大の貢献をしたが,特に危機に直面していた三津魚市場の再建を図るとともに施設を整備し,水産物の流通業務を近代的なものとした功績は非常に大きい。三津魚市場の発祥は元和2年(1616)と古く,以降藩政時代にあって幾多の隆盛と衰退をくり返しつつ明治維新を迎えた。明治3年松山藩は株仲間の廃止を宣言したため,三津魚市は生魚問屋という権力的支柱を失うこととなった。明治12年県議会で魚市税の改正により税額が大幅にアップしたため,問屋側はやむを得ず,市場手数料の値上げによりこれを補てんしようとした。このため漁民と商人が一斉に反発し,直取り引きや,新会社(愛魚社)で運営する魚市場の設立でこれに対抗した。窮地に立った問屋側は各生魚問屋を解散して経営を一本化し,この難局を乗り切るため会社組織とし「魚市商会社」を設立して,本店を現三津栄町に置いた。しかし一般からの株主の応募もなく会社経営は利益配当金も出せない程不振をきわめた。明治16年二神清八は部外からこの経営に参画し,「魚市商会社」の再建に全力を傾注した。氏は再建の手法として旧株主に加え,新に一般からの株主の公募に踏み切った。かくして業績も伸び同20年には会社設立以来初の利益配当を実現したほか,10年にわたって対立した「愛魚社」との合併も成し遂げた。また,当時せりを行っていた場所は露天で,地面は敷石もなかったため,非常に不衛生な状況であったので,21年には直径約36m,面積約838㎡の敷石のせり場をつくり,さらに23年にはこの上に円形の屋根をとりつけ,魚市場としての施設を充実整備した。このほか明治7年及び17年の波止場の災害復旧,同18年の四国新道(松山~久万間)の開通,同20年の三穂神社の移転造営と三津警察署の設置,同21年の三津小学校の建設をはじめ,その後自己所有地を寄付しての港内の拡張,三津浜電信局の設置,三津尚歯会の設立,その他の数々の貢献により知事その他から13回にわたって表彰された。町会議員・魚市場会社頭取に在任中明治26年11月17日,60歳で没した。

 二神 節蔵 (ふたがみ せつぞう)
 大正4年~昭和22年(1915~1947)詩人。大正4年4月5日,父伝蔵の次男として南宇和郡城辺村矢野(現城辺町矢野町)に生まれる。別名の藤田竹郎は母の家の姓と竹郎は本名の「節」の字を二つにしたものである。父伝蔵は城辺町長を永年務め,曾祖父は国学者である。昭和3年に宇和島中学に入学し,同8年,明治専門学校応用化学科に入学するが,卒業直前に発病し療養生活に入る。同19年に短歌雑誌を発刊するとともに版画に熱中し詩作も始める。同20年に詩集「ふたりの神さま」を出版し,つきつぎ個性の強いすぐれた感性をもつ詩を発表する。同21年「芸術道場クラブ」を開き,青年文化会をおこして文化活動に情熱を傾注し,郷土の後進の指導に尽す。昭和22年3月5日,31歳で死去。法名は春光院大覚和節居士。死後『二神節蔵遺稿集』が出る。南郡文化振興のパイオニアとして知られる。

