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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業25-内子町-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 葉タバコ栽培

(1) 戦後、葉タバコ栽培への転作

  ア 大瀬地区の葉タバコ栽培

 「私(Aさん)は、大瀬地区の中心地である成留屋の北に位置する大久保集落という山里で生まれ育ちました。成留屋にある小学校や中学校まで徒歩で上り下りしながら通っていました。片道約6㎞の道程ですが、急な斜面があったりしますから約1時間かけて学校に通っていました。そのころの成留屋は、店が建ち並んでいて日々の生活に必要な物はそこでそろえることができていました。私の父は麦やトウモロコシを栽培していましたが、私の記憶ではそれまで周りにたくさんあった桑畑が戦後になって葉タバコ畑に変わっていき、私の家でも葉タバコ栽培を始めたことを憶えています。子どものころから農作業を手伝い、収穫した葉タバコを運んでいました。オイコに竹で編んだ籠(かご)を付けているのですが、葉タバコは背丈が高いので、籠も高さがあるものだったと思います。
 四国では、徳島県で戦前から葉タバコ栽培が盛んだったのですが、愛媛県では戦後になってから広まっていって、養蚕から葉タバコ栽培に変化していったのです。葉タバコ栽培の拡大に伴って、各地区に指導員が置かれ、それらをまとめる専売公社の指導員が付くようになりました。学校を卒業後に農協職員となった私は、葉タバコ栽培の指導員として働き始めました。私が職に就いた昭和20年代は養蚕指導員や営農指導員といった職員が農協に勤めており、葉タバコ栽培も一つの部署として成立していました。指導員は生産農家に対して生産から出荷までの各行程のアドバイスを行うだけでなく、生産者と専売公社との間に立って事務仕事を遂行する、生産農家と専売公社の橋渡し役だったといえます。就職して間もない私は、香川県にあったたばこ試験場に派遣され、そこで1年間葉タバコの栽培や出荷に関する専門知識を勉強しました。
1年間の研修を経て、私は大瀬地区の葉タバコ栽培を受け持つようになりました。葉タバコ畑に赴くこともありましたが、大半は事務所での仕事に従事していました。初めのうちは、専売公社の職員と一緒に生産農家に赴いて葉タバコの種まきから収穫までの方法を教えて回りましたが、やがて何年か作っていくうちに生産農家の方が熟達していくようになりました。また、私たち指導員は葉タバコ栽培で使用される資材の調達も行っていました。新芽を寒さや霜から守るためにかぶせる三角キャップも調達していました。普通、1反(約10a)当たり何本と植え付け本数が決められていたので、事前に必要数を算定することができていたのです。葉タバコ栽培が盛んなころ、大瀬地区では農家の半分以上が葉タバコを作っていたと思います。」

  イ 葉タバコ農家を継ぐ

 「私(Bさん)は旧内子町中心街の北に位置する立山地区の農家に生まれ、家では葉タバコも栽培していました。立山地区は旧内子町の北部にありますので、旧中山(なかやま)町との関わりも深かった地域です。中山は商売人の町としての特色があり、昔は中山からこちらまでクリを買い付けに来ることもありました。『中山栗(ぐり)』という名前で有名ですが、その中には旧内子町からのクリも入っていたのです。
 私の父は人を雇っていたくらいなので、いろいろな作物を作り手広く農業を営んでいました。私は5人兄弟の一番年上だったので、よく農作業を手伝わされていたことを憶えていますし、小学生のころは農繁期になると学校が2、3日休校となって稲刈りを始めとする農作業の手伝いをしていたことを憶えています。そのころ、秋から冬にかけては炭焼きが農作業の中心になっていて、これは当時の旧内子町のどこでも見られた光景だったと思います。葉を落としたクヌギやナラを炭に加工して、当時の内子駅の周辺には木炭がたくさん集められていました。父はクリやシイタケを栽培しながら葉タバコも作っていましたが、徐々に葉タバコ栽培が中心になっていきました。当時は農業以外に収入が得られる職がなく、農業の中で確実に現金収入が見込める葉タバコ栽培は魅力があったのです。
 私は、当時内子高校にあった定時制に4年間通い、昼間は家の農作業を手伝って夕方から学校に通っていました。国道56号が通学路でしたが、そのころの国道は舗装されていなかったし、自動車が通ることも少なかったことを憶えています。私はバスと自転車を利用して高校に通い、町内にある大岡製作所に勤めている人も定時制に通っていて、クラスは20人くらいいたと思います。友人も多くできて、のんびりとした時間が流れている時代だったと思います。
 高校に通っていたころ、役場に勤めている知り合いから『手伝いに来てくれないか。』と声を掛けられ、臨時職員として勤めていたことがあります。しかし、そのときの日当が300円から350円くらいで大変に安く、当時内子の町には映画館が2軒あって土曜日に役場で半日勤めた後、高校に行くまでの時間で映画を見に行くと150円くらい掛かっていました。その日の日当がなくなるくらいだったので、『これでは生活できないな』と思い、そのころ葉タバコの収入は役場の給料より比べ物にならないくらい良かったこともあって、実家の農業を継ぎました。内子を出て就職することも考えましたが、当時は町内に農業後継者事業会という組織が作られていて、『農業後継者は金の卵』などと積極的に就農を勧めていた時期でもありました。
 葉タバコは良い収入が得られると言いましたが、当然ながらいい加減に作れば大した収入も得られず、頑張って良い品質の葉タバコを作ればそれに見合う収入が得られていました。葉タバコ栽培は4年前にやめて、今はその跡地でキウイフルーツやカキ、クリを栽培していますが、おかげ様で葉タバコ栽培をやめるまで良い収入を得ることができました。頑張らないと良い収入が得られないことは、どの職業でもいえることなのではないかと思います。」

