データベース『えひめの記憶』
久万町誌
一 村のつきあい
村のつきあいは主に組内と五人組内であった。組へ入るには組入りというのがあって、酒一升を出すのが前々からの習わしであった。
時には引受人がいることもあったり、誓約書を入れる時もあったりしたという。
組の規約は別にないが、夫役に出なかったり、組内に迷惑をかけたりしてしようがない時には、おことわりをさせる。これを「恥をかかす」といい、また組内へおことわりをした時には、「大恥をかいた」というふうにいった。
おことわりもしないでつづいて迷惑をかける時は、組の寄合いで協議して組はずしにした。それでも反省しない時は、組追放や峠でたたき払いの制裁をしたというが、これはごく少なかったらしい。
「どうべらこいのはそうせんといけなかった」という。
まわり養い
四国遍路で病気になって動けない者や、組内で貧しく、身寄りのない者などは、組はずれに小屋を建て、そこに住まわせ、各家が順に当番で食物を持っていって食べさせて養った。これをまわり養いといい、死んだ時は組じまいといって組の連中で葬式をし墓も作った。慈悲心でしたという。
入合地
入合地は山で、上畑野川にも下畑野川にもあった。村からの当たり地であり年貢が安いので便利であった。年貢は年末に米を集めて支払いをした。もらう分と出す分を差し引きして済ませた。これを差引米といった。
入合山では組の橋をかける材料や、個人の家の薪、おろなども自由にとってよかった。後に鑑札がいった。鑑札は木の札に焼印がおしてあった。
後には共同植林をしたりしたが、時々は利害関係でけんかをすることもあったという。
昭和の初めごろに入合地を払い下げ、個人に分け売りして、今は全部個人所有となっている。
道作り(第三章「労働とならわし」参照)
部落の大事な行事であり、春秋の二回各戸から一人ずつ出て道作りをする。秋十月は秋日と決まっていた。
主人にさしつかえのある時は主婦が代理で行くこともある。仕事に黙って出なかったら「デブサン」といって罰金を出すことになっていた。
虫送り(第三章「労働とならわし」・第一〇章「民間信仰」参照)
各戸から戸主が出て行う。
雨乞い(第一〇章「民間信仰」参照)
雨乞いは、餓鬼ヶ森・皿ヶ嶺・菊ヶ森・石墨山・桂ヶ森などの高い山に各戸から戸主が出て集合し、大火をたき太鼓や鐘をドン ドン ドン
チンチンと打ちならしながら、百万遍の大数珠を順ぐりに繰っていく。
「水たまれ 龍宮堂
どんどんどんつく 南無まいだ」
と繰りかえす。夜どおし火をたいて祈り、夜明け方に帰ってくる。そして、「結願」といってお宮、お寺に集まり数珠を繰って、神仏に祈り、酒を汲みかわして終わるのである。
山焼き(第三章「労働とならわし」参照)
入合地、萱場を焼く組の共同作業で、一戸から主人が一人ずつ出て山を焼いた。
大ぶしん
家を建てる時には組中が手伝いにいく。まず「どうづき」からはじまる。
組内の各戸からひとりずつ「こうろく」で出る。音頭とる人の「どうづき歌」に合わせて、威勢よく「どうづき」がはじまる。
歌は、例えば
『ここのやしきは よいやしき、「そーれ」四方か高うて中くぼて「そーれ」一分や小判がすずれこむえー「そーれ」』 (「 」内はつく人の合いの手である)
こうして仕事はすすめられ、食事は家主の方で準備し、終われば、酒さかなで祝いをする。
次は建築である。大工(棟梁をはじめ弟子)が大勢集まり、大黒柱から他の柱と順に仕上げ、木びきも大鋸で板を引き割る。やだき(うし)もでき準備万端できると建前となる。親せき筋、組内の連中が集まって建てあげる。
仕事の中途では「大工見舞い」があって、ぼたもちをたくさん作ってもっていき、大工をねぎらった。
建て終わると、矢を作り、七色の木綿の布の旗を立てて神に感謝する儀式を行い、家主は酒、肴を準備してお祝いをする。
建前の日は大工送りをし、八木一俵を大工の棟梁に贈る。
屋根ふき
各戸で萱をもちよったり、あるいは組で萱を刈ったりしてそろえた。また縄は二房(一房は縄五〇尋をいう)持ち寄ることになっていた。
組中がよって屋根ふき、あるいは屋根替えをするのであり、ふき終わると宿主の方で食事を準備し、酒さかなでお祝いをして終わる。
葬式(第八章「風俗儀礼」参照)
家の主人とか大切な人がなくなった時は、組じまいといって組中が出て葬儀を手伝う。家によって戸主だけの時もあり、夫婦で手伝う時もある。
その時は季節の野菜、米や金をお悔みとしてもっていく。
子供が亡くなった時は、伍ちょう内でするが、組でする時もある。
もめごと
人格の優れた人で、甘いも辛いもよく知っている人が仲裁をした。藩政時代は、お庄屋さんがした。
組寄り
組寄りは組長が招集する。必要によって総代が組長や大字の住民を集めることもあった。
部落費は年末に差引米といって、出す方ともらう分を差し引きをして決算をした。
宮費は、本戸が一円なら、半戸はそれの半分の五〇銭出す。本戸には半戸は頭が上がらなかった。
組長の選挙は、指名であったが、明治の中ごろからは輪番になった。
組長には組内で好かれて、えこひいきのない公平な人が選ばれ、以前はなかなかえらい地位であった。
こうしてみると、村のつきあいは組づきあいが多いのと、年中行事と関係が深いことがわかる。相互扶助という面でもよく行き届いた形があり、自治的な形ができていることがわかる。こうした藩制時代から明治・大正とつづいてきている組づきあいは、長い伝統に立って現代もつづいている組が多い。