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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業24-松山市②-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

 (1) 戦時中の記憶

  ア 松山空襲の記憶
 「戦時中はとにかく人を増やさなければということで、政府や軍隊が人口増加の施策を行っていました。ただ、その後始末が大変だったのですが、現在ではそういうことを知っている人間がいません。同級生とも話しますが、私(Aさん)は昭和20年(1945年)に北予中学校(現愛媛県立松山北高等学校)に入学して、昭和30年(1955年)に薬科大学を卒業するまでの10年間は『金なし、食うものなし、下宿なし』という三つの苦しみの時代だったと思います。言い放題、ぜいたくのし放題、食い放題という今の時代にそのようなことを言っても馬鹿にされるだけなので言いませんが、そのような時代がありました。この島でもそうで、同級生だった松尾元町長と以前同級会で話したのですが、町長が『私たちの時代はイモばかりの時代それで大きくなった。』と言っていたので、私は『それは違う、イモがあったら良い方だった。』と答えたのですが、イモすらないので、雑草の中に麦を入れて食べていました。今までよく生きてこられたなと自分で思うくらいです。『下宿していたらそんなもんだ。』と皆で大笑いしましたが、今の人には絶対に通用しない話で、仕方のないことは言いません。
 戦争が始まったのは小学5年生のときで、私は中学校に同20年の4月に入学しました。その年の8月に終戦ですので、入学した当時は軍事教練がまだあったことを憶えています。運動場に整列させられて、軍人勅諭を暗唱させられるのですが、暗唱が詰まったりしたら、『練兵場一周。』と命じられます。当時は上一万のほうから、松山工廠と陸軍の練兵場がありました。それを一周走らされ、遅いと『もう一周。』です。7月26日深夜の松山空襲のときには鉄砲町の下宿にいたのですが、始めは本町の方で爆弾が爆発する音がして、その後もどんどん爆弾が落ちてきました。火災が起こったので、下宿先のクリーニング屋の店主が『おい、学生、出てこい。これから火災を消しに行くぞ。』と、昔からある両側から押す手押しポンプを持ってきて、10mくらい走ったところで、近くにばらばらと爆弾が落ちてきました。『もう逃げよ。』と言われたので、何もかも放り出して、今の線路の所を通って、護国神社の近くの川に逃げ込みました。現在はきれいに舗装してありますが、当時はどぶ川で、そこへ5、6人が逃げ込んで、朝まで動くことができませんでした。あたり一面火の海で、学校も焼け、城山も見えなくなったので、『松山城も全部焼けた。』と言っていました。朝になると、学校は全部燃えていましたが、『松山城は残っているぞ』と思ったことを憶えています。朝になって、三津まで歩いて行きました。中島から4、5人が下宿していましたが、特別船で私たちを迎えに来てくれていました。夏休みが終わったあとは、焼け跡整理ばかりで、北高も東高も燃えてしまっており、生徒皆がモッコを担いでがれきの整理をしました。その当時一緒に逃げた人間で生きているのは私一人です。学校は入学したときは北予中学校でしたが、途中で松山北高校に変わりました。
 生きていくのに必死だった時代で、中島から下宿して高校入学から大学まで特に私は長い下宿生活で両親にも迷惑を掛けたと思います。そのためやはり次の代にも少ないながらも私の力一杯してやらなければと思いやってきました。」
  イ 戦時中の島のくらし
 「戦時中はとにかく恐ろしかったことを憶えています。私(Bさん)は昭和7年(1932年)生まれなので、終戦の年は高等科の2年生で卒業の年でした。その年の8月15日に学校の校庭に全員集合と言われ、そのころは疎開をしている人も含め、運動場からあふれるくらいに子どもがいました。校庭に集まると朝礼台の上にラジオが置いてあり、玉音放送を黙って聞きました。その玉音放送があったとたんに、あれだけうるさく飛んでいたアメリカ軍の飛行機の音も静かになり、その晩から灯火管制も解除されたことを憶えています。