 (2) 葉タバコ農家の1年

  ア 冬から夏の作業

   (ア)葉タバコの収穫まで

 「『葉タバコ栽培ほどせわしい仕事はない。』と言っていたくらい、葉タバコ栽培は1年を通じていろいろな仕事がありました。昔は葉タバコの苗を植え付けた後にかぶせる三角キャップも自分たちで作っていたことを私(Aさん)は憶えています。葉タバコは収穫後に乾燥作業を行う必要があります。葉タバコをまとめて干すために葉タバコを結わえる縄も自分たちで作っていましたし、それらの製作は冬季にやっていました。栽培工程は2月から始まり、2月10日前後から種まきをして苗床を作っていました。後になって共同の苗床作りの作業場を設けた時期もありますが、苗床作りは各家庭でやる作業で、寒さや霜の対策のために屋根を設けた場所でやっていました。4月上旬になると、育成した苗を畑に植えていき、植え終わると遅霜に備えるための三角キャップをかぶせていきました。6月に入ると早くも収穫が始まり、並行して乾燥作業も始まって、8月の盆のころまで、収穫と乾燥の両行程をこなしていく大変忙しい時期が続いていきます。」

 「私(Bさん)は妻と両親の4人で葉タバコ栽培をしていました。葉タバコの苗は春に植えますが、葉タバコは霜に弱いので、その時期を避けるために春先に植え、遅霜対策として三角キャップをかぶせていました。苗の植え付けに向けて冬場に畑の土起こしを行って畝を作っていく作業があり、現在は機械でやっていますが、昔はくわで行っていました。
 葉タバコが成長すると、次に『芽かき』の作業を行います。1本の幹に17、18枚の葉を付けることが理想なので、それより数が多くならないように芽が出てくると取り除き、残った葉を太らせてニコチンを蓄えさせていました。同じ目的で、花が咲く前にそれを取り除く『心止め』という作業をして、花に栄養が回らないようにしていました。
 葉の収穫は6月から始まり、下の方から順番に取っていきました。8月の盆の時期までには取り終えるようにしていて、厚みのある大きな葉を選び抜いて収穫していきますが、残りの葉が10枚前後になると一度取ることを控えておいて、後でまとめて収穫する『総かき』と呼ばれる作業をして収穫を終えていました。葉を取り終えた後、残った幹は全て引き抜いた上で乾燥させ、焼却処分をします。これを『残幹処理』と言いますが、幹は畑の肥料として利用できるように思われますが病気が発生する恐れがあるため、全て焼却処分していました。幹は大きいので、焼却処分は大変疲れる作業でした。昔は乾燥した幹を風呂場の焚(た)き物にしていたこともありますが、燃やすと独特の臭いが出ていたことを憶えています。
 収穫を終えた葉タバコ畑は1年から2年休ませることが理想ですが、それでは収入が得られませんので連作を行います。すると、今度は連作障害に伴う病気が心配で、一番怖いのは立ち枯れが起きて全体が黄色に変色して葉の質を著しく落としてしまうことでした。消毒をして防いでいましたが、薬品が劇薬であったので濃度をはじめ、取り扱いには相当注意していました。」