 二神 常一 (ふたがみ つねいち)
 明治21年~昭和52年(1888~1977)教育者。明治21年11月22日,温泉郡小野村大字畑中(現松山市平井町)に生まれる。明治43年3月愛媛県師範学校を卒業,温泉郡味生尋常高等小学校訓導3か年,愛媛県女子師範学校附属小学校訓導7か年,味生尋常高等小学校校長8か年,愛媛県視学7か年勤務の後,昭和9年8月31日から同25年3月31日まで,愛媛県立盲唖学校校長(昭和23年~同25年盲学校校長兼ろう学校校長)。味生尋常高等小学校校長時代,第一次世界大戦後の不況期に際し,児童の学用品を共同購入して供給する方策を採用し,家庭の教育費軽減を図った(学校生協の始まり)。大正12年7月降り続く大雨で,味生村の南斎院と北斎院の境界を流れる津田川に架かっている通学路の石橋が半墜落し村人の通行や児童の通学に困難となった時,高等科2年の一色忠徳をはじめ6人の児童が早起会を利用し,登校前未明から起きて6日間で力を合わせて修復した『まごころ橋』の美談が今も語り伝えられている。また,当時の教職員が二神校長の徳を慕って「味生会」を結成し,毎年二神宅に集まり味生校時代の教育を語り旧交を温めている。二神校長の死後も会員(3名)は遺影の前に集う会が継続されている。さらに,戦前・戦中・戦後を通じてl6か年余り,本県の盲ろう教育の発展充実のために,整備拡充を図り,今日の礎を築いた功績は偉大である。退職後,昭和28年4月から同36年3月にかけて,桑原校区公民館長として公民館建設をはじめ戦後の社会教育に尽すい,昭和33年から同49年まで保護司を勤め,社会福祉のためにも献身的な働きをした。昭和40年4月29日,天長の佳節に勲四等瑞宝章を受章。昭和52年5月30日,享年89歳で死没。愛媛大学工学部学部長二神浩三教授は三男である。

 二神 栗舎 (ふたがみ りつしゃ)
 安永7年~文久元年(1778~1861)松山藩柳原(現北条市)の郷士,俳人。生島足雄に学んで,歌,俳句をよくした。実名は種亮,通称は牛之助,のち平策。鶴翁,萬港,柳蔭とも号す。先祖は二神丑之助といい,朝鮮征伐に従軍して加藤清正の虎退治にも参加したと伝えられている。栗舎は地方俳壇の名士であるとともに私塾を開いて多年育英にも尽くした。文久元年6月25日,83歳で死去。北条市の河野の善応寺に墓がある。

 船田 一雄 (ふなだ かずお)
 明治10年~昭和25年(1877~1950)実業家・三菱本社専務・明治10年12月7日,上浮穴郡東明神村(現久万町)で船田信衛の長男に生まれた。松山中学校・熊本第五高等学校を経て明治39年東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。 41年検事試験に合格して東京地方裁判所検事局に任官したが,44年これを辞して三菱鉱業に入り,のち常務取締役にあげられ,昭和6年三菱財閥本部理事,ついで15年専務,18年理事長に就任した。かたわら日本郵船・三菱銀行・三菱重工業・三菱倉庫・三菱商事・三菱電気・日本アルミニウム各取締役・日本木材・帝国石油各顧問などを務めた。戦後財閥解体の対応処理に追われるうちに公職追放を受け,昭和24年6月郷里久万町に墓参のため帰省,上浮穴高校で講話した。郷里のためには小学校卒業生に記念品贈呈(船田賞)を26年間続け,上浮穴農林学校の講堂建築資金を寄付するなど育英のための援助を惜しまなかった。昭和25年4月18日,72歳で没した。遺骨は東京豪得寺と郷土の墓地に埋葬,墓碑銘は友人吉田茂が書した。

 船田 ミサヲ (ふなだ みさお)
 明治5年~昭和31年(1872~1956)学校創設者。教育者。旧松山藩士白川親応の長女(兄3人の末っ子)として明治5年1月13日松山に生まれる。陰に陽にミサヲを助けた陸軍大将白川義則は兄に当たる。三輪田真佐子について漢学・国文を修業,明治19年小学高等科卒業。小学校の教員見習・訓導,後に兄義則の任地広島に行き,女学校の教員となり,また英語の勉強もした。同25年伊予電鉄技師船田金太郎と結婚。同年私立松山幼稚園の保母主任となり,「母の会」を作り,同38年知名人の夫人等を集めて勝山婦人会を設立,「母の会」を合同させ,光野マス子の裁縫研究所の経営を引受けて,これを勝山女学校とした。約1年後同校から離れ,同40年家政女学会を設立,主幹となる。翌年沢田亀の沢田裁縫女学校と合併,愛媛実科女学校を設立。同44年さらに勝山高等女学校と合同して済美高等女学校を設立。理事として学校経営に尽力,特に学校施設の拡充,資金獲得のため身を粉にして精魂を打込んだ。大正6年夫死去。同8年萱町公会堂に松山高等学校学生のため緑寮を開設世話に当る。明治34年愛国婦人会愛媛支部設置に関与し以来婦人と名のつく各種団体に名をつらね,婦人運動の草分け的存在。大正9年座長として本県初の婦人問題研究会を開き,翌年第1回松山自由思想談話会を開く等活躍し,昭和2年昭和婦人会々長,また間島新聞販売店争議の調停に乗り出し,国防婦人会,大日本婦人会の役員等に就任。同21年公職追放,教壇を降りたが,同23年解除され,済美学園理事長となり,戦災を受けた校舎の復興に尽力した。同28年松山幼稚園理事長園長を兼ねた。女傑と言われ,おばさんと言われながら教育一筋に生涯を捧げた。スポーツの先覚者で「スポーツ済美」の名声を全国にとどろかせ,また趣味も広く,晩年は能楽にうちこんだ。教育勅語渙発40周年記念表彰・教育功労者として知事表彰・学制発布80周年記念文部大臣賞・愛媛県教育文化賞・藍綬褒章を受賞。昭和31年6月19日死去。 84歳。

