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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業24-松山市②-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

 (1) 中島大浦のにぎわい

  ア 中島大浦地区
   (ア) 中心だった大浦
 「中島の中心は大浦ですが、昭和40年(1965年)に新しい桟橋が大浦と小浜の中間にできるまで、松山からの船は大浦と小浜のそれぞれの桟橋に着いていました。大浦の桟橋は、現在のフェリーが着岸する桟橋よりも北にあったため、大浦の町の中心も少し北にあり、東邦相互銀行などがあったことを私(Dさん)は憶えています(図表1-1-1の㋐、㋑参照)。私の家はその辺りにあったので、父は新しい桟橋ができたら、そちらの方が栄えてしまうと新しい桟橋の建設に反対していました。
 海岸線も昔はずっと砂浜で、海岸沿いの県道もなく、往還道路と呼ばれている道が本道路で、交通の中心でした。商店が連なる往還道路は現在でも軽四トラックがやっと通行できるような狭さの道です。そのころは自転車や歩行者が中心でしたが、そこを小さなバスが走っていたことを憶えています。
 現在農協があるところよりも海側は砂浜でした。そのころ現在の中島支所がある場所には中島分校(松山北高校中島分校)がありましたが、昭和40年に現在の位置に移転しました。中島支所の駐車場になっているところもそのころは砂浜で、私も埋め立て工事に関わったことを憶えています。現在は小浜にあった桟橋も取り壊され、海岸線は埋め立てられて緑地帯になっています。」
   (イ) 商店街の様子
 「ふだんの食料品などの買い物はトミナガかフレンドでした。家から近かったので私(Bさん)はフレンドを利用することが多かったです。フレンドは一度廃業しましたが、今年(令和5年〔2023年〕)に新しい人によって再び開店しました。
 家が農家でしたので、野菜などは自給自足でした。魚は釣りに行きますし、私が子どものころは自宅で乳牛なども飼っており、牛乳を搾っていました。ニワトリも飼っていたので、卵なども自給自足でした。大浦にはそのような農家も多かったので、商店街には青果店がなく、杉原医院の前辺りの空き地で、農家の作った野菜を並べていた露店の野菜屋があったくらいです(図表1-1-1の㋒参照)。
 鶏肉の店のこともよく憶えており、そこではニワトリを多く飼っていて、おばさんがニワトリを締めて、さばいて販売しており、私たちもよく利用しました。そこでは新聞の取次もしていました(図表1-1-1の㋓参照)。
 衣類の購入は中田呉服店をよく利用しました(図表1-1-1の㋔参照)。白足袋から呉服まで様々なものを販売していましたが、店主のおじいさんが商売上手で、反物をうまく勧めていたことを憶えています。中島は嫁入り支度が派手で、ミカン景気に沸いていたころは呉服が飛ぶように売れていたようです。呉服だけではなく洋服も置いており、私たちもよく買い求めました。
 杉原医院のことも思い出深いです。昔からここで病院を開設しており、私も盲腸の手術をしてもらったり、妹がお産をしたりしたこともありました。
 小浜では、久保屋と田房という店が大きく、私たちもよく利用しました。久保屋はデパートのように食料品や衣料品、日用雑貨まで何でもそろっていました(図表1-1-1の㋕、写真1-1-2参照)。往還道路の両側にまたがって広い店舗があり、店主がハイカラだったので、品の良い食器類などの商品がそろっていただけではなく、必要なものをすぐに注文して取り寄せてくれました。」
 「私(Dさん)も久保屋にはよく行きました。よく憶えているのは化粧品で、久保屋はカネボウを田房は資生堂を扱っていました。私の同級生にも久保屋に就職した人がいますが、そのころは島に働き口があり、皆が地元で就職していました。
 田房は店舗の隣で焼肉店を開いていましたが、小浜でも大きな店で、私も家族と何度も行きました(図表1-1-1の㋖参照)。私が結婚して10年後くらいのことなので、昭和50年(1975年)くらいだったと思います。