   (イ)専売公社による生産管理

 「葉タバコの作付面積は、毎年専売公社から指定がありました。専売公社は諮問機関である『葉たばこ審議会』の答申を受けて毎年の生産量を決めていました。私(Bさん)たちの方からも、『次はこれだけ作りたい。』というように、希望する生産量を専売公社に提出していました。専売公社は、良い品質の葉タバコを納めていた生産農家には希望する量を認めていましたが、逆に成績の悪い生産農家には希望を下回る量の指定をすることがありました。葉タバコの栽培中に専売公社から植付け数の確認を受けていました。一つの畝が実際に数を数えられてそれを基に反別の作付け本数を確認するもので、認められた本数より多い場合は数を減らすように厳しく指導を受けていました。」
 「専売公社の方から1反(約10a)当たりの作付け本数が決められており、私(Aさん)たち指導員は実際に畑に行って確認を行っていました。生産農家は多く買い取ってもらいたいですから、規定よりも多く作付けしている人も中にはいたことを憶えています。1本の葉タバコに17、18枚の葉を付けさせていますが、葉の付いている位置から下葉、中葉、天葉と呼んでいました。質の高い葉は中葉にあることが多かったと思います。下葉は厚さが薄く、天葉は身が厚いものの色づきが上々ではないといった特徴がありました。身が厚い方が葉に含まれるニコチンの量が多くなります。下葉から収穫していき、等級が高くなると判断した中葉を収穫した後、残った葉を一斉に収穫して作業を終えていました。乾燥の作業と並行して行っていましたから、全ての葉を一斉に収穫することは不可能で、計画的に収穫と乾燥を行っていました。
指導員は収穫にも立ち会っていて、実際には収穫の前日に畑に行って、どこの葉を収穫するのか確認していました。収穫は早朝から行われ、朝4時から収穫を行うところもありました。1軒が収穫を始めると周りの農家も競争意識を持つようになりますので、『あそこが4時からなら、うちは3時から収穫する。』と言っていた人もいたことを憶えています。」

   (ウ)葉タバコ栽培の苦労

 「葉タバコ栽培はきつい仕事だと、私(Bさん)は思います。苗植えの後、一つ一つの苗に三角キャップをかぶせる作業は重労働で、植付け時期を遅らせて、さらに苗を深く植付けることで霜の被害を抑える工夫をしていましたし、私は不織布のシートを畝に掛ける方法をやっていました。収穫期は梅雨から真夏の時期に当たるので、暑い中で畑に入って収穫する作業は大変です。葉にはニコチンが蓄えられており、それが空気中に発散されていますから、ヤニと呼んでいる黒色で粘性のある物が身体に付着します。じかに付かないようにするため長袖の衣服で作業をしていますが、それでも人によっては肌がかぶれてしまうことがあります。初めのうちは全て人力でしたが、後になって機械が導入され、U字を逆にした形の機械が畝をまたぎ足の所にはキャタピラーを付けて前進し、両側の足にベンチが付いているので、座った状態で作業ができる物でした。ただし、平地の畑に向いている機械であり、私の農地は傾斜地にあるので使えませんでした。作業全般において、葉タバコの農作業は腰をかがめてするものなので、きつい仕事でした。50歳になるころまでは両親が健在で葉タバコも多く栽培していましたが、その後夫婦二人で行うには大変な作業で、繁忙期(植付け、芽かき、収穫)には人を雇っていました。体が付いて行かなくなったこともあり、だんだんと面積を減らして4年前に葉タバコ栽培をやめました。」

