データベース『えひめの記憶』
久万町誌
二 道路の変遷
道路の沿革については、町村制実施までの資料がなく、その詳細を知ることは困難であるが、古老の話や寺の記録等から推察してみると、現在何々路線等と呼んでいる道は、古くは間道・往還と呼ばれ、これを総称して里道といった。すなわち、里道は人畜の往来のみを必要とする道であって、距離を短縮するためのものであった。最初一人通り二人通り、いつの間にか道形となってふみかためられ、更に多少の人工が加えられて里道となったものである。
こうした道は別として、当地方で最も古くから利用された道は、まず伊予から土佐に通ずるいわゆる土佐街道と落合より真弓峠を経て大洲に至る大洲街道である。土佐街道は、松山より坂本村三坂峠久万に至り野尻より菅生中野村越ノ峠より美川の有枝程野七鳥高山蓑川等を経て猿楽を越え、土佐川口に至る土佐への最短路線である。一方、大洲街道は露峠落合尾首を起点として合戦供養の木、橘詰より父の川に入り小田町・突合・大瀬・内子・五十崎・十夜が橋等を経て大洲城下に至る街道であった。
土佐街道は、松山札の辻を起点として土佐に至る街道であったが、起点より一里毎に里石を立てていた。これを一里塚と呼び、久万町入野には七里塚が現存している。八里塚は越ノ峠よりハジカミヘ一五○㍍ほど上った所に現存している。こうして、伊予の国土佐の国を結ぶ重要交通路として数知れぬ人たちの足跡を残したが、明治一四年桧垣伸が上浮穴郡部長として赴任すると、直ちに、四国新道開さくの急務を説き、明治一七年愛媛・高知両県知事の間に四国新道開さくの議のあることを聞き、以来、寝食を忘れてこの大事業の成立につくし、ついに明治二五年八月完工した。
経費は、当時の金額にして二五万六八五〇円、地元民寄付人夫二万八一〇〇人、夫役負担一万三七〇〇人、総延長二四一七町、一里につき五九三九円三銭の工費であった。参考までに当時の成人男子一日の労賃は一五銭であった。このように先祖の残した偉業は県道となり、やがて国道に昇格し、地方産業開発に、文化向上に大きな役割を果たしたのである。
昭和三二年大改修が始まり、四二年八月完工まで一〇年有余の歳月と一三六億七○○○万円の巨費を投入し、その間五人の犠牲者を出すなどのこともあったが、松山・高知を結ぶ幅員平均六~六・五㍍、総延長一一九キロの全線が舗装道路と変わったのである。
県道、町道の現況については別表のとおりであるが、県道については、当初より県道として改修したものは少なく、初めは町村道として改修し、のち県道に編入されたものがほとんどである。ここに県道改修にまつわる逸話を、一、二述べてみる。
さきにのべた落合を起点として内子に至る久万内子線も、当初は父二峰村道として改修されたが、この道の起源は古く藩政時代の大洲城下に至る街道であって、今なおところどころに昔の跡形を残している。街道としての起点は、落合尾首で城の台下より合戦・供養の木を経て、橋詰より父野川・真弓峠・小田・内子・五十崎・大洲に至る路線である。この線の、路線決定について二名川ぞいに旧街道を改修する説と、現在のように二名川に二つの橋を架設して距離を短縮し、路線の線形を心線にする説の二論に分かれ、激論がたたかわされたが、時の父二峰村議亀岡重太郎が現路線の将来性と優位性を力説し、現在のように改修した。このことを記念して現在の二つの橋は、当時の道路設計者平尾技師の名前と亀岡の亀をとり、平尾橋、亀橋と命名されている。
また、現在の国道三三号線に、むかしの面影をみることはできないが、この道も松山久万間、久万町下野尻から落合に至るまでは、なかなかの難所であった。しかし、山之内仰西や先人の努力により改修が加えられ現在に至っている。
久万町内主要道路現況一覧(キロ)
一般国道 三三号線
三坂峠・美川村境 一〇・五
主要地方道
西条・久万線 九・五
久万・内子線 八
一般県道
落合・久万線 一二・五
美川・松山線 六・五
美川・川内線 七
父二峰・中山線 四
上尾峠・久万線 八
一級町道(幅員三㍍以上)
路 線 名 延 長(メートル)
山 神 線 一三五
宮 之 前 線 四八〇
栄 谷 線 四二〇
北 条 線 一二五
宇 和 上 線 九二三
法 然 寺 線 二一八
大 井 手 線 一六九
病 院 線 二七四
公 園 線 三二〇
火 葬 場 線 一五〇
緑 が 丘 線 一四〇
萩 の 峠 線 二二五
市 場 線 六六
農 祖 線 一八九
宮之前明神線 五五〇
宮之前槇谷線 一、七六四
中通尻高線 三一〇
大 坊 線 三五五
槻 仰 西 線 一、二八〇
池 の 越 線 一、一〇八
岩 川 線 一、一四二
長 野 線 一、三五〇
オーガリト線 八〇三
千 本 線 一、二一六
嵯 峨 山 線 二三七
西 峰 線 七七二
川瀬井内線 九七七
仲 組 線 一、二五〇
杣 野 線 一、五〇〇
上 厚 線 九一五
東 条 線 九一〇
長 谷 線 三八
蒔 立 線 一九三
父二峰小中線 二八二
父二峰中学線 九八
若宮二号線 六八
足 谷 線 二六一
久 万 郷 線 五四
大野が原線 一〇、七七八
槙木の川線 一、七五〇
切 石 線 二四六
唐 子 線 四〇八
久万町自動車台数
大型自動車 二三台
普通自動車 二六六台
軽自動車 一〇一台
二 輪 車 八四二台