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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業24-松山市②-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 中島の産業と人々のくらし

 旧中島(なかじま)町は柑橘(かんきつ)栽培を基幹産業とする地域である。昭和40年(1965年)には就業者に対する農業従事者が60%を超えており、専業農家率の割合も高い。また全耕地面積1,660haに対して、樹園地が1,490haと柑橘に特化した農業が行われている。
 また、忽那諸島の周囲には、瀬戸内海有数の好漁場が広がっており、漁業も盛んで、刺網、一本釣りなど、島ごとに特色のある様々な漁が行われている。特に同40年ころにはタイが漁獲高の半分以上を占めるなど、忽那諸島を代表する魚種であった。また同年ころの漁獲量ではタコつぼ漁によるタコの水揚げ量もタイに続いて多かった。昭和62年(1987年)からヒラメの養殖に着手するなどとる漁業からつくる漁業への転換も目指された。
 海を背景にした産業の一つに造船業がある。藩政時代の末期に中島大浦に創業した岡島造船所が旧中島町の造船所としては最も古いものである。他の島にもそれぞれ小型の船を造る1、2軒の造船所があったが、昭和30年代に小型・中型の鋼船の建造が盛んになる一方、木造の機帆船の需要が下火になったため、中島大浦の岡島造船所と大内造船所が切り替えに成功するのみであった。二神島にも豊田、前田の2造船所があったが、昭和40年ころには豊田造船所を残すのみとなった。
 本節では、中島本島の漁業についてAさん(昭和35年生まれ)、Bさん(昭和47年生まれ)から、二神島の造船業と人々のくらしについてCさん(昭和28年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。