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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業24-松山市②-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 中島大浦の町並み

 旧中島町は松山の北西、瀬戸内海に浮かぶ島々から成り、西は山口県、北は広島県の島々が近接する。かつては広島県の柱島を含む忽那七島と呼ばれた地域で、中世には忽那氏や二神氏といった海の領主の活躍の舞台となった。藩政時代には松山藩領の長師、神浦、熊田、吉木、饒、畑里、津和地、二神、野忽那、宮野の10か村と大洲藩領の大浦、無須喜、怒和、小浜、粟井、島尻、宇和間の7か村に分けられていたが、明治22年(1889年)の町村制の施行により、神和(じんわ)村(上怒和、津和地、二神、元怒和)、西中島(にしなかじま)村(粟井、宇和間、熊田、饒、畑里、吉木)、東中島(ひがしなかじま)村(大浦、小浜、神浦、長師、宮野)、睦野(むつの)村(野忽那、睦月)の4か村が成立した。昭和27年(1952年)になると東中島村には町制が施行され、中島町となり、昭和34年(1959年)に神和村と旧中島町が合併し、中島町が新設された。また、昭和35年(1960年)には睦野村が、昭和38年(1963年)に西中島村が編入され、旧中島町は東から野忽那島、睦月島、中島、怒和島、津和地島、二神島、由利島の7つの有人島と無人島から構成されるようになった。
 旧中島町の中で最も人口の多い中島本島の中心商店街のある大浦地区、小浜地区は三方が山となっている深い湾の奥に位置し、睦月島が前面にあって風波を防ぐ天然の良港を持つ、旧中島町最大の集落である(写真1-1-1参照)。また、役場などの公共機関が置かれる町政の中心地であり、大浦地区、小浜地区は隣接して一体化した町並みを形成している。
 本節では、昭和30年代から昭和50年代を中心とする中島大浦地区を中心とする町並みの様子や、地域でのくらしについて、Aさん(昭和7年生まれ)、Bさん(昭和7年生まれ)、Cさん(昭和17年生まれ)、Dさん(昭和17年生まれ)、Eさん(昭和25年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。



写真1-1-1 中島大浦・小浜の町並み

写真1-1-1 中島大浦・小浜の町並み

松山市     令和5年8月撮影