 麓 常三郎 (ふもと つねさぶろう)
 明治元年~昭和4年(1868~1929)実業家。越智郡盛村(現上浦町)の素封家,英太郎の長男として生まれる。小学校卒業後臨済宗本山仏通寺に入って修業を積む。若くして村の収入役となり,公務のかたわら村風の改善,青年の向上をはかるため,積善会という青年組織をつくり,夜学などで青年を指導したが,それは吉田松陰の松下村塾をしのばせるものがあったという。明治27年ごろ村役場を辞して村に㋚綿織会社(後の麓合名会社)を創業,同36年には本店を今治に移した。麓は資産家で村の民謡で〝寺は金持麓は地持,脇の美与さん息子持〟とうたわれるほどであったが,その財力,全精力を傾けて経営に専念した。最盛期には支店を井口,瀬戸,大見,宮浦,野々江,台などに設けるなど活況を呈した。明治43年,長年の研究によって二挺筬「バッタン」とよばれる高性能のタオル織機を創案した。これは後年「麓式織機」といわれ,従来の木綿製織用二列式織機をタオル織機に応用するもので,それまでの阿部平助の織機に比べて,能率が2倍という好成績であった。同年富本合名会社を設立してタオルの生産に乗り出した。この織機は,当時斜陽の兆しを見せていた伊予ネルの織機の改造によって作れるので,これに転換する業者が次第に増加し,ここにきてタオルがようやく今治の地に根を降ろすこととなった。またその活動範囲は多方面に及び,明治40年郷里盛口村耕地整理組合長に推され,貯水池新設と耕地整理工事を金銭面で支援した。今治一大三島一尾道に発動機船を就航させて,連絡航路開設の先駆となった。大正8年9月~12年9月県会議員を勤めた。晩年はすべての事業に失敗して破産したが,国鉄今治駅前に「腹力饅頭」の店を出し,自ら店頭に働いて平然としていたという。氏は仏通寺に参禅して薫陶を受けたのみでなく,熱心なクリスチャンでもあったが,評して〝巷に出た禅僧〟という人もあった。昭和4年8月26日今治に没す(61歳)。墓は上浦町盛の西光寺。

 古川 久平 (ふるかわ きゅうへい)
 明治7年~昭和23年(1874~1948)狂言師。幼名を愛次郎と云い,父横山五平(鷲谷石齋・染物業・画人)の第八子四男として明治7年2月3日松山城下の西堀端に生まれた。 23才で古川久平の養子となり孫娘と結婚し,後に久平の名を継いだ。長姉が旧藩町方狂言師児玉喜蔵の長男に嫁していたので幼時より狂言に親しみ,児玉や同じ狂言師山本岩三郎に教えを受けて舞台を踏むことになった。明治41年の各流連合能楽大会に来演した京都の名家二代目茂山忠三郎(良豊)の門に入ったので,以後松山狂言方は旧藩以来の大蔵流八右衛門派から大蔵の本流となった。「東雲さんのお能」を初めとし愛媛の能楽界に狂言方を率いて目覚ましい活躍をし,大正6年には崎山龍太郎等と共に満州大連で公演し,昭和17年には梅若六郎能楽団の佐伯逞蔵(松山出身狂言方)に協力して満州国建国十周年記念文化使節公演に参加して足跡を残しており,戦前の数少ない大蔵流職分であった。若い時には各種の芸能に関心を持ち,一時は吹奏楽団を作って各地に巡演したとも言う。大正年代の初め頃であったか照葉狂言の泉祐三郎が来演した時,天野義一郎邸の能舞台で「釣狐」を演じその相手をしたと言うから,前記大連公演の時には同地に居て手助けしてくれた泉祐三郎と久闊を叙したことであろう。昭和23年1月14日73歳で死去,二代縁戚になる金子亀五郎家と共に能楽家系をなし,現在後継者古川七郎・道郎・喜郎と三代共存の狂言一家である。七郎は昭和50年重要無形文化財(総合指定)に認定され,各種の賞を受け,現在社団法人愛媛能楽協会の三代目会長を勤めて父の名跡を守っている。久平の墓所は松山市山越の不退寺にある。

