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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業24-松山市②-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1) 昭和40年ころの商店街

ア 店の入れ替わり
 「三津浜商店街では、店舗の入れ替わりが激しかったと、私(Eさん)は思います。少しでも経営が傾くとすぐに商店街から出て行き、空き店舗に新しい店が入るといったことの繰り返しでした。例えば、昭和30年代には、商店街に小規模なパチンコ店が何軒もあり、入れ替わっていったそうです。また、すでに商店街に入っている店でも、商店街内で条件の良い場所が空けばすぐに移転していました。商店街以外の通りにも店舗が多く、町全体が商店街のようでした。」
イ 様々な店
 「商店街の入り口にあった小料理屋(図表1-2-1の㋐参照)は一杯飲み屋のような店でしたが、うどんを食べることもできたことを、私(Eさん)は憶えています。
 雑貨店があった場所は、その後、寿司(すし)屋になりました(図表1-2-1の㋑参照)。私の父が、その店の寿司が好きでした。」
 「米穀店は、昔は荒物屋で、当時も荒物を販売していたことを、私(Cさん)は憶えています(図表1-2-1の㋒参照)。紳士服店は既製品を販売するのではなく、注文を受けてから手縫いで背広を仕上げていました(図表1-2-1の㋓参照)。紳士服店隣の貸店舗は、もともとは紳士服の方の自宅だった所でした。花屋が入ったり、小僧寿しが入ったりしていました。ほかにも呉服店など格式高い店が多くありました。三津浜商店街の店舗では、買い物客に金額に応じてシールを配っており、シールがたまると特典として景品と交換することができました。ショップガイドでは、その景品の交換が行われていたことを憶えています(図表1-2-1の㋔参照)。映画館も数軒あって、私が小学生のころ、『日曜映画学校』があり、よく映画を観(み)に行きました。銭湯も多く、船に乗っている人たちにもよく利用されていました。」
 「洋品店は、洋品店になる前は宝石店だったことを、私(Aさん)は憶えています(図表1-2-1の㋕参照)。」
 「私(Bさん)の家はもともと松山市中心部の方にありましたが、松山空襲で焼けてしまいました。そこで、両親は空襲の被害がなかった三津浜で7坪(約23.1㎡)の土地を買って、商売を始めました(図表1-2-1の㋖参照)。昔の商店街の店舗は、どこも私の家と同じように狭かったと思います。」
ウ 商店街のにぎわい
(ア)お客さんでにぎわう
 「三津浜商店街には、地元客だけではなく島しょ部など、よそからたくさんのお客さんが来ていました。垣生町の人も、買い物や遊びに行くと言ったら、松山中心部ではなく三津浜に行っていたと話していました。大晦日(おおみそか)は一日中灯(あか)りがついていて、人通りが絶えなかったと、私(門田眞知江さん)は聞いています。」
 「私(Bさん)の知人は、富久町から歩いて買い物に来ていたそうです。買い物が終わった後に、食堂でうどんを食べて帰るのが大変楽しみだったと話していました(図表1-2-1の㋗参照)。」
 「三津浜がにぎやかなころには、島しょ部から多くの人が朝早くから行き来していました。現在、住吉橋から商店街の方を見たとき、人がまばらで先までよく見通せますが、昔は朝から多くの人でにぎわっており、先を見通すことはできませんでした(写真1-2-1参照)。現在でも、年に何回かイベントを実施した際に、そのような状態になることがあり、『昔はこれが当たり前の状態だった』と思うことがあります。
 島しょ部について、中島などの忽那諸島だけではなく、山口県の屋代島、広島県の倉橋島からも三津浜に多くの人が来ていたと、私(Eさん)は聞いています。柳井(やない)市(山口県)や広島(ひろしま)市に行くよりも、三津浜に来る方が便利だったようです。自家用車が普及する前、島しょ部以外からは、鉄道沿線の人は電車で、それ以外の地域の人は歩いて三津浜に来ており、自転車で来る人は少なかったそうです。」
 「朝早くから夜遅くまでお客さんが絶えなかったので、商店街内の店は午前7時ころに開店し、午後10時過ぎに閉店していたことを、私(Bさん)は憶えています。閉店時間が午後10時過ぎだったのは、映画館のナイター上映が午後10時ころに終わり、映画を観(み)終わった後に買い物に来るお客さんが多かったので、そのお客さんが帰るまで営業していたためです。」
(イ) 港まつり
 「昔の商店街のにぎわいを象徴するものとして、港まつりでの仮装行列があります。商店街の店主たちが住吉神社で着替えて、商店街を通り抜けていましたが、アーケード内は行列の人や見物客など、多くの人であふれていたことを、私(Dさん)は憶えています(図表1-2-1の㋘参照)。」
 「仮装では男性が女装するなどユニークなものでした。また、子ども会も参加し、行列の後ろについて踊っていたことを、私(Cさん)は憶えています。」
 「私(Bさん)が子どものころ、仮装行列には陸上自衛隊の人たちも参加していて、大変にぎわっていました(昭和25年〔1950年〕に警察予備隊松山訓練所が当時の三津浜町に開設され、昭和30年〔1955年〕に小野村〔現松山市南梅本町〕に移転するまで、三津浜に陸上自衛隊が駐屯していた。)。現在のNTT西須賀電話交換所からパチンコ大盛の辺りまで、かつてグラウンドがありましたが、そこが演習場で、その東隣の、現在、松山西警察署がある辺りが駐屯地だったことを憶えています。」
エ 内港のにぎわい
 「三津浜がにぎわっていた理由の一つに、物資が集まっていたことが挙げられると思います。愛媛県の特産品であるミカンやジュースがトラックで内港へ運ばれ、船で積み出されていました。ミカンやジュースは木箱に入れられていたことを、私(Eさん)は憶えています。当時は現在の住吉橋北の大橋がなかったため、住吉橋を多くのトラックが行き来していました。内港に面した倉庫には、船に積み込むための多くの物資が蓄えられており、積み込むための大きな機械がなかったため、人力で積み込んでいました。そのため、多くの人たちが内港で働いていました。そうした物資の流れが変わったことで、三津浜の町も変化していったと思います。」
オ 競馬場の記憶
 「三津浜には商店街も含めて、いろいろな店や施設がありました。商店街には空き店舗はなく、たとえ空き店舗ができても、すぐに別の店が入って商売を始めていました。はっきりとは憶えていませんが、私(Bさん)が小学生のころまで、現在、サーパス三津がある辺りに競馬場もありました(昭和4年〔1929年〕から戦時中の中断を挟んで昭和30年〔1955年〕まで三津浜競馬場があった)。」
 「私(Cさん)は競馬場についてほとんど憶えていませんが、人を乗せた馬が家の前を歩いていて、よく糞(ふん)を落としていったのを見ました。」

