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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業25-内子町-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 ものづくりと人々のくらし

 五十崎・天神の市街地は五十崎盆地の中心に形成され、明治後期から昭和初期にかけて河川交通に伴う物資の集積地として栄えた。また大正のころからは和紙生産の中心地として発展した。生産された和紙はこの地から白蝋(はくろう)、農林生産物などとともに積載され、長浜(ながはま)(現大洲市長浜町)まで運ばれた。また戦前から昭和30年代にかけては神南山中腹の大久喜鉱山の繁栄を受け、ふもとの商店街も潤った。昭和30年(1965年)ころの五十崎・天神の商店街には呉服店や酒造業、下駄屋などさまざまな業種の店が軒を連ね、旅館や飲食店も多く活気に満ちていたという。
 市街地周辺は肥沃な土地に恵まれ、豊かな農村地帯であったが、小田川の地形的特性により水害も多かった。そのため、流域では川の両岸に竹を植栽し、堤防の増強が行われてきた。竹は住民によって管理され、竹材は日用品などに活用されてきた。
 高度経済成長期以前の履物は下駄や草履が一般的で、各地に多くの製造業者があった。旧五十崎町は下駄の製造を主要産業の一つとし、昭和40年代には5軒の製造業者があり、県内でも有数の生産量であった。特に高級品である桐下駄製造で知られ、全国に出荷されていた。現在では、洋装化の進展とともに、需要が激減し、現在も桐下駄製造を続けているのは宮部木履のみとなっている。同工場の桐下駄は、高く評価され、愛媛県の伝統的特産品にも指定されている。
 内子盆地は竹材の生産地としても知られる。竹材は戦中から戦後の復興期にかけて、不足する金属材の代用品として需要が高まった。竹材は家の土壁の下地や建設現場の足場などの建築資材、家具、日用品をはじめとし、様々な場面で利用価値が高く、重宝された。このため多くの竹材が出荷されたほか、加工業も盛んであった。その後金属やプラスチック製品の普及により次第に竹産業は衰退していき、現在では旧五十崎町で1軒の業者を残すのみとなった。
 本節では、桐下駄製造業について、Aさん(昭和29年生まれ)から、竹材業について、Bさん(昭和34年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。