  イ 葉タバコの乾燥作業

   (ア)乾燥場の変遷
 「収穫した葉タバコは、乾燥させることによってしっかりと水気を取っていました。黄色く色づける必要もあって注意深く乾燥を行っていました。戦後、葉タバコ栽培が普及したころ、乾燥場は土蔵でした。そのため蔵を建てる大工が大瀬地区にもたくさんいて、大工にとっても乾燥場を建てることが良い収入源になっていたことを私(Aさん)は憶えています。乾燥場の土蔵は、通常の蔵と違って外見を良くしたり漆喰(くい)を塗ったりする必要はないため、安く建てることができていました。骨組みを組んだ後に土を当てるように塗っていくだけの簡単な造りでしたが、中の温度を保つためにも分厚くする必要がありました。乾燥場の中は、二間四方(1辺約3.6m)の広さで、天井に通気口があることが通常の蔵と違いますが、通気口を塞いでしまえば物置の蔵として転用することができました。だから、乾燥場としての役割を終えてからも物置として利用されていましたし、現在でも残っている土蔵があると聞いています(写真2-2-1参照)。乾燥場を建てるに際し、専売公社から建設費用の2割に当たるお金が補助金として出されていました。また、3軒くらいの生産農家が共同の乾燥場を建てることもありました。それらは作付面積が広くなかった農家同士だったと思います。
 乾燥場の温度は徐々に上げていって、最終的に70℃まで上昇しますから相当に熱くなります。温度設定や同一温度での乾燥時間については、専売公社から指定があって資料が送られてきていました。」
 「乾燥作業は一般に5昼夜と言われるように4日から5日間掛かっていました。私(Bさん)の家では、初めから自前の乾燥場を持っていました。最初は薪を焚いて乾燥をしていて、土蔵の外に焚き場があって煙突も付いていました。燃料については、私が二十歳になるころには薪から重油に変わり、やがて灯油へと移っていきました。熱を中に伝えて乾燥させるのですが、熱が上がりすぎると葉が燃えることがありましたから、乾燥中は付きっきりで火の番をする必要がありました。
 乾燥場の中は床下に管が巡らされていて、そこに熱を伝えていました。管は土管から鉄管へと変わっていきました。始めに水分を抜く工程があり、次に黄変といって葉を黄色に色づけていく工程がありました。さらに幹の乾燥を行って、最後に中骨と呼んでいた葉の筋の乾燥をして仕上げていきますが、完成品は葉が折れるくらい乾燥させないといけないので、乾燥作業中の要所要所で乾燥室に入って状態を確認していました。乾燥室内は最終的に70℃まで上昇しますが、のぞき窓から見ていても実際の感触は分かりませんので、短時間で乾燥室に入っていたことを憶えています。乾燥が終わると、自然に熱が下がるのを待っていましたが、そのときに葉の方には適度の湿気が取り入れられていました。
 土蔵の乾燥場は、後に大型トラックのコンテナのような形状をした乾燥機へと発展して、私も購入しました(写真2-2-2参照)。幅が約2m、奥行きが約5mのサイズで、燃料は灯油を使ったボイラーでした。土蔵のころは縄で葉タバコを結わえて、乾燥場の中に洗濯物を干すように引っ掛けていましたが、新しいものは鉄製のハンガーで挟んで引っ掛けるだけでよくなりました。土蔵は高い建物でしたので、梯子(はしご)を使って上の方まで引っ掛けて6段くらいつるす場所がありましたが、倉庫型は奥行きがあったので高所に引っ掛ける必要もなくなり、高価な機械なら手元の高さで葉タバコを挟んだ後、自動で高所まで移動してくれていたそうです。温度設定や継続時間、次の温度への変更等、すべてがコンピューターによる自動管理となり、気になるところだけ数値を変更すれば良い機械へと発展していきました。初めのうちは、昼間に収穫をした後で縄結びをして乾燥を行っていたので夜遅くまで仕事をしていましたが、自動化が進んでいくと夫婦二人で収穫して、その日のうちに乾燥機に入れる作業をしても夕飯までには済ませることができていました。葉タバコ栽培をやめた現在は、乾燥機を物置として使用しています。」