 実家の近くには魚を購入し、それを加工して、かまぼこやちくわ、天ぷらを作って販売している店もありました(図表1-1-1の㋗参照)。酒や菓子も売っており、小さいときにはよく父に頼まれて酒を買いに行ったことを憶えています。いつも店のおばさんがあめ玉をくれました。」
   (ウ) 醬油屋と造り酒屋
 「大浦には醬油(しょうゆ)を醸造しているところもありました。戦前は2階建てで大きな柱のある広い酒蔵がありました(図表1-1-1の㋘参照)。戦後は酒の醸造をやめたのですが、2階も厚い床でしたので、ダンスホールになり、私たちも親の目を盗んでせっせと通いました。酒蔵が取り壊された跡地は畑になったので、私(Bさん)もそこで野菜を作っていたことがありました。」
   (エ) 映画館と料理屋
 「映画館はタイガー劇場と中島座の二つがありました。中島座は劇場としても使われ、私(Bさん)たちもその舞台で踊ったことがあります(図表1-1-1の㋙参照)。青年団活動が盛んな時代はその劇場で催し物がたびたび開かれました。
 そのころはミカンの景気も良く、旅館や仕出し屋でも毎晩のように宴会がありました。PTAで事業を行ったり、運動会などの学校行事のたびに、学校の先生たちも歌ったり、踊ったりしていました。景気の良い昭和元禄と呼ばれる時代で、料理屋がかなり稼いで、店舗を次々と建て増ししていき大きくなっていました。
 ミカンの価格も良かったので、農家も団体で九州や北海道に旅行に行ったりしたこともありました。当時はミカン農家に嫁ぐのが夢で、何台もの車に嫁入り道具を持たせてくれました。
 昭和一桁に生まれた私たちの世代の多くは、小学校と高等科2年で学業は終了で、それからは花嫁修業です。和裁を習ったり親の仕事を手伝いながら、20歳を少し過ぎたら親の勧める家に嫁ぎます。財産がある家では男の子が生まれるまで産んで欲しいとお姑さんに頼まれたそうです。」
 「タイガー劇場は現在私(Eさん)が経営している店舗の敷地の角にありました(図表1-1-1の㋚参照)。経営者の女性の名前がトラさんと言いましたので、タイガー劇場という名前にしたそうです。もう一つの中島座を経営していた人は興行師としても人脈があり、大相撲の地方巡業を呼んだこともありました。昭和30年代のことで、相撲巡業を呼べるということは地域自体が豊かで力があったのだと思います。」
  イ 大浦と小浜
 「銀行は二つありました。私(Dさん)の実家の近くにあった東邦相互銀行と伊予銀行です。伊予銀行はその後海岸に近いところに移りましたが、昭和40年(1965年)ころは、八幡神社の前にあり、現在も当時の建物が残っています(図表1-1-1の㋛、写真1-1-3参照)。その後土地を購入して港の近くに移りましたが、令和4年(2022年)に三津浜支店の中に移ってしまい、現在に至っています。」
 「八幡神社の参道で大浦と小浜に分けられるので、伊予銀行は大浦にあったということになります。私(Bさん)が子どものころの話ですが、八幡通りは松林のある砂浜でした。海に近い場所は全部砂場で、家が建つような土地ではなかったのですが、埋め立てをして家が建つようになりました。その辺りのことをミヤンチと言っていましたが、昔はきちんとした番地もなかったそうです。
 大浦と小浜は参道で別れているだけで、土地は続いているのですが、昔はあまり仲が良くありませんでした。小浜はサツマイモを作っており自給自足で、一方、大浦はミカンの木をどんどん植えて、景気が良かったのです。また大浦は中島でも一番大きな地区なのに、小浜地区はそれほど大きくないということもありました。そのため、私が小学生のときは、子どもも地区意識が強く、学校から帰るときにはこの道を境にけんかばかりしていました。個人的に仲の良い子の家には遊びに行っていましたが、子どもたち全体で一緒に遊ぶということはなかったように思います。いろいろな地区が協力しないと事業もできないし、催しもできませんが、昔は地区の対抗意識が強かったことを憶えています。」

 (2) 商店を経営して

  ア スーパーマーケットの経営
   (ア) 呉服店を創業