 それまでは夜になると、灯火管制で、黒い布を電灯に巻いて、下だけが明るく見えるようにするので、窓の外は真っ暗でした。家がないので爆弾を落としても意味がないと見えるようにするためです。そんなことをしても焼夷(い)弾を落としたら明るくなるわけですが、私たちは黒い布を巻いた電灯の明かりの下だけで勉強して育ちました。終戦後電灯も明々とともして良いということになり、戦争が終わるというのはこんなにも良いことなのかとしみじみと思ったことを憶えています。
 戦時中は学校の運動場の半分がイモ畑でした。学校にはランドセルではなく、ほごろ(わらで編んだかご)を背負って来いと言われ、八幡神社の裏で肥料にするため拾った落ち葉を、イモ畑の溝へ埋めます。靴もないので、皆がわら草履を履いていたのですが、私は自分で草履を編んでいました。また、防空頭巾をかぶって通いました。私たちは空襲、空襲という中で育ってきたのです。
 戦後進駐軍が島に来たので、それを見て恐ろしく思いました。学校にも来ましたが、私たちはがたがた震え見つからないように逃げていたことを憶えています。しかしたくさんチョコレートをくれ、優しく、一切暴力を振るったり、乱暴な行動をしたりすることはありませんでした。
 戦時中だけではなく、戦後も食べ物には苦労しました。農家でしたが、ミカンは腹を満たしませんし、島なので米と麦を栽培する水田も限られています。さらに戦時中はミカンの木を切ることを強制されて、山の頂上の方まで、イモ畑でした。自給自足の生活でしたから、そのころは畑があるということが強みだったと思います。町の方から娘の振袖を持ってきて、イモと交換してくださいとやってくる人もいましたし、疎開している人も食べるものに苦労していました。
 私の家は農家だったので、そこまでひもじい思いをしたことはありませんでしたが、それでも8人兄弟でしたので、いろいろな物を食べなければなりませんでした。私たちはイナゴも食べたし、スズメも食べました。何でも口に入るものは食べ、カタツムリも食べました。焼くと意外とおいしいものです。スズメもおどしを仕掛けておいて、米でスズメを集めてひもを引いて一網打尽にします。捕まえたスズメは羽根をむしって、肉も骨も食べました。私たち兄弟は皆そのような食事で育ちました。8人兄弟の真ん中だったので、ランドセルも筆入れも教科書も全部おさがりで、教科書はもうくたくたでした。新品は買ってもらえませんでしたが、皆がそうだったので、それが当たり前の生活でした。テレビもない時代でよそからの情報もなく、気にはなりませんでした。娯楽も少なく、ラジオは何軒かに一つくらいあって、相撲中継のときには近所中が集まって、聞かせてもらっていました。
 私は小学校を卒業した後、高等女学校には行ったのですが、まだ下の兄弟がたくさんいて食糧難の時代です。戦後は勤労奉仕ばかりで私は何のためにここで勉強するのだろうかと思い、一年間通った後に島へ帰りました。校長先生に『家庭の事情で退学させてもらいます。長い間お世話になりました。』と手紙を書きました。校長先生から『もし経済的な理由ならば奨学金制度などもあるので戻ってらっしゃい。』と返信をもらったのですが、戻ることはありませんでした。家族が皆大変な思いをしているのにと思ったのです。」

 (2) 盛んなミカン栽培

  ア ミカン景気
 「ミカン景気は本当にすごいものでした。中島のミカンは皮が薄く、砂地で潮風を受けているから、甘く、おいしいのです。南予のミカンも売れていましたが、中島ミカンが東京の方でも一番高かったようです。私(Cさん)は高校を卒業すると、大学に行って教員になりましたが、周りから農家の長男がなぜ大学に行くのだ、なぜ農業をしないのかと言われました。当時は初任給が2万円くらいでしたが、農家の収入はそれよりもはるかに良いものでした。」
 「とにかくミカン景気の良かったころは何でも派手でした。私(Dさん)が子どものころはミカンを収穫する際に、出荷できないものを畑に落としますが、それを拾ってジュース工場に持っていくと、結構な金額になっていたようです。
