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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業24-松山市②-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 中島の漁業

 (1) タコつぼ漁を行って 

  ア 中島の昭和40年代、50年代の漁業 
 「昭和40年代はまだ物価が安い時代でしたが、海も豊かで漁獲量はかなりありました。中島では一本釣り、ゴチ網(タイ網)、建て網(刺し網)、底引き網、一本釣り、採貝採藻漁業(サザエ、アワビ、ウニ、海藻を採取する漁業)など様々な漁法がありました。その当時は、海藻類などは高くは売れませんでしたが、タイなどの値段はまあまあ良かったようです。今と比べて船の装備が良くありませんでしたが、それが必要ないほどよくとれました。昭和50年代にはだんだんと船の装備も良くなって、漁獲量がさらに増えました。その当時はタコだと多いときには1日500kgくらいとれていましたし、ゴチ網でも1晩で1tくらいとれるときもありました。そのころは値段も良かったので、良い時代だったと思います。
 私(Aさん)は、主にタコつぼ漁と一本釣りを行っていました。時期としてはタコつぼ漁が、12月から大体8月の中ころまでなので、その時期が終わると一本釣りを主に行っており、1年を通して漁に出ていました。一本釣りは季節によって違いますが、タイやアジ、メバル、ハマチなどを狙っていました。」
  イ タコつぼ漁
 「もともと私(Aさん)の祖父がゴチ網漁をしていたのですが、それを私の父の兄が長男だからということで継ぎました。それで父は同じ職種で混合しない方が良いということで、タコつぼ漁を始めたそうです。ある島では網代(あじろ)(場所)がなくなるので、長男以外は残ってはいけないというルールがあったそうです。そのように人数制限をして、競合しないようにしていたのだと思います。
 タコつぼは多いときには全部で3,000個から4,000個のつぼを入れていました。1本のロープにつぼが150個から200個くらい付いています。つぼの間隔は10mに一つですから、1本で2㎞くらいあることになります。それで3,000個から4,000個のつぼを海に入れておきます。つぼは11月末くらいからだんだんと入れ始めますが、シーズンの始めの方はまだ浅い所にしかタコはいないので、1,000個くらいから始めて、だんだんと6月から8月の最盛期になるにつれて増やしていきます。12月の寒ダコの時期には1,000個くらいしか入れませんので、数が限られます。そのころは毎日上げてもタコがいないので、上げに行くのは3日に1回とか、潮の良いときだけです。それだけだと漁獲量が少ないので、一本釣り漁に行くというような別のことをやりながらタコつぼ漁も行うという感じです。最盛期になると3,000個から4,000個のつぼを入れます。つぼは入れたままで、大体1日に1,200個から1,300個くらいのつぼを順々に2日から3日のサイクルで引き上げます。そうすると、最盛期には300kgから400kgの水揚げがあり、時には500kgになることもありました。
 朝は大体5時くらいから漁に出て、ローラーでロープを上げ、そして落とすまでに、つぼの中のタコを出してという繰り返しをするわけです。1,300個上げるのに、大体12時くらいまで掛かるので、7時間くらいの作業です。ただ、つぼがなくなったり、修理が必要だったりすることもあるので、もっと時間が掛かることもありました。
 昼までには漁を終えて、三津の市場に運びます。私は神浦なのですが、そこから三津までは約20㎞あり、30分で行っていました。とれる量が多かったので、一日に2回くらい市場に行くこともありました。とれる量が多いときには、何度も市場に行くことが大変だったことを憶えています。その当時は安いときでも1kg当たりの値段が500円くらいしていたので、25万円くらいの売り上げになりました。今は全然タコがいなくなったので、1kg当たりで2,000円は切らないと思います。その当時は、仕事を終え帰ってからタコつぼの修繕や新しいタコつぼの入れ替えを行ったり、一本釣りに行ったりすることもありました。