 「もともと私(Eさん)の店は、大正6年(1917年)の創業で、呉服店からスタートしました。呉服店と言っても、端切れを5枚か10枚並べて売ったり、柳行李を担いで訪問販売をしたり、創業当時は店舗があったわけではありません。そんな中で、ヨーロッパでレーヨンという人工繊維が発明されて、日本でも当時は帝国人造絹絲(現帝人株式会社)が国産化に成功しました。そしてその糸を使って着物を織ったのですが、変色しませんし、絹みたいな風合いだったので、爆発的に売れました。その情報を先々代がいち早くキャッチして中島で販売を試みました。当時は、まだ大正時代で着物の時代なのでそれが大当たりし、それを基にして店ができたそうです(図表1-1-1の㋜参照)。その当時の看板は『太物呉服E商店』でしたが、太物というのは絹物に対し糸の太い綿や麻のことを指し、大衆呉服のことを指します。
 ただそうこうしているうちに太平洋戦争が始まって、その時期は統制経済が厳しい時代でした。商品は政府から発行された配給切符をもらって、その範囲でしか買えないわけですから、なかなか商売にはならず、廃業を考えるような苦しい時代が続きました。終戦後すぐに創業者である私の祖父が若くして亡くなって苦しい時代もあったのですが、何とか呉服店を継続できました。」
   (イ) バス事業
 「戦後しばらくたつと、日本中が経済成長をしていきます。のちに団塊の世代と言われる子どもたちが爆発的に生まれたので、子どもに着せるものが必要です。小学校に入ったらすぐに制服も必要で、私のところは衣料品店ですからたくさん需要があるわけです。そのころは全国の衣料品店にとって膨大な数の子どものための制服販売はドル箱でしたので、商売というよりも供給業という感じになり、大変繁盛しました。
 その中で当時、島内には自動車は皆無で、みんなが歩きか自転車ですから、島内全域から店に来てもらうためには足が必要ということで、私(Eさん)の先代の経営者がバス事業を始めました。バスで無料で送り迎えするだけでは採算が合わないので、公共交通機関としてバス事業を始めようとしたのです。大手私鉄がやろうとしたことをここでもやろうとしたわけで、時代を先取りしていたのだと思います。それが昭和28年(1953年)のことですが、そのころ愛知機械工業が生産していた『ヂャイアント』というオート三輪車を購入してバスに改造して走らせました。ただこれが故障ばかりで、営業時間のかなりの時間は故障で修理中という状態だったそうです。また、当時主要な道路だった往還道路を走らせるのですが、現在でも軽四トラックでもぎりぎりというような狭い道です。こんな狭い道をよく走らせようとしたなと思いますが、曲がり切れないところもたくさんありました。まず道から整備しなければならず、土地の所有者に『角の少しの土地を三角に切らせてもらえないだろうか。』と要請しましたが、それにも多大な費用が掛かりますし、無理な要請なのでなかなかうんとは言ってはもらえなかったようです。
 結局、時代を先取りしてはいたものの、都会のように膨大な人口を抱えているわけではなく、実際は大赤字で、採算が取れるようにはなりませんでした。このままでは本体の呉服店も危ないというところまで追い込まれたそうですが、バス事業は昭和33年(1958年)に船とバスの町営化を計画していた中島町に買い取ってもらって事なきを得ました。」
   (ウ) 中島主婦の店
 「昭和30年代に入っても中島の商店街では昔ながらのやり方で商売をしていました。中島に限らず、そのころはどの町でも同じだったのだと思いますが、買い物代金は盆と暮れの決済です。商品は全部付けで買って、支払いは盆と暮れに集金に来てもらうというやり方です。私(Eさん)の先代経営者は、そのことに疑問を持っていたようで、そのころ『商業界ゼミナール』という商業のやり方を根本から考え直そうとする研究団体の勉強会に参加していました。そこで、ダイエーなどの革新的小売業者がセルフサービスで、全部をその場での現金取引という商売をやっているということを学び、中島でもそのような商売ができないかということを考えたそうです。それで、昭和32年(1957年)に島では画期的だったセルフサービスと現金正札制を導入しました。