 私たちが高校を卒業して働き始めた昭和37年(1962年)ころ、農協の給料が月に5,500円でしたが、役場の給料が5,000円だったことを憶えています。役場に就職を希望する人がおらず、皆が農協を希望したので、試験がありました。ミカン景気で公務員よりも農協の給料が良かったのです。」
 「私の実家では私(Bさん)が生まれたころにはすでにミカンを栽培していたと思います。昭和の初期はミカンも作っていましたが、麦や米、イモなど自分たちが食べるものも自分たちで作っていました。それが戦後の高度経済成長期になるとミカンが良い値段で売れるようになりました。特に栽培条件の良い中島のミカンは皮が薄くおいしいと高く売れたので、そのころの中島では大きな家が次々と建っていったことを憶えています。私の夫は末っ子でしたが、戦争で兄が不在時に両親を助けてよく働いたということで、かなりの土地を分けてもらって農業をするようになりました。
 借金をして土地を購入していったので、ミカン畑は最終的に1町(約1ha)くらいになりました。収入をやりくりして借金を返していったので、子どもの教育費もあり、家計のやりくりには苦労しました。また、1町の広さのミカン畑を二人で作るのは大変でした。昭和40年代にはまだ農道が整備されてなく、山の上からの荷降ろしをケーブルで行っていました。昭和30年(1955年)ころにケーブルができる前は、山の頂上まで、空のほごろを肩に担いで登り、ミカンを背負って降ろしていましたから、それに比べればはるかに楽になりました。ただケーブルも命懸けで、荷を降ろした後、山道を歩いて下ると時間が掛かってしまうため、人間もぶら下がって下りていました。そのとき何かの理由でケーブルに引っ掛かりかごから落ちて、亡くなったり、大けがをしたりする人もいたのです。ケーブルだとすぐに戻れますが、歩いて山を下りていると時間が掛かるので、もちろん私も乗りました。皆が一緒で違和感がなかったからだと思います。
 農道ができて便利になりましたが、整備されたころにはミカンをもう作らなくなったところも出てきました。昭和50年(1975年)ころにもまだケーブルを使っており、まだまだミカンの景気が良かったと思います。そのころ、私たちのところでも旧中山(なかやま)町(現伊予(いよ)市)の人を2、3人収穫時に雇用していました。その時期には離れで、自炊しながら泊まってもらっていました。早く収穫しないと多くのヒヨドリが来てミカンをつついてしまうので、人を雇って、短期間で収穫を終わらせてしまうためです。中山町から来ていた人は虫食いの、畑に落としているミカンでも拾って帰っていました。こんなおいしいミカンを食べたことがないと言うのです。そのくらい島のミカンはおいしく、皮が薄くて甘くて、飛ぶように売れていました。」
  イ 景気の良いころ
   (ア) 嫁入り
 「ミカンの値段が高く景気の良い時代が長く続いたためか、中島では嫁入りが派手に行われていました。そのころはテレビでも多くのお付きの人を従えた中島の嫁入り行列の様子が何回も放映されました。私(Bさん)も嫁いできたときにリヤカーで6台か7台分の嫁入り道具を持ってきました。
 私が今でも処分できないのが桐の一間(約180cm)たんすです。あとは処分したのですが、これだけはまだ手放すことができません。一間の大きさがあるので、家が小さいと入れることもできません。たんすも含めて、他の道具も大きいものを用意しました。それからたんすのなかには着物や洋服をぎっしりと詰めておかなければなりませんでした。呉服屋にしても家具屋にしてももうかったのではないかと思います。
 私は8人兄弟の真ん中でしたので、今考えるとどこにそんな余裕があったのだろうかと思うこともありますが、当時はミカン畑を1枚売ると何百万円という金額になっていましたので、足りないときには畑を売って工面していたのだと思います。畑を売らなくても、幾らでも金を貸してくれる人がいました。ミカンの値段が良かったので1年か2年で返済することができたのです。」
