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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 国鉄バスで働いて

(1)ふるさとでの仕事人生

 「私は国鉄時代のほとんどをふるさと日吉で勤務させてもらいました。ただ、国鉄内部の昇格のための試験があり、それに合格をして昇格をするためには転勤をしなければなりませんでした。子どもの学校のことなど家族のことがあって、もう一年、もう一年と転勤をすることなく勤務していたのですが、営業所の中でも先輩となった私が異動しなければ、後輩が異動することができないというようなことがありました。結局、日吉の営業所の中で昇格をさせてもらったので、私にとっても家族にとっても良かったと思っています。ただ、私は出向という形で高松や高知、徳島へ行くことがあり、東京にあった国鉄の研修施設へも派遣してもらって勉強をさせてもらいました。私にしてみれば、これらがふるさとを離れて仕事をした経験になります。出向しているときには、高松-松山間や高松-高知間の路線にも乗務しました。出向で行っていないのは、四国内では高知県の窪川(くぼかわ)(現高知県高岡郡四万十(しまんと)町)だけでした。」

(2)ふるさとを離れる若者

 「昭和30年代に入っても、この地域ではバスが主力の交通手段として多くの人に利用されていました。当時は通勤のために車を購入するということは、まだまだ夢のようなことだったことを憶えています。
 また、昭和40年代にかけては、臨時の就職列車が宇和島から運行され、中学校を卒業して就職先へと出発する大勢の若者が乗り込んでいました。当時は、県内はもとより京阪神方面へ就職し、就職列車でふるさとを離れる若者が多かったことを憶えています。客車の中は若者で満員になっていて、ホームは見送りに来た家族でいっぱいでした。また、駅構内だけではなく、駅前にまで人があふれていて、見送りに来た方でも家族以外の人は入場券を販売してもらえないという状況でした。中学校を卒業して、初めてふるさとを離れる若者が多く、親御さんが心配をして宇和島駅まで見送りに来ていたのです。
 日吉の方たちも国鉄バスで宇和島まで出ていました。私が車掌としてバスに乗務していたときにも、就職でふるさとを離れる若者とその家族に数多く出会いました。バスの中はお客さんが多く、見送りに宇和島まで出るお客さんと話をするような余裕がありませんでしたが、『宇和島まで。』と言って家族の人数分の切符を購入する様子などを見ていると、『宇和島から就職列車に乗ってふるさとを離れるのだろう』ということは分かりました。宇和島駅でもバスが停車している間に、見送る家族の様子を見ることがありましたが、親子の別れを惜しむ家族を見ていると、とても悲しい気持ちになっていたことをよく憶えています。
 戦時中に出征兵士を送るときも同じような光景であったのではないかと思います。ただ、出征される方々は、就職列車でふるさとを離れる若者ほど悲壮感はなかったように思います。別れを惜しむというような、当時の風潮としては女々しいともとられかねない姿を見せないということがあったのでしょう。当時、三島から出征していく若者は、入営の時間に間に合わせるために日吉からバスに乗って大洲まで出られる方が多かったのですが、バスが高川(たかがわ)(現西予市城川町)と日吉との境の峠を越えたところで涙を流す方が多かったということを、当時の乗務していた先輩から聞いたことがあります。」

(3)協力があっての仕事

 「昭和40年代になると、マイカーの時代がやってきましたが国鉄バスの乗客が減少するということはなく、減少が顕著になってくるのは昭和50年以降になってからのことでした。日吉では単車を所有していれば良い方で、なかなか自動車には手が届かないという方が多かったと思います。国鉄バスは地元の人々の身近な足として利用されていたのです。城川や近永で勤めている人たちは、そのほとんどがバスで通勤をしていたので、通勤時間帯のバスはほぼ満員の状態で、座席に座れないお客さんには気の毒な面がありました。また、便数自体もお客さんの期待に沿えるほどではなかったのですが、どのお客さんも文句を言わずにバスを利用してくれていました。バスのほかに手段がなかったということもあるのでしょうが、バスの運行に携わっていた者としては、このようなお客さんのマナーの良さに助けられていたとも思っています。
 当時、日吉の営業所の収支は黒字で、ほかの営業所等の赤字分を補填することができていたほどでした。事務職のときには定期券の発券業務も行いましたが、通勤や通学での利用者が大勢いたので、とても忙しく仕事をしていたことをよく憶えています。とにかく『お客さんの協力があってこその運行だった。』と言えるのです。」