   (イ)共同乾燥場

 「専売公社の指導もあって、地区単位で共同の乾燥場を建てることが奨励されました。年々乾燥施設が新しくなって、施設を整える費用が掛かるようになったことが共同乾燥場を建てる理由でした。大瀬地区には、昭和60年(1985年)に大きな共同乾燥場が建てられました。4棟の建物が並ぶ施設で、その中に乾燥場が40個作られていました。建設に際し、農協や町の方からも補助金を出してもらって建設しましたが、乾燥場の役割を終えた後は高齢者介護施設を建てる等、跡地利用を計画することで支援してもらいました。現在も建物は残っていますが、葉タバコ農家が急激に減っていきましたので利用する人はほとんどいないと思います(写真2-2-3参照)。大瀬地区には、共同乾燥場の他にも出荷可能な乾燥葉タバコを集める収納所も建てられていました。私(Aさん)が指導員として働いた大半の時間は、葉タバコ栽培で活気に満ちていた時期でしたので、現在の様子を見ると大変寂しい気持ちになります。」
 「専売公社はできるだけ費用を抑えて葉タバコを栽培させることを目指しており、共同の乾燥場や堆肥製作場を建設することを奨励していたことを私(Bさん)は憶えています。立山地区でも共同乾燥場が建てられましたし、国内でも有数の規模を持つ乾燥場が大瀬地区に建てられていました。ただ、実際に利用してみると予想していたよりも費用が掛かることが分かりました。施設が大きいために、その維持管理に費用が掛かっていたのです。また、土地は借用地だったので最後は施設を解体する必要があり、それにも多額の費用が掛かることが見込まれました。結局、立山地区の乾燥場は資材価格が上昇し始めたころに早めに解体することになりました。」

  ウ 乾燥葉タバコの出荷

 「乾燥した葉タバコは、製品とならない葉を取り除いた後で、40kgごとにまとめて出荷していました。規格が細かく定められていて、重ねた葉の厚みは70㎝を超えてはいけないので、圧搾機に掛けて形と重さをそろえてから布で包んでいました。こん包された葉タバコは、初めのうちは内子駅近くにあった収納所に納められていましたが、やがて香川県の収納所に運ぶようになっていきました。香川県は葉タバコ生産量が非常に多かった地域でもあり、原料事務所が置かれていました。現在は熊本県に置かれていると私(Bさん)は聞いています。
 実際には、専売公社が手配した運送業者がこん包した葉タバコを集荷して、収納所に運んでくれていました。出荷した後、集められた葉タバコは鑑定がなされてランク付けが行われていました。自分たちが鑑定の場に立ち会うことは認められており、その際の日当も専売公社から支給されていました。
 鑑定の場には耕作者組合の方が立ち会って、生産農家の側に立って鑑定の助言を行ってくれていました。鑑定者は、専売公社のOBがなっていて葉タバコに関する専門的な知識と経験を十分に持っていました。自分たちが鑑定に立ち会った場合、自分が納めた葉タバコに対して発言することは認められていましたが、専門的な知識を持つ職員の中で発言することはなかなか難しかったことを私は憶えています。それでも、鑑定の結果について、『もう少し(良い鑑定が付くように)どうにかならないですか。』などと言ったことを憶えています。
 鑑定の場でこん包された葉タバコを一枚一枚めくって鑑定することはあまりなかったので、品質の良い葉が外側になるようにこん包していることが多かったと思います。それでも、ときどき葉をめくって中の葉を鑑定することがあって、そのときに外側よりも品質が劣る葉を見て鑑定結果が下がることもありました。その逆の結果もまれに起きていたそうです。
 基本的に、出荷した葉タバコは等級による価格差はあっても全部を買い取ってくれます。ただし、まれに『この葉タバコは製品として使えないので持って帰って処分してください。』と言われることもあったそうです。品質の問題もありましたが、何らかの理由で専売公社が在庫を多く抱えることになって、その年の買取量が減少し鑑定が厳しくなったと聞いたことがありました。」
 「私(Aさん)のような指導員は旧内子町で5人ほどいました。私が担当していた大瀬地区では多いときで400戸超の農家が葉タバコを栽培していました。そのため、個々の生産農家の乾燥葉タバコの出荷日の計画と運送の手配で、私も相当に忙しく働いていたことを憶えています。大瀬地区の出荷と鑑定のために1か月間割り当ててもらっていたくらいで、私一人では処理しきれないので、農協から応援の事務員を一人、そのときだけ付けてもらっていました。
 個々の農家への連絡手段ですが、『総代さん』と呼んでいた代表者を選んでいて、総代さんを通じて諸々の連絡を回していました。昭和30年代から40年代にかけて各家庭に電話が置かれていない時代でしたから、総代さんには本当にお世話になっていました。総代さんには生産農家と私たちの間を取り持ってもらっていましたから、1年の作業が終了すると総代さんたちを旅行に連れて行っていたことを憶えています。研修旅行と言っていましたが、総代さんには日ごろ手当を支給していませんでしたから、1年間お世話になったお礼として企画していました。
 乾燥した葉タバコは、専売公社の収納所に持って行きますが、乾燥した葉は品質によって等級が付けられます。後の時期になるとABC級と分けられていましたが、それ以前は1級から6級までの等級が付けられていました。
 私たち指導員は葉タバコの鑑定の場に立ち会い、その日のうちに生産者に支払う金額の計算を行っていました。だから、即日で生産者に代金を支払うことができていたのです。鑑定の場で、私たち指導員が『この方はよく頑張って作られているから、良い等級を付けてくれませんか。』と口添えをすることもあって、生産農家の人たちが良い収入を得られるように気を配っていました。
 生産者が立ち会うことが許されていましたから、良い鑑定をもらおうと鑑定結果に不満があればその事を伝えることもできていました。鑑定士は相当な知識と経験を兼ね備えた人だったのですが、生産者の方も長年栽培していると自分が出した葉タバコの等級が予想できていましたから、自分の見込みと異なる場合にはいろいろと言って粘っていた人もいました。
 葉タバコの出荷を終えて1年の仕事に区切りがつくと、その労をねぎらう目的で生産農家の人が集まってお祝いをしていたことを憶えています。地元の集会所が会場で、農家のお母さん方が料理を作る場合もあれば、料理屋から持ってくる場合もありました。年に1度のお祝いの会であり、みんな楽しみにしていましたから大いに飲んで盛り上がっていました。私も呼ばれて御相伴にあずかりましたし、専売公社の人が呼ばれることもありました。」