 タコのえさは、私たちは小貝と呼んでいましたが、小さなアムール貝のような貝で、それが砂地にびっしりとじゅうたんのように底一面に湧きます。そのえさを狙ってタコが集まるので、それに合わせてつぼを入れる位置をだんだんと小貝の湧くところに伸ばしていきます。えさがあったら、タコも繁殖するのですが、現在はその貝が少なくなってしまい、タコも15年くらい前からすっかり減ってしまいました。
 漁場は浜から1,000mが自分の漁場になります。混合しないように、取り決めがあって、網漁の人は網を陸から2,000m以内に入れてはいけないということになっていました。ただ、密漁被害に遭うこともあったので、夜の番をしたりすることもありました。密漁はたいてい島外の人で、本来底引き網やゴチ網は岸から2,000m以上離れた本船航路を中心に引いていくわけですが、魚がいるところを狙って漁をするので、ルールを無視してタコつぼのあるところに入って、タコつぼを引っ張ることもあったのです。そのため、朝に行くとタコつぼがないということもあったので、一日中探して時間を無駄にするというようなこともあり、底引きやゴチ網漁の人ともめることもありました。
 神浦を漁場とするタコつぼ漁をする人は2隻いて、漁場は毎年交代していました。横に2,000mのロープがあってそれを同じように入れていくわけですから、混合しないように、どこからどこまでと範囲を決めてやるわけです。また、神浦の隣の東中島や西中島、二神島にもタコつぼ漁をしている人がいたので、そこの漁師とも範囲を話し合って決めていました。ただ、そうしても底引き網などが引っ張っていき、他の漁師のものと絡み合うこともあり、大変な思いをしたこともありましたが、それでも水揚げ量も多く、もうかっていたので、やれていたのだと思います。
 タコつぼは1年間に1,000個くらいはなくなっていたので、毎年1,000個ずつくらい買う必要がありました。プラスチック製ですので、割れることはなくなりましたが、そのままだと浮いてしまうので、沈むように重りとしてセメントを入れないといけませんので、結構手間は掛かります(写真2-1-1参照)。
 昭和40年代はまだ唐津焼のつぼだったのですが、昭和50年代に入るころからプラスチック製に変わり始めました。私が子どものころはわらを編んで作ったロープでタコつぼを縛っていました。タコつぼを上げるためのローラーは私が10歳くらいのころにはすでにあったことを憶えています。現在では船を波止に横付けして機械で陸揚げするので便利になりましたが、私が子どものころは砂浜に船を着岸してあゆみを渡して1個ずつ降ろしていましたし、積むときも同様でした。私が始めた当初は現在の3倍も4倍も労力が掛かったのではないかと思いますが、だんだんと楽になっていきました。」
  ウ 一本釣り漁
 「私(Aさん)の主な漁であるタコつぼ漁が終わる9月以降は一本釣りが中心でした。船で漁場へ行って、アジやタイ、サバ、メバルなどを狙っていました。その中でもタイが高級で、1kg当たり5,000円、時には2万円するときもありました。それで、タイを一枚釣ったら5,000円くらいになっていたので良い稼ぎになっていたのです。燃料やえさ代といった経費を使っているので、それがそのまま日当というわけにはなりませんが、そういう時代が続いていました。一本釣り漁を行っていたのは、刺し網もタコつぼも両方やるというのは問題なので、一本釣り漁は道具もそろえることが容易で、手っ取り早かったのです。タコつぼをしてさらに網もやることになると、『何をお前は都合の良いことしているのだ。』となりますので、やはりそこはバランスを見ながらです。刺し網と釣りとか、ゴチ網と釣りとかどこもそのような感じで、秩序を守るということがあって何でもやるというようなことは避けていました。
 一本釣り漁はどこへでも行けますが、神浦周辺で行うことが多かったです。中島周辺のいろいろなところに行きましたが、一本釣りをしている漁船が多く仕事にならないときもありました。
 漁協では漁礁を沈めるということも行いますが、その目的は二通りあって、一つは産卵場所を作って魚の居着く場所を作ること、もう一つは漁場を分けることです。例えばここに良い漁場があって5隻の船しか釣れませんというときなどに、その近くにも漁礁を沈めてそこにも魚が居着いてこの場所では2隻の船が釣れますということになると、全部で7隻の船が漁をすることができるということです。現在は漁師が減ってきており、そこまでの必要はありませんが、昔は漁師が多かったので、そのようなことをする必要もあったのです。もちろん産卵場所としての役割が大きいのですが、漁場を分けるということも当時は大きな意味があったのです。ただ、どこにでも漁礁を沈めたりすると、網が入らなくなるとか、タコつぼができなくなるとかといったこともありますので、バランスを取りながら、お互い我慢しながらやっていました。」