(2) 商店街の変化

ア アーケード
 「商店街では、昭和38年(1963年)に最初のアーケードを設置しましたが、商店街中間部辺りから南に延びる柳町商店街にも設置しました。17年後の昭和55年(1980年)、最初のアーケードの老朽化が進んできたために取り壊し、すぐに二度目のアーケードを設置しました。二度目のアーケードは、24年後の平成16年(2004年)に取り壊し、その後、アーケードは設置していません。
 二度目のアーケードを取り壊す前は、アーケードの老朽化がかなり進んでおり、鉄板の薄い部分を指で押すと穴が開くくらいでした。風の強い日は壊れてしまうのではないかと、私(Aさん)は怖かったことを憶えています。アーケードの取り壊しを決定するのは、大変でした。商店街で一人でも反対する人がいると、取り壊しを決定することができず、当時、会長だった私は苦労したことを憶えています。
 三度目のアーケードを設置しなかったのは、アーケード内の照明が暗かったこともありますが、イメージが悪かったためです。伊予鉄三津駅側から取り壊す前のアーケードの入り口を見た際、薄暗くトンネルの中に入るようでした。」
イ 来客者の減少
 「三津浜商店街の来客者が少なくなった原因として、三津浜と島しょ部を結ぶ船の変化があると、私(Dさん)は思います。それまで、島しょ部から旅客船で三津浜に多くの人が買い物などに来ていましたが、昭和40年代になって旅客船からフェリーに変わると、自家用車で来ることができるようになったため、自家用車で松山へ向かう人が増えたからではないかと思います。」
「昔、島しょ部の人たちは、船で渡ってきた際の宿泊や結婚式など、何をするのも三津浜でしていました。ところが、島しょ部からの船が三津浜港ではなく高浜港へ着くようになると、島しょ部から三津浜に来る人が減っていきました。特に昭和62年(1987年)に高速船が導入されたことは、大きな影響があったと私(Aさん)は思います。」
 「三津浜が衰退した大きな原因は、大型旅客船の発着が観光港へ移ったことだと思います。当初は大可賀に造る構想でしたが、商店街の人たちが『人の流れが大可賀に移る』と心配して実現しなかったと、私(Cさん)は聞いています。」
ウ 活気を取り戻すために
「私(Aさん)が子どものころと比べると、三津浜に元気がなくなって寂しい限りです。今から約20年前、商店街を盛り上げようと、日曜日に魚市場でタイを100匹ほど購入して商店街へ運び、そのタイを、お客さんの目の前で締めて提供するというイベントを行ったことがあります。お客さんには喜んでもらいましたが、タイを魚市場から商店街まで運ぶのは大変で、2年ぐらい続きましたが終了しました。三津浜には自然豊かな海という素晴らしい資源があるので、それを生かしてまちづくりを進めてほしいと思います。」