 古川 重春 (ふるかわ しげはる)
 明治15年~昭和38年(1882~1963)建築学者。明治15年5月2日宇和郡津布理村(現西宇和郡三瓶町)に生まれる。京都帝国大学の天沼俊一教室(古典建築)に学ぶ。大正2年,松山市の新栄座改築に際して桃山様式で統一した設計図を作成した。満州の大連にあった関東都督府(のち関東庁)営繕課に勤務する。昭和の初め,大阪市役所建築課天守閣設計主任となり,「大坂夏の陣図屏風」などを参考に大阪城の図面を作り,同6年天守閣を完成させた。戦後は帰郷して農業を営んでいたが,同29年から松山に出て伊予豆比古命神社拝殿などを設計する。また,昭和12年には松下幸之助邸の設計もする。著書には『錦城復興記』『日本城郭考』などがある。昭和38年6月11日死去,81歳。日本における古典建築研究の第一人者であった。

 古川 静夫 (ふるかわ しずお)
 明治21年~没年不詳(1888~)昭和戦時下の県知事。明治21年8月1日,鹿児島県日置郡日置村で士族古川直衛の三男に生まれた。大正3年東京帝国大学法科大学在学中に文官高等試験に合格,4年静岡県警部になり,同県の郡長・理事官を経て,以後,熊本県・兵庫県理事官,京都府学務課長,栃木県警察部長,福岡県学務部長,警視庁保安部長・官房主事・警務部長,神奈川県内務部長を歴任した。昭和9年11月佐賀県知事に就任して2年8か月在職,12年7月7日愛媛県知事に転じた。古川が本県知事に任命された日は日中戦争のきっかけとなった蘆溝橋事件勃発の日であり,着任以来銃後関係の仕事に多忙であった。この年国民精神総動員運動愛媛県実行委員会が発足して,その強調週間や精神作興週間,銃後後援強化週間,貯蓄強調週間などを相次いで実施し,精神運動を展開した。県財政の極力整理緊縮を計るなかで,新居浜高等工業学校の設置や工業学校の新設拡充など工業教育振興を進め,在職2年で昭和14年7月15日に依願免官となった。同年結核予防会理事長に転じ,戦後,飯野海運監査役,日本消防協会理事長などを務めた。

 古田  拡 (ふるや ひろむ)
 明治29年~昭和60年(1896~1985)教育者。東予市北条の出身。大正3年,周桑農蚕学校を卒業し,養蚕技師となるが,後,小学校の代用教員を務めたり,西条中学校教授嘱託ともなる。西条中学校教諭や宇摩高等女学校(現川之江高校)教諭。県国語科視学委員となり,昭和13年愛媛県師範学校教諭兼附属小学校主事となる。川之江高等女学校長をつとめ,同16年北京師範大学教授となるが,戦後,帰郷して,小松の子安中学校教諭をつとめ,後校長となる。同25年法政大学,和光大学教授,同大学人文学部長,名誉教授となる。教壇実践では芦田恵之助と共に全国行脚して国語教育に大きな足跡を残す。著書として『教師の話術』『教師一代』『霜後の花』など数多い。校歌の作詞も百校以上に及ぶ。昭和60年89歳で死去。