  エ 養殖
 「中島ではかつては養殖業も盛んで、のりの養殖や真珠の養殖を行っている人もいました。東中島ではヒラメの養殖も盛んで、当時はかなり稼ぐことができる人が多かったことを私(Aさん)は憶えています。現在ヒラメ養殖は魚価も低くなり、ほとんどの人がやめました。今は神浦の隣の宮野というところで、サバの養殖をしている業者があります。もともとは九州から来た業者ですが、多機能の波止の内側で生けすを設置してサバの養殖を行っています。」
  オ 魚価の良い時代
 「昭和50年代から平成の初めころまでは量もとれて高く売れ、漁師の稼ぎも良く、収入も安定していました。それで、寝る時間を惜しんで漁に出る人も多くいました。農家もミカンの繁忙期以外は釣りをしたり、網を入れたり、いろいろなことしながらやっていました。それもあって兼業の漁師が多くなっています。
 神浦だと、以前は兼業の人がとった魚は生けすで生かしていたものを私(Aさん)が市場へ運んでいました。漁協に持ってきても良いし、自分で市場へ持っていっても良いのですが、魚価も安く、ミカンの値が良いということもあり、現在はそこまでして魚をとりません。かつては夜も寝ないでメバルを釣りに行ったりしていたのですが、現在は『もうええわい。』と言ってそのようなことがなくなりました。」

 (2) 愛媛県漁業協同組合中島支所運営委員長として

  ア 漁獲量の低下と組合員数の減少
 「昔は漁だけで食べていた人も多かったのですが、今では少なくなりました。漁業協同組合も現在は愛媛県漁業協同組合に合併しましたが、合併前は旧中島町で中島漁協と中島三和漁協と二つの漁協がありました。もともと中島本島だけで東中島、西中島、神浦という三つの組合があったのですが、それに所属する組合員がかつては800人くらいいました。その三つの組合が平成11年(1999年)ころに合併して中島漁協となり、今から10年くらい前に野忽那島、睦月島の漁協が編入しました。中島三和漁協は津和地島、二神島、怒和島の三つの漁協が合併して一つの組合となったものです。
 県漁協中島支所の今年(令和5年〔2023年〕)の7月時点の組合員は、正組合員は中島本島が71人、睦月島が15人、野忽那島が9人で合計が95人で、准組合員が中島224人、睦月島28人、野忽那島15人で合計267人、合わせて362人です。正組合員は一年間で90日以上漁に出る人ということになっているので、この数字を見てもほぼ兼業ということが分かるのではないかと思います。正組合員も兼業の人がほとんどで、今では漁だけで食べている人は30人くらいとなり、それもかなりの高齢の人ばかりになっています。
 私は20年くらい前から組合の理事をしており、15年くらい前に組合長になりました。20年くらい前には一年で1,000万円以上稼いでいた漁師がたくさんいましたが、現在は少なくなってしまいました。今70歳くらいの人がばりばりの現役だったころは、とにかく魚に良い値段が付いていました。タイなどでも1kg当たり4,000円とか、5,000円の値段が付いていました。それが今なら1,000円くらいしか付きません。メバルなども、一番良いときで1kg当たり4,000円くらいしていたのが、現在では半分くらいの値段です。それでもまだましな方で、それはメバルには家庭での需要があるからです。かつてはタイやヒラメのような高級なものが売れており、接待などの需要があったので、高いほど、見栄えが良いほど需要がありました。
 また、磯枯れの問題や海がきれいになりすぎたために栄養塩が少ないといったいろいろな要因で、海も変わってきました。それで漁獲も少なく、とても値段が安くなって、利益が出ないので漁に出なくなり、漁師が減っています。私が漁を始めた40年くらい前には漁獲量もあり、値段も良かったので、魚のとり合いでけんかが起こることもありました。海には線を引けないので、声の大きな人が勝つといったこともあったのですが、漁師に勢いがありました。
