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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業25-内子町-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1章 昭和の町並みをたどる

 内子(うちこ)町は平成17年(2005年)、喜多郡五十崎(いかざき)町、旧内子町と上浮穴郡小田(おだ)町の3町が合併して誕生した。合併後は喜多郡唯一の町として存続している。東西に長い愛媛県の中央部の内陸に位置し、北は伊予(いよ)市と伊予郡砥部(とべ)町、東は上浮穴郡久万高原(くまこうげん)町、西と南は大洲(おおず)市で接している。町内を小田川が流れており、上流から旧小田町、旧内子町、旧五十崎町を経由して大洲市で肱川と合流し、最終的に大洲市長浜の河口部に至る。町域の大半が中山間地域である内子町は、小田川の水運を利用した物流が古くから盛んであり、内ノ子や天神が水運の中継地として繁栄した。内ノ子とは旧内子町の中心地であった廿日市や六日市(本町)、八日市に当たり、願成寺や高昌寺の門前町としても栄えた。八日市では江戸時代より木蝋(もくろう)生産が始まり、明治に入ると晒(さらし)蝋の生産で大いに発展し海外にも輸出されたために、内子の晒蝋は世界に知られることとなった。旧五十崎町の中心街であった天神では和紙生産が江戸時代より盛んに行われており、紙漉(す)き和紙の生産は旧小田町の中心地である町村や、旧内子町でも発展した。
 旧3町の中心部の周辺では、中山間地の特色を生かした産業が成長した。明治以降、養蚕が主要産業として定着したが、昭和に入りこれが衰退し始めるとクリやカキといった果樹栽培に転換し、戦後は高収益を求めてブドウやナシ、モモ、リンゴが作られるようになった。さらに旧内子町の東部に位置する大瀬地区では、戦後養蚕に代わって葉タバコ栽培が導入されて一大生産地として成長した。大瀬地区のみならず、内子町の山間地域は全国でも有数の葉タバコの生産地として知られるようになった。旧小田町では林業が主要産業として発展し、切り出した材木を筏(いかだ)に組んで肱川河口まで運搬する筏流しが昭和初期まで行われていた。現在、内子町は「町並み、村並み(さと並み)、山並み」をキーワードに、持続可能な発展を目指して町づくりに取り組んでいる。八日市地区に残る江戸期以来の町並みは、昭和40年代末より地元住民の尽力の下に保存活動が行われ、今では観光地として国内外から人を集めている。
 本章では、内子町大瀬地区の中心地である成留屋の町並みと旧小田町町村とともに中心商店街であった寺村の町並みを取り上げ、昭和の町並みと人々のくらしについてまとめるとともに、町並みを復元し、当時のくらしの一端を明らかにした。