(4)家族サービス

 「在勤中に家族で旅行へ行くということは、あまりありませんでした。ただ、昭和32年(1957年)に結婚して家庭をもってからは、子どもの夏休みに合わせて家族サービスとしてどこかへ連れて行く、ということをしていました。私が子どものころには、旅行へ行くこと自体がなかなかできず、子どもには視野を広げてほしいという思いを強く持っていたので、島内(四国内)だけではなく、京阪神や東京の方まで連れて行きました。子どもからは今でも『あのとき連れて行ってもらって良かった。』と感謝されます。主に昭和40年代のことになりますが、当時、京阪神や東京へ行くとなると、近永から宇和島まで列車で出ていましたが、列車の本数が少なく高松方面への接続が悪かったので、宇和島で1泊してから、翌朝一番の特急列車で宇和島を出発しなければ、東京に到着する時刻が遅くなっていました。私が東京へ家族と行った時は、宇和島と高松の間をディーゼルカーの特急しおかぜが結んでおり、さらに新幹線が岡山まで開業したばかり(昭和47年〔1972年〕)でした。特急列車と新幹線を利用したので、特に岡山からの移動はスムーズにできたことを憶えています。
 当時の新幹線は『0(ゼロ)系』と呼ばれていた車両で、日吉から出て初めて0系の新幹線に乗るのに『子どもの前で国鉄の職員が駅構内で迷い、恥をかくわけにはいかない』と思い、時刻表や岡山駅の構内案内図をよく見て、発車時刻と乗車するホームの位置を頭の中に叩き込んで旅行へ行く、というくらい移動一つをとっても一生懸命でした。この後、仕事が忙しくなり、まとまった休みを取ることができず一度も連れて行くことができなかったので、『あのとき連れて行っておいて良かった』と今振り返っても思うことがよくあります。日吉から東京への旅行は、時間がかなりかかっていたので、移動だけで疲れていたことを憶えています。」

(5)仕事を振り返って

 「私が国鉄を退職した当時は、まず『これで仕事から解放されたな』という思いを持っていました。しかし、徐々に長年勤めてきた仕事から離れることに対する寂しさというものが込み上げてきました。私は『仕事に真摯に向き合って、一生懸命に勤めた』という思いを強く持っています。私自身は職場の同僚や先輩に大事にしてもらいました。また、先輩・後輩を問わず、仕事では色々と協力をしてもらいました。このようなことがあったからこそ、勤め上げられたという感謝の気持ちが強くあります。
 私にとって国鉄バスで勤務してきた時代は、『良い仕事人生だった』と思える時代です。現在、日吉には国鉄バスはもちろん、JRバスも走っていません。やはり、自分が一生懸命に頑張って働いた場所がなくなるということは、とても寂しいことだと感じています。」


<参考文献>
・国鉄自動車研究会編『國鐡自動車四十年の歩み』 1974
・広見町『広見町誌』 1985
・愛媛県『愛媛県史 社会経済3 商工』 1986
・愛媛県『愛媛県史 近代下』 1988
・日吉村誌編集委員会『日吉村誌』 1993
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『鬼北盆地の風土と人々のくらし-三間町・広見町・松野町-』 1999
・日吉村『日吉村ふるさと写真集 未来へ向けて 日吉村百有余年の足跡 日吉時往来』 2004