 逆に柑橘は良くない時代でした。温州ミカンとイヨカンが大半だったので、10月から温州ミカンが採れて、それから、12月末から1月末にかけてイヨカンを収穫していたので、4か月が勝負でした。今は品種がかなり増えて、9月から5月、6月まで収穫時期が分散しています。そうすると、需要と供給のバランスが良くなり、イヨカンにしてもその他の品種にしても値段が上昇しました。ミカン農家も繁忙期が集中しなくなって、仕事も楽になったそうです。平成の初期には、ミカン1kgあたりの値段が50円とか60円という時代が何年もあったのですが、今はハウスで手間を掛けて作る単価の高い柑橘類が登場してきました。そのため、中島では現在はミカン農家に勢いがあるようです。」
  イ 松山ひじきのブランド化のために
 「私(Aさん)たちは漁師に夢を持って仕事をしてもらうために魚価を上げなければならないと思い、『松山ひじき』というブランドを立ち上げました。私が小さいときは、ヒジキ1kg当たり300円から400円でしたが、その後だんだんと高くなって1,000円を超えるようになってきました。ヒジキは岩場に生えているものを採るのですから、経費があまり掛かからないので魅力的な商品なのですが、その値段を上げるために県漁連や松山市がトップセールスを行ったり、いろいろなシステム作りをしました。さらに九州の業者を引き込んだりして、どうしても入札で松山産のヒジキを買わないといけないような仕組みを作りました。そうすると需要が増えて、1,600円、1,700円していた三崎(伊方(いかた)町)産のヒジキを超えるような値段が付くようになって、今年(令和5年〔2023年〕)は今までの最高値で1kg当たり2,700円といった値が付くようになってきました。
 ヒジキは中島全域で採れますが、今年はなぜか西に面している海にはあまり生えなかったようです。漁協も値段を上げる仕組み作りだけではなくて、6月から7月にヒジキの胞子の入ったスポアバッグを投入し、ヒジキの生育地域を増やす取組をしています。
 ヒジキの解禁日は中島では3月末から4月に掛けてで、5月までが採取の期間です。潮の満ち引きは15日単位で、その期間を一潮と呼んでいますが、一潮違うとヒジキの生育状況や重さが全然違うので、それを検討しながら、解禁日を決めています。他の島では3日間開けて、それから閉め、それからまた次の潮に3日開けて、閉めるといったことを繰り返している地域もあり、漁場に合わせた採り方をして生産性を上げています。採るだけでなく、採ったヒジキはゴミなどを取り除き、乾燥させ、製品として出荷します。」
  ウ 第一次産業の必要性
 「なぜ第一次産業が必要なのか、私(Aさん)は二つあると思っています。一つはもちろん食料としての供給ですが、もう一つは領土を守るため、必要不可欠な職種だと思っています。中でも大切な話は領土を守るということです。農業で言えば、例えば水田がなくなると大雨のときに貯水の役割を果たさず洪水が起きやすくなり、耕作放棄地が増えるとがけ崩れなどが増え、甚大な被害を及ぼすことも考えられます。漁業で言えば、由利島はDASH島で有名になりましたが、この島はかつて多くの人が住んでいたのに、無人島になった島です。そのように人がいなくなった島には、瀬戸内海の真ん中でさえ、どこかの国に占領されることもあるかもしれません。そのため第一次産業に従事する人が絶対に必要で、そのために第一次産業を衰退させてはならないと私は考えています。」
  エ 神浦のくらし
 「松山市に合併する前には、小学校は中島東、中島南、天谷小学校の三つがありました。私(Aさん)は神浦に住んでいるので南小学校に通いました。私が子どものころは粟井と大泊を校区とする城山小学校があり、小学校が4つありました。それが昭和52年(1977年)に城山小学校が東小学校に統合されて三つになり、現在では小学校が一つです。私が中学生のときは、4クラスと5クラスの学年があったので、三学年で合わせて500人くらい生徒がいました。昭和40年代から昭和50年代には旧中島町で中学校は三つで、怒和と睦月、中島中学校でした。そのため津和地島、二神島の子どもが寮生として中島中学校に来ていました。そのころは旧中島町の人口が16,000人くらいいたのですが、今は3,000人を切るようになっています。私たちの時代は子どもがたくさんおり、神浦の児童で集まり、山に行ったり、海に行ったり、みんなが公園や広場で遊んでいました。」

 (3) ヒジキ漁