 さらに『主婦の店運動』のなかでダイエーを始めとするスーパーマーケットが生まれており、松山の大街道にも1軒できたという話を聞き、中島でも『主婦の店』という近代的なスーパーマーケットができないかと考えました。しかし、呉服店ですから、食品店の経営のノウハウがありません。そこで、島内の青果店を経営していた築山さんと合弁で共同会社を作って、バス事業をやめた後の跡地に『中島主婦の店』を昭和34年(1959年)に開きました(図表1-1-1の㋝参照)。」
   (エ) 総合スーパーマーケットの開店
 「先代は先進的な考えで10年ほどは急成長を遂げたのですが、だんだんマンネリ化してきました。店舗も老朽化していく中で、それまで順調に進んでいたことがなかなかうまくいかないというようになってきました。昭和50年(1975年)ころのことですが、ちょうどそのころ、私(Eさん)が島に帰ってきたわけです。
 当時はまだ、中島本島にも8,000人くらいの住民がいました。役場の職員だけでも300人くらいいましたし、その家族も合わせると、公務員の家庭で1,000人くらいいたのではないかと思います。また町立の病院もあり、そこの先生や看護師なども全員官舎に住んでいました。銀行や農協などの勤める場も結構ありましたし、商店街もそれなりの需要があり活気がありました。大浦・小浜の往還道路周辺もほとんどが店舗で、それぞれが専門店でした。
 私の先代も当時は商工会長を務めていて、中島の商店街をどうするかという話をよくしていました。徐々にマンネリ化をしつつあり、このままではいけないという思いを持っていたようです。時代が変わりつつあった中で、当時はダイエーと並ぶ大手のチェーンストアだったニチイが、自分たちがもうけるだけではなく、日本の小売業は一つであると考え、地方の店舗を対象に一緒にやらないかかというボランタリーチェーンを組織し始めます。ニチイが取引している問屋やメーカーを全て紹介してオープンにし、店舗の作り方や運営についても教えるので一緒にやりましょうという運動でした。始まったのは昭和40年代ですが、私のところでも昭和52年(1977年)に参画しました。希望すればどの店でも入れるというものではなくて、入るためのハードルはかなり高く、つぶれかけの店ではどうしようもないので、財務内容も良くないと入れてくれなかったのですが、かろうじて合格することができました。私が大学卒業後に修業に行っていた広島県江田島の山口屋も先に入っており地方のリーダー的な存在でした。
 その中で山口屋の推薦もあり参画を目指しましたが、一緒にやっていくのだからニチイのやり方でやれるようにと1年間の洗脳教育を大阪に通って受けました。そこで従来のどんぶり勘定ではなく、近代的な小売店経営や最新のスーパーマーケット理論を学びました。要点は二つあって、一つは膨大な商品を、部門に分けるということ、もう一つは利幅のコントロールです。例えば、『中島主婦の店』で部門に分けて、野菜という部門があったとしたら、それを1年原価で売るという普通の店ではしないことをします。そうすると野菜が安いので、お客さんがたくさんやって来て野菜を買うと同時に他のものも買ってくれます。それが狙い目で、利益のミックスを行うわけです。他のとこでは利益を上げるけど、野菜は全部原価で損しても良いという強弱のある値段の付け方をするということです。それまでそんな技法は夢にも思いません。全部一律3割なら3割掛けて売る、商売とはそういうものだと思っていました。それを部門別管理によって部門ごとに管理するのです。カルチャーショックも良いところで、大阪のニチイの本社に行って、教育トレーナーから学ぶのですが、我々も1年間、月に一度、泊まり込みで、熱にうなされたように親子で通いました。
 その中で、先代と相談して、時代も変わってきているし近代的な店を作ろうということを私が主張して、先代が土地と費用の工面、私が売場と商品の準備という役割分担で現在の総合スーパーマーケットを作りました。店舗の設計は全部ニチイがしてくれ、当時から徐々に普及してきた電子レジスターを導入しました。その結果中島での買い物環境が一変し、島民の皆さんには衝撃的な大事件でした。」
   (オ) 渡海船