 「嫁入りのときには結納金も何百万円包んだとか、トラックで何台来たとかということがよくうわさになっていました。だから松山の方の人は中島から嫁をもらったら大変だという話になっていたようです。昭和40年(1965年)に私(Dさん)が大浦から神浦に嫁いだときは、軽トラックで8台か9台で、たんす、テレビ、冷蔵庫、ステレオ、下駄箱などを持っていきました。たんすと言っても一間たんすに洋服たんす、それから整理たんすです。当然、その中には着物や洋服が詰まっていました。着物も高価なもので、帯だけで何万円もするようなものがありました。他のものは捨てられますが、中にはまだ捨てられないものもあります。また、そのころはまだ運転免許を持っている人は多くはなかったのですが、単車も持っていったことを憶えています。
 そのころのミカン畑は良いところになると1,000万円の値段が付いたそうですから、それで費用を捻出したのだと思います。そのころに畑を売って、松山の方に土地を買っていれば良かったのにとよく冗談にします。本当にミカン景気が良かったころは1年の収入で家が建つと言われていました。」
 「私(Cさん)の妻が嫁いできたときは、神浦の集落の手前で、軽トラックを下りて歩いたのですが、神浦の人が道にずらりと並んで、どんな格好で来るのか、どんな嫁入り道具を持っているのかを見ていました。その中を花嫁姿で歩くのですが、相当の距離を歩いたのではないかと思います。花嫁行列が到着すると、部屋に嫁入り道具を並べます。たんすの中には着物や洋服が入っているのですが、支度ができたのでどうぞと言うと中に親戚や近所の人が入ってきてどんなものを持ってきているか、たんすの中まで勝手に開けてのぞいていたことを憶えています。」
   (イ) 家の新築時の餅まき
 「家を新築したときの餅まきも相当のものだったことを私(Bさん)は憶えています。家と言ってもこの辺りの農家の家はどこも大きな家で、家の新築時の建前(上棟式)のときにはぼんでん(祭礼の祈祷に用いる幣束)を立てて、餅まきをします。中島では餅や菓子も投げますが、現金も投げるのです。やはり島で一番にぎやかだったのは家が次々新築されていたころの餅まきでした。」
 「親族から上棟式の案内があったら、祝儀は祝儀として、餅まきも投げる方で参加します。餅のほかに、パンや菓子も投げました。以前、私(Dさん)の親族が同じ年に4軒家を新築したことがあったのですが、その年は大変でした。」
 「親族が4軒の家を新築したときには、祝儀も含めて100万円どころではない金額が掛かったことを私(Cさん)は憶えています。餅まきでは四方固めといって、最初に棟梁(とうりょう)が四方に大きな餅を投げます。その餅に1万円札が貼ってあるのです。四方では大きな男の人が『ここに投げろ。』と待っていました。やはり餅やパンよりも現金が投げられる方を皆が喜びます。餅まきのときの盛り上がりは、それはすごいものでした。」
  ウ 社会教育に携わって
 「子育てが終わって夫と二人でミカン作りしていたときに、教育長さんから勤めに出てくれないかと誘われました。私(Bさん)は『とても無理です。主人が許しても、世間が許さない。』と一旦は断りました。農業を夫婦でしているのに、勤めに出ていくことはその当時の世間が許しませんでした。
 ところが、なぜか夫は『私が一人で農業するから、私が許可するのだから、勤めに行っておいで。』と許してくれたのです。私が農業をするよりもそちらの方が能力を発揮できると考えたのではないかと思います。周りからものすごくバッシングを受けながら役場で働きましたが、今思えば正解だったと思います。
 役場では女性教育や婦人会に携わって、女性の地位向上のために仕事をしました。他の島に行くと、中島よりもっと男女差があって、男性が海で仕事をしているときは、女性は畑仕事をすることが普通で、男尊女卑が顕著でした。『家の中ではお母さんが主人公にならないといけない。お父さんは黙っておいて、お母さんに元気がなかったら、家は栄えませんよ。』と言って勉強会を開いたりしました。また、日曜日は仕事をしたら罰金という制度にして、男性も女性も全員が小学校の校庭でバレーボールをするようにしました。その後旧中島町全体でバレーボール大会を開いたときにはその地区がいつも優勝するようになったのです。やはりお母さんに元気がなかったらいけません。女性でも得意なものもあれば、男性でも不得手なものもあります。男性も女性も平等じゃないとこの町も栄えませんよと言いたいのです。