  ア 漁を始める
 「私(Bさん)はもともと別の仕事をしていたのですが、30歳くらいのころに漁師になりました。私の父が、漁協の准組合員として漁業権を持っていたので、名義変更をして私が漁を行うようになったのです。もともと近所の知り合いの漁師の手伝いをすることもあったので、働いたら働いた分お金になるし、自分にも合っているのではないかと思って漁を始めたました。ただ、始めるといっても船も必要で、お金も工面しないといけませんし、苦労をしました。
 家はもともと饒にあったので西中地区で漁を始めましたが、そのころは中島の漁協も別々でした。父のころはよく釣れていたサバやアジを狙っていましたが、私が始めてからは刺し網を主に行い、メバルを狙っています(写真2-1-2参照)。今こそ漁獲が少なくなっていますが、私が始めた20年前はまだまだ大丈夫で、多くの魚がとれていました。そのころはメバルも一日に100kgくらいはとれていたのですが、現在は10kgとか15kgくらいの漁獲です。
 刺し網は1日1回行い、夕方に網を入れて、朝の2時ころに上げに行きます。魚を外しながら網を上げて終わったら、市場へ持って行きます。網を上げるだけだと1時間ほどで済みます。しかし、網を繰って魚を外すという作業を繰り返すので繰り返しと言っていますが、繰り返して魚をはずすために、魚が多いときは2時間くらい掛かることもあるので、魚を上げて市場に持って行って帰ってくるまでに3時間から4時間は掛かります。
 網の高さは3mほどですが、長さは全部で300mから400mあります。真っ直ぐに入れることができれば良いですが、岩礁のある所に入れるので、岩礁の形に沿って入れるために、3か所から4か所に区切って入れます。
 100㎏とれていたときは良かったのですが、現在はかなり減少し、網だけではしんどいので、ヒジキ採取などをしなければならないようになりました。若いころは一つのことに集中した方がもうけになると聞いていたのですが、今はいろいろなことに手を広げていかないと御飯が食べられなくなりました。網もやるし、一本釣りもやるし、ヒジキも採るしというような感じです。」
  イ 一本釣り
 「現在は3月の解禁日から5月一杯までヒジキを採るので、その間、網は休んでいます。それ以外のときは、網漁と9月ころから1月くらいまでは一本釣りをやります。私(Bさん)の場合、刺し網はほとんどメバルで、一本釣りは船で出てハマチを狙っています。
 潮の良いときを狙って行くのですが、青物が相手なので、必ず食うとは限りません。そうすると、船を出したら赤字になるということもあります。一本釣りのとき、私はよく怒和島と中島の間のクダコ灯台の辺りまで行きますが、往復で燃料代が1万円ほど掛かってしまうので、1匹2匹釣れただけでは全く利益が出ません。
 一本釣りでは一日に200kg釣ることを目標に行っています。昨年(令和4年〔2022年〕)だと3kgくらいのハマチがよく釣れていたのですが、そのくらいのサイズのものが70本から100本を目標に一日掛けて漁をしていました。3kgだとハマチにはならなくてヤズですが、1kg当たり200円から300円くらいしていたので、300円だと200㎏で6万円ほどになります。そこから1万円ほどの燃料費を引くと5万円になりますので、それを目標にして行っていたのですが、やはり食わないときもあります。
 一本釣りに行くときは、潮にもよるのですが、大抵夜明け前に出発します。潮が良い状態である限り、ずっと釣りをしているので、釣りは長い時間が掛かります。目標を達成すると戻ってくるのですが、なかなかうまくいきません。
 手釣りで、胴付き仕掛けという7本から8本の針をサビキ状にして付いてあるものを使い、えさはなく、とばしと呼んでいる餌木(えぎ)で魚を狙います。網より経費は掛かりませんが、2日に一度、針をやり替えるので、針だけで1シーズンで10万円くらいの経費が掛かります。
 市場へはその日の夕方に釣った魚を持って行きます。翌朝の競りに掛けるためです。市場が休みのときには船を係留している港に自分の生けすを作ってあるので、その中に入れておいて、次の日の市に掛けるように、他の仕事を終えてから持って行きます。刺し網のときは、漁が終わる朝に持っていくのですが、釣りの場合は朝から昼にかけて釣りをするので夕方になるわけです。」
  ウ ヒジキ漁
