データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

双海町誌

第五節 幕府の大名対策

 徳川幕府は、絶対的な権力を維持するために、僻地は一国一藩一城とし、要地は小藩を乱立させてその勢力を互いに牽制させ、更に天領や親藩を要所に配置するなど、実に巧妙な政策をとっていた。次の略図をみると、城下近くまで隣国の領地が飛地や替地で迫っていたことが分かる。
 ほかにも、徳川幕府がとった代表的な政策に、諸大名が、隔年交代に石高に応じた人数を率いて出府し、江戸屋敷に居住して将軍の統帥下に入る参勤交代制がある。
 この参勤交代について、松山叢談という古書には「松山より江戸日本橋まで二一八里二丁三九間・内松山より三津舟着まで一里一七丁・三津より大阪まで舟路八三里、大阪より江戸まで陸路舟路共百三里二一丁」とある。
 一七七一(明和八)年、松山藩主久松定静の参勤交代からの帰りの行程は、十月十九日に江戸を出発し、戸塚で一泊、二十日小田原一泊、二十一日沼津一泊、というように各地で宿泊を重ねて、二十七日目の十一月十四日にやっと松山城に帰着している。
 また、宇和島一〇万石の伊達公は、一行三二〇人を供に連れ、一回に二四〇〇両の経費を要したことが分かっている。当時米二俵が約一両であるから、一回の上京費は、現在の金額に換算すると約一億円にものぼることになる。更に、江戸には上・中・下の三大屋敷があり、滞在した諸経費は莫大であった。
 このように諸大名は、領民に対して財政面での善政を施すことがとても難しい制度下に置かれていたのである。


参勤交代の道順と伊予の八幡、天領

参勤交代の道順と伊予の八幡、天領