 「仕入れ商品は船で運ばないといけないといった島のスーパーマーケットならではの苦労もあります。フェリーもありますが、一般的な仕入れを、フェリーで運んでいたのでは高くつきすぎて採算が合わないのです。お客さんは値段に敏感ですから、それなら価格を上げれば良いというものでもありません。私(Eさん)の店では野菜を原価で売りますと言っているのに、この店は高いということになってしまうわけです。そこで渡海船を利用しています。島にとって渡海船はとても重要なインフラで、これがないとやっていけません。昔とは業者は変わりましたが、渡海船という制度は続いており、これがあるために何とか商売している人もいますし、JAの資材などもほとんどがその業者に依存しています。現在渡海船を行っている業者は一つになっており、鉄鋼船1隻で運営しています。
 渡海船はフェリーで運ぶ費用の半分とか三分の一といった値段で毎日運んでくれており、格安です。食品メーカーなどはプラスチック製で折りたためる通い箱というもので運んできます。またパンはパンで専用のケースがあります。渡海船は大浦の専用の桟橋まで来て、船のクレーンで陸揚げします。そこで2tくらいのトラックで荷物を受け取って、店舗まで運びます。」
   (カ) ホームセンターを開業
 「総合スーパーマーケットを開店して、業者の反対も一部ではありましたが、それぞれの専門の店が多かったので、そこまでの反発はありませんでした。ところが、平成の初期にホームセンターを開店したときには大反対されました。県内にもそのころディック(現DCMダイキ)などの大手ホームセンターのチェーン店が展開されていたころでしたので、中島にもホームセンターを開店したいと私も考えるようになりました。それで、大手ホームセンターの本社で交渉をして業務提携してホームセンターを作る計画を進めていたところ、商業活動調整協議会で話が進まなくなってしまいました。島内の電器店や金物店からの組織的な反対が起こり、大手のホームセンターと提携して開店することは認めないということになってしまいました。
 そのため、独力で開店するならば認めましょうということでしたが、ノウハウがないのでどうしようということになって、問屋に相談したところ、県内の中堅ホームセンターからの指導をあっせんしてもらいました。それで一から指導してもらって、商品はどこから入れる、どうやって売る、店舗はどう設計するということを全部教わり、これも島では画期的な店をオープンすることができたのです。」
   (キ) 葬祭業
 「ホームセンターを開業した後、今度は葬祭業に関わることになりました。平成も10年代になったころですが、中島では野辺送りなどの古い習慣が残っていました。葬儀となると近所中の人が出てきて、いろいろな細工物を作り、遺族がそれを持って村中を練り歩くといった昔からのスタイルが残っていたのです。
 私(Eさん)の親戚に葬儀屋ではないものの、棺などの葬儀用品を扱う取次店がありました。ところが、高齢のため店ごと引き取ってくれと頼まれたのです。固く断ったのですが、どうしてもというので、葬儀用品の仕入れ先だった松山の業者に相談したところ、これからの時代は近代的な葬儀をする会社が島でも一社は必要なのだからしてあげてはどうかと言われました。先代と相談すると、親戚でもあり仕方がないので引き受けるかということになって、親戚が持っていた在庫を有償で全部引き取り、ノウハウを学ぶために前述の松山の葬儀社に通うことになりました。かなりの指導料を払ったうえで、葬儀社もノウハウを全て教えてくれました。葬儀となった場合はどうすれば良いかとか、その当時はほとんど自宅か公民館で葬儀を行っていたので、まずは会場作りをどうするかといったことやお通夜から葬儀までのやるべき仕事は何かといったことなどをそこで学びました。
 ノウハウを学んだ後、葬祭業を仕方なく始めましたが、始めるとやはり頼りにされるので、当初は夜も寝る暇がないくらい忙しくなりました。スーパーマーケットの仕事はあるし、葬儀は待ってくれず、連続であることも多いので、体が持たないのではないかと思う時期もありました。