 「もともと私(Bさん)の母が値段の安いころからヒジキを採っていたので、網漁のない時期にはヒジキの方が良いのではないかと考え、ヒジキ漁を行うようになりました。現在は3月ころから5月一杯までヒジキを採るのですが、その時期には網漁は行いません。
 3月の解禁日になると、潮が引いたあとヒジキの生えている岩場に行ってヒジキを採っています。以前は海につかって海の中のヒジキを採ることもありましたが、そういうところは陸から行くことができるので漁協の組合員になっている農家も採りに来るため、その人たちから潮が引いてから採れと苦情が出ていました。今はミカンの値が良いので採りに来る人も少なく、今までは海につかりながら採っていたのだから元に戻した方が皆も多く採れて良いのではないかと思っていますが現在でも潮が引いてから採るようにしています。ただ、現在はヒジキなどの海藻類も磯焼けがひどくなって採れる量は減ってしまっています。
 ヒジキは10年ほど前から値段が良くなってきたので、私もヒジキ漁に力を入れるようになりました。漁場は決まっておらず、私は西中地区所属なので西中地区でならどこに行って採っても良いので、早い者勝ちです。ただ、大抵それぞれの漁師にいつも採る所があります。この辺を採るからと言うと、他の人はあまり来ないようです。お互い、遠慮してやらないと皆が採れません。
 現在、解禁日は3月から4月に掛けてですが、かつては1月でした。海藻は不思議なもので、冷え込むと成長し、暖かくなるとそれほど伸びません。今は海水温が上がってきているので、以前と比べると生育が遅れるようになっています。1月だと、以前は70cm、80cmになっていたのが、今は20㎝、30㎝にしかならないようになっており、そのため7、8年前から解禁日を3月に遅らせています。
 3月になると場所にもよるのですが、伸びている所だと80㎝から90㎝になっています。ヒジキは、根元から10cmくらいの所を切って収穫します。残しておくとまた分裂が始まるので、根元は少し残しておくように言われています。
 ヒジキは手鎌で収穫するので、収穫は大変な作業です。収穫したヒジキは袋に入れて、岩場からあゆみを掛けて船に運んで、港まで持って帰ります。さらにそこから人力でトラックに積んで、乾燥する場所に持って行って乾燥させます。運ぶだけでも大変な手間です。
 私は今年(令和5年〔2023年〕)乾燥したヒジキを130袋くらい出荷しましたが、一袋が10kg入るので、重さにすると1tと300kgほどです(写真2-1-3参照)。それも乾燥させたものですから、乾燥させる前のヒジキだと多分13tくらいのものを刈っていることになります。それだけの量を手で刈り取って、運び上げているので、とても大変な作業です。最近腰を痛めてしまいましたが、ヒジキの値が良いのでやれる作業ではないかと思います。
 また、潮が引いていないと採れないので、採取場所には干潮の時刻の2時間くらい前までに行きます。それで潮が引いている間に採りますので、最大限で3時間半くらい刈れますが、そこまでの時間作業ができることはあまりありません。それでも1度行くと2時間以上は採っていると思います。また干潮は1日に2回あるので、私は暗いときにも行きます。ヒジキは二人でしか採ってはいけないことになっているので、そうしないと量が採れないのです。妻と二人で夜中にも行きますので、その時期は本当に寝る間がありません。1日に2回採りに行って、帰ってきたら天日で乾燥をさせるために並べる作業をしなければならないからです。ただ、最近は体が持たなくなってきたので、夜はなるべく休んだり、1日置きにしたりするようになりました。」
  エ ヒジキの乾燥
 「採ったヒジキは、粟井の集落の漁港に隣接して埋立地があり、コンクリートで舗装されているのですが、そこで乾燥させるようにしています(写真2-1-4参照)。乾燥前にはコンクリートの表面に砂があるので、エンジン式のブロワーで掃除してから乾燥させています。現在粟井ではヒジキを採っているのが私(Bさん)のところだけになるので、敷地全てを使って乾燥させています。広いスペースなのですが、それでも十分ではありません。