 古海 深志 (ふるみ ふかし)
 嘉永2年~大正5年(1849~1916)神職,歌人。嘉永2年8月22日西宇和郡宮内村(現八幡浜市)に生まれる。家は代々三島神社の神官をつとめる。大洲の武田塾軒や丸山民治,新谷の香渡晋らに学び,のちさらに大洲の矢野玄道に師事して和漢の学を修める。この地方に和歌の会をつくり,歌道をさかんにした功績は大である。大正5年6月5日,大阪で死去,66歳。

 古谷 重綱 (ふるたに しげつな)
 明治9年~昭和42年(1876~1967)外交官。ブラジルに移住して活躍。明治9年6月12日現東宇和郡宇和町明間に綱紀の次男として生まれる。米国ミシガン大学に学ぶ。新聞社勤務を経て外務省につとめ,外務省通商局長,メキシコ駐在,アルゼンチン兼ウルグワイ兼パラダワイの特命全権公使等を歴任。アルゼンチンではよく在留邦人の世話をし,「平民公使」として親しまれた。昭和3年官を辞しブラジルに移住した。ブラジルでは80アルケールス(1アルケールスは2町5反)の大農場に,コーヒー栽培,養蚕等を経営。この営農資金協力者には,本県出身の村井保固(2万円)・佐々木長治(3千円)等が含まれていた。古谷は移住者の錦衣帰国の風潮には反対で,永住的移住の考えをすすめた。彼はまた,社会事業等にも尽力,同仁会理事長,在伯日本人文化協会長(昭和9年),日本病院建設委員会委員長(同11年),サンパウロ教育普及会長,サンパウロ大学講師等多方面にわたっている。太平洋戦争後は認識派の立場で在留邦人を指導,同21年臣連特攻隊に襲われたが難を逃れたこともあった。同42年9月17日,91歳で死去,勲二等旭日重光章を贈られた。

 古谷 長次郎 (ふるや ちょうじろう)
 安政3年~昭和9年(1856~1934)多田村長・県会議員。安政3年10月15日,宇和郡清沢村(現東宇和郡宇和町)で庄屋辻喜兵衛の次男に生まれ,明治6年5月東多田村(現宇和町)古谷周三の養子になった。養父は明治23年・10月~27年3月県会議員であった。酒造業を営むかたわら同村戸長・学務委員を務めた。明治34年10月~36年9月県会議員に在職した。 35年9月多田村長に就任して38年1月まで村政を担当した。実業面では多田銀行頭取・卯之町銀行取締役などを務めた。昭和9年3月13日,77歳で没した。

 古谷 綱武 (ふるや つなたけ)
 明治41年~昭和59年(1908~1984)評論家。明治41年5月5日,外交官だった古谷重綱(東宇和郡宇和町明間出身)の長男として,ベルギーのブリュッセルで生まれた。小学生になるまではロンドンで育つ。小学校を7回転校,中学も宇和島中学,青山学院,成城学園へと移る。大正15年成城高校へ進み,外国文学に関心を持ち,小泉八雲にひかれる。昭和4年4月創刊の文芸誌「白痴群」に,同級の大岡昇平らと入り,中原中也,小林秀雄らと知り合う。この年谷川徹三を訪れ生涯の師とする。同8年,大鹿卓らと「海豹」を創刊。「川端康成」「谷崎潤一郎」などの評論で活躍。同人に太宰治がいた。同9年,檀一雄らと「鷭」を創刊。同11年2月『横光利一』を刊行,この評論集で文芸評論家として立つ。7月『批評文学』,11月『川端康成』を刊行,自己批評につながる啓蒙精神に裏づけされた評論をめざす。以後,評論家としての道をあるき,作家論を中心とした文芸評論のほか,児童文学,教育,婦人問題農村問題,人生論など,多方面にわたって活躍,80余冊の著書を世におくり出した。昭和19年秋,陸軍補充兵として応召し旧軍隊生活を経験。同20年,終戦と共に高知市より復員,東京宅に帰り評論活動を続けた。日本文芸家協会会員。昭和59年2月12日死去,75歳。葬儀,告別式は故人の遺志で行われなかった。