 しかし、しばらくたってから中島に古い焼却炉があったのですが、その炉の調子が悪いといううわさが流れるようになりました。実際には旧式ながらも問題はなかったのですが、中島では難しいと考えた人々が三津の葬儀社に依頼するようになり、葬儀の依頼が激減してもう廃業しても良いのではないかと思うくらいになりました。しかし、松山市と合併した後、新しいホールも備えた近代的な市営の斎場が島内に建設され、ここで葬儀を行うようになり、今度は逆に仕事が増えてきました。一旦は廃業を考えていたのに、面倒だなと思うこともありますが、今は以前の半分くらいに戻ったのではないかと思います。現在は喪主が松山に住んでいることも多く、松山の病院で最後を過ごす人も多いので、葬儀も松山で済ませてしまうというケースが多くなっています。
 私は会館を建てなかったことが、かえって良かったのだと思います。もし会館を建てていたなら、経済的な負担が大きく、償却もできずに負担になっていたことでしょう。現在は斎場で全て賄えているので、設営の手間が軽減され何とか継続できています。」
   (ク) 中島の村おこし
 「ホームセンターを開業したころ、私(Eさん)とミカンの有機農業をしている生産者との交流が始まりました。畑違いですが、そのメンバーの一人から、売り先がないという切実な相談をされて、私も役に立ちたいということになりました。何の当てもなかったのですが、オーガニックのミカンを島外へ売るという新たな事業が始まりました。
 私の本業はスーパーマーケットやホームセンターで、大阪の問屋や松山の市場など島外のものを仕入れて島で販売することだったので、島外へ地元の産品を売るということは考えていませんでした。ミカンを売るだけでは難しいと考え、ジュース、ジャムの製造もノウハウがゼロの中で始めました。しかしいろいろと手を尽くしたのですが、バス事業と一緒で、投資の費用がかさむばかりで利益が出ませんでした。そのため20年くらい苦しんだのですが、それを見かねてかどうか私の息子が帰って力を貸してくれるようになり、私の苦手だった通販事業にも力を入れるなど、劇的な業績向上を図ることができ、現在では何とか軌道に乗った状態です。当初は銀行も相手にしてくれなかったのですが、村おこしのための6次化を行っている健全な事業体と見られるようになりました。現在は私も70歳を超え高齢になってきているので、息子に全ての事業をバトンタッチして、全国で問題になっている事業承継を果たしたいと思います。」
  イ 薬局を経営して
   (ア) 「商業界ゼミナール」での教え
 「私(Aさん)は父が始めた薬局の2代目で、創業は大正12年(1923年)ですから、約100年になります(図表1-1-1の㋞参照)。私は薬学部を卒業してその当時は少なかった薬剤師になったあと、中島の病院に勤めていたのを辞めて、昭和35年(1960年)ころからこの店を引き継いで、調剤も始めました。薬剤師はありがたいことに資格はずっと有効なので、長年続けています。
 商売の道に入ったときにトミナガの先代経営者の門下生の第一号になり、商売に対する考え方を教えてもらいました。そしてその指導で、『商業界ゼミナール』に参加しました。当時日本の商業界に改革をもたらそうと、『商業界』という雑誌を発行していた倉本長治という人が、全国から1万人以上の商売人を集めて、箱根湯本で3泊4日といった日程で商売についての研修をするのです。倉本さんは哲学者ですから、そこで、商売というものはお客さんのためにするもので、自分のためにするものではない、お客さんに喜んでもらうためにするものであって、損得だけでしては駄目だといった教えを懇々と説かれました。さらに、そのためには経理を明確にしなければならないし、政治に首を突っ込むのもよくないといったようなことが10項目くらいあって、ただ一筋に商売に励むのだということが説かれました。
 松山の小売業界では明屋書店の先代経営者や一六の玉置一郎さんといった人がリーダーとして商業界ゼミナールに参加していました。私も何度も研修に参加しましたが、あるとき、隣に座っている人からどこから来たのですかと尋ねられたので、『道後温泉がある松山から来ました。』と答えると、『私は四日市の岡田屋です。』と言いました。あとから考えるとイオンの創業者の岡田卓也さんだったのです。その他にもダイエーの中内さんやヤオハンの創業者も商業界ゼミナールのメンバーでしたので、日本の商業を引っ張っていたのは倉本さんの弟子たちばかりでした。私もだんだんと忙しくなり、店の都合で本部の研修には参加できなくなりましたが、その後も松山での勉強会に参加して、勉強を続けました。