 乾燥させるためには好天が続いたとしても、4日は掛かります。くもったり、雨が降ったりすると1週間以上掛かるときもあります。乾燥させて、表面が乾いたらひっくり返して裏面を乾燥させます。乾燥が終わったら、重さを量って袋に入れますが、そのときに、ごみを取らなければならないので、ブルーシートの上に一度置いて選別作業をしなければなりません。乾燥させたヒジキは触るたびにばらばらになりますから、ブルーシートの上で作業をするのです。出荷用の袋の大きさは直径が60㎝くらいで、高さが90㎝くらいの袋で、その袋一つに10kgの乾燥させたヒジキを入れます。ヒジキは集められて漁協でまとめて入札に掛けられますが、近年では九州の業者が多く購入して、加工しているようです。
 ヒジキを採るのも大変な作業ですが、陸に上げて、乾燥させるのが相当な手間が掛かるとても大変な作業です。乾燥させるためには採ったヒジキを厚さにむらのないように広げなければならず、時間も掛かります。そのときに私は後でひっくり返しやすいようにヒジキをある程度の大きさの円形や四角形にして乾燥させています。乾燥させたヒジキはひっくり返すときにつながっているためです。
 乾燥させているときにはいろいろなことが起こります。ある日風の強いときには、ヒジキが飛ばされてじゅうたんを巻いたようにぐるぐる巻きになっていたことがありました。急な雨に降られることもありますが、急な雨はどうしようもありません。雨に降られると、塩分が抜けるためかなり軽くなりますし、寒いときの雨だとまだ大丈夫なのですが、暖かい雨だとヒジキが赤くなって製品にはならなくなります。雨が降るときは集めてシートを掛けたりするだけで大分違うので、天気予報を常に意識をして仕事をしなければなりません。今年(令和5年〔2023年〕)は雨が多く、晴れの日が3日間続くことがなかったので、ヒジキを入れたり、出したりで本当に弱りました。」
  オ 使用する船
 「私(Bさん)は現在、用途によって船は全く違うので、3隻を主に使っています。ヒジキ用が6mくらい、網用が8mくらい、それから一本釣り用が11mくらいの長さの船です(写真2-1-5参照)。そろえるだけで費用が掛かります。全てFRP(強化繊維プラスチック)製で、新造船はなかなか購入できないので、中古ですが、エンジンを新品にやり替えているものもあります。
 網用の船は一度買い換えました。もともとはドライブ船(船内外機船)だったのですが、後ろのスクリューがよく故障していたので、古くなってきたのを機に新しく中古船を購入しました。
 燃料は軽油を使っていますが、一本釣りの時期になると、1か月で燃料代が20万円以上必要になってきます。今は燃料が高くなって、200ℓのドラム缶で1本2万円を超えます。始めたころは7,000円くらいでしたので、値段は3倍になってしまいました。1ℓ当たり30円ほどの免税措置がありますが、それでも大変です。燃料は漁協で購入しており、船のある港までドラム缶で持ってきてもらっています。船や燃料以外にも網なども消耗品です。1日で破れるときもあれば、1か月持つときもありますが、漁には経費が掛かって大変です。」
  カ 西中島地区でのくらし
 「私(Bさん)たちが子どものころと比べて中島も大きく変わってしまいました。人口が少なくなり、多くの店がなくなってしまいました。子どものころは5月、6月ころの時期になると、朝起きて港を見るとタイなどの大きな魚がすぐそばを泳いでいましたが、現在は何もいません。メバルの小さいものとか、私たちがツバクロと呼んでいるスズメダイとかがせいぜいで、全く違うようになってしまいました。
 もう今はなくなってしまいましたが、私は天谷小学校に行きました。多くの人がいた中島東小学校などと違って、同級生が20人くらいの小さな学校でした。一つ、二つ上の先輩はもう少しいたようですが、同級生はそれほどいませんでした。
 私が住んでいた饒にも商店が2軒あったことを憶えています。吉木にもありましたし、集落ごとに商店があって、食品や駄菓子などを売っていましたが、今はもうありません。過疎になってしまってもう大変です。あと10年すると、今の60歳代の人が70歳代になってしまいます。中島では現在60歳代の人が最後の人口の多い世代なので今後さらに人口が減ってしまいます。
 私も漁師をやるのが20年遅かったと思うことがあります。もう少し早く始めるとお金になったのに、少し遅かったようです。今はミカン農家の時代です。少し前まで、農家の人に出会うたびに『銭にならん。』と言われていたのですが、5年くらい前から誰からも言われなくなりました。働いたら働くだけお金がついてくるのだから、誰もそんなことを言いません。世の中お金だけではないけれども、結局お金がなかったら何もできません。」