 古谷 久綱 (ふるや ひさつな)
 明治7年~大正8年(1874~1919)衆議院議員。将来を嘱望されながら早逝した。明治7年6月17日,宇和郡明間村(現東宇和郡宇和町)古谷綱紀の長男に生まれた。父は庄屋・戸長を勤め,明治14年から県会議員1期を務め,のち村長・郡農会長などを歴任した。明治16年京都同志社を卒業,先輩徳富蘇峰を頼って国民新聞社に入社した。2年後には征清第二軍司令部付きの従軍記者となり,その足でホンコンーサイゴンを経てフランス・ベルギーなど欧州を巡歴した。このとき知り合ったベルギー公使館の堀口久万一(堀口大学の父)のすすめで30年ブルュッセル大学政治科に留学,国際政治学を専攻して博士号を得た。帰国して東京高等商業学校(現一橋大学)の講師を勤め,やがて蘇峰の仲介で伊藤博文の知遇を得て総理大臣秘書官となった。伊藤内閣が倒れると随行して欧米を回り,枢密院議長・韓国統監各秘書官と常に側近にあり,伊藤遭難のときにも付き添っていた。伊藤亡き後宮内省に入り,式部官・李王職御用掛などを歴任した。大正4年3月の第12回衆議院議員選挙に当たり,郷党に請われて政友会から立候補し当選,6年4月の選挙でも再選されたが,在任中の大正8年2月11日急逝した。 44歳。評論家古谷綱武は甥である。

 武左衛門 (ぶざえもん)
 寛政5年(1793),吉田藩の紙の専売制に反対して起こった一揆の頭取(首謀者)とされている上大野村(現日吉村)の百姓。翌々年3月処刑された。彼の名をとってこの一揆は「武左衛門一揆」と呼ばれるようになる。しかしこの一揆の経緯を記した実録物『伊予簾』には彼の名は見えず,また一揆当時の吉田藩士鈴木作之進の著した『庫外禁止録』には「囚人の内御領中一円の頭取と号する者はなし」として特に「武左衛門と申す者詳に事分る者にて山奥中の願書も取斗ひ夫に付ては所々より少々づつの礼物も受取候ふ故先此者第一の頭取とは成す也」とあるところから,武左衛門は他の藤六,幾之助らとともに首謀者に仕立てあげられた可能性が強い。ただ農民たちの間では犠牲になって処刑された武左衛門は一揆の英雄として語り継がれ,「桁うち武左衛門」のように一口浄瑠璃を語って農家をめぐり一揆を組織したという伝承まで生まれてくる。農村の育てた虚像の英雄で実像は明らかでない。

 仏   海 (ぶつかい)
 宝永7年~明和6年(1710~1769)木喰といわれる修行僧の一人で篤信の四国遍路。風早郡猿川(現北条市猿川)の生まれ,幼名太良松,諱は如心。父は越智氏で脇田孫左衛門の後裔。諸国を遊歴後高野山で得度,奥州から九州までくまなく諸国の回国を終えると帰郷。やがて風早三十三観音霊場をひらくと,この功徳を郷里に残して宝暦2年四国遍路に発ち,室戸に近い佐喜浜に仏海庵を建てて止住。近くの遍路の難所「とびいし」に飛石庵を建てて遍路の難を救い, 59歳で仏海庵に没した。

 文野 昇二 (ぶんの しょうじ)
 明治4年~昭和6年(1871~1931)実業家,県会議員・副議長。明治4年6月17日,新居郡大町村(現西条市)で文野准次の三男に生まれた。30年10月県会議員になり,32年10月~34年9月副議長を務めた。党派は愛媛同志会(進歩派)に属した。 32年8月の新居・宇摩地方の水害復旧に尽力し,また住友四阪島製錬所の煙害問題では新居郡煙害調査会長として交渉の任に当たった。実業面では,30年西条銀行の取締役に就任,市之川鉱業会社,愛媛水力電気会社・関西捺染会社・伊予鉄道電気会社の各取締役を歴任,西条商工会の会長にも推された。大正12年には産業功労者として知事表彰を受けた。昭和6年10月25日,60歳で没した。子文野俊一郎(1897~1959)は昭和30年~34年西条市長であった。