 まだ20代のころから商売はお客さんのためにあるという考え方を徹底的にたたき込まれましたから、昔はそんな商売をしてどうなるとやゆされたこともあります。若い人には、始めから損をするから仕入れないではなくて、お客さんのために損をしてでもたたき売れとよく言うのですが、人口も減って商売が厳しくなる中で、若い人にはなかなか通用しなくなりました。ただ、やはりお客さんのために商売をするという考え方は間違いではないと思います。」
   (イ) 島の薬局
 「現在と店の作りは同じなのですが、昭和30年代40年代は盛大に商売をやっていました。化粧品も扱っていましたし、昔は栄養ドリンクも大量に売れていました。昭和40年(1965年)ころに風邪が流行したときには、当時一般的だった風邪薬を毎日大阪にどんどん注文しました。
 その当時は子どもも多く、粉ミルクも軽四トラックに山積みにして運んでいました。家庭に子どもが5人、6人いるというのも普通で、子どもの数が多かったので、薬剤師として育児について相当勉強しましたし、近くに医院がありましたから、よく相談に行きました。現在では赤ちゃんがほとんどおらず、一年間に粉ミルクが一缶も売れません。他の地区から帰省した人が足らないので取り寄せて欲しいということはありますが、この島で育っている子どもは少なくなっています。
 薬局もやはり波があって、個人が経営する薬局や薬店が銀天街や大街道に店舗を構え、よく売れた時代がありました。私(Aさん)の店もそのグループに入れてもらって、やっていましたが、その当時は本当にお客さんも多く、利益率も高く、良い時代でした。現在はドラッグストアにお客さんが流れてしまっています。ただ、時代の流れで、ドラッグストアにはお客さんにとって安いという得、近いという得、商品が新しいという得があって、そのような得を求めてお客さんは動くためにドラッグストアの方に負けているということです。個人の薬局・薬店にお客さんが来ないのは、お客さんに不満があるからで、どのようなことをしても来てあげようという気持ちにならなければお客さんは離れていきます。
 私のところも操業100年になろうかという中で調剤も今年で辞めさせてもらいました(写真1-1-4参照)。お客さんが必要とするので少し前までは日曜、土曜なしで、年中休みなしでやっていましたが、最近になって、日曜日だけは、『12時まで寝るんじゃ。』と言って休ませてもらっています。ただ、地域に根ざして100年もたっていると、どれだけ人口が減っても重宝してくれる人がいるので、『浣腸やオブラートのためにわざわざ三津に買いに行くんか。』と元気なうちはやってくれと言われます。この年でまだ働いていると言うと人に笑われますが、地域のため、できるところまでやらないといけないと思っています。」
   (ウ) 商店会の会長として
 「昭和33年(1958年)ころだったと思うのですが、商店街の盛り上げに熱心だったトミナガの先代経営者が、『商店会』の設立を提案し、私(Aさん)も参加することになりました。法律に基づく商工会もその人が設立したのですが、商店だけの会を設立して中島の商業の振興を図ろうとしたのです。その当時は中島町の人口が1万4,000人くらいでした。私はその後昭和40年(1965年)ころから40年くらい商店会の会長をしたのですが、かつては非常ににぎやかで、子どももたくさんいたことを懐かしく思います。もともと中島では大浦と小浜が中心でした。江戸時代には大浦と小浜は大洲藩に所属しており、長師まで行くと松山藩です。大洲藩は財政が裕福なので、平地に家を建てることが許されており、商店が発達したのに対して、松山藩は財政が厳しいので、海岸と山とに家を建てて、その間の平地では米を作らなければならなかったということがあったそうです。それもあって、大浦はにぎやかな所だったので、町政とともに発展しようということで、町に大きな出来事があったときには、商店会もそれを盛り上げようとしました。例えば、昭和45年(1970年)に東中島と西中島を結ぶトンネルが抜け大浦のこの山の向こう側にトンネルが抜けましたが、そのときには商店会もスギでできたトンネルのアーチを作ってみたり、島全体の盆踊りを一か所に集めて行ったりしました。
