データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇何で木を切るんかいの

 こんにちは。まず自己紹介をさせていただきます。私は、昭和30年(1955年)五十崎町鳥越生まれの43歳です。昭和52年(1977年)に地元企業へ入社以来、21年間、土木一筋にやってきました。
 10年くらい前までは、ただ仕事に追われるだけの、それも与えられた図面通りのことを、漠然とこなしていく、そんな受け身的な仕事の毎日でした。
 ある日、いつものように何のためらいもなく、工事のためということで、小田川龍宮堰の少し下流で、天神側にありました、何百年以上もかかって大きくなったと思われるエノキの木などを、上流からばっさばっさと全て切り倒していました。
 そこへ、ある人が駆けつけてこられて、「この木を切らずに工事ができんもんじゃろか。誰にいうたらええじゃろかな。」ということを、工事終了までの日にちがなくなり、イライラ気ぜわしくしている私に問い掛けてきました。その時は感じなかったのですが、後から振り返ってみますと、なんか今までの土木の気ぜわしい世界とは違い、「そんなにいらついとったら早死にするぜ。」と言っていたような気がします。しかし、その時は、「なんじゃこのおっさん、切らんと工事ができんけん切るので、切らずに済むのなら、好き好んで切りゃせんわい。」と思っていました。今思えば、不思議な世界なのですが、こんなところから、小田川の川づくりが始まりました。
 ところがどうでしょう、現在は切り倒した所には下流からエノキをわざわざ移植していますし、いつの間にやら、エノキの中にあるタケの群生は「かぐや姫発祥の地」と、命名され「かぐや姫祭り」が始まりました。その後は、1本の木も切られることなく、立派なエノキの群生として残っています。その当時は、木を切らないと支障があると言われていたのですが、もちろん、工事の方も何の支障もなく全て予定通り出来上がりました。将来の五十崎のために、木を何とか残したいと思うところから始めていくのと、今までがこうだからとか、よくなるのなら少々の犠牲は仕方がない、というような従来の考えで取り組むのとでは、大変な違いとなってしまいます。その後、たくさんの人の協力のおかげで、建設省の指定を受け、他の川では例を見ない、たくさんの試みがなされた「ふるさとの川モデル河川事業」の竣工式が、今年(平成10年)の4月4日に小田川曙(あけぼの)橋の下流で行われました。その試みの一つとして、この中央公民館の前にあります、ヤナギの群生があげられます。川の改修工事をして、こんなに大きな木がたくさん残っている川はそんなにはないと思います。仮にあったとしても、小田川の例に見習って、木を残した川だろうと思います。
 平成4年ころの土木工事は、道路や川づくりにおいて一般にブロックを積んだりコンクリートを流し込むのが主流でしたので、工事が終われば、何にも植物がありませんでした。
 ところが、この小田川の現場は違っていました。工事終了直後は、何とかヤナギが残っただけのさみしい状態でしたが、その後は移植したヤナギや植樹した苗木から、毎年新しい芽がどんどん出てきますし、花も咲き始めまして、1年1年とその姿は見事に変身していきました。そして、ここには豊かな緑が戻ってきて、鳥たちが巣をつくり、昆虫たちがすみつき、枯れ葉の下は小さな虫たちのすみ家となり、再びいろんな生き物の宝庫となっています。10年、20年、100年とこの工事には終わりがありません。私は、こういった工事にかかわってみて、自然の力ってすごいなあと感じさせられ、どきどきさせられました。