 (3) 葉タバコ生産の縮小

 「最盛期の葉タバコ農家の戸数は、旧内子・五十崎・小田町で1,300戸ほどあったと私(Aさん)は憶えています。農家にとって葉タバコは貴重な現金収入源でしたし、葉タバコを作っていないところはカキなどの果樹を作って現金収入を得ていました。近所や同業者で競い合って作っていましたから非常に活気があり、作付面積を増やす増反が行われていました。
 しかし、昭和の終わりごろより一転して減反へと移っていきました。喫煙者が減ってきたことや外国産の安い葉タバコが入ってきたことが理由として挙げられますが、日本専売公社、その後の日本たばこ産業株式会社は奨励金を出して減反を進めていきました。生産農家の方でも後継者不足が目立つようになって、減反や他の作物への転換、さらには廃作の事例が増えていきました。この辺りでは、葉タバコ畑から果樹畑への転換が多かったと思います。」
 「葉タバコ栽培が最盛期だったころ、旧内子町の葉タバコ販売額は約20億円だったことを私(Bさん)は憶えていて、それは全国で第2位の額だったと思います。年に2、3回『たばこ新聞』という機関紙が送られてきていて、そこに記されていました。県外から葉タバコ栽培の様子を視察に来ることもしばしばあって、私の畑にもよく来ていたことを憶えています。
 私は葉タバコ以外での現金収入を求めて、温州ミカンを栽培していたことがあり、30歳代から20年くらい続けました。海沿いではないので適作地ではありませんでしたが、当時は旧中山町から旧内子町にかけてミカン栽培が広まっていて、私たちもそれに合わせて栽培を行って、少しは収入が得られていたと記憶しています。
 昭和の終わりころからタバコの需要量が減少してくると、専売公社が補助金を出して廃作を勧めてくることがありました。これまでに4回ほど大規模な廃作があって、その都度葉タバコ栽培をやめる生産農家がありました。需要量は減っていきましたが、同時に生産農家の数も徐々に減っていったので、栽培を続ける私たちの作付面積が狭められることはありませんでした。
 現在、周りで葉タバコを栽培している農家はほとんど見当たりません。愛媛県でも葉タバコ農家は7軒くらいだと聞いていますし、その中で内子町は3軒だそうです。私がやめるころは県内に30軒から40軒の葉タバコ農家があったと聞いていましたが、すぐ後で日本たばこ産業からの廃作の奨励があって、それで大きく減ったようです。」


写真2-2-1 現在も残る蔵の形をした乾燥場

写真2-2-1 現在も残る蔵の形をした乾燥場

内子町            令和5年11月撮影

写真2-2-2 コンテナ状の乾燥機の内部

写真2-2-2 コンテナ状の乾燥機の内部

内子町            令和5年11月撮影

写真2-2-3 大瀬地区にある葉タバコ共同乾燥場

写真2-2-3 大瀬地区にある葉タバコ共同乾燥場

内子町               令和5年7月撮影