 また商店会では年に二回の大売り出しを企画したりもしました。夏の大売り出しと冬の大売り出しで、冬の大売り出しは、年末ではなくて2月の旧正月に行っていました。中島ではミカン栽培が盛んなので、ミカンの収穫が終わった後の2月になると農閑期に入ります。そこを狙って大売り出しをするのです。売り出しの期間は15日くらいだったと思うのですが、商店会に加盟する皆で日にちを決めて、チラシや抽選券を全部作って、印刷します。金券でお客さんに手渡すものですからきっちりとしなくてはなりませんので、三津の大沢印刷というところで印刷していました。一番盛り上がっていたときには松山からチンドン屋を呼んだこともありますし、大売り出しに合わせて抽選会を行ったり、仮装行列を企画したり、様々なことを行って商店街を盛り上げようとしました。
 毎年のことですから催しをそれほど多くはできませんので、お客さんを集めるためにはどうすれば良いかを皆で考えました。ただ抽選会だけでは集まりにくいので、マンネリにならないように、いろいろな企画を考えたのです。松山北高校中島分校が今の市役所支所の場所にあったのですが、現在支所の駐車場になっている所が高校の運動場だったので、そこでアヒルレースの大会も何回かやりました。今考えたら馬鹿みたいなこともしましたが、その当時は一生懸命にやったことを憶えています。
 私が一番思い出に残っているのは昭和30年代のことですが、抽選会の一等の景品を沖縄旅行3名にしたときのことです。当選者が決まったのですが、当時はまだアメリカの施政権下で、ドルしか通用せず、円が通用しなかったのです。当選した三人とも誰か一緒に行ってくれないと行くことができないと訴えたので、しっかりした一人の人に付いて行ってもらうことになったのですが、パスポートも必要で、ドルに両替する必要があり大慌てでした。
よくこんなことを思いついたなと思うのですが、当時は商品もよく売れたし、豪華賞品を奮発することができました。それで、お客さんが喜ぶようにと計画したのです。
 売り出しは平成20年代くらいまではやっていましたが、人口も減り、売り上げも減り、商店も減り、会長も若い人に交代して立て直しを図ったのですが、運営ができなくなってやめることになりました。全盛期は『やれ』、『前へ進め』でしたが、個々の商店の売り上げと関係なく企画しているので、商品を出す必要があるのに、売り上げが少なくなると難しくなります。
 商店街にも多いときには42軒あった商店が現在では10軒くらいしかありません。人口の減少とともに商店街は寂しい状態になり、商店会は8年くらい前に解散させてもらいました。」
   (エ) 中島の観光施設と商店会
 「現在、長師の姫ケ浜には『ほしふるテラス姫ケ浜』があります。もともとは姫ケ浜荘と言って、町営の宿泊施設だったのですが、町が昭和30年代に手放して、建て替えた施設の運営を商工会と商店会が担当することになりました。主に商工会に任されたのですが、私(Aさん)は商工会の副会長を長い間勤めていたので、毎年夏になると順番に、観光ゴミの処分といった仕事を当番で行っていました。観光客を増やして売り上げを上げなければということで、商工会と商店会が運営に長い間協力していたわけです。ただ、店も人手が必要なのに、妻が一人で店番をしていたので、『店主はどこにいったんぞ。どうしてそんなことをしているのか。』ともよく言われました。私も商店会の会長や商工会の仕事などいろいろな事に参加しており、よく店を空けるので、妻がいないとどうにもなりませんでした。全部一手に引き受けて何十年とやってくれましたので、感謝をしています。
 松山市と合併するまでは私たちが協力して運営していたのですが、現在ではNPOを作り、そこが運営することになりました。松山市が資金を出し、令和2年(2020年)に施設も建て替え、『ほしふるテラス』としてリニューアルオープンをし、現在は非常に盛況になっています。市会議員さんの発案で、スプラッシュビーチという施設もできて、子どもがたくさん来ていると聞いています。」