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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業25-内子町-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 農業・鉱業と人々のくらし

 内子(うちこ)町は愛媛県の内陸部に位置し、町域の多くが中山間地域に属し、平地は小田川沿いのわずかな土地に限られている。斜面地を棚田や段々畑として利用し、古くから養蚕業や果樹、葉タバコの栽培が試みられてきた。大正から昭和初期にかけて養蚕業が最盛期を迎えたが、昭和恐慌や戦争の時代の到来とともに急速に衰退し、農家は米、麦、イモの栽培に取り組んだ。
 戦中戦後の食糧難の時代を過ぎると養蚕に代わって葉タバコ栽培が拡大し、特に旧内子町の主幹作物の地位を占めるまでに成長した。日本専売公社(現在は日本たばこ産業株式会社)による一括買い上げは農家にとって確実な現金収入の方法であり、旧内子町を中心とした喜多郡地域は全国有数の葉タバコ生産地として知られた。活況を呈した葉タバコ栽培であったが、昭和末期から平成の初めにかけて専売公社の民営化や喫煙率の低下、さらには安価な外国産葉タバコの輸入によって国産葉タバコの需要量が年々低下していった。その他、生産農家の後継者問題もあいまって現在内子町内の葉タバコ農家は数軒になっている。
 旧内子、旧五十崎(いかざき)、旧小田(おだ)町内では、古くからカキやクリといった果樹栽培が自然条件と適合しており栽培が続けられていた。戦後、昭和30年代より高収益を求めて新たな果樹栽培の可能性を模索する動きがみられ、ミカンの適作地ではなかったこの地では、モモ、ブドウ、ナシ、リンゴの栽培が試みられていった。昭和40年代以降、付加価値の高い果樹栽培が求められる中、昭和51年(1976年)に旧内子町に観光リンゴ園が開園し観光農園の先駆けとなった。以降、多くの観光農園が開園して県内外から多くの人が訪れている。
また、旧五十崎町の神南山では銅鉱石が地上で採れていたことが江戸時代後期から知られていたが、明治以降に採掘が行われるようになり、昭和4年(1929年)に昭和鉱業株式会社(現在の昭和KDE株式会社)が採掘権を取得するに至り、大久喜鉱山として本格的な採掘が行われることとなった。戦時中多くの銅鉱石を産出した大久喜鉱山は、戦後も引き続いて銅鉱石を産出し、神南山中腹には鉱山関係者によって一つの町が形成されていた。大久喜鉱山は昭和46年(1971年)に閉山したが、鉱山で勤務した人々によって鉱山生活の姿が語り継がれてきた。
 本節では、葉タバコ栽培について、Aさん(昭和12年生まれ)、Bさん(昭和21年生まれ)から、ブドウ栽培と観光農園について、Cさん(昭和15年生まれ)、Dさん(昭和16年生まれ)から、大久喜鉱山の様子について、Eさん(昭和15年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。