 離島に行ったら泊まり掛けです。私は朝の便で戻って来て、夫の朝食はどうしていたのか気を遣いました。収穫時期になると教育長は年休をとってミカン山を手伝いなさいと言ってくれますが、夫は休まなくて良いと言います。給料をもらいながら、収穫時期は休んで手伝っていると世間の目が許さないと言うのです。夫が一人でミカンを収穫し、収穫した後はケーブルの頂上へ重ねて置きます。私は勤めが終わるとすぐに作業着に着替えて、ミカン山へ向かいます。そのころはかなり薄暗くなっていますが、私が旗を回して帰ってきたと合図をし、ケーブルを動かしてもらい、ミカンを降ろして車に積みます。最後の荷には目印にミカンの葉を入れておいて、その後に夫がケーブルに乗って下りるということをしていました。」
  エ 海の恵み
 「商店街には鮮魚店もありましたが、その当時は魚がたくさん釣れていました。私(Bさん)の兄も船を所有しており、魚を釣ってきては近所中に配っていました。考えると魚を買うことはほとんどありませんでした。
 岡島造船所のある波止で釣りをすると、アナゴがたくさん釣れていました。アナゴは少し汚れたところを好むそうです。今は一匹も釣れないそうで、海がきれいになりすぎた結果、えさがなくなり、魚がいなくなったと聞きました。」
 「砂浜が広がっており、波打ち際をくわで掘ると、ギゾウという魚が飛び出てきていました。えさなどなくても簡単に捕まえることができたことを私(Dさん)は憶えています。とてもおいしい魚でした。シリナガと呼んでいるニイナ(貝)もおいしかったです。砂浜にいる細長い貝で、塩ゆでをした後、ペンチでお尻を切って、吸うとちょうど良い塩加減の身が飛び出てきていました。当時は少しの時間でバケツに一杯拾ってきていましたが、今は姿を見ることがありません。」
 「私(Cさん)が中学生のころは砂浜でギゾウが飛び出てくるような時代でした。今は魚がいなくなってしまいましたが、メバルやギゾウはすぐに釣れていました。1mほど海に潜れば、サザエなども幾らでもとることができたことを憶えています。」
  オ 島の苦労
 「私(Bさん)は中島に生まれたことを誇りに思っていますが、島なので子どもが学校に行きたいとなると松山に行かせることになります。自宅からではなくて下宿する必要があるので、引っ越しのときなども軽四トラックに荷物を積んで海を渡って、大変です。島に生まれたら海を渡らなければなりません。大しけになったら船が欠航することあります。
 戦後すぐは船もフェリーのような大きい船ではなく、大きさも三分の一くらいの小回りの効く船でした。そのため、しけになると大きく揺れて、中で人間もごろごろと転がります。人間だけではなく、暖房器具として火鉢があったのですが、火鉢もごろごろと転がります。船の名は第五運輸丸や第八運輸丸という名前が付いていました。
 渡海船もあって、嫁入り支度のような大きな買い物は渡海船が活躍しました。松山の三津に大きな店があったのでそこで準備していました。大きなものは定期船ではなくて、三津と中島を結ぶ渡海船を利用していました。」
  カ 子どもが減った島の現状
 「今は中島中学校の3年生が4人と寂しいですが、昭和30年ころの私(Cさん)たちが中学生のころは一学年で3クラスありましたので、100人以上の生徒がいました。それも現在の中島中学校は6つの島すべての子どもが通っていますが、私たちのころは、中島でも東の方だけで、地区でいうと神浦、宮野、長師、小浜、大浦だけでそれだけいました。
 また私が教員として昭和40年(1965年)ころに野忽那島にいたときには、野忽那島だけで小中学生が合わせて100人いました。それが、今、6つの島全部、松山からの寮生と合わせても小中学生が60名ほどになっています。」
 「私(Bさん)が中島東小学校を卒業したのは終戦の年ですが、同級生が100人くらいでした。そのときには疎開してきた人がたくさんいました。今島を一周したら、どの小学校も校舎がなくなって、草が生えていて涙が出そうになります。母校がなくなるというのは悲しい気分です。」


参考文献
・ 中島町『中島町誌』1968
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』1984
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991